茨城県石岡市の住宅で今年2月、認知症の母親を絞殺したとして殺人罪で起訴された木内武史被告(58)が、拘置施設で10回にわたり毎日新聞の取材に応じた。自宅での5年にわたる介護生活で困窮が進み、行政やケアマネジャーに窮状を明かさないまま追い詰められて殺害に至ったという。孤立した中高年男性による在宅介護の過酷な実態が浮かび上がった
だしの素飲み干しとけ
https://globe.asahi.com/article/11530020
思うに、民主主義を素晴らしいと思えるかどうかという問題は、他人(もしくは大衆)の理性や道徳を信用できるか、という点につきるのではないか。
もし、他人の理性や道徳が信用に足るならば、投票によって選出された政党や政治家を受け入れることができる。
そして、選出された政治家の理性が十分なら、独善的な政策ではなく、野党とも議論を交えながら政治を行うことができるだろう。
当然、野党となった政治家の理性が十分ならば、建設的な反対意見と与党側との議論により、いわゆる少数意見をある程度なりとも反映する政策を与党側に提案し、説得することもできるだろう。
これは理想。
だが、現実的にはそんなことは成り立たない。
政治の場面では、例えば与党が他者の意見に耳を傾けず独善的な動きをすれば、野党側もヒステリックに反応することで、その対立は時間を経るごとにエスカレートする。
他国のことはわからないけど、少なくとも日本では上述のような理想は絵空事だ。付和雷同の傾向が強く、議論が成立しない日本人にそのような理想ができようはずがない。
そんな歴史的なことを言わなくても、Web上でも片方が極論ともいえるような内容を声高に主張し、他者はヒステリックに反応するか、無視をするという光景はよく見る。とくに現在は、Webなどの発達により意見を主張するハードルが下がっているから、そういう光景が多くなり、両者の間の溝は大きくなるばかりである。
Webの発達した現在では、そのような他人との精神的な溝を自覚しやすくなっている。つまり、他人の理性や道徳を信用しにくくなりやくすくなっているのが、現在なのではないか。
現在のような状況では、民主主義に対する疑問が出てきてもおかしくはないと思う。とはいえ、他者の意見を軍事的に潰すような政治形態は論外だ。