はてなキーワード: 平仮名とは
難関と評判の国家公務員試験I種(国I)を受験してみたのでそのときの体験記のようなもの。
誰だか分かる人もいるかもしれないけど黙っててね。
落ちていた場合、これを書く気になっていたのかどうか気になる。
http://anond.hatelabo.jp/20091221232734
まあ凡人には理解できないかもね。
言わんとすることは分からんでもないが、ちょっと君にうんこを投げさせてもらうと、
君の文章こそすんごい凡人臭い。多分学内でも中の上ぐらいの成績じゃないかな。
ああ、ええ、まぁどうでもいいんですが、自分の学部は東大です。
院は特定されると面白くないので伏せるけど、まぁ東大未満だとは世間様にも思われないぐらいのとこです。
まずね、タイトルで釣りすぎかな…「数学やってりゃ東大合格」の理由はどこよ?ちと狙いすぎだな。釣りっつーか、詐欺だな。
あとね、
子供が「数学なんてやっても意味ねー」と言い出したら、「そうだね。君の人生にとっては意味がないよね。義務教育終えたらそこらへんの工場で労働者として頑張ってね!」でいい。
そんなふうに考えていた時期が、俺にもありました。って感じなんですけどもね。実はそうでもないんですよね。それをするとしたら、数学よりは英語かな、って感じ。理由は後述。
うん、経済学は大事だね。これは本当にそう思う。マンキューの『入門経済学』にある内容ぐらいは国民みんなに分かっていてほしいよね。文系理系問わず、学歴問わず。鳩ポさんにうんこ投げちゃうことになるけど、民主党の方々って正直大馬鹿じゃない。あれはね、個人的には「いやぁ、国民の皆様が馬鹿ならしょうがないんじゃないんですかね」と思ってしまう。間接制であろうと最低限の素養を国民に与えておかないと、民主主義って死ぬんですよね。困ったもんだ。というわけで数学の素養も結構必要になるよね。まぁ微分積分ぐらいはね、って話になる。
理科もね、結構大事ですよ。僕からすれば、高校課程でいえば化学Ⅱ、物理Ⅱぐらい国民みんなに知ってもらわないと困るんですね。文系でもね。まぁこれはたしかにドカタ様には不要な知識かもしれないし、中卒の方々にはやってもらわなくともよい。ただ、大学を受ける層は、文系にも理解していただかないと困るんだよなぁ。物理も微積禁止令は解いていただきたいですよね。アレ、詐欺ですよ。文系でも物理Ⅱ+微積レベルは知っていただかないと、ね。
んでもって、「英語で教え込む」についてハッキリと言わせてもらうんだけれども、
え、誰が教えんの?っていう話。世間知らずの坊なのか知らないけれども、世の中先生って結構バカなんですよ。
自分の高校でも「あいつダメだよなー」とか言われてる先生ですら東北卒とかだったりして、まぁ世間一般で言えば普通に高学歴でした。
でもね、中学(僕は中学までは公立。しかも田舎)はね、本当にひどかったよ。英語の教師が英検2級だったりね。ギャグか、と今なら思うんだけれども、目立った取り柄もない人間だって働かないといけないのだよ。そうなると必然的に馬鹿な先生も出てくるんですよ。残念ながら、わが日本国には「すべての教師を教養人に!」などと高邁な理想を実現するほどのリソースは残されていないんです。
英語教師でさえ英検2級とか履歴書に恥ずかしくて書けないようなうんこ資格しか持ち合わせていないのだから、他科目なんて、ねぇ、って話ですよ。それは高校教師でもそんなに変わらんです。ああ、「頑張らせればいい」と言うのは、ナシね。そこまでマッチョイズムでゴリ押ししても、のれんに腕押しが実情です。
あなたは「重要科目に絞る」ということに重点を置いてましたけど、まさにその通りで、子供に与えられる教育の時間ってそんなにないんですね。基本的に教育って、(エリート育成を除いては)国体を維持しさらなる成長を期待できるため、国民に最低限の民度を維持せしめることにあると思うんですよ。で、英語って、ぶっちゃけ日常じゃ使わんでしょ。テキサスの巨乳娘を口説くために国費を投じる必要はないわけなんですよ。ええ、何が言いたいかっていうと、馬鹿には必要のない言語なんですよねしょせん。たしかに自分にとっては必須ですらあるんですが、「国民に知ってもらいたいこと」を教えるには、幸いまだ日本語でも十分に可能なんですね。
自分は必要に駆られてラテン語も習得しましたけど、多分あなたには必要ないでしょう。まぁ、極論を言っちゃえばそんなもんなんですよ言語って。ちなみにお隣の韓国さんはというと、国民みんなに小学3年から英語やらせてますけど、どうも一般人はベラベラとは言い難いのが現状のようですね。向こうも教員のレベルがネックとなってるみたいです。韓国の友人が言ってました。国内市場が小さいので海外進出を日本以上に頑張らないといけない韓国でさえも、そんな程度なんです。まぁでも、たしかに大卒さんなら英語ぐらい、というのは分かります。そいつらに教える英語の教育法についてはまぁ言いたいこともありますが、今回の本論には関係ないので避けますね。
つーわけで国語はいるよ?だって「賢くなるため」の文章を読むには必須の素養だもの。偏差値40台の高卒ちゃんとか、漢検4級もギリギリレベルですよ。言葉はひどいけどね、もうほとんど文盲なわけ。これが、教育しなくなったら、どうなるか。マジでほとんど平仮名とカタカナだけになるんじゃないか。日本が神聖文字と民用文字を使い分ける世の中になったらめんどくさいことになりそうだと思うけどなぁ。
そもそも抽象的思考もできないやつが英語を覚えたところでハラペコ青虫とPLAYBOYぐらいしか読んでくれんよ。実際、日本でNewsweekだのNatureを読んでる層って、日本語でも抽象度の高い文章を好んで読んでますしね。君が貼った記事にもあるとおり、実際のところバイリンガルなんて無理だし、恐ろしく稚拙な日本語と「はうあ~ゆ~?」ぐらいしか言えない、豚や鶏をちょっとマシにしたような非知的生命体が量産されること間違いなし。バイオハザードもビックリだ。
日本史はね、うんまぁ、必修は近代史まででいいかもね、と言いたいんだけど、やっぱ聖徳太子とかもかじらせとく必要はあると思いますですよ。DQN様って、本当に勉強しないので。マジで日本人同士でも会話が成立しなくなるんじゃないかな。別に左翼ではないのである程度の格差はしょうがないと思うけど、あんまり似たようなお友達ばかりと馴れ合っているとマクロ的にも損するようになってますよ世の中。
世界史はそもそも、「過去の事実」を覚えるというより、世界のシステムというか、ダイナミズムというか、そういったものを学ぶためのもんだと思うんだけれどもね。これも高校の先生ですらできてない人ばっかだね。まぁ教科書もそうなってるからね。でも覚えもしないとそれをできる一握りの人材すら日本から生まれなくなるので、まぁ教育しといた方がいいとは思うけどね。
・先生って思ったよりバカなんですよ
・(現行の高校課程に意味をとどめない)「政治・経済」は、日本国民にとっての必須となる教養。
・そのためにも数学は要るかもねぇ
・国語を教えないと、バカとエリートの使う言語感覚の隔絶が、おそろしいレベル(国が滅びるぐらい)になるよん
・バカに英語を教えてもねぇ
・そのかわり大卒さんは英語覚えてほしいよね。まぁそれはまた別の話でしょ
ところで、あなたは駒場生かしら。せっかくリベラルアーツを学ぶ機会を設けられたのだから、もうちょい頑張ろうぜ。
いやね、僕も知識人としては下っ端も下っ端なんですけれども、正直、ちょっと脱力した。しすぎて文章も散漫になった。教養主義とかじゃなくてだね、もうちょい基礎んとこを理解した上で社会ってもんを見ようぜっていう、そういう話。
あと教育論から外れるの承知で書くけど、古文漢文って君には必要ないのかね?俺は高校は理系だったけど、普通に必要な素養だと思ったけどなぁ。ていうか今も読むけどなぁ。エリートを自称する学生なら千字文とか四書五経とか、それぐらい読まねぇ?普通。それとも君は、「やりたくなければやんなくていいじゃんよー。ただし国際社会で恥かくかもだけどねー」でいいじゃん、で済むのかな。俺がジョン(仮名)に「えー!おま、論語の○×も知らないで20年も生きてきたの???wwww」とか学生時代に言われたら、その恥とやらのために死んだね。まあ凡人には理解できないかもだけど、ね。
うんこ投げすぎたので最後に一言だけ有用なアドバイスをしておくと、公教育について論じる時はもうちょっとナショナリスティックな視点を考慮に入れた方がいいよ。
いわゆる国風文化を育んだといわれるひらがなカタカナは、実は渡来系文化人の考案と言う説が濃厚。
平仮名も片仮名も清音と濁音が同じ文字に割り当てられている。これは当時(今でも)清音と濁音が対立しない半島の言語の影響。
