はてなキーワード: 互換とは
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」
2chやTwitterを見てると、あのブログがソニーの回し者であるかのような流れになってるんだけど、何だか違和感を覚えるんだよな。
なので、とりあえず最近のあのブログのPSVITAタグの中からネガティブっぽい記事をピックアップしてみた。
1月だけでこれだけあるわけだが。
PS3の初期もこのブログはこんな感じだったし、ほんとにこいつソニーからカネ貰ってんのか?その辺はどういう解釈でみんな納得してんの?
12月も…と思ったけど多すぎて後半だけで力尽きた。
| 新規 | . | . | マイナーチェンジ | . | . | リメイク | . |
| 赤緑 | . | 1996/2/26 | . | . | . | . | |
| . | . | 青 | 1996/10/15 | ||||
| 金銀 | . | 1999/11/21 | . | . | . | . | |
| . | . | クリスタル | 2000/12/14 | . | . | ||
| ルブサファ | . | 2002/11/21 | . | . | . | . | |
| . | . | . | . | FRLG | 2004/1/29 | ||
| . | . | エメラルド | 2004/9/16 | . | . | ||
| ダイパ | . | 2006/9/28 | . | . | . | . | |
| . | . | プラチナ | 2008/9/13 | . | . | ||
| . | . | . | . | HGSS | 2009/9/12 | ||
| ブラックホワイト | . | 2010/9/18 | . | . | . | . |
次に来るのはなんだろうなあ。
流れ的にはブラック&ホワイトのマイナーチェンジ版グレー(仮)か、
ルブサファのリメイク版カーマインルビー&インディゴサファイア(仮)だろうなあ。
でも、3dsはGBAと互換が無いとはいえ、dsを経由すればルビサファと互換性はあるからなあ。
まったく互換性が無い赤緑金銀のリメイクFRLG、HGSSと比べたらかなりインパクトは落ちるだろうなあ。
いっそのこと第1世代から第4世代までを一本のソフトにまとめるってのはどうだろう?
調べてみると、
と、各世代を2本ずつ入れることは可能だ。
2.2や2.3の更新は専らパフォーマンス向上なので更新されなくて困るというのはどちらかというと利用者視点だなぁ。APIも追加されてるけどこれがないと困るってものは正直無い。もちろん旧版据え置きのものはセキュリティFixのバックポートだけはちゃんとやって貰わないと困るけどね。
開発者視点で言えばAndroidはバージョンごとの互換性がかなり良好なので1.6か2.1をターゲットにしていればまず平気。2.2サポートとかいちいち考えてる人いないと思うよ。2.1ターゲットで作れば動くし。むしろ問題児は3.xで、その流れをくむ4.xも不安の種。
1.6~2.3まではほぼ完璧な上位互換だったのでメーカーもさほど気にせず追従してこれたのだけど、2.3→4.0は構造が大幅に変わっており互換性を保つための機構もあるにはあるがアップデートすると動作がおかしくなるアプリはそこそこ出ると思われる。これは「アップデートしたらアプリが動かなくなったぞ」というクレームに繋がるので、特に日本のメーカーは嫌がる。
断絶感で言うと、1.6がWindows2000、2.1~2.3まではWindowsXPと各サービスパック、3.xがVista、4.0がWindows7、ってイメージして貰うといい。
iOSはiPhone/Touch/iPadだけで下手するとAndroid以上に互換対応が面倒だったりするしメジャーバージョンごとに壮絶な互換性破壊が起こっているんだけど、一斉アップデートなので旧版の一斉切り捨てが可能という点はやはりアドバンテージ。これまではiTunesからしかアップデートできないせいでアップデートしないユーザも考慮が必要だったけど、今後はOTA配信になるのでそれすら気にしなくて良くなった。
