はてなキーワード: ミクロとは
http://anond.hatelabo.jp/20100221183451
「コミットメントを前提とするインフレターゲット政策」を前提にしながら「コミットメントが困難だからリフレ政策は無理」ってあり得無くない?
君はコミットメントを「それを仮定しさえすればなんでも出来る魔法の杖」か何かと勘違いしているのか。
通常のインフレ目標のコミットメントメカニズムを一から説明していては日が暮れるので、はしょって説明する。興味があるなら自分で勉強して欲しい(コミットメントにこだわるなら、マクロだけでなくミクロのテキストも学習すると良い。繰り返しゲームあたりなど)。重要なのはどうやってコミットするかということ。例えば、無限繰り返しゲームを仮定して、一時的なサプライズインフレーションを行うインセンティブを中銀がもっていたとする(中銀の目的関数はこの文脈で一般的なものを用いる)。この場合、例えば一度でもターゲットレートを上回るインフレ率を中銀が設定したら民間は以後中銀を信頼しなくなる、というトリガー戦略を敷くことで、中銀にターゲットレートを守るインセンティブを与えることが出来る(この戦略は、若干修正すれば中銀が経済のstatusに対してprivate informationを保持している場合、または中銀が完全にはインフレ率をコントロールできない場合にもある程度は対応することが出来る)。これによって、中銀はターゲットレートにコミットすることが出来る。
このコミットメントと、リフレ政策が要求する「いつか景気が回復したら均衡インフレ率以上にインフレ率を誘導する」ことにコミットすることとが「同じ」だと言えるのか、ということ。クルーグマンが仮定した「均衡実質金利が一時的にマイナスになっている状況」からの脱却がcommon knowledgeであればまだ何とか両立は可能かもしれない(同じなどでは全くないが)。しかし、それが例えば中銀のprivate informationであった場合には(均衡実質金利などという統計など存在しない)? 2つのコミットメントが異なるのは言うまでもなく、両立も困難と言わざるをえない(不可能であるとは言わない)。
加えて書けば、クルーグマンが仮定する「来期には均衡実質金利はプラスに復帰する(中銀による過剰なインフレが実行可能になる)」の「来期」が遥か先のことだとしたら?その遠い将来に必要となる(より)過剰なインフレにコミットすることが、本当に可能なのか? 今現在インフレーションバイアスを抑制しているコミットメント・メカニズムが、その遠い将来の過剰インフレへのコミットをも可能にするなどと何故簡単に断言できるのか。
もし依然としてこっちの書いていることに納得できないというなら、「なぜ同一視できるのか」、そのコミットメントメカニズムを分かるように説明してもらいたい(論文の引用でももちろん構わない)。正直疲れてきたので、二つのコミットメントメカニズムが同じとは言えない、ということくらいはそろそろ納得してもらいたいのだが。
連鎖を断ち切る必要はない。というかそんなの無理でしょ。
そりゃ、君には無理だろうな。
なにより暴力抜きに治安の維持は不可能。
じゃあ、なぜテロがなくならないんよ。
ま、そういうミクロの話とは別に、世界最強の軍事力を有していれば国際社会で多少のゴリ押しも可能になる、ということはアメリカさんが教えてくれたわけで。
する必要がないんじゃ。
なら、その「国益」のために、国家の主権を手放すこともあり得るということでいいわけ?
この程度の未来が読めないんじゃ、そう思うのも無理はない。
前にいってることと矛盾することを、同じひとまとまりの文章中でいえる感性には驚かされる。
連鎖を断ち切る必要はない。というかそんなの無理でしょ。
そりゃ、君には無理だろうな。
なにより暴力抜きに治安の維持は不可能。
じゃあ、なぜテロがなくならないんよ。
ま、そういうミクロの話とは別に、世界最強の軍事力を有していれば国際社会で多少のゴリ押しも可能になる、ということはアメリカさんが教えてくれたわけで。
する必要がないんじゃ。
なら、その「国益」のために、国家の主権を手放すこともあり得るということでいいわけ?
この程度の未来が読めないんじゃ、そう思うのも無理はない。
前にいってることと矛盾することを、同じひとまとまりの文章中でいえる感性には驚かされる。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
数学と物理学を省略したければ,数学を『理学を志す人のための数学入門』とAdvanced Engineering Mathematicsとに,物理を小教程(熱・統計は適当に補う)にしたらよい.
