2020-08-15

確率論しか判断できない私の自己嫌悪

まずは自己紹介とある理系大学院生です。

いきなり本題ですが、最近ある出来事に対する友達含め世間の人の反応と自分の反応の違いを身を以て実感して嫌気がさしてしまったのでそれをここに吐き出させてください。

そのある出来事については詳細は特定しません。状況のエッセンスだけ話します。(固有名詞は出しませんが、主観が混ざらないよう状況を変に一般化したり簡略化はしたりしないので、しようと思えば容易に特定できると思います。)

今年某日、ある有名人が同業他者悪口業界の内部情報などをネット掲示板に書き込んだという疑惑が流れました。その疑惑が起こった発端となったのは、書き込まれた時点では本人とそれに極めて近しい人間しか知り得ない(らしい)情報が書き込まれいたことでした。噂はアンチを中心に広まりやがて本人にも届きました。本人は一度は完全に否定し、謂れのない誹謗中傷に対し弁護士相談する構えを示し、一度騒動は下火になったものの(この時点を「時点1」とします)、のちに、有名人本人公式とあるサイトへの投稿問題となった書き込みIPアドレスが一致することがわかり、再炎上しました(この時点を「時点2」とします)。IPアドレスとはインターネットの住所のようなもので、それが一致することは「通常」同一回線から接続を示す根拠となります。「通常」と書いたのは、何か特殊方法を使った場合はその限りではないことを強調しています

さて、まずこの件について、私の立場をまず整理しておきます。私はこの騒動の以前、当該有名人についてややプラス感情を持っていました。(これは主観ですが、前提でもあります

良い感情:悪い感情=7:3くらいでしょうか。

時点1でこの件を私がまず知ったとき、私の気持ちは「有名人がゆえに叩かれて大変だなあ」というものでした。

非難派の主張の第一根拠は「本人しか知り得ない情報が書き込まれている」であり、その他の根拠はその有名人のこれまでの行動から性格を推察し本人の書き込みだと予想する、といった主観に頼った説得性にかけるものでした。したがってここからはこの第一根拠についてのみ書きます

擁護派の反論は「特殊ツールの利用、あるいは低確率の偶然により本人以外も知り得る情報だ」というものでした。のちにこの反証には「特殊ツールの利用が行えない対象である」とさら反論がつくことになります。ここまでくると、技術的な知識を持ち合わせていない私は自分で真偽を検証できない以上双方の主張ともに鵜呑みにすることはできません。

よって疑わしきは罰せずの原則に則って、私は当該有名人に白だと脳内判決を出しました。(より性格に言えば「黒ではない」ですが)

しかし、時点2で新たな根拠であるIPアドレスが一致する」が提示されました。このとき、私の中で当該有名人脳内判決は黒に変わってしまったのです。

ネットことなので100%はないのですが、IPアドレスの一致は非常に強い根拠です。まず、当該有名人の素性は素顔や本名を含め一般には知られていません。一アンチ程度にIPアドレス偽装をすることはほぼ不可能です。つまりそれは問題書き込みが本人あるいは本人にかなり近しい関係者によるものである可能性が極めて高いことを意味します。

しかしこの件に関して、当該有名人本人による現状の説明は「私含む身内は全員潔白です」でした。

長くなりましたが、ここまでが状況の説明です。ここからタイトルにもあるように確率論でしか判断できない私の自己嫌悪です。

まず私が時点1から時点2にかけて白から黒に考えが変わったのはなぜか考えてみました。どちらの時点でも確たる証拠はありません。

しかし、本人の発言が間違っている確率が違いました。時点1では根拠検証できないが故に本人の潔白発言の真偽は完全に50%-50%でした。

一方時点2ではIPアドレスの一致という事実を90%程度身内によるものだと自分主観確率評価していることに気がつきました。

まり本人の「身内が全員潔白」発言の真偽は"私にとって"10%真-90%偽というわけです。

自分閾値がどこにあるのかは不明ですが、90%の黒は、事前感情が良い悪い比7:3のときでも、黒判決になるということみたいです。

ツイッターを見ていると、友人やファンであろう人たちのコメントで「有名人さんがそう言うのなら信じます!」というもの一定数見られました。自分妄信的ではないにしろ、その有名人ファンだったはずです。それを見たとき、その人のことを信じられなかった自分に少し嫌気がさしました。

この信じる信じないに正解はありません。私の「信じない」という判断だってきっと間違いではないでしょう。

では、どれが正しいではなく私はどうありたいのかを考えると、それは「信じる」選択肢の方なのです。

自分が好きであったもの推していた人のことを状況証拠が不利でも信じる。そうありたいのだと気付きました。

もし黒がこの先確定しなかったのであれば私の中ではきっとずっとその人は白でいられますし、もし黒が確定して本人も認めたとしても必要以上に「裏切られた」という負の感情を抱かなければ良いのです。信じた自分を後悔しなければ何も問題はありません。

ただし、この「裏切られた」という負の感情を抑えることは非常に難しいことです。普通の人は人生でこのような経験をするごとに「裏切られた」感情を蓄積し、いつしかその感情を嫌うがために確率論で判断するようになります別に何も間違ってないです。でも、私は信じ続けられる側でいたかったなと、そう思いました。

ONE PIECEという漫画にこんなシーンがあります卑劣な王は、ヒルルクという医者処分するために、城で病人が出たという嘘の話を広めて彼を城までおびき寄せます。当然、王の卑劣さを知っている周囲の人間は彼が城へ向かうのを止めますが、彼は城へ向かうのです。そして、目の前で嘘であることを明かされたとき、彼はこう言います。「よかった…病人はいねえのか…」

昔これを読んだとき、美しいと思いました。もちろん今回の話とこれは色々な設定が違いますしかし、自分の信念を貫いた、という視点で見ると同じことなのではないかと思うのです。

自分応援している人を最後まで信じる。もし裏切られたとしても負の感情に身を支配させない。文字にするとこれだけのことが難しい体にいつの間にか私はなっていました。

もう一度言いますが、どれが正しいではなくどうありたいかの話です。なりたい姿と違う自分を偶然発見してしまって私は今少し落ち込んでいます

ここに書いたことがある意味自分懺悔となってこの悩みを浄化してくれたらと思い、キーボードをカタカタと鳴らした次第です。

長々とお読みいただいた方はありがとうございました。

  • 指原信者の中では普通だろうけど一般世間の感覚は確率論で考えるのが正しいし合理的だよ お前はオウム真理教とかそういうのにハマって 99%の確率で間違ってんのに1%の確率に縋って...

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