昔は日本語に濁音がなかったせいだなんてトンデモ説を言う人もいるけど、平仮名片仮名より古い時代に使われた万葉仮名ではきちんと清音濁音が区別されていることから当時の日本は間違いなく清濁が対立いる言語であることは明らか。もちろん万葉仮名では清音字と濁音字は別の漢字に割り当てられている。
つまり今の日本文化だって渡来系に影響されている部分もあるってこと。移民による文化変容を恐れすぎるのは滑稽だが無視しすぎるのも愚鈍である。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1
ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。
この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。
前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。
●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ
以上の4つのリンク先からブックマーク・コメントを引用させてもらいます。
id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。
私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。
1. 漢字について
4. 国語廃止論序説
5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。
ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。
上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。
それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会が理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。
また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。
とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。
そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。
もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマーク・コメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。
id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。
日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字の学習に費やされていることも。
日本の学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。
いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本の学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本の学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。
あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。
漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。
もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。
私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者、日本語学習者です。
そうした人たちが文字情報にアクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。
こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。
こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。
「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」
これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータや スロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。
同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。
だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。
さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。
「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマーク・コメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?
前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。
id:baumkuchen555 みんなよく読めるな
id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること
id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな
id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる
id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0 アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり。
id:makiyamakoji とても よみに くいね
id:feita さすがによむきがおきないね。
id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。
id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?
id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…
id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない
id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。
id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻の常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ
id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化
id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。
お疲れ様でございます。
みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。
「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。
「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。
上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。
id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。
