はてなキーワード: 戦災孤児とは
時期をはずした気がするが、さきほどハーモニーを読了したので書く。
16歳未満の子どもには、WatchMeがインストールされていない。WatchMeを入れられたくないからこそ、ミァハたちは16歳になる前に心中しようとしたはずだ。
つまり、16歳未満の子どもはハーモニクスすることが物理的に不可能である。
にもかかわらず、エピローグでは、全人類の意識がハーモニクスされたように書かれている。作中の設定どおりなら、こんなことはあり得ないのだ。
この作者は、自分が書いた設定を忘れている!
上記について、脳血液関門の件を読んでいてもなお本文の記述をそのまま設定であると受けとめるのは少々ナイーブなのではないだろうか。(伊藤計劃が設定を忘れているかはさておく)
個人的には、16歳までWatchMeがインストールされないというのはあくまで表向きだと考える。新生児は出生時に(あるいは臍帯を通して母から子へある種の『感染』をしているかもしれない)インストールされ、戦災孤児の場合は保護された段階でインストールされているという考えだ。いざというときに「16歳未満の人類はハーモニーからはずされました」というのは大災禍への偏執さを感じさせた老人達にしては杜撰な気がする。
話は変わるが、すでにWatchMeがインストールされているとして冒頭のミャハの言動を読むと1回目とはまた違った感慨があるな。
登場人物は父、息子2人。
息子の名はシンとレツ
父と共に死線をくぐることで、切っても切れない絆ができていった。
血はつながっておらずとも、彼らは兄弟でありライバルであった。
戦いは苛烈を極め、2人の息子が今にも止めを刺されそうになるとき
父はある決断を迎える
突然、呼吸を整え、立ち止まり、息子たちに戦闘の指示を出すことのみに専念しだした。
父には深々と敵の刃が突き刺さる。
「息子たちよ。恐れるな。恨むな。恐れは拳を鈍らせる。」
「これから、最終奥義を伝授する。皆目せよ」
血だらけの体を奮い起こし、奥義の構えをとる父。
ただ一人残る異形の敵はその様子を静かに伺う
「強敵(とも)よ、受けてくれるか。。。」
異形の敵はすっと構えをとる。
「.....来い!」
まるで再開した兄弟のように歩み寄る。
あと数間の間合いでピタリと歩みを止めた。
「ハアアアアアアア!剛健流奥義ぃぃぃい」
「崩山天落けぇええええん!」
「ぐわあああああ」
異形の敵の腕がはぜた。
「見たか。。。息子たち。。これが、奥義だ。。。」
父はその場にどうっと倒れ、息子たちの腕のなかで息絶えた。
「ははははは!剛健流奥義と言えど、我を倒すにはあたはずか!」
「くやしいか剛健の息子たちよ!」
異形の敵に走り出すケン。
必死に止めるシン。
「はなせ!なぜ止めるシン!」
「よせ!今の俺たちではアイツにかてない!」
異形の敵は彼らを見据えた。
「3年だ!3年までに我を倒せるまで強くなれ!ふははは」
そう言い残し、異形は飛び去っていった。
3年間みっちり修行して、宿敵の異形を倒せるまでに成長するんだが、
実はジークの正体は異形の敵ガイザーで、打ち倒したあとに父の手記からそれが発覚する。
実はジークと父は元親友で、すべては敵の親玉サイターンを倒すための超奥義「双龍崩山天落拳」を習得するために本当の愛と悲しみを乗り越えさせるために仕組んだことだった。
超奥義を習得したシンとケンはサイターンを倒すために最後の戦いに挑む。
サイターンを打ち倒した2人。
母国に帰ると、国王からサイターンを倒した功績をたたえられる。
しかし、彼らに残るのはただただ虚しさのみであった。
父の教えである恨まないことを守ろうとするシンであったが、
シンはケンを止める為の戦いの旅にでるのであった。。。
遅ればせながらゴジラを見てきた。作品の感想は事前の期待が大きかったせいもあるがイマイチ。その理由を自分なりに一晩考えて出た結論が「人間にとって都合のいい存在としてゴジラを描いてしまっているから」。1954年に公開された初代ゴジラは明確な反戦・反核のメッセージを含んだ作品であり、水爆実験でよみがえったゴジラは、人間がコントロールできない「核兵器」という科学技術を使うことへの批判として描かれている。