逆に4.2に放置されたユーザは今後AppStoreで4.2対応アプリを手に入れることすら困難になっていって涙目だとは思うけど、開発者視点からすればAppleが切り捨てたバージョンは切り捨てて良い(というか切り捨てるしかない)のでやっぱ考え方として楽。
要するに、ソーシャルがうんたらかんたらという話は所詮は一過性のブームで、そのうちゲーム専用機への回帰が始まるよって話。
でもって、アプリケーション開発の中でもゲームソフト開発はかなり特殊なので、一朝一夕でどうにかなるわけじゃないから、この業界でゲームで真剣に生き残りたければ今のうちに準備しといた方がいいよ、みたいな。
つまりスマフォは、「いつでも遊べる」というカードのみで、今後ゲーム専用機と戦い続けなければならないことになる。携帯ゲーム専用機に関してはそれさえもカードとしては強力とは言いがたい。
しかしそんな不毛な戦いを挑むゲームソフトメーカーなど現れないだろうから、ゲーム専用機とは別のカテゴリの娯楽として存在することになるだろう。それは既存のゲーム専用機の領域を「多少は」食うだろうが、果物にたとえるならば皮の部分程度で、芯に到達することはないはずだ。
AppleにとってもGoogleにとっても、ゲーム機能は自社製品を普及させるための付加価値の一部でしかない。だから万が一ゲーム部分と他の付加価値が競合する事態になった場合、前者を優先することは絶対にありえない。対するゲーム専用機メーカーは、自社製品をゲーム機として普及させるためにあらゆる選択肢を模索するだろう。高価すぎるという批判に対応するためにPS2ソフトの互換機能をオミットしたPS3の例や、販売不振を挽回すべく発売からわずか半年で1万円の値下げ(実質4割引)を実行したニンテンドー3DSといった事例もある。
そもそも、「何でも出来る」がうたい文句のハードやOSが、ゲーム専用機にゲーム分野で太刀打ちできるはずがない。
それは「何でも出来る」はずのWindowsのゲーム分野で主導的なポジションを作り上げながら、その市場の小ささゆえにわざわざゲーム機を発売したマイクロソフトが証明してくれている。
WindowsがインストールされているPCなど、世界中に何億台、下手をすれば十億台以上は存在しているはずなのに、ゲームソフトの売上や販売本数ではゲーム機に完全に負けてしまっているのだから。
これらが今後のスマートフォンにも当てはまることは自明だろう。
といったものがある。
いや、あなたの言ってることは合ってるし、自分も基本的に同じことを主張したつもりだが。
を、わざわざ砕いて”リッチなインターネットコンテンツを、非常に簡潔にスマートに記述できる”と文系チックに書いたのに、なぜ、わかりにくいバズワードで言いなおすのか。
そもそも「セマンティックな記述」って意味がわからない。文章の意味構造を記述できるようにして外見と分離する事を指すのなら、それは「非常に簡潔にスマートに記述できる」という事じゃないのか(さすがにあいまいに書きすぎてるとは自分でも思うが)。「実現できることが格段に増えた」事は、リッチなインターネットコンテンツを記述できるって事じゃないのか(意味構造を記述によって検索エンジンに適した情報になるってメリットは、論旨がブレるので書いてない)。
その当たり前の事ができなかったHTML4。HTML5になればできるようになるとでも言いたいのなら、あなたもネットに向いてない。
問いかけてる以上、答えがあるようなので、ぜひ模範解答をご教授頂きたい。「無限の可能性があります」という厨二病な答えしか思いつかない。
ちゃんと書いたつもりけど、代表格は2D描画。あと複雑な処理(クラスのおかげ)。ブラウザ間OS間の互換性。ネイティブなXML処理。プリミティブな音ストリームの操作なんてのもある。
現状、Flashを必要としてるのは何処? 誰?
