はてなキーワード: 原辰徳とは
書き散らすだけ書き散らして頭の中から嫌いを追い出すという試み
嫌な思いをする度に追記をしていこう
後藤なんとか
・アジカンのボーカル。ハガレンのアニメをリアルタイムを見ていたので、OPのリライトで初めて知って好きになったのだが、いつだかの大阪のライブで披露した大阪難波ガールとかいう曲が激サムで嫌いになった。後、一時期見た目も汚らしかったのも嫌だった。
ローバート・ケイン、スティーヴ・ウォルイン、ケヴィン・モリス、フィル・ミッチェル
・ウィルコが脱退してDr.feelgoodは終わったんだ。お前らがそれを名乗るのは烏滸がましいんだよ、まとめて消えろ。
たまのドラマー
・かっこが嫌。なんやねん、ランニングって。汚ねえ。さよなら人類での、着いたー!ってあの合いの手も嫌い。
・てめえの不祥事で由伸を引退させやがって。ふざけんな。怪我で出場数が減ってたとは言え、代打で.390打てたバッターやぞ。長嶋まで引っ張り出してきやがって。腹立つ。のり。
・何がショコタン語だよ、ふざけんな。
1984年に35本塁打をマークするなど、日本でもレギュラーの一人としてチームを牽引した。
1986年には打率.363を記録したが、この年は阪神のランディ・バースが日本プロ野球記録である打率.389を記録したため、首位打者を獲得できなかった。シーズン打率が.360以上を記録しながらも、首位打者になれなかったのは、現在までクロマティただ1人である。
1988年、ヤクルトスワローズとの開幕戦で巨人の選手では東京ドーム第1号となるホームランを打つ。しばらくは不振の原辰徳に代わり4番を任されるなど好調を維持していたが、6月13日の阪神タイガース戦で久保康生から指に死球を受けて骨折してしまったことで、残りのシーズンを棒に振った。チームの最終戦の10月4日の横浜大洋ホエールズ戦には、尊敬する王貞治監督のラストゲームを見届ける為にベンチ入りしていたが、試合には出場しなかった。
1989年、4割を打って引退すると宣言。開幕から長打を捨ててヒットを量産し[注 1]、シーズン規定打席の403打席(当時は130試合制であったため規定打席数は試合数×3.1の403打席数であった)に到達した時点で打率4割を超えていた。最終的な打率は.378まで下がり[2]、4割打者誕生はならなかったが、首位打者を獲得した。96試合まで4割を維持したのは広瀬叔功の89試合を抜くプロ野球最長記録であり、.378は巨人の球団歴代最高打率である。首位打者に加え、.449で最高出塁率の二冠のタイトルを獲得。20勝を挙げたチームメートの斎藤雅樹を抑えてMVPも受賞した。