はてなキーワード: 訃報とは
いや、友達と言っていいのか。
彼は僕を見下していたと思います。
音楽の道を志していた彼は
僕のことを格下かつ、何の志もない奴と見ていたと思います。
僕は自分が目指しているものについて彼に語ったことはありませんでした。
話をしながら帰る暗黙の了解があり
自分より格下かつ自分の交友とかかわらない無害な人間にだけ出来る話です。
彼のとんでもなく長い妄想の話、
そして彼が、音楽で身を立てる目がないとなったら自殺する心構えであること、
色々聞かされました。
自殺の構えについては「すごいね!いよいよとなったら最後に電話で心境などを聞かせて」と予約しました。
彼は出くわすたびにだんだんと情緒不安定になり、僕と話す時はいよいよ躁状態でした。
またしばらくしたある日、ニヤニヤした彼が「いい自殺の仕方知らないか」と尋ねてきたので
更に半年ぐらいして
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「夢破れたなら死ぬしかない」という死の動機は、これは止めても仕方ないとわかっていました。
それともたまたま車にでも轢かれたでしょうか。
命日は覚えていませんが
花岡という故人の行状や評価を含め
元のブックマークの文脈はしらんけど
agricola あほか
俺は「あったのではないか」と疑問点を指摘しただけで、あったと断言はしてない。人のブコメを改竄してタイトルに持ってくるとか、おまえは産経の記事書きか。
2011/05/16
問題にされてるのは
人の訃報に「落ち度」とか「(嘲」とか言うてることであって
踏み止まるなら「この花岡って奴はこう言われて仕方の無い奴なんだ」と毅然と説明するしかないし、
撤回するなら「興奮しすぎました、口が過ぎました」とスッパリ詫びるしかない。
故人を嘲るような発言が悪であるのを中途半端に認めてしまいつつ
こういう人がいるのは仕方ないと思うけど
こういう人のモラルや脇に隙間がありすぎるコメントに無用心にスターつける人がたくさん居るのもどうかと思う。
自陣営にこういう人が居たら敵よりも警戒しないといけないよ。
知っているということが
それが、すなわち、あらゆる生命なんだ
何かを残してくれただろうか
残してくれていただろうか?
おじいちゃんは、紛れもなくおじいちゃんだったのに
彼らがいなくなってしまったことで悼んだのかすら覚えてはいない
オレは決して、哀しみでは泣かない
涙は絶対に流れない
絶対に、いったいどれだけ哀しくても、決してない
くやしさや、いかり、この世の無情さ、また誰かのいたみに涙することはあっても
自身が哀しくて涙をながせることであれば、うらやましくすら思う
それで少しでも楽になれるのならな
命ってなんだ?
彼女や、おじいちゃんや、お世話になった友達のおかあさん
いまでも思い出のままだ
言葉を交わしながら、思い出の中にいるようなものだ
世の中には、無数の心があるが、その終わりは誰もわからない
あらゆるふれあいが、いったいいつ終わるのか、当人たちもわからないのだ
オレの周りには大切な人が何人かいて、大切ではない人ももちろんいて
そのいずれかは既に終わっているかもしれない
それが生命の終わりとは限らないが、
会いたいのに、会えないということは、数え切れぬほど転がっている
みえるだろ
まだまだたくさん、会いたかったのに、もう会えない、二度と
まだまだたくさん、話したかったのに、話すことはもうできない
いや、話すことはできた
できたにもかかわらず、しなかったことが続いていくうちに、
気づけば終わっているんだよ
終わるだなんて思っていないんだから、そういうこともある
責められやしないよ
でも考えてみろ
世の中には、会うことだってできるのに、会わないこともあるんだよ
まだ会えるのに、もう会わないこともある
まだ話せるのに、もう話さないことだってある
いつ、片方が死んでもわからないだろ、そうだとしても、
しない、だから哀しむことすらできない形もあるんだ
目の前にいても、いなくても、同じなんだよ
だから、じつは、死ぬためには準備が要る
考えれば当たり前のことだ、人間は生まれたときから死にはじめてる
充分な準備をおえて、さあ、死ぬぞとはいかない
大切にすること、いかに美しく生きるかというところにその準備があたり
彼は、その点、オレにとって美しかった
彼はしんでしまったのだ
ほんとうに
いってしまった
ほんとうに
知ったのは一週間とすこし前だが、
彼は本当に、オレにとって美しかった、ただの一度も
もし彼に準備をする余裕があり
オレがその準備に応えることができるとしたら?