Flashを必要としてる人なんていないと思ってる。ただFlashの方が制作環境とかも含めて使いやすいから使ってるだけのこと。
いやいやいやいや。iPhoneで表示されない広告に何の意味があるのか。ゲームは一理あるけどFlashは外部コントローラに対応してない。3Dなら現状Unity。一概に言えない。
(ここで言うHTML5はcss3とJavascriptも含めた技術全体の事、逆にFlashはAir等の派生技術は含めないブラウザ上のFlashPlayerの技術のみを指します。)
ウェブに携わる人間には常識だけど、HTML5は何でも出来るスーパーヒーローではない。
どちらかというと、中日の高木とか、ヤクルトの宮本とか、巨人の川相とかの方が近い。知らないやつはググれgoogle:いぶし銀。
HTML5の真骨頂は、昨今のリッチなインターネットコンテンツを、非常に簡潔にスマートに記述できるところにある。複雑な事をすれば凝った事もある程度できるけど、得意分野じゃない(標準APIが機能不足だし、JavaScriptの言語仕様が複雑な処理に向いていない)。
ブラウザだけでここまで出来る、とか、
Flashはもういらない、とか、
ってのは、川相だって筋肉付ければホームラン打てるようになるし清原はもういらない、って言ってるようなもん。宮本にパワーヒッターを求めるのなら筋違いだ。生い立ちも素質も違うのに、どうして代替となりうるのか(プログラムと人間を一緒にするのが暴論なのは百も承知)。
HTML5とFlashにはそれぞれ得意分野があるし、淘汰される形で対立しうるものではない。にもかかわらず、ブコメ見てて、いまだにFlash氏ねHTML5マンセーな意見が支配的なのが痛すぎる。
「ブラウザだけで」というと聞こえはいいけど、何のことは無い。5年くらい前のFlash相当のプログラムが、ようやくブラウザに搭載され始めただけのことだ。Flash は重いとよく言われるが、同じことをすれば(今のところ)HTML5 のほうが重いことが多い。
あと、記事を読むと大概「(どれかの)ブラウザだけで(なら)ここまで出来る(けど他のブラウザじゃ動かない)」って言葉が隠されている。HTML5 の仕様が固まれば全コンテンツが全ブラウザで同じように動くようになるよ!なんて本気で信じてるならあなたはネット向きじゃない。
Flashは互換性の点で優位にある。一社提供で基本的に同じコードを同じ開発者が作っているってのもあるけど、そもそも「どのブラウザでも同じように動く」が、セールスポイント=利益に直結するというモチベーションになるのが極めて大きい。
HTML5 と対立するは Flash ではない、HTML4 だ。HTML4の悪い所を直してHTML5にしようとしてるんだから当たり前。
video対応やベクター描画といった Flash が寡占してる技術の一部を HTML5 が食ってるのは事実だけど、Flash と HTML5 の機能は相補的である。HTMLは文章構造を効率的に記述する目的で生まれたものだし、Flashはタイムラインベースのベクターアニメーションを表示するために生まれた。両方ともブラウザ上でリッチなユーザー体験を提供するという目的に向かって進化してるので、お互いの領土を食い合う形にはなってるけど、生い立ちが違うので得意分野も当然違う。
テキスト表示とレイアウトはHTML5のほうが断然得意だし、2D描画はFlashの方が一日の長がある(私見だけど、HTML5はFlashの描画能力の半分にも至っていないし、Flashのテキスト表示機能はie6のそれにすら劣る、と感じる)。
Flash vs HTML5 という構図は、スティーブ・ジョブスのプロパガンダにすぎない。
ジョブスは訴求力を上げるため、しばしば、対抗技術=「悪」とした勧善懲悪ストーリーを作り上げる。簡潔で力強い言葉にのせて、対抗技術の欠点と自社技術の利点を(時には脚色しつつ)徹底的に挙げていく。対抗技術の利点など無きものとしてしまう。そこには自社技術の欠点など存在しない。
