日本では環境型セクハラだとか、そういったものがよく取り上げられているんだが、海外ではそもそもとしてそんなのは観たことがない。
海外で環境型セクハラってなんだろう?environmental sexual harassment とか言うのかな?聞いたことがない。ググっても学術記事しか出てこない。
それがなんでかっていう話を日本のフェミニズムの人たちに教えたいなと思って書いてみようと思った。アンチフェミの人たちはだからといって出羽守にならないように。海外から見たらそっちもそっちで大差ないから。
海外では「人の意見を尊重する」ということや「コンセンサス」というものをすごく重視する。これは日本ではむしろ逆方向に教育している。「人の意見は人によって真面目に考えたり茶化したりしていい」であったり、「全体的な合意よりも声がでかくて扇動できた誰かについていく」ことばかりやっている。
どこかの大学で着物の女性を緊縛する動画をアートとして展示したらすごい反響だったようで、燃え上がって削除という最近よくある展開があった。
こちらから見たら大学側がいかにこれがアートなのかを力説して、フェミニズム側も感情論ではなくいかに女性蔑視であるかを説明して、最終的に社会としてどうかというコンセンサスを作るか、という方向に行かずに「あ、はい、削除します」とさくっと引き下がったあたりにすごい残念感が高い。まぁ、大学側も大して根拠があったわけでもないし、フェミニズム側も大声でまくしたてて押し切ることしかしなかったんだろうなと想像しているが。
かつてのアメリカでは、どんな大企業でも女性蔑視だと言われたらすぐにやめていた時期があったが、これは商売人が「そんなのに対策するコスト払うならやめるわ」っていうものでしかなかったが、フェミニストたちが自分たちが大企業を屈服させたくらいに巻き上がっていたのは記憶に新しい。同時の学者たちが「将来にひどい禍根を残すからやめるべきだ」と言っていて、まんまとひどいことになっている。
まず、海外ではあからさまに性的なものを公開するためには結構慎重であることが多い。これはキリスト教の文化も関係しているかもしれない。だが、それが性的かどうかは「性的ですよ」と言っているかどうかに強く依存していることも事実だ。
例えば、水着の女性の写真があるとする。この女性をどう紹介しているかだ。
卑猥な言葉で飾り立てれば、なにか性的なものなのだな、となって公開する場所に身長になる。
「というアートです」と書けば、あぁアートなのだな、でみんな納得する
健康系の雑誌の表紙が水着の引き締まった体の女性を表紙に乗せることもある。
これが人の意見を尊重するということでもある。もうちょっと言うと「どういうつもりか」はほとんど重視されない。an・anという雑誌ではたまにsexの三文字が乗るから、普通にエロ本認定されるだろう。
そういう社会なので、そんなのはアートとは認めない、環境型セクハラだ、と言ったところで、コンセンサスが取れなければ「・・・何いってんだこいつ?」となっておしまいなんだよ。
当然アニメのくりくりした可愛い女の子の絵もたまにはられているが、それを性的だと捉える人は別にいない。
海外では、女性が体のラインがはっきり出る格好で外をウロウロしたりするし、胸の谷間を強調する服だって来ているからアニメの表現に対しても、別になんとも思わないのかもしれないが。
改めて言うんだが、海外では、公に貼られるいかなるものにも「これがなんであるか」という表明が明に暗にされていて、それに対して「そんなのは認めない!」と大騒ぎしたところでコンセンサスが取れなければそこまでだ。やる側もコンセンサスに従えばいいのである意味でわかりやすい。コンセンサスはガイドラインという形で共有される。
どこかの大学の緊縛動画についてだが、こちらでやる場合は、おそらくレーティングがされるだろう。そして、それに従って観客は見に来る。
改めて言うんだけど環境型セクハラ、というものは海外では存在しない。
さて、ここまで言ったところで、多くのフェミニストさんたちが「ありますけど・・・」と言っていろんなリンクを貼ってきたり、もしくは「海外のことなんか問題じゃない、ここは日本なので・・・」とか「そもそも女性が不快なものが張り出されることが問題なので(これは論理のすり替えであまりに悪質だけどね)」とか言ってくるんじゃないかなとも思うが、流れの早い増田だからこの記事はとっとと流れていくかもしれない。
さて、ここまで「そんなものない」と言っていたが、海外でも、おそらくだが、実は環境型セクハラ、またはそれと同等のものはあるだろう。誰も認識していないだけで。
先にも言ったように海外では、「人の意見を尊重する」「コンセンサスに従う」ということを重視する。どこかの団体が勝手にコンセンサス作って社会で振りかざしてもだめだ。キチンと社会としてコンセンサスが取れないならそれはわがままでしか無いし、勝手なルールで人の意見を毀損する厄介な行為でしか無い(実際そういう団体も結構ある)。
なので、そういうコンセンサスを取りたい人々はなにをするかと言うと議論をする、研究をする。例えばメディアにアウトプットする、ブログを書いてSNSで拡散するでもいい。大学で研究者が研究してもいるだろう。政治家にロビー活動だってする。一足飛びに結論に飛びかからない知性がある、って言うことだ。
一方日本ではこの環境型セクハラという言葉がすでに存在するものであるかのように振る舞う人がとにかく多い。自分がそうだと信じていて、はキチンと議論ができるんならまだマシだけど、「あぁ、あなたはまだ我々のレベルに到達していないんですね」となる人たちは改めて海外の人々の考え方を勉強してみるといいよ。フェミニズム自体海外からのいただきものなんだから、男社会がやらかしたことをわざわざ繰り返す必要なんかありませんからね。