はてなキーワード: 密葬とは
めんどくさい。
職場の飲み会、入社してから10年ほど、歓送迎会と忘年会の年五回くらいの飲み会にはほぼ参加していた。
が、体力が曲がり角を迎えたことで、何もかもすべての飲み会はお断りすることにした。
別に仕事は仕事で普通に回るので、出なくなってから仕事で困ったりは一切ない。
飲み会に出ないから仕事上の連絡をしない、とかいう無能な社員は幸いなことにうちの会社にはいない。
しかし、そんなことをしていたら親から「そんなことをしてたら葬式誰も来なくなるよ」と言われた。
そうだなー、たしかにそうかも。
でも別に死んでるじゃん?
誰も来なくても知る由もなくね?
来なかったからと言って誰か困るんかな?
子供は一生持たないと決めてるから旦那より長生きしたらそもそも葬式やってくれる人いなくて、無縁仏だし。
旦那も私も兄弟いないから、甥っ子とかにお金渡して葬式お願いすることもないし。
そんな人生なのに、何をそんなに葬式に誰も来ないことを気にしなきゃならんのだ。
だいたい葬式に来てもらうために人間関係を持つわけじゃないだろうに。
人間関係を継続した結果として葬式に来てくれる奇特な人が現れるわけであって、そのために人付き合いするわけがない。
そんな親の葬式に何人が来るんだろう。
喪主は私になるんだろうけど、親の知り合い呼んだら私が疲れるし、父親は誰々に連絡しろと言ってるけど全て無視して親戚も会社関係も一切呼ばず私と母親だけの密葬にするつもりなんだよね。
呼んでほしい人リスト、みたいなものを渡されたけど渡されたその日に捨てた。
持ってたら後々面倒だし。
だから、そんなこと言う親の葬式にこそ誰も来ない確率が高いんだけど。
死んだあとのことなど誰もどうにもできないこと。
最近暑くて本当に夏らしい。夕立があるなら何処にも降ってくれると良いのに。
集中豪雨とかじゃなくてさ。
厨二の妄想的な考え。
わざとに見えないように工夫して死ぬとして、このような陽気なら決行辺りでは生理の始まる時から脱水症状気味になるように調整して、当日は水分をほぼ取らない、なるべく料理で切ったくらいの傷で血を排出しておきたい。切ってから代謝出来るくらいのアルコール(体調悪化してるからほぼ残るかもしれないとすると無理かな)を取ってなるべく多めに出血しナプキンか何かで吸収させ汚さずに。切って怪我したこと、大した怪我でない事を家族などには連絡しておく。それから外で草むしりや車の掃除などを行い、体調悪化に努める。出来るなら膣に傷を付けられるとより多く出血出来るかもしれない。 これでなんとか死ねるだろうか。 無理かな。暑さで死ぬまで行くのは年寄りくらいだものな。
するなら事前準備としてミニマリストに憧れるとかいって物を整理して、何かきっかけを作って終活をやって葬式は密葬にしてくれとか話す機会を作りたい。
なるべく周りに負担にならないようにいなくなろうとしても、かなり難しいだろうな。
晴れて未亡人の仲間入りだ。
職場関係の方には挨拶するのも疲れるし、ほとんど交流してない旦那側の親戚に会うのも面倒なので私と私の両親と旦那の両親だけで済ませた。
しかし、病気が発覚してから今まで、本当に子供がいなくてよかったとしみじみと感じている。
ここ最近少し年上の上司たちが数名死んだので葬式に行ったが、皆ことごとく子持ちだった。
奥さんは本当に悲壮そうだった。
子供がいたらそりゃ考えることがたくさんあるよなぁ、一方で私は何も荷物がない。とても気楽だ。教育費とかそんなことを考えずに済む。
よく「私が死んでも悲しむ人はいるかもしれないけど、困る人はいないもんね」とお互い言っていたけど、まさしくそんな感じだ。
そして、私は困る人がいないどころか悲しむ人すらいなくなった。
いや、もともと私が先に死んだとしても旦那は悲しまなかったかもしれない。
とにかく子供がいないことがこんなに素晴らしいことだとは思わなかった。もともと欲しくないから作らなかった人間だが、その判断は正しかった。本当に子無しでよかった。
一番親しいか仕事上密接に関係あるメンバーとか、あるいは輪番制の単なる名目の代表が、「全員の適切な距離感に基づく見舞いの意」を表明しに行く。これをしとかないと、その人が復帰してきたときとか、ちょっと微妙な空気になってしまう。「あいつは見舞いに来たけど、あいつはこなかった…」とか、そういう空気になると困る。
これはない。
そういう人は、代表が見舞いに来ても「来なかった人」を覚えてる。
個人的に来てくれた人を優遇する価値観を持つ人だ。
そういう人にとって、「式」は名前を記帳することに意味がある。
式に出ない人は「でない人」の分類で、代表が来ようが関係ない。
さて、では「式」をやらないとどうなるかと言うと、対応が大変面倒になる。
結婚でも同様だろう。
それらを、日付も含め一括にまとめるのが「式」なのであって、決して「微妙な距離感の人への配慮」などと言ったものではない。
自分たちの便宜のために行うもので、行わなかったことによる弊害(散発的に人が訪れる)との兼ね合いになる。
しかしだからといって、「自分は式をしないでおこう」と考えるのは、やめてもらいたい。それは、そういう人の気づかないところで随分迷惑なことだからである。
論外。
繰り返すが、そんなことのために式があるんじゃない。
あくまで式を行う側の便宜のためだけにある。