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2020-05-23

テラスハウス』騒ぎで感じた無責任視聴者の群れ

テラスハウス』って恋愛リアリティー番組自殺者が出たそうだ。

テラスハウス』(やバチェラーとかオオカミくんのような類似恋愛リアリティー番組)は番組構造そもそも負の感情を前提とした事実上モキュメンタリーである

恋愛リアリティー番組という場ではこういう自殺沙汰がおこりやすいし、事実洋の西洋を問わずして起こっている。

 

で、ツイッターとかで反応を見ていると「番組は悪くない!○○(=SNS誹謗中傷)が悪い!」という評判ばかり。

なぜ自分が好きなコンテンツのせいで被害者が出たことに関し、視聴者他責的なのか。

番組制作者側も一定責任を負うべきだが、そういう番組をのさばらせてきたのはほかならず我々視聴者ではないのか。

自分が好きなコンテンツ社会的害悪が大きかった。だから今後は見るのはやめよう。」となぜ言わないのか。

なぜ好きなコンテンツのものやそういうものが好きだった自分批判せずに、それ以外の要素に責任を擦り付けて何事もなかったかのようにふるまうのか。

結局この騒ぎで可視化されたのは、残酷な仕掛けのバラエティと、それを支持し反省できない愚劣な視聴者の群れだった。

 

アニメ漫画世界問題だらけだが(今あげたのは一例に過ぎない)、このような作品に対する批判への返しも『テラスハウス』愛好者のロジックと何ら変わりはない。

無責任作品をのさばらせたオタクも同じ穴の狢である

2016-06-19

オタクマインドってのは文学至上主義なだけ

http://anond.hatelabo.jp/20160618201958

からアニメ漫画ゲームの題材として面白く使えればなんでもよくてそこに政治的正しさも右も左もない。

アニメ漫画という創作が何かの役に立つ、世の中の為になるかとかに興味がなくて「意識が低い」とも言える。

から創竜伝」「まおゆう 魔王勇者」みたいな左翼ネオリベ作品もあるし

GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」に代表される「右傾エンタメ」とされるものも認める。

二次元萌えエロ表現もそれ自体価値を見いだしていて意識が低いか政治的正しさは気にしない。

面白い面白くないか、それだけ。

ただ元増田の言うとおり兵器活躍したりする右寄り作品のほうがエンタメとして扱いやすいので自然右寄りのものが多くなる傾向はある。

だがそこに政治的スタンス存在しない。

面白いか、面白くないかだけ。

2014-06-10

ガンダムUC最終話の劇場における卓袱台返しについて。

ガンダムUC」の最終話ついてちょっと書きたい(ネタバレあり)。

最初立場を明らかにしておくと、増田は、典型的富野信者であって、ガンダムプロレスにはあんまり興味がもてない人間だ。バイアラン・カスタムとかシュツルム・ガルスのトコとか、こんな意味ねーシーン全部削って、会話に尺まわせよと怒っていた。そーいう面倒くさいやつが書いたもんだという前提で読んで欲しい。それと後半は電波富野信者なので。

で、この「ガンダムUC」、MSチャンバラについては絶賛されているが、ストーリーの方は賛否両論がある。だが私は批判することに意味があるのかと当惑している。こーいうのは、主張者が主張した内容をマジに信じている、という前提がなければ、なりたたない。私は、そこが信じられないのだ。


UC」最終話を劇場で見て愕然とした。「送り手はこの物語メッセージをまるっきり信じていないのではないか」と衝撃を受けた。この作品に対して、茶番だの陳腐だの説得力がないだのただの二次創作だなどと言うのはいいが、それを一番、自覚しているのは送り手自身なのではないか、という疑念をぬぐえずに今に至っている。

どういうことか。

ガンダムUC」というのは「ラプラスの箱」という秘密を廻る物語だ。

これはほとんどマクガフィンに近く、中身は実はどうでもいい。とにかくこいつが連邦の中枢により隠蔽されたことで、宇宙世紀歴史(とニュータイプ思想)は歪み、1stガンダムから逆襲のシャア」まで続く戦乱の歴史が巻き起こることとなった。しかし歪んでいようが何であろうが、百年続けば、それは秩序の一部となってしまっている。

最終7話では、主人公少年少女の選択が示される。

既存の秩序の維持するため、「箱」を隠蔽するか? 混乱を呼ぶとしても、「箱」を公開するか?