人類が調子こいて水爆実験連発。その衝撃によりゴジラが目覚める。
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ゴジラを殺せる可能性のある、水中の酸素を破壊するオキシジェンデストロイヤーという化学兵器を若い科学者が発明。
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しかし博士はその兵器が戦争に使われることを恐れ、使用を拒否。
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ゴジラをぶっ殺すか? 強靱な生命力を研究対象にするべく生かすのか? 議論が割れる。
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結局、オキシジェンデストロイヤーでゴジラ死亡。博士は兵器の悪用を恐れ設計図を破棄し、自らの命を絶つ。
ゴジラは60年前から反戦・反核のメッセージとともに、際限のない科学への信頼に対する警鐘も鳴らし続けている。しかし、ラストでゴジラを倒すのは核兵器よりも強力な化学兵器であり、これは結局諸刃の剣である科学の呪縛から逃れられない人類を象徴的に描いている。「人類が核実験を続ける限り、第二第三のゴジラが現れるだろう」という最後のセリフは今もって有効だ。これがハリウッド映画であれば、「核兵器でも死なない大怪獣を倒した科学技術は素晴らしい! 人類の叡智バンザイ!」的なハッピーエンドになるはず。
ネタバレになってしまうので詳細は避けるが、なにが言いたいのかというとゴジラは大自然や神様といった人間にとってアンタッチャブルな概念の具現化であり、人類のために戦うヒーローになってしまっては興ざめということ。この辺はおそらく、神様が世界と人類を想像したというキリスト教的な欧米の世界観では理解しにくい存在なのかもしれない。それらの文化圏では神様とはこの世界のスタートとゴールを設定した絶対者であり、人類を正しい方向に教え導く役割を担っているのだから、試練を与えつつも最後にはハッピーエンド(人間にとって都合のいい)が約束されていなければならない。
その点、日本では不可侵な存在としての神様を描くのが得意なようで、例えば「もののけ姫」のシシ神さま。あれなんかは完全に、人類ともののけの人智を超えた存在として描かれている。シシ神さまにとっては森を守るアシタカも森を開発しようと企むエボシ御前も関係なく、ただ目の前の者に死と生命を分け与えるだけ。間違っても「お前は森を大切にしているから褒美として寿命を10年延ばしてやろう」とも「お前は森を破壊した罰として寿命マイナス10年!」とも言わない。人間の都合ももののけの都合も一切勘案に入れず、己の職務に忠実なだけだ。それは、どんなに弱者や善人が住んでいても地震や台風が発生するときは容赦なく発生するのと同じこと。つまり、本来自然や神様は人類の都合など考えない、極めて不条理な存在であるわけだ。
もうひとつの例としては、「ドラゴンボールZ神と神」のビルスさまも同じ。「プリンが食べられないから地球を破壊」「寿司がまずかったら地球を破壊」「ジャンケンに負けたら地球を破壊」といったセリフのオンパレードは、神様の不条理な一面をこれ以上ないくらいよく表している。初代ゴジラにとっては自衛隊であろうと戦災孤児であろうと自らの進路に存在する者は容赦なく踏みつぶすだけだ。
そんな人類の都合など考えないゴジラを期待して見に行った自分からすれば、なぜ98年のエミリッヒ版ゴジラがあんなにも酷評されているのかよくわからない。今作では日本の原発事故を絡めてはいるが、それもイマイチ批評性に欠け(というか単なる方便)、中途半端な社会派作品に堕してしまっている。