この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。
なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字を学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。
ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。
そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。
つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。
こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。
「日本語酷すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。
書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?
なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。
すでに述べたように、私は自分の言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。
たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?
その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。
しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。
繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威と権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。
次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。
このごろ建物の階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。
たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。
もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。
つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞のニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。
何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……
見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄りが自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。
文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。
だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。
同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。
そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。
石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。
もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。
多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。
あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。
要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。
その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。
私は前の記事で次のように書きました。
さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分が権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。
これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。
漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。
そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。
id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記。
id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。
ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。
たとえば、「日本語は同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。
しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。
実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。
他によくある誤解はは、漢字は表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。
id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど
ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。
英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。
つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。
要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。
(続き)
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/psychedelicneon/statuses/5232794821
http://www.hatena.ne.jp/aitanisan/edit
http://wwww.hatena.ne.jp/sagonohashi/edit
私は「旧字・旧仮名遣い」若しくは「全部平仮名」で書いてる人は「RPしないと書き込めない、人格が不自由な人」という認識でいます。
http://www.hatena.ne.jp/abyssgate/edit
http://www.hatena.ne.jp/hyaknihyak/edit
私は「旧字・旧仮名遣い」若しくは「全部平仮名」で書いてる人は読みにくいなーと思う。書きにくくないんだろうか、と思っています。
http://www.hatena.ne.jp/Gewalt/edit
http://www.hatena.ne.jp/yamuyam/edit
私は「旧字・旧仮名遣い」若しくは「全部平仮名」で書いてる人は、ニュートラルルートに進めなかった人たちの末路だと思っています。
http://www.hatena.ne.jp/te2u/edit
http://www.hatena.ne.jp/kaionji/edit
http://www.hatena.ne.jp/nekoneko713/edit
http://www.hatena.ne.jp/karatte/edit
いや、そこまでは・・・・・って思う?