少年たちは後者を選ぶ。たとえ波乱の未来を到来させるとしても、「不正義による秩序」より、勇気を持って「正義による未来」を選ぶ。物語が描くべき正しい選択、正しい若者のあり方だと思う。

かくして宇宙世紀は箱の呪縛から解放される。人の革新ニュータイプ思想のもと連邦ジオンの戦いが形を変えて繰り返される不毛連鎖から解き放たれる。これはもちろん、終わることを許されず、次々と続編を創ることを余儀なくされたガンダム産業比喩でもあり、だからこそガノタの胸に響く。

もちろん、我々ガノタは、その選択の先に待つ「F91」や「V」の時代が、必ずしも希望に満ちた未来でないことを知っている。だが、そうだとしても、「これまでと同じことをひたすら繰り返すだけ」より「失敗覚悟で新しい世界を創る」ことを選択した若者たち決断は、とても尊いものとして描かれる。

それを見届けて、シャアアムロもようやく成仏する。一年戦争呪いから宇宙世紀が解き放たれた瞬間である

富野信者が、勝手なことしやがってと怒るのはわかるが、しかし、ともかく、それがこの映像が発したメッセージなのだ

だが、恐ろしいことに劇場で上映されたこの作品は、実に4年間、7巻かけて書いた結末を、直後にみずから全否定するのだ。スタッフロールが終わり、何が始まるか。


突然に、1stガンダムリメイク、「機動戦士ガンダムORIGN I」の予告が始まるのである

http://www.gundam-the-origin.net/


正気か、と思った。全部台無しだろう、と。

一年戦争時代から解放テーマにした物語ラストで、唐突に「一年戦争」がリメイクされますよーと嬉々として宣言されるのである。よーやく成仏できたシャアは30分待たずに現世に呼び戻される。この予告編意図的に、映画機動戦士ガンダムⅠ」の予告に似せて作ってある分、余計ループ感は強い。

唖然とした。個人的には「UC」7話はそこまで引き込まれるものではなく(イデオンネタは超大喜びしたけど)、「及第点」ぐらいの印象だったが、それでも感動を返せ、という気になった。本篇終了後即座に全否定される映画なんて聞いたことがない。一体、原作者監督スタッフは、どうしてこんな暴挙を認めたのか。本当にそれでいいのか。このあたりの意思決定の構図はよくわからないから、とりあえず「送り手」と一緒くたにする。ともかくこの送り手が、自分で発した「箱の解放」とか「一年戦争呪縛の終結」とか「歪んで腐敗した旧体制から混乱覚悟新しい時代へ」なんてメッセージをまるで信じていないし尊重する気もないことだけはあまりに明らかだ。

新しい時代なんて創るつもりはないよ。

俺たちは一生一年戦争もので食っていくよ。

え? じゃあ「UC」はなんだったのって? ほらわかるでしょ、本音と建て前ってやつですよ、おたくニュータイプだったら察してくださいよ、ねぇ。ほら、キュピーン! って。

これはそういう宣言だ。

ハルトーシ少年継承した「富野の箱」を手みやげにサンライズ財団の重鎮となり、バンダイム・エレクトロニクスガンプラを売る人になりました……それが4年かけた「ガンダムUC」の結果です、と言っているのだ。おかしいですよ晴敏さん! そんなの富野信者の晴敏さんの言うことじゃないですよ!


そんなわけで「UC」の内容についてまともに批判することの意味を私は見失った。だって送り手が、自分の語った物語を信じてない、それどころか一番ひどい形で全否定を行ってしまっているのだ。今更何を言っても単なる死体蹴り、いや、それどころか、そのような批判こそ、送り手はむしろ望んでいるのだとさえ思えてくる。

まりこういうことだ。

メチャクチャ単純化すれば「UC」での賛否両論というのは、ガンプラオタク富野信者の対決である。前者はとりあえずMSVが一杯出てくれば喜ぶし、後者富野神の書いた聖典に他の誰かが一筆書き入れることなど許さぬと批判する。ガンプラオタク濃度が濃いヤツは「UC」肯定するし、富野信者濃度が濃ければ「UC」否定という話だ(繰り返すが、メチャクチャ単純化すれば、である)。

だが、両者は本当に対立しているのか? 前者の主張は「ニュータイプ思想とかどうでもいいから新しいMSV一杯出せ」であり、後者の主張は「下銭な二次創作者如きが富野神のニュータイプ思想宇宙世紀史でもいいが)に手を触れることなど一切まかり成らん」である

