はてなキーワード: 視覚とは
うーん、そこは JUnit の使い方でなんとでもなる。
1つのテストケース動かす度にテーブル作り直すとかありえないし。
テーブルは作り直さずとも、テーブルの中身を truncate でひっくり返して、事前データをブチ込み直すくらいならば平気。
某銀行系での例。マジ怒られそうだから、若干ボカして書くけど、
ひとつのテストメソッド TestXxxDAO.testRetrieveFooBar() は、XxxDAO.retrieveFooBar() メソッドについての複数のパターンのテストを全てやる事にする。そのテストメソッドの中で
というサイクルを繰り返す。テストデータや想定結果は、全て OpenOffice calc なんかを使って、視覚的に書いておく。その ods ファイルを読み、DB に突っ込み、想定結果と比較する処理は独自フレームワークとして用意。ods ファイルは、「こういうデータを準備して、こういう引数でメソッドを呼ぶと、こういう結果になりました」というテストのエビデンスにもなる。
insert 後に select とかってのが切り離して考えられない処理ならば、それはそういう 1 単位の挙動だ。俺なら例えば、XxxDAO.insertFoo()、XxxDAO.retrieveBar() を作ってテストした上で、そいつらを XxxLogic.doSomething() に押し込むね。そしてやはり上記のようなテストが出来る。
頭の中だけだと「それって現実的じゃなくね?」と思えるかも知れないけど、実際やってみるといい。テスト順なんか気にせずにやっつけてしまえるし、案外これで効率よく厳密なテストが出来る。それでもヘタクソな野郎は、テスト順に依存したテストを作りやがって、後でメンテする俺涙目みたいな事にもなるけど。
これでテストデータを作るのが死にそうなほど大変であれば、メソッドの粒度を見直すべきかも知れない、というセンサーにもなる。・・もっとも、XxxLogic.doSomething() などを処理順に纏めた XxxAction.action() なんかのテストともなれば、やっぱ大変なんだけども。
下手すると自殺しますよ。
http://d.hatena.ne.jp/unsui456/20100218見て夏目漱石が統合失調症であるという事を知り、
昔からなぜか病気になりたいと思っていた。多分中二病。私は特別なんだとかそういう。
思い返せば、病気(風邪)になれば母親から優しくされるからか、なんかの病気になりたかったのかもしれない。
もしくは小学生の時に隣に養護学校が隣接されており、養護児童との接点があった。
彼らは確かに見た目は奇異ではあるがゆえに、周りから優しくされて少し楽に生きているように子供の目には写ったのかもしれない。
始めから変人を目指す自分がいたのかもしれないが、その辺は定かではない。
そして最近人生がうまく行かない。自殺しようかとかよく考えていた。
病気になろうとしているのだからそうなるのは当たり前なのだっていうのは浅はかだと思う。
心の中では本当になろうとしている訳ではない。サボりたかっただけかもしれない。
ただ「私は病気かもしれないな」が重傷化して、発症してしまう思い込み病に近いものであると思う。
病は気からといいますが。
そしてやる気がいまいちでないのを自己診断で鬱だとかADHDだとかそういうものであると思っていたのだが、
最近世界とうまく行かないと思っていたら、統合失調症に近いものに陥っていることに気がついた。
今までの価値観(人間として大切な所)や大切なはずのものがどうでもよくなってくる。
この世界感の崩壊は体験した人間にしか分からないのかもしれないけど、
serial experiments lainの主人公の行動に共感が持ててしまいます。
ただ以前視聴した大分後にそう思ったわけで、私が影響されやすいだけなのかもしれません。
一番怖かったのは、自分の思っている事が相手に伝わってしまう「気がする」(※本人は100%伝わったと勘違いしている)という症状だ。
脳内で言葉(脳内音声)として文章化して物事を考えている場合にそれが人に丸聞こえになってしまう、と周囲の状況から判断してしまった。
まさにサトラレ状態。
それに気がつき(勘違いし)パニック障害に近いものも発症していた。
病気の状態を調べている最中にも、精神科の世界では便宜上「そういう気がする」に押さえて伝えておかなければ、
自分の意思を周囲にまき散らして迷惑をもたらすからだ、と思ってしまった。
そんなことが伝わるはずがなく、自分の思い違いである、という認知が狂ってしまうことで、
一旦これに陥ってしまうとなかなか抜け出せない。全ての事が思考が伝達した結果であると感じてしまう。
そうすると自分の思っている事がちょっとした考え事が何か大それた物であるとか、人にどう思われているかとか、
そういう事ばかり考えるようになって、その結果、幅広い視線で物事を考えられなくなったり、世間の人間が汚くみえてしまった。
ただ幸いにも人が助けてくれてるのかなという感覚はあった。
次にmatrixではないが、聖人君主の資格をもった救世主を探して周りの人が行動しているようにみえた。
そして人間は実は脳内音声が聞こえている生き物なんだと自分に理解させ、人間になるように諭される。
そして自分に少しでも救世主の資格がないと発覚すると、汚い人間性を持った俗人になるように誘惑され、
志のない一般市民への転落へと陥れようと画策しているかのように人間が見えた。
以下妄想垂れ流し。
統合失調症は根本的な思考方法パターンが異なっているだけの人種だのだと思う。
http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/fe5d47a4094d72a271d6de0c7980bc6aのようなSとN、みたいな。
でも実はこれは誰にでも備わっている能力であると思う。
今ではパニックを少し抱えつつ冷静に落ち着いて行動をしているけど、普通の自然体が言葉で思考する人種にとっては黙っておけというのは難しい。
(※黙っておけ=お前の脳内音声が聞こえるからうるさい、と言われている気がしていた)
音が気になる人は、別にそれは小さな音なのだから騒音として聞き流すか、音楽でもかけていれば気にならなくなるはずだろう?
仏教や禅の精神では心を無にするのが落ち着くと考える人がいる。特にそれが盛んな地域では、他者の生み出す意識の流入が嫌われる。
なのでそういう宗教の人は、統合失調症を発症した人間に対して「何か悩みがあるのだろう」と優しく語ってくれるのだが、
決して悩みがある訳ではなく単にそういう考え方の脳を使うスタイルであることを理解してもらいたい。
心を無にしても無の境地があるだけで、何にも新しいものは生まれてこないと思う。ただ生み出しやすくはなるけど。
誰もいわないけど、「心の声」や一種の「テレパシー」は存在するのではと考えている。
オカルト的なものではなく、脳からマイクロ波が飛び出し周囲に伝搬する「フレイ効果」というもので、
脳内音声は他人に聞こえるのではないかというのが私の見解。これが自我という奴なのか?それを知っているのが普通なの?