頼むから
ありがとうと言わせてくれ
でもそれもできなかった
誰もできなかったのだ
でも、残されたものもある
卒業してから疎遠になってしまったことを悔やむのは、やめにしたい
言いきれなかった事を並べたてるのは、やめにしたい
後悔するのは失礼な気がするのだ
オレはなくなった心をむやみに肯定するようなことは
人の誇りを守るという意味で、なにより大切なことだと思っている
誠実さなしには何も誇れないのだから
それでもとにかく彼はいなくなり、
学生生活のように日々を共にしているわけでもなければ、
お互いがお互いの生活をもっているいまとなっても
かなしくて
かなしくてしょうがないのだ
彼がしななければいけない理由も、
どこにもないのだから
それなのにオレは、普通に笑いはするし
食事もすれば、お酒ものむ
誰かを笑わせることもできるし、他の誰かのために哀しむことだってできる
一体オレはどこまでおもしろくなれるのか、試したくらいだ
日々を越えて、お墓の前に立ち、目の前をくもらせながら
何を祈ればよいのかもわからない
彼のための思えばよいのであれば、それは日々だ
何故かなしいのに、笑えるんだろう
自然体って、なんだっけ?
これは書くべきではなかったのかもしれない
でもこれが、もし届くならば、もし未来のオレに示すことができるならば
彼女や、おじいちゃんのように、悼んだことすら思い返せなくなってしまったとき
何かがよみがえるならば、オレにはこうするしかない
帰り道、いよいよ現実感を失いながら、日常に戻るための努力をした
ユニクロで買い物をしながら、袋をもって、歩いて家に帰る
涙がながれていることをのぞいては
教えてはくれない
ただ、そこにあるのだ
いや、元々ないのかもしれないが、
それでも美しい思い出は残る
そして、これから先いつの日も、我々は誰かにとっての彼であるように生きるのだ
それがおそらく生命だろう
呼吸は関係ない
彼女は自分が仲間と運営していたサークル会員の一人で何年か一緒に行動していた。
知識や行動力がずば抜けているうえに、笑顔が絶えない人で、
私を含む主催者の手が届かないところまでフォローをしてもらっていた。
しかし、団体で行動しているときとは違い、
いざ、二人きりになったときに話が続かないという人だった。
理由はいくつか思い当たるが、簡単にまとめれば、
お互いに認めている部分はあっただろうけど、どこかしら疑ってしまう部分が
あったのだろうなと今となっては思う。人というのは難しい。
2年半前に一身上の理由で運営から手を引いたこともあり、彼女と連絡を
とることも消息をしることも全くなかった。普通に元気でいるだろうと思っていたので
思い出すことも全くなかった。訃報が入ったのもサークルの仲間を
二人通してのことである。そういう意味では薄いつながりである。
それでも一緒に笑って一緒に感動した仲間が突然いなくなるというのは、衝撃が大きいうえに
めずらしくない病気という形で失ってしまうのは、
自分たちの後ろにも「それ」がひそんでいるのではないかという暗い何かが覆いかぶさってくる。
若い頃にはおそらくなかった暗さであり、重さである。
その暗さや重さについて考える。
20代のころは光の向こう側にある「未来」に突き進んでいた。
突き進む自分には将来への不安という影がまとわりついていたけど
しかし、30代後半という時期に足を踏み入れるとその光は弱まり
まとわりついてくるのは不安という影ではなく、「老い」という現実である。
それに立ち向かえる武器を今はまだもてていない。
そんなへタレな自分であるけど、立ち向かうことなく人生を終えてしまった
彼女の分まで生きて戦っていければ此れ幸いと思う。
友人の母さんが亡くなったって仲間内からまわってきた。
突然サークルに来なくなり、しばらく自分もサークルから離れており、最近戻った所でその訃報を聞いた。
数週間たって実家もいろいろ落ち着いたらしく、またこちらに帰ってきたらしい。
