はてなキーワード: 集団極性化とは
GPT-4に聞いてみたが、だいたい正しいと思った。
インターネットで匿名ユーザーが人を傷つける発言をする理由はいくつかあります。以下に主な要因を挙げます。
オンライン・ディスインヒビション(解放感):インターネットは匿名性が高く、個人の特定が難しいため、人々は現実世界では避けるであろう行動や発言をしやすくなります。これは、オンラインでの抑制の喪失と自己開示の増加につながります。
責任逃れ:匿名性によって、自分の言動に対する責任を感じにくくなります。これにより、攻撃的な言動をとりやすくなることがあります。
集団極性化:インターネット上では、自分と同じ意見や価値観を持つ人々とのコミュニケーションが容易になり、過激な発言や極端な意見がエスカレートしやすくなります。
声の大きい少数派の影響:一部の過激な意見や攻撃的な発言が、インターネット上で大きな影響力を持つことがあります。このため、他の人々もそれに影響され、同じような行動を取ることがあります。
悪意のある楽しみ:一部の人々は、他人を傷つけることに喜びを感じる場合があります。インターネットはそのような行動を容易にし、他人の反応を観察することができます。
対策として、オンラインコミュニティではモデレーターやルールを設けることで、攻撃的な発言やネガティブな行動を抑制しようとする試みが行われています。しかし、インターネット上での匿名性を完全に取り除くことは難しいため、個々人がオンラインでのコミュニケーションにおいて誠実さと敬意を持つことが重要です。
自分のブログに書くとなんだか炎上しそうなのでここに書くことにする。
けもフレ人気が各地で大爆発を起こしているが、さすがに褒められすぎ、評価されすぎ、持てはやされすぎである。
この作品はどう評価しても100点満点中あげられるのはせいぜい30~50点くらいである。
アニオタ界隈のけもフレを評価する声として「安心してみていられる」「脚本がよくまとまってる」「やさしいキャラが魅力」などという言葉が交わされているが、これらは全て嘘っぱちのように聞こえてならない。
こんな薄い言葉で表現される毒にも薬にもならない作品は、「よくできましたね」くらいの評価を得ることはありえるが、猛烈に人を惹き付けて心を揺さぶる名作にはなりえない。
本当に人の心をガッツリと射貫く作品というのは、たとえガタガタでブサイクな出来だとしても、何か一つくらい魂に響く「核」のようなものがあるはずだ。
「けもフレ」に心を揺さぶられた人間などきっとほとんどいない。そう言っている人間がいたとしたら、熱狂的な空気につられて思い込んでいるだけなのだ。
その証拠にきっと「けもフレ」はすぐ忘れ去られる。あと一か月もしたら、おそらくこの作品には誰一人言及しなくなるだろう。
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「けもフレ」人気のインフレーションの理由は、基本的にネット空間における「極性化現象」であるといえる。
アニオタ・コミュニティという空間の中では、アニメ評価を巡ってぐるぐると再帰的な「言語ゲーム」を続けていく内に、しだいに表現に尾ひれがついて妄想が膨らんでいく傾向がある。
その中では、凡百のストーリーが「絶巧の脚本」になり、平坦な芝居が「神演技」になり、チープな謎が「深遠な哲学」になる。
このような現象は、ネット炎上などでよく観測されるメカニズムである。
ちょっといたずらをしただけの大学生や、何気ない発言をしただけの女性が、集団極性化した暴徒によって糾弾されまくる構図は、ネット上で毎日のように見られる風景である。
ネット上の言語ゲームというのは、往々にしてこのような「過剰」に至るのだ。
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基本的にアニオタというのは、他者を媒介しないと何も考えられない、何も感じられない存在である。
どんなアニメが面白いのか、どんなアニメを自分が好きなのか、そのアニメが自分にとってどういう価値を持つのか、一人では判断がおぼつかず何かを基点としないとリアリティを感じられない。