この事は大人の対応として誰も言ってくれないんだが、逆にこれを言うとオカルト扱いされるというレトリックもある。
「電磁波ハラスメント」というものも出てきているくらいに、人が密集した地帯では深刻なものになりうる。
脳内での受信部位であるミラーニューロンが発達した人々の間では耳障りな音がするらしい。
これは自閉症スペクトラムの中で自閉気味にある人間には、聞こえないか聞こえても無視できるくらいの音声、もしくは人間的な度量があるのかもしれない。
こういった自閉症のようなマイノリティーが病気として追いやられ自殺に追い込まれるという社会は終わりにしたい。
私の頭がおかしいのだけなら、そんなこと(脳内音声が伝わる事)はないと言ってもらいたい。
逆にそうでなければ自分がおかしい、病気だぞという方向におさえこまれる意味が分からないからだ。
こんな感じで、ちょっと冷静になってみると訳の分からない理論を勝手に唱えていました。
一旦統合失調症の発症に気がつくと、実は人間という存在は全てが脳の思い込み刷り込みの産物でしかない事に気がつく。
人類が作ってきた歴史や文化そのものが、特定の価値観があるんだよという刷り込み。
感受性豊になると世界がカラフルに見え、恋愛をすると世界が輝いてみえるように、世界は白黒で無価値なものに見えた。
よくありそうな自己啓発などではなりたい自分をイメージしなさいと言われる。このイメージする作業は、人によって脳内の言葉であったり映像であったりするだろう。
そして言葉や映像以外でも、同じように実は人間の5感は自分の意志で脳をコントロールする事ができるかもしれないと思っている。
音声はともかく、味覚や触覚や嗅覚や視覚を実際の入力とはかけ離れてコントロールできる。
ただ再現可能性がないということで科学にはなりえません。自分だけのものとしてうまく使いこなせるようになりたいですが。
スパイラルの底に陥って、どうしても幻聴は外部から攻撃されているんだという概念から離れられず、
自分でやっている事に気がつかないで苦しんでいる人もいるのかもしれないと思うが、
一般に普通とされる人間がそれらの幻覚を自ら進んで実行する脳コントロールをしてみる欲求はあると思うのだ。
ビジネスや自己啓発や美容で用いられる思い込みの力は、社会的にプラスに作用する方向に使うからいい。
これを自分の感じる感覚が無意味であるものとする方に作用していくと、精神的に荒廃した人間が出来上がる。
無意味であるとはどういう意味であるかというと、例えば痛覚。これを遮断するように脳に働きかけると、痛みを感じなくする事ができる。人間はヤバいときには、沈痛作用の脳内麻薬を分泌して本能的にそうやっている。
これをやっちゃうともう後には戻れない所にくる。私の予想では、後に戻るには赤ん坊か精子の時からと同じ道順をたどってこなければいけない。
ただ人にはそういう精神的な所に気がつかずに生活してきたベースとなるそれぞれのパーソナリティーはあるにしろ、
反社会性をもったパーソナリティーは排除されるように教育がなされている。
自分は連続殺人犯だとかの反社会的パーソナリティーの気持ちも別に分からない気はしない。
やっても得になる欲(興奮)が欠落しているのではなく、それを理性によって閉じ込めているだけかもしれない。
頭で考える事が出来たからといってすぐに犯罪に結びつく訳ではない。人間には理性がある。
行動しなければ何を考えても自由であるはずだ。少なくとも日本では内心の自由が保証されているのだし。
人間は一人で生きていく存在ではないとよく言われる。
これはまぎれもない事実であるかどうかは分からないが、社会のベースとなる考え方だと思う。
だからその考え方を元とすれば、どうやっていけば(障害者も含めた)社会全体がより良い物になっていくかを考える事が可能であると思う。
ネタバレといっても原作読んだ人間に対してネタバレになるようなことは殆どない。
演出は強化されているが、基本的には原作に忠実な映像化である。
原作を読んで映像化を今の今まで待ち望んでいた人たちはきっと満足出来るはず。
印象に残った演出は二点。
キョンの選択が可視化されているところと、屋上での約束のシーン。
キョンが長門の理想ではなく現実のハルヒとSOS団を選びとったことが、栞と入部届と言う形で可視化されている。
思えば、どちらも長門から与えられた紙切れ一枚である。
キョンの自問自答の精神世界の中ではスポットライトが照らされてわかりやすく対比されているし、
入部届を消失長門に返すときに、ポケットから滑り落ちた栞を掴み直すシーンにも現れている。
力を込めて握ったのでシワが付いた栞と、綺麗に折りたたまれた入部届というのも対照的だった。
キョンがただの巻き込まれた一般人から、世界を自発的に守るメンバーにジョブチェンジした瞬間が視覚的に描写されている。
ラスト、屋上でキョンが長門に何かあってもお前を取り戻すと約束するシーン。
原作でもそこだけ切り取れば愛の告白にも聞こえるシーンだったが、演出が強化されたせいで余計そう感じた。
長門の手をとり跪いて約束し、多分寒さなんて何でもない長門に対してコートをかけ自分は病院のパジャマ一枚になり、
挙句の果てには「ゆき…」と下の名前を言う(嘘)。
コレが恋愛映画なら間違いなく二人はくっついて終わるのだろうが、生憎これはSFっぽい何かだった。
キョンがえらんだのは長門本人ではなく、あくまで長門がいるSOS団である。
おそらくは長門もそれで満足したのだろうが、見ているこっちとしてはひたすらに悲しい。
最後の選択を委ねたキョンは、長門の理想を選んでくれなかった。
見た目は告白だが、その実意味的には振られたも同然である。
あと、杉田は本当にお疲れ様。長門とキョンの物語なのに長門はさっぱり喋らないため、案の定2時間半モノローグ込で喋りっぱなしである。
エンドレスエイトのガッカリ感を吹き飛ばしてくれる素晴らしい映画だったが、原作があんな調子では涼宮ハルヒシリーズの映像化はこれで最後かもしれないと言う予感もする。
個人的にはパクリはあんまり問題じゃないと思うんだけどね。
もちろん引用するのだったら、引用元を書くのがフェアな態度だとは思うけど。
記憶が曖昧だが、なんかの名言に「写真はナイフの一閃、絵画は瞑想」みたいな言葉がある。(別にどちらが優れている、という話ではない)
それから、女は絵が下手というより、脳の作りの違いもあると思うけどね。
実際、女性の場合、空間把握力が弱く、絵が平面的になる傾向がある。
ただ、キラキラしたディテールやレースなんかを細かく描いたり、モヤモヤ・フワフワした感覚をどう視覚化するか、なんかにこだわる傾向があるような。
テンプレ(ハンコ絵)は楽だし見栄えはいいだろうが
消費されるだけで忘れられる作品を描いてて楽しいのだろうか?