らしい、というのは本人と入れ違いになってしまったからだけど。
そういう時って後から聞いたひとはどう声をかければいいんだろう。
メールアドレスは知ってるけどそこまで親しいわけじゃない。
ましてや故人を知っているわけでもない。
だけど母親を喪うっていうのは私にも共通する悲しみで、痛みだと思う。
わかったような口を利くのもいやだけど、何も声をかけることができないのは寂しい。
でもメール画面を開いても、なにを打てばいいんだよっておもってしまう。
電話しようと思っても、なんて声をかければいいんだよっておもってしまう。
きっとあの人は普通にその事は話題にせずに、いつも通りにするんだろうな。
復帰1回目もたった一言事実を述べただけで、後は普段通りだったみたい。
そういうひとには、お悔みというか、その話題に触れないのがいいんだろうか。
放置するのもまた優しさって本当?
それとも、そもそも亡くなったってことをしらないふりでいた方がいいのかな
でも知らないふりなんてできないよ…だってそれって、凄くだいじな人の話じゃない…
その訃報を聞いたとき、それはもう驚き取り乱し愕然とし、脳内ではなんだなんだよくわからんぞと変な警告まで出だしたが、
はたとその事実に行き着く瞬間があった。
好きだった人が死んだ。
勿論、あまりのことに一人とんでもなく号泣したわけだけれど、それを誰かと共有しようとは思えなかった。
他人の死を引きずることをよしとしない、わけではない。
まあ簡単な話、怖いのである。
そう何度も、私の中でその人を殺せなかった。
他人の死を共有し、共有した死によって涙が溢れ、悲しいね悲しいねと言い合うというのは
決して悪趣味ではないと思うし、その儀式めいた行いは大事にされるべきだとも思う。
悲しみは連鎖されていく。悲しければ泣かなければいけないと思い出させてくれる。
人は共有して始まるんだ、とちょっと感動さえする。
でも私はすでに一度、一人で大泣きしてしまっていた。
あんな辛い思いを抱えてあと何度も、見しらぬ人たちと涙を流さなければならないのかもしれないと思うと
私はその恐怖に耐えられない。
死を何度も受け入れ、何度も涙を流し、何度も悲しいねというのはただひたすら辛い。
だからだろうか。
その人の話題を出されても「信じられないね」だとか「本当にびっくりだよ」だとか
そういう曖昧で先が続かない言葉を口にして、どうにかその場を凌ごうとしてしまう。
もし私が一言でも「なんで」と言ったら、それが引き金となってその場が涙の海にのまれるかもしれないのだ。
私の中でまた、その人が死んでいくかもしれない。
殺したいはずもないのに。
そうして、かわして、かわして、と続けていくうち
その態度のせいか、他人からはこう言われるようになる。
「本当は悲しんでないよ、絶対。もう忘れちゃったんだよ。薄情な奴」
確かに、薄情なのかもしれない。
そしてなにより臆病なのかも。
一度しか受け入れられない私は、薄情で臆病なのかもしれない。
でも私は、悲しみに暮れながら、冷えた涙を流すより
その人の歌声を聴き、魂が震えるような音を聞きながら、ただただ圧倒されるように涙を流したかった。
その涙に、悲しみはいらない。
その人が創り上げるステージ、そこに付与する涙こそ、共有するに最も相応しいもののように思える。
近く献花式がある。
またいつか出会うであろう、その人の歌声のために、二度目の涙は取っておくのだ。
たとえ薄情だと罵られ、臆病だと自負しても、それだけは変わらない。
安らかに。
なんか森毅の訃報の後で変なコメントがつけられて、また本人によって削除されているんだけど↓
http://anond.hatelabo.jp/20100727065732
あんたも気楽な人間だな。
http://anond.hatelabo.jp/20100727065911
こう言うのはただ読めばいいんだよ。何突っかかってんだ?