一つ興味深い点を挙げれば、人類がゴジラを「撃退」もせず「征服」もせずに「共存」の道を選んだこと。(続編のためにはゴジラが人類に撃退、征服されてしまっては元も子もないのだが)。これまでどんな凶悪な宇宙人も自然災害も撃退して乗り越えてきたハリウッド映画、これまで世界の警察を自称して世界中に西欧的価値観を広げてきたアメリカ。そんな、アメリカという国家が共存の道を選んだこのラスト、実はなかなかにレアなのではないかと考えている。メインキャストで唯一の東洋人である渡辺謙が発した「愚かな人間は自然を征服できると思っているが、そんなことはできない」というセリフは、「自然や子どもは管理されるべき」といったキリスト教の教えとは180度異なる。今回のハリウッド版ゴジラは反戦・反核のメッセージを含む初代ゴジラとは異なり、アメリカの外交の変化とリンクした作品として捉えるとまた違った一面が見えてくる。
ガンダム新作が発表されて、「ガンダムじゃない」感をひしひしと感じた。
今後の発表や本放送で感想が大いに変わることはありえるが、ひとまず現時点では、ガンダムである必要性を全く感じられない。
なぜか。
等身の低い丸っこいキャラデザ、三世代に渡るストーリー展開、オモチャにしか見えないガンダムのデザイン。
全てレベルファイブの作品で見たことがある、というかもうぶっちゃけこれ、イナズマイレブンベースにダンボール戦機のメカ要素取り込んだだけだろ!としか思えない。
全てにおいて突っ込みどころ満載だが、個人的には、三世代ネタを出してきたところが最も気になった。
そもそもガンダムの主人公は、親子、というか家族の概念が希薄な人が多い。
アムロやカミーユは親が仕事優先で放置されがちな少年時代だし、ロランやヒイロは出自不明。
ガロードとシンは戦災孤児、親を殺して自発的に孤児になった刹那というガンダム。
キラには親がいるが、全くストーリーには絡んでこない、かなりの透明度。ウッソのところは…他が濃すぎて……
とりあえず、ガンダムの主人公はそのほとんどが、帰るべき家・家族を持たない「孤独な少年」である。
ただ、自分の知る限り唯一、孤独な少年じゃない主人公のガンダムがある。
「Gガンダム」だ。
「ガンダムファンの高年齢化問題」と「小学生層の取り込み」を実現させるために、設定を大きく変え、「機動戦士」ですらなくなったガンダム。
ガンダムAGEは、Gガンで挑戦し、一定の効果を得たこの課題に、再挑戦する意思が見える。
そして今のタイミングでこの課題に挑戦するにあたって、こども向けのゲームタイトルで躍進するレベルファイブが関わるのは、ある意味当然のことのようにも思える。
そこまではよかった。
ガンダムに関わっている間、それを捨てて「ガンダムの」ストーリー作家になれるか?
多分無理、絶対無理。
いくら「これまでのファンも大事にします」と言ったところで、既にゲーム発売も予定されている。
そんな状況で、ゲームの都合でストーリーを変えることができる立ち位置に社長自らが腰を据えるわけだ。
信用するのは難しい。
何せ日野社長って、会社の経営方針的に、ドラクエ、二ノ国、そして今回のガンダムと、ブランド力への執着心が半端ない。
そこにきてガンダムAGEは、イナズマイレブンでやり尽くした感が否めない「三世代」ネタを主軸に置くときた。
つまり、このガンダムが成功すれば、日野社長は「家族ネタに定評のある構成作家」の地位を確立し、それはそのままレベルファイブのブランド力になるのだろう、ということ。
それを前提とすると、先日の発表会は、
「新作ガンダムは、2011年秋までのレベルファイブ作品紹介プレゼン動画です!1年かけて放映するからよろしく!」
…と言っているようにしか見えなくなってくるので、今非常に困っている。
最近のガンダムは文句言いながらもそれ自体も結構楽しめてたけど、今回ばかりは不安100%で楽しめる自信が全くない。
誰か一番いい論破を頼む。切実に。
こんなくだらないことでガンダムを嫌いになりたくない。
そういえば、しんべエは親が金持ち、乱太郎は親が足軽、きり丸は戦災孤児だという設定だったな。
http://anond.hatelabo.jp/20070202154636
http://anond.hatelabo.jp/20070202153942
それをふまえると25歳しんべエはニート説はあながち間違ってないかも。
逆に、きり丸は高卒正社員というより、中卒起業みたいな気がする。
その起業がうまくいってるかどうかは別にして。