人間とは多かれ少なかれこういう側面を持つ動物だが、アニオタはこの性質がむき出しの形で露わになった存在である。
アニオタは、基本的に自分が欲望することを欲望している。アニメを楽しみたいというよりは、アニメを楽しんでいる自分を楽しみたいのである。
なのでアニオタにとって重要なのは、作品そのものではなくてその作品を取り巻く「人々」や「言葉」や「その評価」、いわば「アニメ・コミュニティ」という場そのものである。
この「場」に埋め込まれることによって、アニオタは初めて作品に対して欲望を抱くことが可能になるのだ。
このことは、アニオタを語る上で押さえておきたい重要なポイントである。
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アニオタたちが「けもフレ」を担ぎ上げる理由、「けもフレ運動」の意図を強引に深読みしようとすれば、次のようにも解釈できる。
そこで上位を占めているものは、メディアがSNSを通じてステマ的に人気を煽り、ブーストを仕掛けた「張りぼて」の作品ばかりと言っていい。
アニオタたちはこのランキング市場にどっぷりと身を浸し、どっぷりと依存しつつもキレている。
メディアに対してももちろんキレているが、それにまんまと乗せられている自分自身にもキレている。
その鬱々と溜め込んだ感情が、今回突発的に「けもフレ」を通じて連結した。
「けもフレ」という作品は、徹底的に薄味で、徹底的に無難で、徹底的に空っぽであり、「本当に売れたいのか?」と問いかけたくなるような、いかにも「ステマーケティング」と縁のなさそうな装いをしている。
「神輿は軽いほど良い」という言葉があるが、「けもフレ」こそはアンチ・ステマ運動のアイコンに相応しい空虚な作品であった。
アニオタたちは「けもフレ」を神輿として担ぎ上げて、自分たちを操縦しようとするランキング市場のかく乱を目指すための意味不明な舞踏を開始した。
これは江戸時代に流行したとされる「ええじゃないか運動」を彷彿とさせるものである。
アニオタたちの目論みは、自分たちに向けられた圧力を全く同じ方法で相手にオウム返しにすること、「張りぼて」に対して「別の張りぼて」を擁立して推し上げることであり、これは俗にいうミラーリング作戦というものである。
この作戦は幸か不幸か一定の成果を上げていて、アニメ関係者や一部のマーケッターたちは、なぜ「けもフレ」がこれほどまでにウケているのかを理解できずに、困惑の表情を見せているという。
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アニオタたちがもし上記の行動を「自覚的」にやっているのだとしたら、それはいかにもオタクらしく捻くれていて、しかし少々のユーモアも感じさせる、気の利いたいたずらのようにも思える。
しかしもし無自覚的・無意識的にそれをやっているのだとしたら、それは鬱々とした大衆の暗い感情が病理的に発露してしまったかのような、なんだかこれから先が心配になってしまう「症状」だともいえる。
対面での批判なら、そこから議論が生まれ、物事が建設的な方向に進む可能性があるから分かるけど、
ネット上で批判を繰り広げても、その行動コストに見合うだけの効果が得られにくい気がする。
反論意見が排除される集団極性化が機能しやすいから、議論に関しても生まれにくいし。
「ただのストレス発散だから別に効果なんてどうでもいいんだよ!」とか言われそうだけど、
批判することによって対象が改善されるケースなんて実はそんなにないわけで、
逆に批判しても批判しても対象が改善されなかったら増々ストレスがたまるものじゃないの?
もし本当に今の自分の境遇に不満があるなら、何かを批判して不満を解消させるんじゃなくて、
その境遇に陥ってしまった自分自身の甘さを省みて、現実的な抜け出す努力をしたほうがきっといい。
社会に対する不満だって、自身の境遇の変化によって意外にどうでもよくなるかもよ?
最近のネット上の文章って批判と見え見えのポジショントークばっかりで飽きちゃうよね。
やっぱ日本社会は足を引っ張り合う文化が影にあるから、ネット上も同じ空気になっちゃうの?
そんなのやだなぁ。