自分の冴えない人生を森毅のせいにして「森毅の火傷にざまぁみろと思う」って一生懸命恨み言書いたのにあまり賛同してもらえなくて、それで恥ずかしくて消した筈の文章を再掲されるのって、まあ、確かにきついよね。
嫌な先生だった。
そのくせ親に対しては良い所を見せる演出ばかりしていた。
俺はこれまでの学生生活全てを含めてあの先生が一番嫌いだった。
その先生が自殺したとの訃報が、かつての同級生から伝わってきた。
動機は様々な噂が錯綜していて定かではないが、方法は首吊りだという。
学生時代、いつも「死ねばいい」と怒りと怨みを込めて念じていたし、
同級生と文句と悪口を言い合えば、それだけ数時間は過ごせるほどだったし、
一時などあまりにも憎悪が募りすぎて、本気で殺害計画を考えたこともある。
その先生が死んだという。
なんという良い報せ。
心が躍った。
これは葬式に参列して、是非とも死に顔を拝まないとな。
連絡があった翌々日、教えてもらった場所に赴くと、けっこうな参列者がいた。
同級生の面々が少なからずいた。
みんな沈痛な表情で、中には涙ぐんでいる者もいた。
共に先生の悪口を言い合った奴も泣いていた。
どうせこの場ではそんな風にもっともらしく涙を流せるし、死者を悼む言葉もでるが、
本心は違うくせに、後になったら散々悪し様に罵るくせによぉ、と鼻で笑いたくなった。
俺は線香をあげるべく棺の前にいった。
こんなに小さく、みすぼらしかったっけ?
俺の脳天を定規で叩きまくってくれた手は胸の上で組まれていて、皺だらけで、何も傷つけられそうになかった。
拝んでやろうと思っていた死に顔は萎んだ干し柿のようだ。
なんだよこれ・・・。
誰だよこいつ・・・。
腹の中で嘲笑ってやろうと、あの頃の怨みを晴らしてやろうと、そんな考えでここにやってきた筈なのに。
悲しくなった。
合掌を済ませると話しかけてきた同級生を無視してそのまま自宅に戻った。
それで今、この文章を書いてる。
決して心から悼むことも、死を惜しいと思う気持ちもないけれど。
最後に一つだけ言いたい。
先生、どうか安らかに眠ってください。
先日、私の叔父にあたる身内が亡くなりました。
彼がどういう理由で死んだのかとか、そういった事情は私には分かりません。
ネットで、よく「死にます」「自殺します」って書き込みやそういった内容のものが昨今増えておりますが、
「本当に死のうとしてる人は何も言わないよ」という事を言っている方が私の知り合いに居ました。
今回本当にそういう場に直面したのは初めてなので、「ああ成る程な」なんて思ってしまいました。
私の叔父は、いつも元気で、偉そうって言ったら語弊はあるけどとにかくすごく元気な人でした。
その一方で彼は自分だけで色々と抱え込んでしまう一面が有ったというのを亡くなった後に聞きました。
「昔からそういう性格なんだよなあ」と母は言います。
彼は遺書を身内に宛てたものを残したそうです。
彼の母、つまり私の祖母宛には書けなかったという話を聞きました。
遺書には今まで家族に言えなかった事が沢山書き綴ってあったそうです。
「声に出して言えば良いのに」
「なんでもっと話を聞いてあげられなかったんだろうね」
なんて事を母と、私の叔母にあたる母の妹と、そして叔父の最愛の妻と泣きながら話しあったそうです。
私はつい先日まで、実感のないまま外で泣いたりしてました。
ちょっと話は逸れますが、彼の訃報を聞いたその日に、不思議な事が起きました。
私が下校して帰路に向かってる最中、バスに乗っててちょっと泣きそうになったときに、私の頭上から涙くらいの水滴が落ちて来たのです。
あれが偶然だったのか否かは分からないけど、私は、なんだか彼の涙のような気がしました。