HTML5推しの本来の意図は、ジョブスの声明から推察するかぎり、HTML5であればAppleが開発してるブラウザエンジンwebkitを通じて自らの手でインターネット体験を提供出来るが、FlashはAdobeが開発している技術なので手を出せない(厳密にはFlashはオープンな技術なので自社開発する事は不可能ではないが)という点にある(もちろん、実際は様々な複合要因だと思うけど)。自社製品におけるインターネット体験、という肝心なところを他社に依存してしまうのは許せない、というのは至極真っ当なコダワリだ。Android にユーザーが流れてしまうという大きなデメリットを背負ってまで、iPhone が Flash を載せないことについては、評価すべきとすら思っている。もともと Mac版 Flash プレイヤーのデキの悪さという恨み節もあり、歴史的な経緯による「Flash は重い」という先入感も利用し、衝撃の声明は完遂された。
かくして、勧善懲悪のスーパーヒーロー HTML5 が誕生した。
Flash と HTML5 両方のコーディング経験者であれば判るけど、HTML5はこれまでに比べて簡潔に記述できる事が最大のメリットであって、複雑で凝った事は得意分野じゃない。にもかかわらず、無理矢理 HTML5 で書かれた凄いアプリが「ブラウザだけで!」とか「Flashいらない!」とかセンセーショナルな煽り文句とともに紹介され、もはや冷笑の対象となっている。
もちろん、凄い HTML5 アプリの作者は何も悪くない。未来の技術をいち早く実験/公開して、われわれにその可能性を提示してくれているのだ。そんな彼らを冷笑の対象にしてしまって良いわけがない。
ここまで読んでくれた人ならわかるだろうが、自分は、川相のゴロ捕球からの洗練された送球フォームが大好きだ。いや、HTML5の洗練された仕様と最新鋭の技術が大好きだ。
だからこそ現状を見ていられない。
現実として、Flashは互換性を気にしないで良いがiPhoneで見れない。HTML5はiPhoneで見れるがブラウザ間の互換性が問題となる見通し。
何が幸せなインターネットの未来なのかわからないけど、今の HTML5 vs Flash という構図は、不幸な方向に向かってるように見えてしょうがない。
今回触れてない話の1つにセキュリティ/バグ関連があります。議論の余地のある話ですが、個人的にはどっちもどっちだと思ってます。
あと、巨人末期の清原は本当にもういらなかったかという話があります。議論の余地のある話ですが、個人的にはどっちもどっちだと思ってます。
とぼくはおもう
注意しなければならないのは、IT系と一口にいっても、サブジャンルは腐るほどある点だ
Joel Spolskyは5つに分けていた
ソフトウェア開発には、しばしば交わっているがたいていは分かれている、5つの世界があると思う。その5つとは:
http://local.joelonsoftware.com/wiki/5%E3%81%A4%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C
そして、これらのIT企業が、最先端のシステム開発をしているかというと、そんなことはないのである
ファイルサーバに空き容量が無くてローカルに退避する作業に一日費やしたりする
「打ち合わせご希望日を添付のエクセルシートに記載の上ご返信ください。なお、ファイル名は”社員番号_指名_記載日付”の形式でお願いいたします」
ほとんどの現場が、方眼紙状にしたエクセルを印刷して、判子をつく(客の都合でもある)
そんな作業ばかりしているし、本質的なコーディングの作業は1割もないのだ
夢打ち砕かれ
http://anond.hatelabo.jp/20070831005830
俺は80文字×32行の緑文字を見つめながら、遠い夢を見続ける。
今まで出来ないものだと諦めていたが先日ついにできたので備忘録として書き留めておく。
【環境】
Win7 Pro 32bit
WinVista HP 32bit
※恐らくWin7、WinVistaであれば何でも出来る。
GW-US54GXS
【大まかな流れ】
・無線子機(私の場合GW-US54GXS)のドライバ環境を整える。
・あとは普通にKaiをやる。
【はじめに】
・今まであったすべての接続方法で出来なかった人が対象である。
【やり方】
①http://www.planex.co.jp/support/download/wireless/gw-us54gxs.shtml
ここから「ドライバ・ユーティリティWindows Vista/XP/Me/98SE版」をダウンロード。
