例えば小説を読んでいるとき、登場人物の一言が深く心に突き刺さる。あるいは情景が、文章で描かれた場の雰囲気がざわざわと揺れて蠢いて感情を揺り動かす。
例えばドラマを見ているとき、沈黙の底に横たわったいたわりが目頭を熱くさせる。あるいは音楽が、コミカルな演出が時に見ている者を逼迫させ笑わせてくれる。
料理にしてもそうだ。美術にしても、音楽にしても、コミュニケーションにおていもそう。
いろいろなこと、さまざまなものが私の感性にぶつかっては振動し波紋を浮かべていく。
象徴的な記号や、印象的な構造が琴線に触れる。風波を立てていく。
しかしながら、かように自分が刺激を感受してしまうのは、外部からの働きに影響されているからなのだろうか。
本来外部にある刺激には何の影響力もなく、ただ単に私という受容器がその刺激を受け取るときに、特異的に感動しているだけではないのだろうか。
鍵と錠前のようなものではないのか。私が感受できるがゆえに、その刺激に特徴的な記号的意味が付加されているだけではないのか。
こんなふうに考えると、誰かに受容してもらえる刺激を発信するのがとてつもなく困難に感ぜられる。
私が理解している刺激Aが本当に他者にとっての刺激足りえるのかどうかわからないからだ。
無論収斂されたが故の、共通認識が可能な記号なのだとは思う。クオリア自体が個々人で違っていたとしても、共通認識上の記号に差異はないのだから、そんなに悩むことなど無いのかもしれない。
ただ、それでもなお躊躇ってしまう。究極的にはそれが刺激足りえるのどうかわからないのだから困ってしまう。
臆病だからなのだろうか。この感覚を自分では臆病なのだろうと思い込んでいるけれど、もっと違う言い回しが在るような気がする。
便宜的に、馬鹿とか阿呆とかそんな呼称でいいような気がする。むしろそうであった方が変にナルシズムに陥ってない分晴れやかな気がする。