一昨日の夜に、「会いに来たら?」と母に言われたので、最初は課題もあるからどうしようか悩んでたのですが、行く事にしました。
会いに行く時に大雨がざあざあ降ってて、まるで親族の流してる涙のような気がしました。
亡がらを一目見て、叔父の妻から昔話を色々聞かされて、いっぱい泣いて。
ああもう本当に目を覚まさないんだなあとここで初めて実感をしました。
昔の写真なんかが沢山置いてあって、「この格好可笑しいよね」とか「若いなー」とかそんな話を棺の前でしてました。
「なんか会話に混ざって来そうだよね」
「何話してんのーとか言ってさ」
と親族は口を揃えて言うのです。
私の叔父にとっては40数年と数ヶ月という短いようで長い長い年月に蓄積した不満やストレスがどれほどの物かなんて計り知れません。
人間が、自分の心にとどめている事は誰かに伝わるわけないのです。
どんなに言いたくても言えない事でも口にしたり、文章に起こして初めて伝わる事がいっぱいあると思います。
私は創作をしている1人なのですが、以前物を作る際に連絡が行き届かなくて大変な思いをした事があります。
これが趣味ならまだ良い(わけじゃない)ですが、社会に出たらとんでもないミスを招くやもしれません。話が逸れました。
人は一人では生きて行けません。
誰かに辛い事を打ち明ける事、聞いてもらう事ってやはり大事な事なんだと思います。
どんなに明るく振る舞っていても、何を考えてる何てその表情から読み取れる人間なんて居ません。居るかもしれないけど。
彼氏彼女や夫婦だからってその人の全てを知ってるわけじゃないでしょうし。
私なんかまだ21年と数ヶ月しか生きてないから、これから起こりうる社会の荒波なんか分からないけどね。
私たちが、生きてる遺族が出来る事って何だろう。
「親より早く死なないようにね」というのが私のすべき事の一つです。
原稿は落とさずに済んだのかな? お疲れさま。
これって、葬式自体に価値を感じれないのかな。それとも、他の誰かの葬式だったら、仕事なんか放って出るのかな。そのどちらかで変わるんだけど。
前者だったらそれぞれの価値観だから自由だけど、母親とかに分かってもらうのは難しいよね、って話かな。
後者でも私はやっぱり、亡くなった方との関わり方は人それぞれだから、どんな感情を持っても自由だと思うけど。
私はおばあちゃんが亡くなった時、ある事情で訃報を知ったのが2日経ってからになってしまい、その時にはお通夜にもお葬式も終わっていた。おばあちゃんのことはずっと一番大好きですごく仲良しで、今でもおばあちゃんのことを思い出すと涙が出てくる。本当に。
今もし、もう一度おばあちゃんが死んでお葬式があったら、何があっても駆けつける。ずっとやりたかった仕事で、いつも必死でやっている仕事だけれど、それでも一生仕事が出来なくなったとしても構わないから、とにかく葬式に出る。
一方で──。私は父が亡くなったのを知ったのも、ある事情から半年後だった。弁護士から送られてきた紙に、逝去って書いてあった。私は読んでも何とも思わなくて、そこでは葬式に出れなかった事実にすら気付かなかった。まあ実の父だし、何の恨みもないので、もちろん出た方がよかったとは思うけれどね。ただ、仕事があったらそっちを優先してただろうと思うなあ。
あなたはお父さんのお葬式でも、おばあさんと同じように思うかな? それとも、お父さんのお葬式は出たいかな? どうなんだろう。
でも、どう思っていてもいいんだろうな。大事なのは、倫理的とか常識的とか何とかいう言葉と関係ないところにある自分の正直な感情で、それは否定したらどうもならないから。最後の土壇場で自分を強くしてくれるのは、本当に自分の中にある何かだけだしね。
って、読み返してみたら、ちょっとあなたの言いたいこととズレてしまったね。