※※理由:ドライバ・ユーティリティWindows 7版にはPSPXlinkModeプロパティがないためKaiが出来ない。
②展開後、中にあるインストーラのプロパティから互換性→Windows Server2003(SP1)、管理人モードで実行をチェックしておく。
③無線子機を接続する。このとき勝手にドライバをごちゃごちゃやり始めるがすべてキャンセルする。
※これ重要。
④Windows+Breakキーでシステム画面を開き、デバイスマネージャを起動する。
⑤開くと自分の無線子機の名前があると思うので右クリックし、「ドライバソフトウェアの更新」をクリックする。
⑥「コンピュータを参照してドライバソフトウェアを検索します」を押す。
⑦先ほどインストールしたフォルダの中の「USBIrv」(うろ覚え)みたいなフォルダを参照させる。
⑧更新が終わったらデバイスマネージャ上の無線子機を右クリックし、「プロパティ」をクリックする。
⑨「詳細設定」→「PSPXlinkMode」を選び、「Enable」にする。
⑩ネットワークと共有センターを開き、Win7:アダプタの設定、WinVista:ネットワーク接続の管理を押す。
⑪PSPのアドホックを1chに設定して、オンライン集会浴場に入る。
⑫⑩で開いたところに無線子機のアイコンがあるので右クリック→接続からPSP_AUL……を選び接続する。
あとは他の入門サイトにあるようにkaiを起動してください。
定義としてはこんな感じ。
行動がリアルにフィードバックされるならHNでも実名界の住人(例えばpixivの絵師やニコニコの動画投稿者)で、実名でも中身が伴わず炎上でアクセスを稼ぐしか能がない人間は匿名界の住人。
既になっているという突っ込みもありそうだけど、それ以上に「日本のネットでは実名なんて流行らない」という声が大きいと思う。
匿名界からは既に自ら価値ある情報を作る能力のある人が失せつつある(自ら文章を書くテキストサイトの血脈が絶え、2chまとめブログが隆盛していることがその最もたる証)。
実名界からネタを引っ張り、他人の作り上げたものを無断転載したり、記事を悪意的に捻じ曲げて拡散して小銭稼ぎする程度しかできていない今、いつか実名界側から拒絶される日が来ると思う。
実名ネット社会が可視化され、非実名ネット社会、匿名界全てが2ちゃんねると同等の、アングラで低湿なコミュニティだとみなされる日が。
2000年代のテキストサイトはまだ自ら価値ある文章を作り上げていたために、その後ライターへと転進する道もあったが、今の匿名界ではいくら努力して上り詰めてもPV乞食以上のものにはなれなさそう。
ネットがネットとして魅力があった時代が終わり、リアルのサブセットに過ぎなくなったとき、誇れるリアルを持てない人間は、他人の足を引っ張ることに生き甲斐を見出すスラム住人に成り下がるような気がする。
同じ人が両方に属しててもいいだろ。
説明不足だったけど、実名界と匿名界とは住人が分かれるわけじゃなくて、「自己の価値を高める場」と「掃き溜め」とが完全に分断すること。
twitterでは価値のあるものを作り、ポジティブな意見に評価する一方で、2chでは何も作り出さず、無断転載だけして、ネガティブに貶すという使い分けは今でもあると思う。これが加速するとどうなるか?
実名界はより価値のある場になり、匿名界はさらに価値のない場所になっていく。
排除なんてするまでもなく、無価値で見向きもされなくなると思う。
両方に属せる人はそれでも救われる。リアルに拠り所がない人間は、無価値化した掃き溜めで生きていくしかないんじゃないだろうか。10年後にはそういう時代が来ると思う。
お前の言う「実名」と過去に主にマスメディア出身者がネットで主張していた「実名」ってのは全く違うぞ。
お前の主張では名前はweb上での言動、表現物に紐付ける識別子だが
過去主張された「実名」はマスメディアで認知されている通称は認めるが原則は戸籍上の名前って意味だぞ。
雑多に考えごとをアウトプットしたせいで突っ込みどころ満載で悪いけど、たしかに実名界匿名界って区分はあまりよくなかった。
ただ既に直接「戸籍名」は使わなくても、「識別子」を「戸籍名」と紐付けしている(そして晒されてしまう)人は増えてる。
言いたかったのは「匿名の人間に人生を暴かれる恐怖があるから名前を隠そう」という今の常識が終わり、「実名を出して活動した方がメリットがある」というパラダイムシフトが起きたら…という話。