別に歴史に名を残したいとかではなくて、生産消費としての(刹那的な)娯楽としての価値観もありだと思うけどね。そのジャンルの間口を広げるという意味で。むしろ、今は、どんな作品を生み出したか、よりも、いかにコミュニティをうまく機能的に持続させていくかがよりコアな問題のような気がしている、個人的には。よく外野が発破をかけようとしているのだろう、そんな煽りをする場合、もっと上のレベルを目指そうぜ!みたいなことを言うけれど、実際、絵を描いている人の動機が違っていたりするからなあ。
Explorer | Science of Babies | National Geographic Channel
http://channel.nationalgeographic.com/series/explorer/3090/Overview
ヒトは他の動物と比べて、遥かに無防備で無力な状態で産まれてくる。それにも関わらず、そこから最初の一歩を踏み出すまでに、赤ちゃんは劇的な成長を遂げる。産まれる瞬間から二本足で立って歩き出すまでの約一年間、赤ちゃんに起きる様々な変化を、発達の経過に沿って検証した番組。
ヒトは一生の間におよそ6億回(一分間に10回として、一日で1440回。100歳まで約36,000日として計算した物と推測)の呼吸をする。その中で最も重要で、しかし最も危険な、初めての呼吸。母親のお腹の中に居たときには母体から酸素が供給されていたけれども、一度産まれてしまったら、そこから先は自分で酸素を供給しなければならない。ほんの数分酸素が断たれただけでも、ヒトの身体は回復不能な障害を受ける。産まれた瞬間の赤ちゃんの肺は、羊水で満たされ溺れている状態。だから、産まれて初めての呼吸は、通常の呼吸の10倍から15倍の労力が必要となる。肺胞の隅々まで空気をみたしてやらなければならないのだ。この最初の呼吸によって、肺の中の水は血流に吸収されていく。
産まれるまでは母親の体温で暖められていた身体も、自分のカロリーを消費して体温を保つように切り替えなければならない。その体制が整うまでの期間、充分に体が熱を作れるように、新生児は熱に変換しやすい褐色脂肪を豊富に蓄えて産まれてくる。冬眠中の熊のように。
赤ちゃんが、今現在の成熟度と大きさで生まれてくるようになったのは、今から約800万年ほど前。他の動物と比べると、ヒトの新生児の頭は(身体との対比で相対的に)大きい。赤ちゃんが産まれてくるタイミングは、母親の骨盤の広さと新生児の頭部の成長との兼ね合いで、ぎりぎりくぐりぬけられる大きさになったときである。真っ直ぐには出て来れず、一度頭を90度回転して骨盤をくぐり、さらにまた90度回転して出口の骨を避けるようにして生まれてくる。
ヒトの赤ちゃんはとても無防備な、無力な状態で産まれてくる。他の動物、例えばサルと比べても、自立するまでに長い時間がかかる。ヒトに最も近縁のチンパンジーでも六ヶ月くらいで歩き始めている。そのようにかなり未熟な状態で産まれてくるにも関わらず、ヒトの新生児も生まれながらにある種の動物的な本能を備えている。それは生存の為に重要な反射運動であり、またある種、進化を裏付けるような原始的な反応でもある。
まだ歩くこともできない生まれたての新生児は、抱き上げて支えながらかかとを地面につけてやると、両足を交互に繰り出し、まるで歩き方を知っているような反応を示す。でも、その反射は六週間後には消えてしまっている。ところが、不思議なことに、水の中ではその反応が蘇り、そうして反応を誘導してやると、それ以降は消えることがなくなる(番組では、透明な浴槽の中に赤ちゃんを抱きかかえて下半身をつけてやっていた)。
他によく知られている生まれながらの反射運動には、次のような反応がある。
これらは、どれも動物の生存本能に共通する原始的な反応といえる。
赤ちゃんの考えていることを知るのは難しい。しかし、赤ちゃんの認知力の一端を覗く、いくつかの方法がある。ある研究者は、赤ちゃんが何か違和感を覚えた時に、対象物を凝視する時間が長くなるという現象に目をつけた。この時間を計測することで、赤ちゃんが何に気付き何を認識しているのかを探ることができる。その研究者は、新生児が数を認識する(簡単な足し算引き算の)能力を持っていると考えている。行われた実験はこうだ。まず、一つだけ置かれている人形を赤ちゃんに見せる。そこをついたてで隠して人形を見えなくしてから、そのついたての裏にもう一体の人形が入っていく様子を見せる。そして、見えない位置からこっそりその人形を取り去った後で、ついたてをおろす。赤ちゃんから見れば、そこには二つ人形があるはずなのに、一つしか無いという状況。そのような矛盾がある場合、なにもトリックを使わない場合と比べて、人形を凝視する時間が長くなる。二つの人形を見せて、そのうちの一体がついたての後ろから出て行くところをみせたのに、ついたてをよけてみると人形が二体に残っているという引き算の矛盾にも、その反応が観察されることから、赤ちゃんは生まれながらに数の認識を持っているに違いないという話。
まだ自分で動くことのできない赤ちゃんにとって、飛び込んでくる外界の刺激はもっぱら光と音ということになる。聴覚は視覚よりも先に発達していて、お腹の中に居ても母親の声を聞き分けられるけれど、視覚は産まれてから外部の刺激を受けながら、徐々に発達していくもので、この段階ではまだぼんやりと対象物を捉えているにすぎない。
とはいえ、母体の中と比べて外界は刺激に溢れている。流れ込んでくる大量の情報を処理していく体勢を整えていく必要がある。ヒトの体には、約10億の脳細胞、神経細胞、ニューロンと呼ばれる情報処理に携わる細胞が存在する。これらが、外部から飛び込んでくる刺激を情報として捉え、ネットワークを構築していく。一つ一つのニューロンは、個別の電話機のようなもの。細胞間の情報は、シナプスと呼ばれるリンクを介してやりとりされる。最初は外界のあらゆる刺激がネットワークをフルに刺激していて、あちこちの電話機が絶え間なくなり続けているような混線状態。その中から、必要な連絡網だけが残るように、ニューロン同士が互いにリンクし合う相手を求めて競合している。この過程を可視化して映像に捉えた研究が紹介された。最初は筋繊維に複数のニューロンが繋がっているが、黄色と青色、色違いで染められた二つのニューロンがある筋繊維に連結しようとしている。最初はどちらも繋がっているように見えるが、この二つのニューロンは互いに競合し合って、最終的に一方の色に染められたニューロンだけが残るまでの過程が観察される。ニューロンネットワークが形成される様子が見て取れる。
未完成ながらも、ニューロンネットワークが成熟するに伴って、運動神経がやや発達してくる。頭を持ち上げたり、寝返りを打ったり、ものを掴んだりすることができるようになる。
野生の動物や鳥、昆虫などは、生まれながらに餌の捕まえ方や身の守り方を知っている。数を数えることさえ生得の本能だ。それが発揮できず、他者のケアが無ければ生きられない、ヒトの新生児は非常に未熟な状態と言える。そのような状態で産まれてくることは不利なことなのか、いやそうではない。生まれついての本能はそれ以上発展することがない。しかし、未完成な状態で産まれてくるヒトは、環境や経験から、より高次元の習性を構築することができる。これが学習する能力の特徴である。