いや、そこまでブコメで言ってるんでしょ実際。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20090923074755
>id:ululun ねっとうよく、と平仮名表記にすると途端に上島竜平になる 2009/09/27
>id:tora_17 増田, 政治, ネタ 政権交代の影響でほんのりと危機感を伴うマイノリティ意識が芽生え出した、って解釈で合ってるかな。 2009/09/27
>id:y_arim anonymous, 2ch, ねっと☆うよく 2009/09/27
>id:pcm88741 2009/09/27
─────────────────────────────────
はてサの痛いところを突いてしまったようですねw
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20090717-OYT8T00290.htm
これから漢字の数が増える事がないということは、何か画期的な新しい家具が発明されて
それが椅子や机くらい社会に浸透しても、それらの事をカタカナで表記するしかなくなるんだろうなあ。
仮にその家具に”アバラカベッソン”と名前が付けられたら普段なんて読むのだろうなどと少し考えたら、普通に前例があったね。
Telephony。通称電話。なんだ、漢字表記できるんじゃん!素晴らしいですね。漢字で2文字、平仮名で3文字、表意的でわかりやすい。漢字増やさなくても大丈夫じゃん。日本語すげえ!漢字便利!
ersonal Compute。通称パソコン。あれ?カタカナ省略表記ですね。・・・まあいいんですけどね。わかるし。
戦後から次第にそのままカタカナで表記する傾向が強まり、初見では意味が全くわからない状態になっているのが現状ですな。
漢字での命名は日本語のポテンシャル的には可能だが、現在はただやってないだけということかな。
戦中、敵性語反対といって野球用語を無理矢理漢字にしたりした反動だろうか?
きっと、架空の家具アバラカベッソンは、日本人に漢字表記を模索されることなく、アバラカとかアバベとかABとか表記されるんだろーな。
だからなんだというわけじゃないんですけどね。なんかね。
多けりゃいいってもんでもないんだけど、Follow数とか被Favを異常に気にする新世代Twitterユーザーのために。
まぁ、あるひとりのアルファーユーザーとして書いておく。誰も見ないだろうけど。
難しく言うとTwitterは独り言を垂れ流しつつも、だけどホントは誰かに承認されたり仲良くなったりしたい、出来ればうっかり付き合っちゃったり結婚したり人がたくさん死ぬとかいうドMな日本人心にマッチしている素晴らしいサービスなので、だからそういう使い方を積極的にしたら良いだけ。
つまり簡単に言うと、とにかく思わせぶりに動けば良いということなんです。R&Bされない程度に、ね。
具体的な手順は次の通り
キーワードでついったー○○部というのがたくさん作られているのでそこから興味の合いそうな人を数人ずつFollowしていこう。
発言は数十Postなのに、Follow差500とかあると逆に気持ち悪い。
もしそれがいつも自分のTimeLineとは違う話題になっていたら、それは君の初期Followデッキが失敗、とまでは言わないけど、ちょっと向いている世界が違うのかもね。
よく意味が分からなくても『ああ、○○ね。分かります』とかwakatterPostしておこう。
たとえ無関係のFollowerだけだとしても壁に向かって話しかけるように話題を提供し続けよう。
これをやるとまるで話題が豊富な、友達が各方面にたくさんいる人みたいに誤解される。@(リプライ)なしの独り言で頑張ろう。
それだったら、とにかく他人のPostにFavをつけよう。
特に片思いFollowな相手にこれは有効だよ。
逆にそういう相手が居たらFollowして友達になろう。いつもFavしてくれる人、を増やすことがとても大事なんだ。
相手を愛称で呼ぶ。愛称とかわかんねーって時は適当に平仮名読みでいい。
ただし気になる相手が複数リプライ(.@xxxx,@yyyy,@zzzzz ただいまー)などしていたら、それらを全てFollowしていこう。効率よく関係を拡張出来る。
たとえどんな言い方をしてもネガティブな論調に受け取られるし、相手に不安を与える。男は黙ってRemove&Block。
ただし常に抽出タブを用意しておき、晒されているIDには承認申請を送っておこう。
よろしく~とかは要らないし、実際にSkypeする必要も全くない。通過儀礼のようなもの。
