その訃報を聞いたとき、それはもう驚き取り乱し愕然とし、脳内ではなんだなんだよくわからんぞと変な警告まで出だしたが、
はたとその事実に行き着く瞬間があった。
好きだった人が死んだ。
勿論、あまりのことに一人とんでもなく号泣したわけだけれど、それを誰かと共有しようとは思えなかった。
他人の死を引きずることをよしとしない、わけではない。
まあ簡単な話、怖いのである。
そう何度も、私の中でその人を殺せなかった。
他人の死を共有し、共有した死によって涙が溢れ、悲しいね悲しいねと言い合うというのは
決して悪趣味ではないと思うし、その儀式めいた行いは大事にされるべきだとも思う。
悲しみは連鎖されていく。悲しければ泣かなければいけないと思い出させてくれる。
人は共有して始まるんだ、とちょっと感動さえする。
でも私はすでに一度、一人で大泣きしてしまっていた。
あんな辛い思いを抱えてあと何度も、見しらぬ人たちと涙を流さなければならないのかもしれないと思うと
私はその恐怖に耐えられない。
死を何度も受け入れ、何度も涙を流し、何度も悲しいねというのはただひたすら辛い。
だからだろうか。
その人の話題を出されても「信じられないね」だとか「本当にびっくりだよ」だとか
そういう曖昧で先が続かない言葉を口にして、どうにかその場を凌ごうとしてしまう。
もし私が一言でも「なんで」と言ったら、それが引き金となってその場が涙の海にのまれるかもしれないのだ。
私の中でまた、その人が死んでいくかもしれない。
殺したいはずもないのに。
そうして、かわして、かわして、と続けていくうち
その態度のせいか、他人からはこう言われるようになる。
「本当は悲しんでないよ、絶対。もう忘れちゃったんだよ。薄情な奴」
確かに、薄情なのかもしれない。
そしてなにより臆病なのかも。
一度しか受け入れられない私は、薄情で臆病なのかもしれない。
でも私は、悲しみに暮れながら、冷えた涙を流すより
その人の歌声を聴き、魂が震えるような音を聞きながら、ただただ圧倒されるように涙を流したかった。
その涙に、悲しみはいらない。
その人が創り上げるステージ、そこに付与する涙こそ、共有するに最も相応しいもののように思える。
近く献花式がある。
またいつか出会うであろう、その人の歌声のために、二度目の涙は取っておくのだ。
たとえ薄情だと罵られ、臆病だと自負しても、それだけは変わらない。
安らかに。