学習して能力を獲得するのには適切な時期があり、その時期にきちんとした情報の入力とニューロンへの連結が行われないと、その能力は形成されない。使われない機能は失われていく。三ヶ月くらいの新生児は、各国の言語で微妙に異なるトーンを聞き分ける能力を持っているが、その後六ヶ月を過ぎてしまうと、一番身近な言語の発音を聞き取る能力だけが大きく発達していく(マルチリンガルに育てるためには、六ヶ月までにいろいろな言語を聞かせておけという理論の根拠はここにあるようだ)。
需要のない能力が失われていく話題に関連して。三ヶ月あたりで、目のレンズと視神経との連絡が完成する。この時期に、適度な情報が目を通して与えられることで視神経を構築する。ある赤ちゃんが片方の目のレンズに問題があることがわかった。このままだとその眼球からの情報入力がないために、ニューロンの連結に不備が生じてしまうということで、レンズの機能回復手術を行った。手術そのものは一時間ほどで無事に終わったが、その後の検査で、もう一方の健常な側の目に眼帯をした、なぜか。回復させた眼球を強制的に機能させ、視神経を発達させるため。
運動機能はさらに発達して、座ることができるようになる。つかまり立ちや、立ち上がるまでには至らなくても、ハイハイをして動き回れるようになり、行動範囲が広がる。ハイハイのスタイルには個性がでる。これは新生児それぞれの運動機能の発達状況は環境に依存するもので、成長に関してあまり重要ではない。この時期に最も重要な発達は、学習したことの再構築ができる柔軟性を得ること。自分から動き回れるようになって、取り巻く環境が劇的に変化する。外界からの刺激もさらに複雑なものになる。遭遇する危険も増える。座れるということは、バランスを崩して転ぶことができるということ。自分で動けるということは、溝に落ちたり、何かにぶつかったりできるということ。それなのに赤ちゃんには、届く/届かない、バランスが崩れる/保てるといった認識がまだ無いので、無鉄砲で失敗を繰り返すことになる。目標物以外に注意を払うことや、体バランスの取り方など、失敗の経験から、環境に適応していく脳の柔軟さが求められる。この時期の赤ちゃんの運動機能の発達を研究している様子の映像。何かを見つけてそれを取りにいくという動機で動き回るようになる。その間に溝などの障害があっても殆ど認知されていないで突き進む赤ちゃん。その過程で失敗を繰り返し、危険を回避するという学習の過程が認められる。
ニューロンネットワーク発達中の情報処理の取捨選択の別の例として、顔や表情の認識がある。ヒトやサルの顔写真を見せ、新生児の脳波の変化を測定することで、どのような違いを認識しているかを観察した。二ヶ月くらいまでは、人の顔のパーツの配置が乱れていても識別できない、三ヶ月くらいで、顔を顔として認識するようになる。この段階では、サルの顔写真一つ一つの個体の違いを区別している。しかし、六ヶ月くらいになると、サルの個体を区別しなくなっている。必要の無い情報処理の能力が失われている。代わりに、ヒトの表情の違い(喜怒哀楽)に敏感に反応するようになっている。
この時期の発達過程は、自閉症と関連づけて注目される。孤児をケアする施設で研究されている内容。一般的な家庭環境と比べて、この時期に人の表情に接する機会が少ないと、表情を識別する能力の発達に影響が出る。他者の感情を表情から読み取ることが難しいという自閉症の特徴に関わっているかもしれない。
運動機能の成熟、ニューロンネットワークの成熟、言語の獲得とそれに伴って起きる変化。
言語の獲得には多大なリソースを割くので、使われない能力はより顕著に消失していく。生後十二ヶ月で約40個の言葉を認識し、さらにその一ヶ月後には100個まで増えている。
ある新生児の言語獲得の記録。全ての部屋にマイクと天井から見下ろす魚眼カメラを設置して、起きている間の赤ちゃんの行動と言葉を発していくまでの過程を観察した映像。馴染みのあるモノや身近な者を通して、言葉やフレーズと対象物やイベントとをリンクさせようとする。新生児がある対象物を認識してBa、 buh、Dahといった発声をするようになる。それに対して親がDad、Ballなど、はっきりとした言葉でリピートしたり、Blue ballという形で発展させたり、あるいは動作や行動と組み合わせてフレーズで返したりする。フィジカルなイベントとソーシャルなイベントの関連づけが、言葉を学習していくプロセスである。
新生児が言葉を学習する過程を分析して、学習するロボットの開発に取り組む人たちの紹介。ロボットに「赤色」の「ボール」を取ってと指示するがロボットには対応できない。絶えず変化する状況にも対応できる学習する能力の柔軟性をいかに獲得させるかが鍵。
運動機能だけでなく、骨格も充分に発達して、肩幅も広がり、足も伸びて、筋力もついてくる時期。ここに至って、頭を持ち上げての二足歩行、つまり歩き始める準備が整う。
四本足で歩く動物はその移動の為にカロリー(消費カロリー全体の?/摂取カロリーの?)の約50%を消費する。その観点でみると、二足歩行は移動に関して非常にエネルギー効率が良い。さらに、両手をフリーにすること、より大きな容量の脳を支えることができるという利点もある。このような点に二足歩行の意味がある。
赤ちゃんすげえ。という完全に私的な興奮から、自分が理解した内容の備忘録としてここを利用させていただきました。理解のあやふやな箇所がたくさんあるので、誤った記述が含まれている可能性はかなり高いです。特に言語獲得のプロセスに関する部分は未消化だという自覚があります。何ヶ月〜何ヶ月というのは、整理のための大凡の目安として個人的に捕捉したもので、これを一般化して赤ちゃんの成長を評価するものではないです。水中で歩行する話だとか、数を数えられるよという映像は、ちょっと観察手法の正当性に注意が必要な気がしました。赤ちゃんのリアクションが周囲の観察者の期待に影響を受けていたりはしないだろうかと(昔、計算が出来る馬の話のトリックについて聞いたことがあるので)。
ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP 赤ちゃんの不思議
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/shop/detail.php?id=219
http://q.hatena.ne.jp/1121527958
この質問を、未だに忘れられないでいる。自分にとっては目新しい疑問ではなくて、幼少の頃からたまに思考が向けられるよな、比較的ありふれた問いかけの類型だ。深遠で、しばしの間は自分を虜にするが、決して答えに辿り着けない問題の一つってだけ。たまに心を向けて、すぐに飽きるだけ。
印象に残ってるいるのは何故だろうか。盛り上がってたから、って理由はまず有るだろうな。盛り上がる、つまりはそれだけ関心を呼ぶ疑問ってことだ。なるほど、自分も関心を寄せてるが、同時に他者も関心を寄せてるのだと一つの事実でもって知ることが出来たから。そして、一定割合の人には、問いが根本から理解されないのだと、これもまた一つの事実でもって認識することが出来たから。最後に、自分ははてな界隈って自分より遥かに優れた思考力を持った人間が集う場所だと認識しているが、それでも最終解には至らないのだなと。
