\ ヽ | / / \ ヽ / / ‐、、 殺 伐 と し た ス レ に イ ン ド 象 が ! ! _,,-'' ,-'"ヽ ∩___∩ / i、 _,、 | ノ ヽ { ノ "'" "'"'"/ ● ● | / | ( _●_) ミ / 彡、 |∪| ミ _/\/\/\/|_ i し ま う ま \ ヽノ / \ / / `ー-ー'" } < ニャーン! > i' /、 ,i / \ い _/ `-、.,, 、_ i  ̄|/\/\/\/ ̄ /' / _/ \`i " /゙ ./ (,,/ , ' _,,-'" i ヾi__,,,...--t'" ,| ,/ / \ ヽ、 i | (、,,/ 〉、 、,} | .i `` ` ! 、、\ !、_n_,〉 /'''7'''7 /'''7 / ̄ ̄ ̄/ / ̄ ̄ ̄ / / /i | / / .. ̄ .フ ./. / ./二/ / . . ____ _ノ / i i__ . ノ /__,l ̄i __/ (___ /__,--, / /____/ /__,/ ゝ、__| /___,、__i /___,.ノゝ_/ /___ノ..
ふと思い当たったフシがあったので、新しい業態を想像してみた。もしも実在していて、その関係者がいたとしたらいまさら(笑)とかいわれるんだろう。
何かの作品に対するファンが自発的にファンサイトを作る前提とする。そのアピールのためにサイトを作るようになる。
そのサイトがどのくらいあるのかを数を数えたり、リンクマップを作ったりするとファンサイトの全貌が明らかになる。
この業態にとって、SNSやブログの貸し出しによる囲い込みは好都合だ。
サイトから見える見た目はそこまでだけど、SNSで繋がっているとかメッセンジャーで繋がっているとか電話番号を交換している仲だとか、IPアドレスから住所を調べるだとかして、できる限り個人を特定しておく。仲良くなって年賀状とかお中元とかお歳暮を送って調べてもいいよね。
このお前のことは知っているんだ的な事実の突きつけは、抑止力になると思う。ただただ純粋にファン活動を楽しみたい人にとっては怖い。
即売会で組織的にすべての小間で全種類買いまくっている人がそういう調査の人だととしたら、怖い。そこまでして目立たなくてもいいと思う人は多いだろう。
そうこうしているうちに誰に情報を与えると有効にリンクがつながっていくかがわかってくる。
そこが情報の上流。上流から流した情報は少しずつ広がりながら下流に流れ、情報の海へしみわたる。
いくつかの情報の上流を押さえたら、そこから一斉に情報を流すと下流で情報が合流したときは大きな流れになっているかもしれない。
もしもマーケティングの達人と呼ばれるような手練がいるとしたら、このくらい緻密なことを考えていてもおかしくない。
緻密なマーケティングの結果、盛り上がったのではなくファンサイトの自発的な盛り上がりがすごいという評価が世の中の評価になれば、仕掛け人的には最上級の成功だろう。近江商人の理念である「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」につながっていくように見える。
同好の士として近づいてきた人が、実は何かの組織の息のかかった「何か」だとしたら、気味が悪い。
あるとき急に羽振りがよくなったときを境に豹変しちゃう人もいるかもしれない。
そのような人間関係が発露することはまれだろう。きっとうまくやっている。
流通の末端で、作品を受け取っている人間にとっては関係のないことなのかもしれない。
wassup?
俺の場合はそれに加えて
「なぜ自分なのか全く理解出来ないが、こんな自分が断るなんて」って気持ちがある為、受け入れてしまう。
別れることになっても「あぁ、やはり何かの間違いだったんだ。」とどこかほっとしている自分がいる。
おそらくお前はこの話を理解できていない
ジャンケンで、グーチョキパー以外になんかあるの?
ジャンケンは例えの話し。
他の人も書いてるけど、
元増田の知り合いは、結論だけ言う事で、
蛇の天敵がナメクジになる、三すくみの面白さを伝えたかったんでしょ。
「どれにも勝てない奴を無視するな」なんて言い出したら、キリないよ。
この話は
「普段は弱い奴が、ある強い奴に恐れられる」
ってトコがキモなんじゃん。
蜘蛛は蛇に食べられるけどね。
そこに、
「はぁ?ライオンの方が強えし、ってかミジンコさんの存在無視すんなよ」
とか、言い出したら会話にならんわ。
外出するのにも一苦労
当日かなりの剣幕で「どうして、どこに、なんで」とまくし立てられる。
親として当たり前の行為なんだろうが、
これは前日に伝えた場合も同じ。
誘いも断るようになった。
伝えればいいだけじゃねえかと言われるだろうが、そのとおりだと思います。
新聞の論説、インターネットでの長文の主張、職業上あえて難しい言い回しで書かれている文章のような読む気をなくさせる工夫をこらしている文章を読むときのコツは、文章の冒頭と最後のシメの段落を読むをことだ。
現代文が受験科目にある受験生にもオススメだし、小論文に取り組んでいる人も最初と最後に主張したいことを矛盾なく書ければ、意味は通る。
見出しやタイトルとその論旨が一致していないことや注目を集めるためにあえて大げさな見出しやタイトルを付けることがある。文章の冒頭と最後がタイトル負けしていないかを確認しておくこともオススメしておく。見出しと論旨のバランスが悪いと読後感が悪くなると思う。
相手もそう思っていると考えれば人間不信になれるよ!
例えば小説を読んでいるとき、登場人物の一言が深く心に突き刺さる。あるいは情景が、文章で描かれた場の雰囲気がざわざわと揺れて蠢いて感情を揺り動かす。
例えばドラマを見ているとき、沈黙の底に横たわったいたわりが目頭を熱くさせる。あるいは音楽が、コミカルな演出が時に見ている者を逼迫させ笑わせてくれる。
料理にしてもそうだ。美術にしても、音楽にしても、コミュニケーションにおていもそう。
いろいろなこと、さまざまなものが私の感性にぶつかっては振動し波紋を浮かべていく。
象徴的な記号や、印象的な構造が琴線に触れる。風波を立てていく。
しかしながら、かように自分が刺激を感受してしまうのは、外部からの働きに影響されているからなのだろうか。
本来外部にある刺激には何の影響力もなく、ただ単に私という受容器がその刺激を受け取るときに、特異的に感動しているだけではないのだろうか。
鍵と錠前のようなものではないのか。私が感受できるがゆえに、その刺激に特徴的な記号的意味が付加されているだけではないのか。
こんなふうに考えると、誰かに受容してもらえる刺激を発信するのがとてつもなく困難に感ぜられる。
私が理解している刺激Aが本当に他者にとっての刺激足りえるのかどうかわからないからだ。
無論収斂されたが故の、共通認識が可能な記号なのだとは思う。クオリア自体が個々人で違っていたとしても、共通認識上の記号に差異はないのだから、そんなに悩むことなど無いのかもしれない。
ただ、それでもなお躊躇ってしまう。究極的にはそれが刺激足りえるのどうかわからないのだから困ってしまう。
臆病だからなのだろうか。この感覚を自分では臆病なのだろうと思い込んでいるけれど、もっと違う言い回しが在るような気がする。
便宜的に、馬鹿とか阿呆とかそんな呼称でいいような気がする。むしろそうであった方が変にナルシズムに陥ってない分晴れやかな気がする。
二行目の「このラインまで」っつう情報がでたらめだったわけでね。