どこにでもあるニワカの懺悔話。
私はウマ娘にハマりだしてから、いろいろウマ娘の解説動画見て学ばせていただくようになりました。
いっちょ前に知識が身につきだしてきた頃、
私はニワカの宿命である「ダニング・クルーガー」効果を発症してしまいます。
自分でちまちまと競馬マンガを読み漁り、気に入った馬について何冊か書籍などを読んでいくうちに
だんだんと「この動画はわかりやすいけれどここが物足りなんだよなー」とか、
なぜか自分が他の人よりちょっと詳しいようなつもりになってきていました。
特に、トウカイテイオーについては実際の馬の見た目がものすごく凄く好みだったため、
興味を持って何冊か本を読みました。
そして、さらにこの馬のことが好きになり、ますます「語りたい欲」がムクムクっと湧いてきてしまいます。
「アニメやアプリで語られてない部分を語ることで、自分より詳しくない人を相手にドヤを決めたい」という気持ちが強くなってきていたわけですね。
もうこれは馬のことが好きというより完全に自己顕示欲やないか・・・。
んで、しこしこと動画制作の方法なんかを調べながら、研究のために他の動画とかを見てたんですが……。
出会っちまったよ……。
自分が作りたかった動画を自分より何倍もわかりやすく丁寧に、そして明確なコンセプトのもとに作ってる動画に。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm33239717
この動画本当に素晴らしすぎるので見て……
この動画がアニメ二期が始まる前に作られたとは思えないともいえるし、アニメ二期が作られる前だったからこそできた動画だともいえます。
申し訳ないけれど、今までみた他の解説動画が霞むような掘り下げが行われています。
ただ実際のレースを淡々と解説してくれる入門動画やWikipediaの情報ももちろんそれはそれでとてもありがたかったし
ニコニコ大百科のように編者の主観に沿って枝葉をそぎ落としながらすっきりとした読み物にまとめてくれている読み物も面白かったんですが
この動画はそれ以上です。
それぞれの馬の性格から、レースでの走りっぷりまできちんと分析を行っており、
かつスピカに所属しているメンバーの元となった馬一頭一頭を「主人公」として、アニメとは別の形でストーリーを構成しています。
もうこの動画を見ると、
「メジロマックイーンが主人公だったウマ娘二期」のストーリーが自分の中に浮かんできます。
そして、この動画を見たあとでいよいよトウカイテイオーの動画を見るじゃないですか。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm33345191
本人は「今回の動画はうまくまとめられなかった」って言ってるけどそんなことは全然なくて、ちゃんと母方の血統からきっちりと語られていて満足度は高いです。
アニメで飛ばされたレース、負けたレースについてもしっかりと原因がわかるようになっている。
「自分が感動したポイント」をしっかり押さえつつ、それをただ列挙するのではなくストーリー仕立てにしてすっきりとまとめてるこの動画ほんとすげえ……ってため息しか出ない。
なんか憑き物が落ちたようですわ……。
こういうワクチン打ちたくない派閥の人の意見をよく見るけど、ひとりひとりがワクチンを打つことで集団での免疫を獲得できて、結果ワクチンを打てない持病もちの人や新生児、妊婦さんなども守れるようになるという利他の視点が欠けているな、と思う。
妹・未知が父親・耕治から好かれてないと思っているのは音楽の才能と興味にないことを気にしてるから?
手がかからない子のほうが放置されていてそれを気に病むのはあるある話
母親・亜哉子の教員エピソード一切でず、2011年に教員やめたと記憶していたが
学校よりも家庭(百音)に原因?
正直若者はワクチン打っても打たなくてもどっちでもいいよ 打ちたいやつだけ打ちな 実際強制じゃないんだし
ワクチン打っても発症する確率とワクチン打ったときの熱出る諸々のリスクと、ワクチン打たないときの発症する確率と重症化率とかもろもろ天秤にかけたところで大差ないだろ
ドラクエの血統主義が気持ち悪いという意見をみたが、これに対する私見を述べる。
結論を先に言うと、ドラクエはプレイヤーが愛されることを体験できるゲームだからそうなるのである。以下、詳細を述べる。
ドラクエは主人公が勇者というのは案外イメージでしかなく、実際は勇者ではない主人公もいるのは既に言及している人がいる通り。しかし、ドラクエの主人公は勇者か王族、または勇者かつ王族であり、主人公が特別な存在だという設定になっている。例外は9のみだが、これも特別な存在という文脈で見ると例外とは言い切れない。
さて、どうしてドラクエはこんなにも主人公が特別な存在なのだろうか?
それは、シリーズ一貫して主人公=プレイヤーという形式を守っていることと表裏一体である。
つまり、主人公が特別な存在であるということには、プレイヤーが特別な存在であるというメッセージが込められているのだ。勇者という特別な称号を持つ人、王族という特別な血筋を持つ人、あなたはそういう特別な存在なのだと。
特別な存在であるということは何故こんなにも重要だとされているのだろう?
個人的には、それは愛されることとほぼ同意義だからだと考える。
ドラクエにはゲーム中の世界があり、主人公はその世界にとっての特別な存在である。ということは、プレイヤーはその世界に愛される存在である、と言い換えることができる。
「あなたは世界にひとりの大切な人です」というようなメッセージは、愛の言葉としてさまざまな媒体から流れてくる。しかし、ドラクエほど届く手法でこのメッセージを発している媒体を知らない。
何故なら、ドラクエではプレイヤーが世界の冒険を通じて自分はこの世界にとってかけがえのない人間であるということを自覚していくからだ。
そう、ドラクエの主人公にはもうひとつの例外なき特徴がある。それは、世界を滅ぼさんとする存在を討ち果たす者である、ということだ。
冒険の末にそれを成し得て、ただの称号でもただの血統でもなく、実として世界にとってかけがえのない存在になり、そしてそれと同等の意識をプレイヤーも手に入れるに至るのだ。
そうしてこそ、プレイヤーは自分が「世界にひとりの大切な人」であるというメッセージを受け入れることができる。自分が世界に愛される人であるということを認めることができるようになる。
もちろんこの手法についての是非はあるだろう。本当はなんでもない人間なのに、ゲームの中でだけ特別な人間だという意識を植え付けてどうするとの意見もあるだろう。それは正しい。
ただ確実に言えるのは、理想なら誰もが世界にひとりの大切な人であるはずなのに、この世界はそうはなっていないということである。
そんな世界の中で、勇者の称号や王族の血統など使えるものは何を使ってでも、あなたは大切な人であるというメッセージを発するゲームがあるということは、私には救いに思えるのだ。