はてなキーワード: エコキャップ運動とは
facebookのプロフィール写真をトリコロール調に変更できることに対する論争について感じたこと。
僕としては、トリコロール調に変更するような善意の第三者による小さな善意の積み重ねって世界にとって必ずしもプラスじゃなくて時には世界の崩壊に繋がる壊滅的なダメージも与えうるって考えている。今回のトリコロール調への変更が、世界全体にとってマイナスになりうることかどうかわからないのでよく議論するのがいいのかなと思っている。
多くの人は、「小さな善意の積み重ねが世界をよくしていく」と信じているように思う。元気玉がベジータや魔神ブウを倒したように、小さな善意が大きく集まれば巨悪も倒せると信じているように思える。学校の授業でも「世界の森林破壊を救うために割り箸は使わない」など、一人一人の小さな善意の積み重ねで世界が少しずつよくなるというストーリーで溢れている。
こういったストーリーが当てはまるものもあれば、逆に世界を悪い方向に導く善意の積み重ねといったものも存在している。
例えば、エコキャップ運動なんかはそもそもキャップを集めて輸送費を負担して送るぐらいなら「世界の子供にワクチンを日本委員会」に直接寄付した方がいいのに、わざわざ収集する手間をかけてエコキャップ推進委員会のよくわからん理事のおっさんが仲介手数料を取るというモデルになってしまっている。
世界を破壊に進めるという意味で言うと、日本が突入した第二次世界大戦も多くの人の小さな善意の積み重ねで突き進んだと考えている。お国のために、祖国のために、お国のために動かない人間は非国民だと、小さな善意が積み重ねった結果として後戻りできないところまで進んでしまった。一部の偉い人や軍人が悪かったという総括をしたがる人もいるけれど、恐らく多くの国民は今回のfacebookのトリコロールのように、戦争に対する賛成や戦争に行っている人のために弱音をはかないなどなど、自分ができる小さな善意として積み重ねたのだろうと思う。
何も僕は全ての善意の積み重ねが悪い方向にいくとは思っていない。大事なのは「話をすること」だと思っている。周りの空気に流されて考えもなく積み重ねるのもよくないし、善意を積み重ねるのが悪いことだと一方的に非難するのもよくない。議論をしようとしているのに、「一人一人が何をしようと勝手でしょ」、「何も行動に移してないやつが偉そうに非難するなよ」って態度もよくない。
今回の例で言えば、トリコロールに変え哀悼の意を示すことは本当に世界のためになるのか、トリコロールに変える意外に哀悼の意を示すことはできないのか、トリコロールにすることが自己満足に成り下がってないか、混沌とする世界を理解するために知っておいた方がよい歴史の知識は何かなどなど様々に話し合うことができるのではないか。
特にトリコロールに変えた人が議論を拒絶しようとしたり、何もアクションしない人に対して非難しているように感じて書いてみた。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20150416/280063/
エコキャップ運動のみならずベルマークから千羽鶴まで言及されているが、「協力しないと善意がない反社会的な悪人とみなされ集団から排除される」とまで飛躍し得るのが日本の村社会たる所以だと思う。
なにもベルマークやらペットボトルのふたを集める事が人格の高さにつながるわけじゃないのに、そんなことまで序列化されていく世界と視野の狭さは驚くべきものがある。どんな事にも比較と優劣を付けないと気が済まない国民性が良くあらわれている。
こうした見当違いの善意には、しばしば論理と合理性が欠けている。そして本人は「善意ゆえに」正しいと思い込んでいる。
いらないと言っているのに色々押し付けてきて、相手が感謝しないと怒りだす人がいるが、こういう運動をしたがるのもそういう手合いが多そうである。
結婚式の日取りを占いで決めつけ、従わないと怒りだす母親などは代表的であるが、これこそまさしく「呪い」だ。
(「あなたのために」と言いながら、良いことが起きれば自分のおかげ、悪いことが起きれば「お前の行いが悪い」。そういったものに振り回され、一生懸命他人を呪っている姿を見ると滑稽を通り越して哀れですらある。)
仮に、ペットボトルより現金の寄付を募ったらどうでしょうか、などと言おうものなら、発案者は己のメンツを潰されただのという理由で怒りだしそうである。
日本が母性社会と言われることが、この記事を読んでありありと感じられ、そのねばねばした気持ち悪さは、きっとよく言われる「田舎」な地域ほど強いのだろうと感じた。
集団や組織に属すると「個」が消え、「属性」にしかならない気持ち悪さは、しばしばそうした「善意による協力活動」に感じられる。
それが本当に本来の目的に合理的な方法を提案できる個人の集まりならいいが、たいてい理事長だの会長だの、あるいは声の大きい者によるトップダウン型な「お達し」によるものが大きいような気がする。会社組織などは言うまでもない。
虚構新聞が「日本ユニセフ、寄付金の流れ透明化へ」という記事を書く
↓
日本ユニセフの資金は既に透明化されているので皮肉になっていない
http://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_keisan.html
↓
↓
削除
という流れなんだが、
まあ削除がなかったとしても全体的に出来の悪いネタで、
「ペットボトルの蓋を日本ユニセフが集めている」かのような表現があるなど、
いつもどおり社主の無知に基づく「悪質なデマ」でしかなかった。
ところが記事削除後の反応として、
「(抗議したということは)透明化する気がないんだな」
繰り返すが、虚構新聞が書く記事は、
この日本ユニセフの記事に限らず、風刺にもなっていない「悪質なデマ」が多い。
抗議があるのは当然であって、
「痛いところを突かれたので圧力をかけて正義の風刺を削除させた」といったような妄想はあまりにも下劣だ。
補足
キャップの売却益をほぼ全額寄付していると主張するエコキャップ推進協会であるが、全収入からみた寄付額は約50%で、残りの半分が運営費となっている。別のキャップリサイクルNPOであるReライフスタイルや、実際にワクチンを購入するNPO世界の子どもにワクチンを日本委員会も同様に収入の半額を運営費として計上している。これは、類似の活動を行う日本ユニセフ協会やベルマーク教育助成財団が運営費を約20%で賄っていることを考えると高額ではないかとの指摘がある。