私が私に言いたかったことを、ようやく言えただけなのかもしれません。ありがとね。
「水で濡らしたマークシートにきざみのりをふりかけるだけで東大合格」の著者、
二進法では100万歳でした。
ホッケーさんは43歳の春に25年勤めた
アサリの殻むき工場を退職するとともに、地道な生活に見切りをつけ、
メキシコ人専門のパブ経営、不思議なゼリーの販売、新種の微生物の養殖、
蚕オーナー商法の代表、新薬「ブレインすっきり」の開発・販売と
職を転々とした後に作家となり、5年前には「ヘソをほじって嗅ぐ奇癖が治る」で
第一回野村ホッケー賞に輝き、「きざみのりで東大合格」がベストセラーになるとともに
丸亀ジェル吉さんは、突然の訃報を大量のブレインすっきりの在庫の山の中で聞き、
「ホッケーが死んだと聞いて一番驚いたのが他殺じゃなかったこと」と
早過ぎるターゲットの死に拳を握りしめていました。
http://twitter.com/haineken/status/5913007147
愛されてない人の訃報デマゴギーは日常茶飯事!いつtweetされてもそれは全然迷惑でもなく当然の当然の処遇!!
(風のお便り的に)いつ殺されてもおかしくないと思われてる可能性があります!特に愛されてない方!!
注意が必要です!!今のうちに人徳を稼いでおきましょうね!!!
あと松村本人以外はいつ訃報デマがくるか分かりません。why?→愛され度計測のため!心の準備をしておく必要がありますね!!
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/haineken/status/5908792665
http://twitter.com/haineken/status/5913609751
人が倒れてるのにpost出来るほど人でなしじゃありません。
人が倒れてるとこをtweetしたら人でなしですよ!!
野次馬根性の先鋭化されたtwitter民は気を付けてくださいね!!!
因にこの「賭け」。ワタシは物心ついてから1度も勝った事が無い。
3年前は要するに文字通り「記録的な惨敗」であったし(笑)
2年前は殆ど空振りである。まぁ、数人がワタシを慰めてくれてた感じ。
1年前は前代未聞のボイコット運動連発(これぞ「大人のダダ」とでも言うべき)と
飯島愛さんの訃報(が思い起こせば事の発端じゃないかと。天使的な人ばかりが亡くなる流行病が始まるのは。)に紛れ、良く解らなくなった。
「勝ち組」「負け組」という話は1年に1度だけ”必ず”紛糾する。
早い話、「勝つのは子供で、負けるのは大人」と相場が決まっており、
最初からデキレースだからだこんなもんは(笑・なので準備はお早めに。)
だからどう足掻いても「豪華客船の片道切符」という始末でな。
それは解ってた。だからだよ。「ありがとう」なんて言葉が出たのは。
これは反則気味の不意打ちだな。我ながら...。ウソを突いたら罰せられると解っていてもね。
〜T/H
高校卒業してから連絡を取っていなかった独身の友人(と昔は呼んでいた)からメールが来た。
どうやら同じ高校の友人(と昔は呼んでいた)が妊娠したので出産祝いを皆で贈ろうというメールだった。
出産は来年夏と書いてあったので、まだ妊娠8~10週目くらいだろう。
妊娠した本人からの連絡ならまだしも、妊娠がわかった直後の段階で10数名に一斉メールを送るこの独身の友人の気が知れない。
夫に聞いてみた。
『今後お付き合いをする気があるなら個人的に贈れば良い。』と返答。
誰々がするから私もお祝い贈らなきゃ、は非常に女子的だ。と私も思う。
自分の経験から妊娠12週で悪阻で入院した事もあり、友達からの『いつ産まれるの?』『今何ヶ月?』メールをうざいと思った時期もあった。