「識別子」で活動してる人間はそこに経験値が蓄積されるし、もともと実名社会で影響力を持っている人間は匿名社会でも通用するけど、匿名社会だけで生きた人間はずっとLv1のままだよね、っていう。
まとめブログが隆盛って言っても、元の文章を書いている人は確かに存在しているわけよ。しかも匿名で。「匿名界からは既に自ら価値ある情報を作る能力のある人が失せつつある」はどうだろう。
まとめブログが転載している元の情報のうち、価値のあるものはほとんどが既に「識別子」で公開されてるものだと思う。
ニュース記事やpixiv、雑誌を無断転載したネタ、twitterの揉め事、海外の優れた考察なんかに対して、「匿名」の住人があれこれ突っ込んでいるだけ。
既に「匿名」にて意見を表明したり、作品を発表するメリットはない。影響力の発揮という点でもtwitterの拡散能力などに劣っていくだろうし、何よりネガティブだったり、多ID工作で誘導できたり問題が多すぎる。
ただその問題の多さは、雑誌やpixivの無断転載を「2chからの転載」とソースロンダリングしたり、罵倒や個人攻撃を「匿名社会の世論」とすることで免責するメリットでもあり、そのためだけに活用されていると俺は思っている。
自分の観測領域だけでモノ語りすぎじゃねえの?2ちゃんねらーにだってモノ作り出す奴もいるし、Twitterだって引用なのに自分の発言のごとくツイートしてふぉぼられるような奴もいるし。
狭い観測範囲で語ってるのは否定しないが、2chにもモノを作る人はいないと思っていない。大体、匿名ダイアリーに書くのが好きな人間にその感情が理解できないわけがない。
ただやがて減少傾向になっていくと思う。
理由は2点。まず人は批評に耐えられるほど強くあれない。まして匿名で罵詈雑言を受けてしまうと創作意欲が失せてしまうだろうし、調子に乗った「お客様」発言を咎める人間もいない。
「修正が遅いから、他の誰かが互換ソフトを作ってもいい」そんな何気ない一言がMMDを開発終了に向かわせたように。
もう1点。マイノリティを排除したがる今の2chの風潮。大多数が「嫌い」「オワコン」だと主張したモノに対しては言わせておくしかない。擁護すると「社員だ」「工作だ」などとレッテルを貼られるのがオチだ。
「自分の好きなモノを貶す人間は許せない」ならまだ分かるが、「自分の嫌いなモノを持ち上げる人間も許せない」という人間が非常に増えたんじゃないかな(これも観測範囲の問題だと言われそうだが)。
粘着質な少数に嫌われてしまうと何をやっても叩かれてしまうフィールドで作品を発表する価値はないし、作品を発表する人たちは現実側に軸足を置く人間のみ相手にするようになっていくと思う。
そういう例として、非モテタイムズ暴言事件におけるソラノートや、キメこな騒動におけるカオスラウンジがある。彼らは匿名側の非難を受け続けているが、それを無視して現実側で活動を続けようとしている。
そしてその結果、どうなるかはまだ分からない。ただ、俺には何も―匿名の住人が渇望するような因果応報は―起こらないんじゃないかという予感がある。
個人的にこの2つの事件が、匿名側の影響力が失墜し、実名側の発言力こそがモノを言うようになる第一歩なんじゃないかと思っている。(もっと以前からあったのかもしれない。炎上には大して興味がないので引き出しがない)
やがて現実に影響を及ぼせなくなった匿名側はより弱い人間を狙い、学生のショボい罪を粗探しし糾弾し、個人情報を祭り上げて鬱憤を晴らすような集団になるんじゃないかなとも。
どうして理解出来ないものごとを排他するように動くんだろう。そんなに気に入らないなら無視してしまえばいいのに。
やっぱりあれかな、場の空気感とか、一体感とかそういったことから得られる一種の興奮が心地いいのかもしれないなあ。
赤信号をみんなで渡るって行為は、それが何かしらの抵抗を意味することであり、同時に大きなうねりとか攻撃性というものへの帰属を促してくれる。
自分の外側も内側も同じ方向性に偏って、どんどんどんどん加速していくと、たぶんすごく楽しくて満ち溢れた気分になれるんだろう。
アドレナリンが分泌されて、脳が冴え渡って。そことわたしとが同調してしまって無限の広がりを持つようになるのだろう。
それらの主成分はおおよそ喜怒哀楽であり、感情的になることによって意図されたパニック状態に突き進むのだ、きっと。