当時の自分は、↑の問いかけを考えながら、上-下軸のことを連想した。いや、天-地軸と呼んだほうが適切か? 地球上において、天と地は全く異なっている。ほとんどの環境において、光は天から降り注ぐ。足場は基本的に地の側にある。だからなのか、進化の過程において、脊椎動物の多くは上下で構造が異なる。自分はそこに、脊椎動物のご先祖さまが天=海面側に視界を向ける必然性があったからだと感覚的に推測してるが……いや、これはヒトという種の身体構造を説明するには不要だろう。光学機器は高い場所に設置したほうがいい、だから目は天の側にある。脳が天の側にあるのは、頭部もしくは顔面が果たしている何らかの機能が天側に置かれる必然性を持ち、そして脳と短距離で接続される必然性があるから、かな? ああ、眼に着目(w)しても解答可能かもな。眼は単に眼球のみで構成されるにあらず、接続された神経・血管、保瞼とそれを駆動させる筋肉、そして眼球を駆動させる筋肉が要る。コンパクトに仕上げるなら埋め込む方がいい、骨で囲めば破損の確率も減らせる。エロゲの触手ばりに可動性を実現させるのは、設計として無茶だろう。(でも、中立進化としては絶対に無いとは言い切れない、かも)
頭部が天の側に配置される必然性があるとする。これで、天-頭-体-足-地という軸が固定される。ただ、これは1本のマッチ棒が出来たってだけの話だ。「下に空があって、重力は上に働いていて、物は上に落ちていく」って世界は、言語的・主観的な違和感を除外すれば、一応成立しないだろうか? ……と思っていたが、しない理由を一応提示することは可能かも? 人間の視界は上下で広さが異なると聞く。これが事実なら、後は重力方向を身体で感知できるのだから「ある視界の偏りを重力方向と一致させる」と規定すればいい。つまり、生物としてのデフォルトが規定可能ってことだ。視覚を長方形、空間を長方体と捉えるから「長方形Aを長方体の面A'に重ねた時、長方形の辺Bと長方体の辺B'が重なる確率を答えよ」みたいな疑問が湧くのだろう。そりゃ、1/2だよな。だが視覚が台形であれば、長辺と短辺の区別が生じる。重力方向によって規定される昇-落のどっちかと、長辺と短辺のどっちかを合わせれればよい。これならプログラミングが容易だよな。(もちろん、視界が台形であるって推測が外れてたら覆る話だけども)
これは、つまり「初期条件の設定が誤っている可能性」も含めて、思考を進めるべきって観点だ。で、最初に挙げた「波長と色覚細胞と意識される色」の問題に当てはめると……色相環を思考条件に用いるべきなのかどーかって疑問が湧く。一般的に色はキレイな円環構造で把握しがちなのだけど、別の構造化も可能なんだよね。
http://www.icoffice.co.jp/zukan/c_color.htm
色を円環構造で捉えれば「(中略)正三角形の頂点Aが円周上の点A'と重なる確率を求めよ」的な疑問が湧く。だが、置かれた図形と重ねる図形が共に歪な三角形(等辺を持たない三角形)であれば、重なる面積を最大にするための解は1つに近づく。もちろん、仮定してる条件は色々とあるわけだ。
(1)人類は脳機能的に、特定の色構造を持つように出来ている=生得的色構造
(2)色覚細胞の数には、生得的に偏りが生じる(R>G>Bの順だっけ?)
(3)生得的色構造と入力されてくる色覚の差異を照らせば、認識色と波長帯が一致する
(1)は、人類がデフォルトで持っているバイアスの傾向とでも言えるか。「この波長が重要だから優先的に処理するよ!!」みたいな。もち、上で述べたように円グラフ状のモデルではなく、歪な多角形、あるいは多面体で表せるよに思っている。総じて言えば、太陽光下に生きる人類種は進化の過程で培った視覚処理のバイアスを持ってて、想定された通りの太陽光下で生育すれば、大体は最高のパフォーマンスを発揮しますよ、ってなとこか。また、通底してるのは、脳みそにあんまり初期構造を設定したくないって発想だな。自分の予想では、目から脳みそにつながる神経配列を取り替えてしまっても赤ん坊は、赤を赤いと認識するだろうと思ってる。「RGBの3色ピンを正しく接続してね!」なんて家電製品みたいに融通効かないハードじゃねーだろうと。重要なのは刺激の量で3色を区別できることだけで、ここは生得的にも正しく学習が進むように予防線があるのではないか。多少、自然光より偏った光の下でも正常に育つように出来てるのではないか。
さてはて、長駄文すぎるな。文章の最初でリンクを貼った質問に対して、現在の自分が抱く思考で、出来るだけ短く答えるなら、以下のよな感じだろう。
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私も解答を知りませんが、自分なりに考えついた着眼点を提示いたします。
貴方は色を一般的な色相環のイメージで捉えていませんか。自分には貴方の問いかけが、まるで、色相環の円筒の内側で、RGBの三角柱を回転させ続けているように思われるのです。そして、円筒上の一点とある角が一致する必然性を求めているように思われます。
ただの思考実験ですが、主観上の色を、単純な色相環で捉えず、非点対称・非線対象の多角形もしくは多面体で構造化されるものと認識するはどうでしょうか。同様に、目から脳へと送られる色覚情報も、色覚細胞の数といった要因により、3種の刺激量が異なるように思われます。例えば白は、はたして生身の人体にとって(255,255,255)という具合に3要素の一致を表しているのでしょうか。視神経レベルで見ると、実は(255,240,200)といった数値であるのかもしれません。主観上の色にしても、視神経レベルでの色にしても、歪な形状で構造化できるのかもしれません。もし歪な形状を適用できるのであれば、視神経レベルと主観レベルの色構造を重ねたとき、一つの解を導ける……かは今の自分にはよく分かりません。
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ちっとも短く纏められない件。加えて、長文過ぎて誤字脱字を探す気力もない件。
カテゴリ | 完走数 | 全体の動画数 |
---|---|---|
音楽 | 13 | 405501 |
エンターテイメント | 46 | 120885 |
スポーツ | 15 | 66143 |
演奏動画や歌ってみた動画が別カテだからどうしても「音楽」は丸上げになるからなあ。俺もいつも「2(支持しない)」を押しているよ。
カテゴリ | 完走数 | 全体の動画数 |
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動物 | 31 | 39779 |
ファッション | 2 | 3362 |
料理 | 46 | 11435 |
日記 | 9 | 17170 |
自然 | 10 | 15912 |
科学 | 15 | 16509 |
歴史 | 9 | 11482 |
ラジオ | 0 | 49375 |
ニコニコ動画講座 | 9 | 12529 |
料理は視覚聴覚に加え味覚にも訴えかけるので、それだけで有利。グツグツ煮える音、炒める音、ああたまらん。ファッションは完全にエロか創価MADに乗っ取られてまともに機能していない。ひとこと動画カテを廃止しなければ良かったのになあ
カテゴリ | 完走数 | 全体の動画数 |
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政治 | 18 | 22937 |
政治枠は御三家との合同枠になったので少し見たが、政治は丸上げを特に嫌っておらず、逆にうp乙と褒められるのが印象的。この完走数が多いのか少ないのか自分には判断不能。
