2020-11-12

海外では環境セクハラ議論なんか起こらないくらいの知性がある

日本では環境セクハラだとか、そういったものがよく取り上げられているんだが、海外ではそもそもとしてそんなのはたことがない。

海外環境セクハラってなんだろう?environmental sexual harassment とか言うのかな?聞いたことがない。ググっても学術記事しか出てこない。

それがなんでかっていう話を日本フェミニズムの人たちに教えたいなと思って書いてみようと思った。アンチフェミの人たちはだからといって出羽守にならないように。海外から見たらそっちもそっちで大差ないから。

海外では「人の意見尊重する」ということや「コンセンサス」というものをすごく重視する。これは日本ではむしろ逆方向に教育している。「人の意見は人によって真面目に考えたり茶化したりしていい」であったり、「全体的な合意よりも声がでかくて扇動できた誰かについていく」ことばかりやっている。

どこかの大学着物女性緊縛する動画アートとして展示したらすごい反響だったようで、燃え上がって削除という最近よくある展開があった。

こちから見たら大学側がいかにこれがアートなのかを力説して、フェミニズム側も感情論ではなくいか女性蔑視であるかを説明して、最終的に社会としてどうかというコンセンサスを作るか、という方向に行かずに「あ、はい、削除します」とさくっと引き下がったあたりにすごい残念感が高い。まぁ、大学側も大して根拠があったわけでもないし、フェミニズム側も大声でまくしたてて押し切ることしかしなかったんだろうなと想像しているが。

かつてのアメリカでは、どんな大企業でも女性蔑視だと言われたらすぐにやめていた時期があったが、これは商売人が「そんなのに対策するコスト払うならやめるわ」っていうものしかなかったが、フェミニストたちが自分たち大企業を屈服させたくらいに巻き上がっていたのは記憶に新しい。同時の学者たちが「将来にひどい禍根を残すからやめるべきだ」と言っていて、まんまとひどいことになっている。

ではなんで環境セクハラがないのか、という話になる。

まず、海外ではあからさまに性的ものを公開するためには結構慎重であることが多い。これはキリスト教文化関係しているかもしれない。だが、それが性的かどうかは「性的ですよ」と言っているかどうかに強く依存していることも事実だ。

例えば、水着女性写真があるとする。この女性をどう紹介しているかだ。

浮気現場!」とか書けば、あぁゴシップなのだ

卑猥言葉で飾り立てれば、なにか性的ものなのだな、となって公開する場所身長になる。

「というアートです」と書けば、あぁアートなのだな、でみんな納得する

健康系の雑誌の表紙が水着の引き締まった体の女性を表紙に乗せることもある。

これが人の意見尊重するということでもある。もうちょっと言うと「どういうつもりか」はほとんど重視されない。an・anという雑誌ではたまにsex三文字が乗るから普通にエロ本認定されるだろう。

そういう社会なので、そんなのはアートとは認めない、環境セクハラだ、と言ったところで、コンセンサスが取れなければ「・・・何いってんだこいつ?」となっておしまいなんだよ。

当然アニメのくりくりした可愛い女の子の絵もたまにはられているが、それを性的だと捉える人は別にいない。

海外では、女性が体のラインがはっきり出る格好で外をウロウロしたりするし、胸の谷間を強調する服だって来ているかアニメ表現に対しても、別になんとも思わないのかもしれないが。

改めて言うんだが、海外では、公に貼られるいかなるものにも「これがなんであるか」という表明が明に暗にされていて、それに対して「そんなのは認めない!」と大騒ぎしたところでコンセンサスが取れなければそこまでだ。やる側もコンセンサスに従えばいいのである意味でわかりやすい。コンセンサスガイドラインという形で共有される。

どこかの大学緊縛動画についてだが、こちらでやる場合は、おそらくレーティングがされるだろう。そして、それに従って観客は見に来る。

改めて言うんだけど環境セクハラ、というもの海外では存在しない。

さて、ここまで言ったところで、多くのフェミニストさんたちが「ありますけど・・・」と言っていろんなリンクを貼ってきたり、もしくは「海外ことなんか問題じゃない、ここは日本なので・・・」とか「そもそも女性不快ものが張り出されることが問題なので(これは論理すり替えであまりに悪質だけどね)」とか言ってくるんじゃないかなとも思うが、流れの早い増田からこの記事はとっとと流れていくかもしれない。

さて、ここまで「そんなものない」と言っていたが、海外でも、おそらくだが、実は環境セクハラ、またはそれと同等のものはあるだろう。誰も認識していないだけで。

先にも言ったように海外では、「人の意見尊重する」「コンセンサスに従う」ということを重視する。どこかの団体勝手コンセンサス作って社会で振りかざしてもだめだ。キチンと社会としてコンセンサスが取れないならそれはわがまましか無いし、勝手ルールで人の意見毀損する厄介な行為しか無い(実際そういう団体結構ある)。

なので、そういうコンセンサスを取りたい人々はなにをするかと言うと議論をする、研究をする。例えばメディアアウトプットする、ブログを書いてSNS拡散するでもいい。大学研究者が研究してもいるだろう。政治家ロビー活動だってする。一足飛びに結論に飛びかからない知性がある、って言うことだ。

一方日本ではこの環境セクハラという言葉がすでに存在するものであるかのように振る舞う人がとにかく多い。自分がそうだと信じていて、はキチンと議論ができるんならまだマシだけど、「あぁ、あなたはまだ我々のレベルに到達していないんですね」となる人たちは改めて海外の人々の考え方を勉強してみるといいよ。フェミニズム自体海外からいただきものなんだから、男社会やらかしたことをわざわざ繰り返す必要なんかありませんからね。

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