別にどうでもいいことに@リプライしてくる、執拗にRTでリプライ&コメントしてくる奴は適当にスルーしよう。
どうでもいいリプライにはどうでもいい返事しかしようがないので、自分自身がつまらないIDだと誤解される原因になる。
誰もお前が選んだおもしろRTPostなんて見たくないし、本当におもしろければFavられている。
原文:一日中涼ちんのこと考えてた。もとい考えている。
作例:一日中めいぼうちんのこと考えてた。もとい考えている。
おすすめはTween,P3,Twitなど海外開発者のものを含めたくさんある。
けれども、日本語で要望や不具合報告などが通じる例示したクライアントから選ぶのが無難。
作者をFollowする必要は全くない。お礼はお米券を送付しよう。挙動がおかしかったら黙って最新版を探そう。
ライトユーザーはクライアント導入時に戸惑うことがあるかも知れない。それもTwitterで聞いてしまおう、立派な話題だ。
リプライタブだけでなく、自分の愛称なども対象キーワードにしてタブを作っておくとはぴはぴはっぴー♪
気にしなくていい。別に最初っからお前は居なくてもいいんだ。みんなそれぞれのTimeLineを見ている。偏執するようなものではない。
やーすば!!!!
積極的に個人情報にも近いような自分のモテぶり、仕事ぶり、財力、地位などをほのめかすPostを繰り返せばここから一気に人気者になれます。
口先ひとつで人気者です。うそでもなんでもいいです。とにかく他人の気を引きましょう。
被Followバランスも自分からFollowすることなしに、3:5、あるいは2:5くらいでも成立するでしょう。
ふぁぼったー上位常連とかでなくてもこんくらいになります。コンテンツ力の足りない人でも安心だね。
面白いUstreamをはじめ、面白いOFF会/忘年会、面白いリナカフェに顔を出したり出されたりしましょう。
呟いてもひとり。寂しいですね。
これまでチヤホヤしてくれた人たちはそそくさと新たなコンテンツへと興味を移します。アルファーユーザーの宿命というやつですね。
多けりゃいいってもんじゃないけど、情報発信したり、仕事の話したり、なんとなく会ってみたり、だべったり、ケンカしたり、アニメみたり、ゲームしたり、rblgしたり、人を殺したりする同時多発性の混沌さがTwitterの魅力ではないでしょうか。
でもこれ、ボクはとにかくみんなに承認されたいんだ! という人には向いてないと思う。
最初は良くともこうしてFollowを繰り返していく内に自身が希薄になっていくのを感じるから。
本人に余程のコンテンツ力がなければ自我を保てないのではないでしょうか。
逆に大したコンテンツ力がないのに頑張っちゃっている新世代Twitterユーザーの方々は常にストレスフルな状態でTwitterしていることになるのだと思ったのです。
それがこの記事を起こした切っ掛けでした。
承認欲求を満たしたいのなら、Mixiに戻った方が良いです。あすこの方がよっぽど安全です。パターンオレンジですし。
最近どうやら日本の世間的にもTwitterが流行りはじめているようで、これからこういう愚かなる若者が、つまり人がたくさん死ぬと思います。
人が承認欲求にかかるストレスで死ぬんです。恐ろしいことです。Twitterの即時性が承認中毒を誘発するんです。
そもそも人間、無理に仲良くしようなんてしなくていいし、無理におしっこ幼女とか、サーバーを落としてまで真っ赤にしなくていいんです。
僕は幼女おしっこは少し黄色がかった透明なのが好きです。すみません。少し古いネタを掘り返すのはこの辺でやめておきます。
でも、きっと日本国民の8割はエヴァ破を上映開始日に2回以上見たし、エヴァネタバレ禁止とか高次元なメタネタですよ。アスカどうして死ななかったんだろ。つまらないことになってしまった。
僕のTimeLineではそうなってる。そういう風に作ったんだ。居心地の良いように。だから正しいんだ。
とかなんとか、そういう感じになるから非コンテンツには全然ラクじゃない。
追記
id:hyaknihyak さん
石臼欲しくなったので住所Dしました。よろしくお願いします。
地デジのEPGではどう表記されるのか?未だアナログユーザーの私には解りませんが、
インターネットが普及した今の時代に「なぎ」だけ平仮名で表記というのは
双方にデメリットがあるでしょう。
ということで作成してみました。
また、草なぎ2:55とか事件を揶揄するものは芸能活動上メリットが無いので対象外にしました。
つるの剛士と少し似ているな。
なんてことになったら、ポスター表記は間違いなくこれだろう。
字数が多いか・・・苗字を区切る☆をつけて「くさなぎ☆つよし」はどうか?