カテゴリ | 完走数 | 全体の動画数 |
---|---|---|
演奏してみた | 24 | 55037 |
歌ってみた | 20 | 171437 |
踊ってみた | 12 | 20347 |
描いてみた | 14 | 12451 |
ニコニコ技術部 | 43 | 12529 |
「踊ってみた」はマスクをつけて踊るからか皆さん厳しい評価になりがち。「演奏してみた」で顔を隠すのは「顔」がメインじゃないからわかるんだけど、「踊ってみた」は体を見せ付けるのがメインなのに顔にはマスク。本当にわけわかんねえ、そんな俺が押すのは「2(支持しない)」。
カテゴリ | 完走数 | 全体の動画数 |
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アニメ | 36 | 174253 |
ゲーム | 12 | 1378888 |
とにかくゲームプレイ動画が「途中」「長い」「ぼそぼそ声付」と嫌われる要素満載であるために、バシバシ落とされていき、動画のストックが尽きて「二周目」に入ることもしばしば。そのためかアニメ系のランキング動画等の長めの動画を完走させて二周目を防止しつつゲーム動画をなるべく排除する動きも目立った。アニメでも女性(腐)向けと思われるMADとかは「腐ってみた」呼ばわりされてバシバシ切られるが
カテゴリ | 完走数 | 全体の動画数 |
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アイドルマスター | 82 | 93885 |
東方 | 30 | 100726 |
VOCALOID | 70 | 71190 |
その他 | 28 | 47660 |
東方は丸上げ、プレイ動画、紙芝居手書きとセカチャク向きで無い内輪動画が多いため完走は比較的少なめ、アイマスは伊織が出ると「くぎゅううううううう」一色になり支持率がそれだけで跳ね上がるのが多い。ボカロ系はオリジナル曲の投稿がとにかく多く調教のうまい動画だと結構完走する。ただしクリスマス曲、テメーはダメだ。その他は鉄分(鉄道分)多め
カテゴリ | 完走数 | 全体の動画数 |
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R-18 | 24 | 44347 |
このカテゴリは見ていないのでノーコメント。深夜遅くでハイになった視聴者がエロに浮かれてホイホイと「1(支持する)」とを押している様はアリアリと見えるがな。
動画に生コメントが反映されるのは最初は「無意味だし不必要だよ」と思っていたが、実際に動画をアップして取り上げられた時にコメントされて気が変わった。このコメントのラッシュは悪くない、むしろコメントからそのセカチャク放送当時の光景を想像できて楽しい。
以前外国人の同僚から聞いた話ですが、外国の方は「日本のニュース番組はどうして図面とか沢山使って視覚的に情報を伝えるのか」って疑問を抱いてるそうです。
「その方が分かりやすいからだろ?」と答えましたが、向こうでは日本ほどイラストや図面を多様する事はなく、ニュース番組は基本的に言葉で伝えます。
視覚的情報に頼るのは、視聴者を馬鹿にしているのではないかと受け止められてしまうそうな。
実際に欧米は活字原理主義で、漫画的表現は大人の場に相応しくないという考え方が一般的。
日本のテレビの表現方法の一部に不快感を抱いたり、つまらないと感じたりするのは、こういった所も関係してるのかもしれません。
ワタシはワガママなので、音もヴィジュアルも徹底的に痺れさせてくれないと嫌だ。
「歌が下手でも大丈夫か?」ってのも有るが、カワイイ子なら許すってのはもうしょうがない。
結局CDは聴覚メディアにも関わらず、視覚と区別される事は無かったと思うし、
これからは別々に成るって事も絶対に無い。
だがこれも組織に成れば違う。
個と集団の在り方。問題はもっと根深い。
〜T/H
http://anond.hatelabo.jp/20091121195807
とりあえず、必要最低限のアプリケーションとサービスを削除する。
ってことで、立法趣旨を確認するには、法案提案者がどう考えているのかを知るのが大事ってことで。
○枝野委員 ありがとうございます。
それでは次に、児童ポルノの方の定義のところについてお尋ねをさせていただきたいというふうに思います。
「「児童ポルノ」とは、」ということで、「写真、ビデオテープその他の物」というまず一つの限定がございます。ここのところで、従来の自社さで衆議院に出されておりました案では、「絵」という文言が入っておりましたが、今回「絵」という文言を外しました。そういたしますと、「その他の物」に絵が入るのか入らないかということになるわけですけれども、含まれる絵と含まれない絵があるというふうに理解をしておりますが、どういったものが含まれて、どういったものが含まれないのかということについてお答えいただければと思います。
○大森参議院議員 自社さ案の方では例示のところに「絵」がございましたけれども、今回明記してございません。これは一つに、コミックとかそういうものが入るのか、こういう問題もあったものですから例示から外しております。それで、枝野委員おっしゃるとおりに、絵につきましては、「その他の物」に含まれ、児童ポルノに該当することもあり得ると考えております。
この法案では、児童ポルノとは、児童の一定の「姿態を視覚により認識することができる方法により描写したもの」とされておりますが、ここに言う児童とは、十八歳未満の実在する児童をいうことになります。したがいまして、絵につきましても、実在する児童の姿態、これを描写したものであると認められない限り、児童ポルノには該当しないことになります。こう考えております。
○枝野委員 ありがとうございます。
さてそこで、ちょっと悩ましいのは、実在の児童を描いたのだけれども、実際に裸にしてそれを描いたということではなくて、顔だけ実在の子供、例えば芸能人などのような有名人の顔であれば、顔だけは実在の子供の顔を描きました。だけれども、裸の部分についてはこれは全く想像してかきました。こういった実在の児童を想像して描いた絵というのは、これはどちらに入るのでありましょうか。
○大森参議院議員 その場合に、人物、児童という人間は実在しているけれども、その姿態が、架空ですね、これが実在しない場合、想像してかいたものになりますので、実在する児童の姿態とは言えず、児童ポルノには該当しないと考えております。
○枝野委員 このあたりのところは表現の自由と絡みますので、やはり明確さが要る。今のようなものを本来は規制の対象にすべきかどうかということはまた別に問題があって、うまく規制できるのだったらすべきというのもあるかもしれませんけれども、この法律の解釈として、対応としては今のようなことでやるべきだろうというふうに思います。そうしか解釈できないだろうというふうに私も思います。
今の特に後の方の話など、法務省それから警察庁、同じような理解でよろしいでしょうか。
○松尾政府委員 ただいまの発議者の御答弁の趣旨を尊重して運用していくべきものと思っております。
○小林(奉)政府委員 警察におきましても、ただいまの法務省さんと同じように、発議者の説明の趣旨を体して適切に運用してまいりたいと思います。