この両者は必然的に「永遠に一年戦争外伝だのリメイクだのを作り続ける」という結論に帰結するしかない。前者は積極的に、後者消極的にそれを肯定する。そして送り手もまた、それこそを望んでいるのはすでに見たとおりだ。

そうしてガンプラオタクは送り手の造ったMSVのプラモを買い続る。富野信者は彼らを嘲笑うことで「自分こそ富野神の思想を守り続ける孤高のニュータイプ」という立場を確保できる。

これは対立と言わない。共犯関係と言う。

しかし、私は富野信者として、そこに安穏とすることはできぬ。そんなことをすれば脳内カミーユ・ビダンが「あなたはいつも傍観者で、人を弄ぶだけの人ではないですか!」とスイカバー突撃をかけてくるからである。散っていたお禿様の髪に顔向けできぬからである富野信者であるということは、富野聖典とすることではなく、富野のように生きることだと信じているかである(だから、今度の「Gレコ」だけが本当のガンダムなんですよ、という立場にも私は立つことができぬ)。


しかし、だからと言って、私はどうすればいいのだろう。

(大人しくガンダム卒業すればよいのはわかっている。それができれば苦労はしないのだ!)

ガンダムロボットアニメでありサブカルチャーであるガンダムビジネスとの兼ね合いの中でしか生まれこないし、それこそがガンダムの強さ、ガンダムの同時代性の源であることは、絶対に否定できない(ガンプラ売りに徹した「ガンダム」は嫌だが、押井守映画のような文学モドキの「ガンダム」なぞもっともっと嫌だ)。

からハルトーシ少年だって、私が↑で書いたことは百も承知かもしれない。きっと彼は叫ぶだろう。

「やりました、やったんですよ、必死に! その結果がこれなんですよ! 映画の「ローレライ」(と「戦国自衛隊」と「亡国のイージス」)がコケて、右傾エンタメ作家の席は百田尚樹に奪われて、今はこうして富野二次創作を書いてる! これ以上、何をどうしろって言うんです! 何と戦えって言うんですか!」(註1)

私は、彼に答えるべき言葉を持たない。こんな時は、富野神に還るしかない。神は言っている。

"Century color Million color" ――せいきの色はまんこの色であると。

違う。

ターンAターン、だと。∀だと。全肯定であると。

送り手が自分メッセージを一切信じていないなら、それを批判して何の意味があるだろう。逆だ。有効なのは、相手が信じていないメッセージを、こっちが文字通りに全肯定してやることだ。つまりUCだ。

バナージが何も考えずに箱を開けた、その蛮勇を評価するように、富野ニュータイプ思想を継ぎ、「逆シャア」の先を書こうとした覚悟は評価する。

駄作も愚作も一杯出来るのを承知で、宇宙世紀のその先が語られるのを心から望む。

できるかぎり応援する。

それしかガンダムに対し、緊張感を持って向きあう=富野である方法は、ないような気がするのである

むろん、それは、終わりのないディフェンスである

ガンプラオタクからはそっぽを向かれ、富野信者罵倒に耐えねばならぬ。

しかし、それでも、えんえん一年戦争リメイク外伝を造り続けるよりマシだと信じる。

箱は解放されるべきだし、呪縛からは解き放たれるべきだ。

から、「UC」の先に行かねばならぬ。

その向こう側に何もなくても――いや、しか脳波コントロールできてしかも手足を使わずコントロールできるマシンにセシリーが触手レイプされ、バイク戦艦が街々を踏みつぶし、カテジナさんがオデロもシュラク隊も鏖にして、月光蝶でみんな灰になったあと、全人類無限力に溶け合って何もかもが因果地平の彼方にスペースラナウェイする哀しみが待っていたとしても――、かまわないのである

STAND UP TO THE VICTORY!



註1:いや、もちろん田母神俊雄と戦ってくれればよい。ついでに百田も撃てばよい。実は「ガンダムUC」の小説版には、田母神論文事件露骨に批判した箇所が存在する。詳しくはこちら → http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-388.html小説版が出た頃には、ただの右のヤバイ人だった彼が、若者の支持を受ける保守系政治家候補となってしまった現在こそ、福井田母神批判はアクチュアリティを増している。

2013-10-06

はてサに嫌われている百田尚樹

石田衣良に「右傾エンタメ作家」と呼ばれたりして、はてサもそれに追随というかタダ乗りしてはしゃいでいたけど、福井晴敏ときにはそういう批判が同じようになされていたのだろうか。

 
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