やはり、つのだ☆ひろのように字数が少ない場合にのみ有効だろう。
ひらがなベースでほっしゃん。を意識し、「つよぽん。」というのも考えたが
原形をとどめていないので却下だな。
ファーストネームから読ませる「ツヨシ・クサナギ」もケン・イシイのようでアリのような気が。
②にもあげた☆を入れて「ツヨシ☆クサナギ」、う~んダイヤモンド☆ユカイみたいだなあ。
歌を歌えるようになろうとは思っていないけれど興味津々.
「すごい」とか「素晴らしい」というのはどういうことだろう?
普通に歌える人の音に対する感覚が分からないから,どうすごいのかが
正直言ってよく分からない.「これはひどい」って意味なら納得できるけど…
子供の頃のことをもう少し書いてみると,こんな私だけれど
音楽の授業で楽器は割とできる方だった.それで成績付いていたようなもの.
出す音とタイミングと長さが分かっていれば出来てしまう.
自分の声でその音程の音を出せなくても楽器はその音を出してくれる.
だからそれは音感があるのとは別のことかもしれない.
手で絵がかけなくても PC 使えば絵が書けるという人がいるなら
それと同じ感じかな.歌と絵には何か違いがあるような気もする.
ちなみに http://anond.hatelabo.jp/20090225022536 も私.
(どう信じてもらえばいいのか分からない)芸術には縁がなさ過ぎる.
上の日記読んで思い出したのは,中学の時に音楽(たしかクラシック)聴いて
感想や何を表現しているか述べよという授業があったが,これが全く分からない.
模範解答を聞いてもその楽章(?)がどうしてそれを表現しているのか分からない.
それでも今はクラシックを聞くのは好きで,好きな曲やこの作曲家はいる.
ガブリエル・フォーレはお気に入り.ラジオのクラシック番組で教授の解説は
相変わらず全く分からない.聴き心地が良いかどうかだけが唯一の基準.
言葉のアクセントをどう認識しているのかというコメントに対して.
自分が話す場合,疑問系で語尾を上げる時に相手にうまく伝わらないことがある.
アクセントじゃないかもしれないけれど「○○ですか?」の意味で
「○○です↑」と語尾を上げて言ったつもりでも間を置いて
「今,自分に聞いたの?」って聞き返されたことは何度かある.
単語のアクセントは話の流れで分かってくれるみたいだから,
私は知らないだけで伝わっていないことは実際にはもっと多いかもしれない.
他人が話す場合,聞き取る方には問題がないようで相手が意図したように受け取れる.
あくまで,自分が出したいように音を出せないのが問題だと分かってきた.
また子どもの頃の話に戻って,聞き取る方は問題がないと思うから
合唱の時は自分の声が他の人と比べると外れていることは分かる.
でも独りで歌う場合,比較対称がいないから自分の音が外れているのか分からない.
相対音感の人が独りで歌う時,最初の音を基準にどれだけ高い低いで判断しているなら
最初の音が楽譜通りのその高さかどうかをどう判断しているんだろう?
と考えると普通の人も少なからず絶対音感の欠片でも持っていないと無理ではない?
取り止めがなくなってきたから,これで最後.
元記事に「楽譜の歌詞は平仮名で書いてあるから無意味な文字の羅列だと思っていた」と書いた.