○枝野委員 それから、これが、もちろん今のようなお答えになるのをわかった上でお尋ねをしておりますので、例えば実在の子供をモデルにした絵だとか、あるいは芸術、何が芸術かというのは、芸術じゃない作品をつくっていらっしゃる方でも御自分では芸術とおっしゃるわけなので、これも主観的なものが入るのですが、まさに一般的に、美術館などに描かれている、例えばヨーロッパの方の教会なんかの壁画みたいなところを見れば、例えば子供の裸の姿とかいうものの絵があります。あれが実在の子供を描写したものかどうかわかりませんけれども、ああいったような芸術作品のようなものは、やはり今のお話の「性欲を興奮させ」などの解釈のところで問題ないということになるケースも多々あるのではないかなというふうに思うので「性欲を興奮させ又は刺激する」すが、そういった理解でよろしいでしょうか。
○大森参議院議員 今枝野委員、教会の壁画などの裸の絵とおっしゃったのでしょうか。それはまず、実在する児童かどうかということも問題になってくると思います。
それから、芸術作品ですとか、あるいは芸術作品とかに出てくる場面についてどう判断するかということについても、例えば芸術作品が何か、どうかということも非常に難しいのではないかと思います。したがって、この法律の関係につきましては、あくまで当該描写に係る児童の姿態が第二条第三項の第三号の要件を、もちろん二号もあるかもしれませんが、この要件を満たすものであるか否かによって、同号に言う児童ポルノに該当するか否かが判断されることになります。
○枝野委員 ありがとうございます。そういったことで運用していただければ、変な拡大とか間違った運用ということはないかなというふうに理解をしたいと思います。
それから、先ほどもここで出てきていますが、「性欲を興奮させ又は刺激する」というのが要件になっているわけですけれども、この「性欲を興奮させ又は刺激する」ということについての判断者はだれであるのか、あるいは、だれの性欲を興奮させ刺激するということであるのか、これについてお答えをいただければと思います。
○大森参議院議員 「性欲を興奮させ又は刺激する」、この構成要件につきまして、だれの性欲をという御質問でございますけれども、通常、構成要件に規定してありますことは、一般通常人というものを基準としております。
最終的にそれをだれが判断するのかということになりますと、犯罪構成要件に該当するか否かの最終的な判断は、刑事事件におきましては裁判所がすることになります。
○枝野委員 それで、一般人の性欲を刺激するかどうかということになりますと、逆に言えば、ごく一部の人たちしか性的な刺激を受けないというケースについてはここには含まれないという理解でよろしゅうございますね。
○大森参議院議員 今申し上げましたように、構成要件該当性の判断というのは一般人を基準といたしますので、一般通常人より特に性的に過敏に反応する方とかを御想定なさっているのかと思いますが、今申し上げたように一般人を基準にいたしますので、枝野委員がおっしゃったような場合は、児童ポルノには当たらないことになると思います。
○枝野委員 それで、先ほど途中でちょっと切りかえてしまったのですけれども、先ほどおふろのコマーシャルみたいな例を申し上げましたが、一般的に言えば、これも、人によって子供も成長程度が違いますし、シチュエーション、映し方によって全部違うとは思いますが、普通には、三歳とか四歳の子供たちが例えば裸で水遊びをしている、それがニュースの映像とかで流れたりすることがありますね、いよいよ暑くなりましたなんというニュース。それから、温泉地で普通に温泉に、おふろに入っている子供、それも少なくとも二歳とか三歳の子供。
これは、何歳からかということをここで議論しようと思うと、これはまさにケース・バイ・ケースなのでそういうことは申しませんが、そういったケースみたいなところは、これは一般人の性欲を刺激するとは普通には言えないということで大体解釈されるだろうなという理解でよろしいでしょうか。
ただ、低年齢、三歳とかとおっしゃったのでしょうか、その裸であれば絶対該当しないかということは必ずしも言えません。性的に未熟な女の子、女児の陰部等を描写したものと認める写真についても刑法上のわいせつ図画に当たるとした判例がございます。
そういったことから、常に否定されるわけではないと考えますけれども、今おっしゃったような事例につきましては、それが通常一般人から見て「性欲を興奮させ又は刺激するもの」と言えるかどうかという、この基準によって判断していただければ妥当な結論が出ると思います。
陰鬱な空から雨が降り注いでいた。街が灰色に蝕まれていく。くすんで、濡れそぼっていく。
宵口の窓辺から覗く世界は、ほんのりと濃紺に染まっていた。行き交う車のヘッドライトが煌々と筋を刻んでいる。等間隔に立ち並ぶ街灯は、どこか所在がなさそうだった。漏れ出す家々の明かりがやけに白々しく見える。
閉め切ったガラス窓に、水滴がぽたぽた、打ち付けてはゆっくりと流れ落ちている。やがてひとつになって、窪地に溜まり、淀み、溢れて排水溝に流れ、支流は河へ、本流となって海原へ……。白光のもと、再び上空へ駆け昇っては、いつもみたいにどこかに降り注ぐ。
滑り落ち始めた一滴をなぞりながら、この雫はかつていつこの街に降っていたのだろうと考えた。数日前かもしれないし、数週間前かもしれない。数ヶ月、数年などという期間も候補に考えられなくはないような気がした。そもそも、混ざり合い、どこの、いつの雨なのかが分からなくなってしまっているのだ。数十年、数百年、数千、数億年――あるいはもっと、それ以上にも及ぶ悠久の時を深海の底で眠り過ごしてきた初めての一滴である可能性も捨てきれなかった。
可能性が選択となって、頭の中で遮るものなど何もない広大無比な高原の如く展開していく。そのあまりにも壮大なスケールに、思わずくらくらしてきてしまった。軽い眩暈に瞳を閉じて、冷たい硝子に額を押し付ける。
透明な境界は、視覚的に透明であるために捉え難いだけで、確かにいまここに存在している。なるほど、姉にとってはこの敷居を跨ぐことがなによりも大変で、困難で、恐ろしいことだったのだろうなとぼんやりと考えた。
顔を上げる。後頭部を窓に、背中からもたれかかるようにして立ってみる。何年もの間、碌に光が差し込まなかった、内からさえも照らし出されなかった小部屋の中には、染み付くかのように重たい、へばりついてくる、濃厚で濃密な掬い取れるかのような闇が沈んでいた。
そんな部屋の中央に、天井から輪が釣り下がっている。簡素な机と、スチール製のベッド以外に、例えばポスターだとか、本棚だとか、CDラックだとかが病的なまでに何もない部屋の真ん中に、タオルで作られた即席の絞首台が設けられている。
込み上げるようにして息を吐き出した。そこに浮かんでいた表情が、安息そのものだったことを思い出す。彼女はやっと苦しみから解き放たれたのだ。姉は絶望的な辛苦から逃れることに、その手段を用いることに成功してしまっていた。
視界の右端、壁に面した机の上に、一冊のノートが置かれている。先ほどざらりと読み終えたばかりのノートだ。全ての紙面を埋め尽くそうとしていた心象は、あるときは言語であり、あるときは稚拙な絵であり、スケッチとなり、あるいは音階となって私の目に代わる代わる飛び込んできた。そしてその内容は、私が思っていた以上に、家族が知っていた以上に壮絶なもので、どうして姉が今日までの日々をこの小さな部屋の中で完結させなければならなかったのか、あるいはどうしてその部屋の中からさえも逃れなければならなかったのかを如実に示してきていた。
