少なくともあの曲を誰かを叩くために持ち出す奴等は「闘わない奴等」なのだ。
呉座問題には興味ないが、選択的夫婦別姓は認めるべきと思ってる個人だが。
俺がリベラルかどうかはさておき、確かにそう思ってる。(というか社会運営上の基本理念の様に思う)
選択的夫婦別姓について言えば、現状別姓は認められておらず、『夫婦で別々の名字を名乗る』自由が侵害されている状態だと考えてる。
その上で
『文化や伝統』を守りたいというのは個人の自由だし、そこはマイノリティであろうがマジョリティだろうが尊重するつもりだよ。ただそれは、あくまで他者の自由を阻害しない範囲でやってもらいたい。
『文化や伝統を守る自由』ってのは本当に『別々の姓を名乗る自由』の侵害無しには成り立たないのか? 選択的夫婦別姓制度が(極端な例だが、"人を殺す自由"を認めた場合の様に)社会に著しい害をもたらすというなら否定するのもわかるし、考えるべきだと思う。だが少なくとも『損なう可能性』や具体的でない『デメリット』のみでは納得感が薄い様に思える。
『理解を示して妥協点を探るべき』という考え方には個人的には共感するし、リベラルが先鋭化しているというのは多分そうなんだろうけどな。
ただ、『選択的夫婦別姓』という考えを『バッサリシャットアウト』しているのは『文化や伝統』を重んじる層ではないのか? この辺卵が先か鶏が先かの水掛け論になりそうではあるが…。
というか保守派は『文化や伝統』に基づけば他者の自由を侵害することもやむ無しと考えているのか? だとすればそれは先に挙がった『リベラルの基本理念』と根本的な部分で相容れない様に俺には思える。『他者の自由を阻害しない範囲』を越えた『自由』だからだ。
君の言い分をまとめれば、「リベラルは『他者の自由を阻害しない範囲で思想信条の自由は尊重されるべし』という理念を守ってないんじゃね?だって保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリ斬り捨ててるし。理念に基づいて妥協点を探るべきだろ」となる。(合ってるよね?)
実際には保守派の理念は『他者の自由を阻害しない範囲』を越えて自由に振る舞うことをよしとするものだった。当然リベラルにとってそれは自らの理念に外れるから、受け入れられない。理念に外れるものを尊重する必要はない。となり、過激な叩きが横行するんだろう。俺の想像だが。
だとすれば(叩きの是非はともかく)リベラルは自らの理念にどこまでも忠実である。とすら言えそう。
という結論にひとまず到ったんだけど、どう思う?
上位者になればなるほど、
各々の “点” は増えるかもしれないが、
一方、上級国民と称される
土俵に上げてみると
血縁という因子により
金銭だけでは無い
ありとあらゆる報酬を
パパの死後まで享受できる。
これは、圧倒的だ。
前者はこの日本社会において
確かに、点は線に比べれば