絶対音感ではないけれど街中(特に店内)で他人の声を聞いていても同じような感覚に陥る.
何か声(というか音というか)が聞こえるけれど,明瞭ではないと言葉として捉えられない.
そういう状況を自分の中で騒々しいと位置づけているのかもしれないと,今書いていて思った.
だから邦楽でも歌詞を見ないと何を言っているのか分からない曲は聞いていられない.
高音は大きな声を歌うこと,低音は小さい声で歌うことだと思っていた.
だから全体に音が低めの歌は全体に声が小さくなるから
低い声(小さい声)で大きな声ってなんだよ.どうやればいいんだよ?
教室で他の生徒がいる前で歌うのとか本当に泣きそうだった.
お腹から声を出せって腹から声が出るわけないじゃないか.意味が分からない.
あと「かし」は「歌詞」ではなく「菓子」だと本気で思っていた.
しかも「歌詞」は「詩」であって文章になっていることも知らなかった.
楽譜の歌詞は平仮名で書いてあるから無意味な文字の羅列だと思っていた.
ついでに「さび」は「錆」のことだと思っていた.
「この歌のさびいいよね」って言われても意味が分からない.
分からなくても分かろうとしなかったから誰にも聞かなかったしな.
音楽というより歌に対する興味のなさはどうやらここから来ているらしい.
入社して約一ヶ月が経過、なかなか仕事を覚えない新人のノートを見せてもらったわけだが
ここまで見事に何も書かれていないと、逆に清々しさを覚える。
きた川→正)北川
ほそかわ→正)細川
え? 漢字じゃない?
仕事の内容を口頭で言うからそのまま書き留めてほしいと頼んでさっそく筆記してもらった。
ちゃんと書いてくれているのかな?と不安を覚えて本人のノートを見せてもらう。
記入はされていたが一切漢字が使われておらず平仮名の羅列がそこにあった。
一瞬私の目が少し大きく目開かれる。
が、日常目にするこの新人の常軌を逸した行動からすればこんなものは大変かわいいもの、とすぐに思い返した(パソコンの授業で先生がEnterキーを押してくださいと言ったときにクラス全員が押すなか、1人だけ押すことが出来なかったという。話をしていると逸話が出るわ出るわでとても書き表せない)
興味深かったのは”ステンれすのたな”という部分だ。何故”ステン”までカタカナで書いておきながら”れす”を平仮名で書いたのだろうか。いっそのことすべてカタカナでステンレスとするか、平仮名にして”すてんれす”と書くかどちらかに統一してほしいと個人的に思った。
3桁はおろか1・2桁の足し算をもよく間違う。
人間まちがいはあるが頻度が過ぎる。
そろばんが出来ないことは聞き及んでいたが書きも駄目だったとは。
そんな新人に本日付けでマンツーマンで仕事を教えてくれ、とお達しがあった。
(教えたくないからと押し付けられたともいう)
とりあえずがんばってみるさ。
当て逃げされた。
http://anond.hatelabo.jp/20080930094309
続き。
ネット上でこういうコトを書くのは少しためらいがあったが、
方々から背中を押されるカタチで、私の知っている加害者情報を書き込もうかと思う。
【事故の起こった場所】
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.39275299&lon=139.44639152&sc=2&mode=map&pointer=on
【事故の起こった日時】
9月28日 日曜日
【事故の状況】
一旦車両を降りて話し合いを始めるが、名前を聞こうとしたら逃走。
六地蔵方面に逃げる。
【加害者の概要】
50代後半??60代前半の痩せ型の男性。
165cmくらい。
【加害者の車種】
http://images.google.co.jp/images?q=Vitz+1F8
・931
(登録陸運局、分類番号、平仮名は不明)
で、このナンバーなんですが、事故発生から時間が経っており目で見て記憶しただけなので100%確実とは言い切れないですが、
この番号に近い感じのヴィッツを見かけたら、目撃場所をお教えください。
容疑車両を見つけたからといって、決して無理なさらずに・・・
なんてったって“逃げる”ような人ですから、アウトローなのは間違いないです。
情報提供よろです。