『やさしさノート』と題されたその一冊は、これまで姉が関わってきた人たちに対して、こんな自分をまだ見捨ててくれないでいる家族に対して、そしてこの世に存在しているありとあらゆる人たちに対しての謝罪を冒頭に据えて、つらりつらりと始まっていた。
ごめんなさい。
その一言を、姉は一体何度このノートの中で繰り返したのだろう。対象となった人の人数は? おそらく、私がこれからの人生で頭を下げることになる人数を優に一万倍以上超えているはずだった。姉は自らがここに存在していることを呪い、悲しみ、恨み、溜まりに溜まった申し訳ない想いを吐き出すために何度も、何度も何度も何度も何度も、ごめんなさいと謝り続けるしかなかったのだ。
完全に他者を排し、愚直に紙面とだけ対峙しながら、強大な感情に取り憑かれてペンを走らせ続けていた姉の姿を想像する。漆黒に染まった部屋の片隅で抱いていた苦しみを、廻りまわり続けていた激憎を、決して消えることのなかったその業を思い、私は再び絞首台に目を投じた。
「大変だったんだね」
彼女に向けることのできる言葉は限られている。姉の苦しみは、絶対的に姉にしか分からないものだし、他の誰かが、とりわけ私になんぞは共有できるものではなかったのだから。
姉は、小さい頃から聡明で、何でもできて、いろいろなことを知っていて、たった三つしか歳が離れていなかったはずなのに、幼い私にはまるで全知全能の神様のように映っていた。同時に、幼稚園でいじめられていないかと心配をしてくれて、守ってあげるからと毎日一緒に通学してくれていた。姉の掌はどんな時も私の小さな右手を包んでくれていて、そのぬくもりを、感触を抱いていられれば、私はどんなことにも立ち向かっていけるはずだったのだ。
歯車が狂いだしたのはいつのことだったのだろう。気がついたときにはもう修復など効かなくなってしまっていた。歯はぼろぼろに欠け落ち、空回りをするばかりでうまくいかなくなってしまっていた。
姉が賢すぎたのかもしれない。本を読みすぎたのかもしれないし、私に気を回しすぎたのかもしれなかった。あるいはそれは私の問題で、そして姉を取り巻いていた周囲の問題でもあって、徐々に変化し拘泥していった姉の人格を見抜けなかったからなのかもしれなかった。様々な事柄をたったひとりで考え処理するのにはまだ小学生にすぎなかった姉は幼すぎたし、置かれている状況も恵まれすぎていた。
多眠が始まったのがちょうど中学生になった年で、以降姉は塞ぎがちになり、与えられた問題を集中的に考えることができなくなった。部屋から出られなくなったのはその翌年だ。どうすることもできないまま姉は自らの精神によって自室に追いやられ、そこから抜け出すことができなくなってしまった。
姿を、心無い人は蔑み、揶揄し、大袈裟に嘯いた。面白おかしく吹聴する者もいた。何を隠そう、私自身がそうだった。
情けない姉、駄目な姉、わがままだから絶対的に社会に求められない。荒んでも、落ちぶれても、ああはなりたくないよ、などと知ったような口をはいていた。友達と家族の悪口を言い合う行為は、思春期を迎えた嗜虐的な子供心にはとても気持ちのいいことだったのだ。纏わり付いている繫がりというものを、私は心底疎ましく思っていた。
だから、姉が私に謝る必要などないのだ。どちらかといえば私のほうこそ彼女に謝らなければならなかった。苦しみに喘いでいた姉に細心を払うわけでもなく、あろうことか邪魔者扱いをしていたのは私だったのだから。
姉は、どんな時も私のことを穏やかな視線で想い続けてくれていた。この小部屋の中にいなければならなくなりながらも、想像を絶するような苦しみの中にありながらも、真摯に私のことを心配し続けてくれていた。
それを、それを私は――
……後悔など、するだけ無駄だ。淀みの中から掬い上げて振り返り続けることなどは無意味だった。高校に進学し、幼い恋を、出会いと別れを重ねて、大学に入学する前にはちゃんと理解していた。
いまここにいる私には、彼女に言わなければならない言葉がある。
「ごめんなさい」
姉に対して、何もできなかったことを、何もしなかったことを、それどころか邪険に思い扱っていたことを。実家を離れるようになってから、ずっとずっと謝りたいと思い続けていた。
床に降ろした腰に冷たい感触が伝わってくる。膝を抱えて小さく、誰もぶら下がっていない絞首台を見上げた。その小さな輪が作り出した痣を思い出してぐっと震える唇を噛み締めた。
階下では、両親が恐慌をきたしながら救急隊の到着を待っている。通報からもう二分ほどたっただろうか。意識を失った姉に付きっ切りで、私がいなくなっていることには気が付いていないようだった。
「お姉ちゃん……」
こんなの駄目だよ。ずるいよ。私が永遠に謝れなくなってしまうじゃないか。
身勝手な考え方だとは理解していた。もしくはそれこそが姉の願いであり、最初で最後の、多大なる復讐なのかもしれなかった。でも、それでも私には、姉にまだ言いたいことがたくさんあったのだ。
大学生活がどんな風か。好きな音楽や小説のこと、テレビ番組のこと、おいしい喫茶店のこと、教えたいことがたくさんあった。姉には私を知ってもらわなければ駄目だった。かつて守ってもらっていた、ずっと心配してもらっていた姉には、伝えなければならないことがたくさんあったのだ。
ギブ・アンド・テイクの関係性。貰っていた寛大な想いに、私はまだひとつも返事を返せていない。だから――
「駄目だよ。まだ死んだりしちゃ」
握り、額に押し当てた両の手に祈りを込めた。幸い、発見が早かった。不穏な物音に只ならぬ予感を抱いた私が、姉の部屋の扉を蹴破ったのだ。きっとまだ助かる。絶対に助かる。助からなければならないはずだった。彼女はまだ生きなければならない。他の誰でもなく、彼女自身のためだけに。
救急車のサイレンが近くなる。家の前で停車。救助隊が声を上げながら駆け込んでくる。
気を失っていた姉はすぐさま運び出されて、両親と共に病院へと運ばれていった。離れていく救急車を、留守を預かると決めた私は、姉の部屋からじっと見送る。
伝え足りない想いがあるのだ。
霖雨の中を点滅する赤色灯を、角を曲がって見えなくなっても、私は凝視し続けていた。
普通に恋愛もして来た俺が、風俗のよいとこわるいとこを語るよ。
◇風俗のよいとこ。
・純粋に顔と身体の好みを確認してから抱く女を選べること。店によっては騙されるけど。
・セックスまでの面倒な手間とか相手へのフォローがいらないこと。自分の都合だけでやれる。
◆風俗のわるいとこ。
・愛情や思い入れがないので、粘膜の快感と視覚的な興奮だけになってしまう。金でのつながりはむなしい。
・口説き落とす楽しさが味わえないこと。セックスしそうでしない関係とか、凄くエロくて楽しいのに。
・セックスに対する感覚が麻痺してくる。外見重視で選んでると面食いになる。性癖がエスカレートする。
どっちが金がかかるかって話は、相手によると思います(普通は風俗の方が高く付くけど)。
あと、病気の件も接触人数が多い分、風俗の方が危険そうだけどゴムつけてれば安全性は高い、
恋愛セックスの場合はずっと同じ人と付き合ってればリスクは凄く低いけど、だんだん生でやるように
なったりするので、結構危険。色んな人と短く付き合う場合はリスクは風俗以上になると思う。
あと、風俗ばっか行くと演技が当たり前なのでセックスが逆に下手になると思う。
やる前の興奮は新鮮な相手の方が強かったりするけど、やった後の満足感が違う。