やはり未婚既婚子なし子ありで考え方は違うんだろうか。
心が狭いんだろうか。そう考える時点で狭いんだろうか。
母に聞いてみた。
『高校時代で人付き合いがストップしているわけじゃなく、大学や会社その他で友人はどんどん増えたでしょう。その中で線引きして考えないと。
今後あなたの友人が全員結婚・出産・訃報、更にその連絡を又聞きして受けたら全部贈答しないといけない。それじゃ身が持たない。』
妊娠した本人から結婚したと言う報告は受けていない。友人からの又聞きだった。
ではこの妊娠した本人は今回の一斉メールの事は知っているだろうか、きっと知らないだろう。
自分の知らないところで自分の妊娠を報告される。自分だったら嫌だ。
もしこの独身友人から連絡がきたら『私は個人的に贈りたいものがあるから~』と逃げようと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20091005005540
中川さんの脇の甘さや酒や薬に頼った弱さまでは擁護しないんだよ。それは自殺した松岡さんや永田さんもそう。政治家が自殺してどうするんだよと片方では思うんだ。
でも、いいことなのかどうかよく分からないが、日本の財務大臣が酩酊状態で記者会見したからとて、あの時は確か為替も株もたいしてその影響は受けてなかったと思う(というか為替が円安になったのは影響皆無というわけでもなかったか。でも円安だからまだいいよ、今と違って)。海外メディアが大々的に報じたといっても、あっそう、ふーんで終わっちゃった、実際のところは。直近の話題があれだから、訃報に「もうろう会見」の写真が利用されるのはもっともなんだけど。でも、海外メディアが報じてるからって誰も覚えてないよ。むしろ、実直でいつも真面目さんイメージの日本人に、こんな大臣がいるんだなという印象が残ってるくらい。そういえばヨーロッパにも酔っ払いの政治家がいましたねとネタにした記事を見た記憶もある。
でも、日本の場合は、あのレベルの話を政局に延々利用してしまう。それに、中川さんの件は、記者会見前には女性記者たちと飲んでたりして、ようはみんなグルなんでしょう?自民党シンパだと思われるのが嫌だからあえて出すんだけど、小沢さんの件でも国会議員全部クロならそう書けばいいのに書かない。
かといって、こういうのは記者クラブがなくなったら改善するかというと、過剰な期待もできないと思う。イギリスの経費不正請求スキャンダルのときも、たしかメディアと政治家の関係が問題になってた(情報の取得経路が問題になったんだったっけ?忘れた)。事情はあまり変わんないらしいんだよね。期待はしたいけどね。
スキャンダルをメディアが政局に利用するのはどこも大して差がないんだけど、日本みたいにどうでもいい話をしつこくネチネチやるのってそうそうないと思うよ。ヨーロッパあたりなら、酔っ払った中川さんをさんざん茶化すのはあるかもしれない。その程度の話だったんじゃないの、あの「もうろう会見」って。
ちょっと話がずれるけど、政治家を茶化して笑い飛ばすのはたくさんあるけど、日本ってそういうのは皆無だね。陰にこもるというか、妙に真面目。もちろん、真面目な部分は大事だけど、それだけでは政治は成り立たないと思う。むしろ、庶民からすると政治家権力者を笑い飛ばす陽性の要素も大事。それでバランスが保てる。
日本のメディアって、そういうバランス感覚が本当にないと思う。みのもんたもTVタックルも、笑い飛ばせないもの、あれじゃ。そりゃあ、囲い込んでいじめ倒すほうはなんとも思わないだろうけど、あれをやられた方はたまったもんじゃないでしょうよ。死にたくなるのももっともだと思うよ。