わたしなんて主観はとっても儚いもので、いとも容易くわたしの中にある、わたしの外にある感情に、衝撃に、絶えず揺り動かされてしまっている。
フィードバックは間断なく行われており、なるほどこのような視点で見る限り、わたしというもの、ないしは人格というものがとても精巧に組み上げられたソフトのように感じられる。
そのソフトの動かすために必要なハードこそ肉体であり、人類はいまその主要な部品であるものどもを子細にいたるまで検分創成しようと試みているわけだ。
だから人間でない人間は、いつの日か創り出すことができるのかもしれない。神様じゃなくても、大丈夫なのかもしれない。
遺伝子って何なんだろう。どうしてあんな四つの塩基に支縛られなくちゃ駄目なんだろう。
先天的に結果が生じている問題に原因を求めるなんて愚の骨頂だけど、どうして生命は子孫を残そうとしているのか、次世代に種の存在を繋げようとしているのか解せなくなる時がある。
どうして進化なんてしたんだろう。どうして生命は死ななければならないんだろう。最初から死なんていう絶対的な区切りがなかったよかったのに。
そうすれば今にいたるまでふよふよとした蛋白質の塊のまま海中を漂っていたはずなのに。どうして死なんてものが存在しているんだろう。どうしてわたしは死ななければならないのだろう。
いや、わたしは死なないのではないだろうか。この世の中にあまた存在しているわたしというソフトウェアには、死というものから解放されているのではないか。
だって、ソフトウェアは途切れることしかしないから。強制的にシャットダウンすることしか無いから。それが死というものなのらしいけど、いまいちパッとしない。
死ってなんだ。そして気がついたけど、肉体って本当にハードウェアと換地して考えていいのだろうか。筐体は一体何と互換されるべきなんだろう。筐体こそが肉体を指しているんじゃないのかな。
ふむ。筐体が血肉で、遺伝子の並びがハードウェアで、わたしというものがソフトウェアなんだろう。
でも、そうだとするならば、人間ではない人間の血肉は後天的に生まれたことになり、何よりも先ずハードが揃っていなければならないということになる。
それが人間だ、機械とは違うのだというのならば、そのとおりだと首肯せざるを得ない。
いくらだろうと「高いんだよなあ」と思う人は大勢出てくる。
Wiiを高いと言ってた人ってそんなにいたっけ?
つーか何故そんなに必死なの?
いやいやそれはこっちの台詞だよ(笑)。絡んできたのはそっちじゃん。
どんな機能だろうが無いよりはあった方がいいし、先行してるライバル製品に普通に搭載されてる機能なのに、何年も後出しの製品に無いとお得感が薄く感じるのは当たり前の感情でしょうが。XB360なんて発売は2005年の年末だよ。WiiUが発売される頃には7年差位になってる。
XB360もPS3もDVD(PS3はBDも)が再生出来て三万円切る価格を実現してるんだから、後発の機種が搭載しないのは目に見えるマイナス点だよね。「WiiUはDVDもBDも再生出来ます!なのでもうXB360もPS3も要りませんよ!」位の事をしてくると思ってただけにね。
それを「再生環境はもう十分普及してるから敢えて搭載しない」なんて強引な理由付けしたら、「じゃあゲーム機能も他機種が既にあるからWiiU要らないじゃん」と言われるのも仕方無いだろうに。同じような理由でPS2互換を切ったPS3が当時どれだけ叩かれてたかくらいは知ってるだろう?
逆に言えば、DVD/BDを持ってない家庭には売る気は無いって事でもあるけどな。
現状の仕様では、「純粋にWiiUでゲームを遊びたい人」以外には訴求力無いも同然なわけだし。
ちょうど少し前にこんな増田を見つけた。
http://anond.hatelabo.jp/20110622133653
任天堂が来年あたり発売するらしい新型ゲーム機「WiiU」はDVDとかBDの再生機能が無いらしい。
それに対するネット上の反応を主にTwitterとかで見てると、4年前にPS2互換をオミットした新型PS3(いわゆる40GB)登場の頃を思い出す。
「○○なんて今時どこの家庭にもあるんだから、敢えて搭載せず低価格を優先するのは正しい判断だ」
○○に入るのが、WiiUでは「DVD/BD再生環境」、PS3(40GB)では「PS2」。たったそれだけの違いでしかない。