自衛論はミクロ的に正しく、反自衛論はマクロ的に正しい、と。とりあえず、反自衛論がマクロ的に正しいとして実現性はあるのか、とか、そもそも反自衛論はマクロ的に正しいのか、といった反反自衛論が思いつく。
また、「犯罪の被害に遭うリスクを減少させるため、自衛法を説く」がミクロ的に正しいのであれば、マクロ的に正しい反自衛論は「自衛法を説かないことで、犯罪の被害に遭うリスクを増加させる」という欠点も持つということにもなる。
自衛論者を自衛論から脱させるには、自衛論からの脱却をどう実現するかとか、反自衛論が長所と欠点を天秤にかけていかにマクロ的に正しいかとかを示すことが必要じゃないかなーと思う。
半分くらい同意だが、もう半分は反対。反対部分について、代案付きで書いとこう。
まず英語ネイティブじゃないなら、小中学校で国語教育は必須。とりわけ、国語読解力が無けりゃ他科目は学べない。また、読解力に加え、文章を論理的に書く力を育てるべき。そのためにはパラグラフの要約練習と、パラグラフライティングの練習が肝。
まず歴史について。近現代史が現在の世界を理解する上で大事なのは分かるが、それだけでは不足。歴史上の大事件がなぜ起こったのか、大国(ローマ、中国、アメリカとか)の興亡の原因は何か、場所も時間も異なるのに繰り返し起こるパターンは何か、あたりは理解しておきたい。こういった知識は、世の中の大きな流れを理解して、自分の身や仲間を滅ぼさないように身を処していくために不可欠。
次ぎ、会計とマーケティング。高校では経済なんか教えるより、高校まで義務教育化した上で、中高一貫で会計とマーケティング教えたほうが、国民のほとんどがビジネスパーソンになる現状を考えると、より実用的。会計とマーケティングが分かれば、経済の仕組みや国の政策を理解する素地にもなる。実習として、中学でプロジェクトマネジメント、高校で事業計画も必須。ミクロ・マクロの経済学は大学からで良い。
あと倫理。いかに能力があってもその能力を反社会的な方向に使うヤツは要らない。ヒトラーとか。だから、高校では、人は何のために生きると皆がまとめて幸せで在れるのかを考えることを目的に、倫理を必修化すべき。その目的のためには、今の倫理の教科書はウンコ。もっと主要な宗教・哲学・心理学の教義のみに内容を絞り込んで、どれが自分に一番しっくりくる信条なのか、生徒一人ひとりが選び取れるようにしたい。
理科で生物学を中心に教えるべきというのは謎すぎ。教えるべきは科学リテラシー。科学リテラシーってのは、観察から因果関係の仮説を思いつき、それを実験あるいは統計で検証する力。科学リテラシーを叩き込んだ上で、余裕があれば、物理、化学、生物の優先順位で教える。物理が分からなければ化学は研究しにくい。化学がわからなければ、生物は研究しにくい。
どんなに個人主義だ自由主義だといっても、家族関係というのは逃げられない最後の砦のような関係だと思います。
青少年向けの物語って、特にライトノベルとかそうかなあと思うんですが、両親の存在を消すか薄めるか非現実的にするかしないと、なかなか成立しないんですよね。そもそも、物語は親から離れたところで成立するものだと言っても過言ではないかもしれない。
親から離れるというのは、もちろん自立を促す要素が多分にある。けれども、それが離れるというよりも逃げるといったほうがいいような場合もあるわけで、その場合は現実逃避という評価になってしまうだろう。
いやー、『紅』という作品を見たんですが、ヒロインの女の子が、最後に家族と向き合う選択をするんですよね。話の大まかな流れとしては、「家」に縛られたお姫様を奪い去って逃避行、自由な外の世界へ、という感じなんだけど、そういう安易な方向で終わらせなかったのは作品の普遍性というか完成度という点で、成功だったのだろうと思う。
この前、『シャナ』の話で書いたことですが、シャナの3つの名前は、それぞれが彼女の属する位相の異なる価値に対応していて、シャナはミクロな日常の価値でもマクロな使命の価値でもなく、かけがえのない個人としての選択をしたのでした。
『紅』のヒロイン紫も、それと同様だったということができます。男の子との幸福だが閉じた関係でもなく、「家」のしきたりという与えられた使命にただ従うのではなく、かけがえのない個人紫としての選択をするわけです。この選択のシーンは、シャナがシャナとして戦いに赴くときのシーンと見比べると、まったく世界観の異なる作品同士でありながら、まったく同じことが起こっているのがありありと分かります。というより、セリフの内容と言い方というレベルでさえ、同じなのです。
どちらも、フレイムヘイズやあるいは「家」のしきたりというあらかじめ与えられた使命がスタートでした。そこから、ミクロな日常の幸福を経験した上で、改めて個人としての選択をするという構造になっています。物語が発動する部分というのは、この、あらかじめ与えられていた、はめ込まれてしまっていた関係をリセットするという部分に求められるでしょう。そして、ゲームのリセットと同じように、再プレイしたときには、前よりも上手に、もっと先のステージまでプレイできます。物語の効能もそれと同じで、前と同じ現実に戻ったように見えながら、実は物語によって経験したことを通して、以前とは少し違ったよりよい優しい関係を築くことができるのです。
シャナは「シャナ」という名前を悠二からつけられる。この命名はかなり一方的なようにも見える。しかし、命名というのは本質的に一方的で暴力的なものなのではないだろうか。それは、命名という行為が自分自身によらない、少なくとも命名を引き起こす原因が自分自身によらず、他者によってなされるということから明らかなように思われる。事実ほとんどの人は自分の親から一方的に名前を決められる。
ところが、この、他者から一方的に、暴力的に決められたはずの名前が、しばしばアイデンティティーの基点、「自分が自分であるという同一性」の基点となる。
『とらドラ!』についてのメモで、インコちゃんが自分の名前を言えないのは、主人公たちが自分のアイデンティティーを持っていない状態であることの寓意であるという解釈を以前示しておいた。また、『灰羽連盟』においては、名前がより具体的意味合いを持って象徴的に描かれており、自分の真の名前(あるいは自分の名前の真の意味)を知る(あるいは獲得する)ことが自分の本質を知る(獲得する)ことと同義とされていた。
これらは物語の例だが、実際に名前がこのようなアイデンティティーと密接な関係がなければ、われわれがこれらの物語にリアリティを感じることはできないだろうし、実際多くの物語が名前を象徴的に扱っているのは、われわれの無意識が名前がどのような機能を果たす記号なのかを実は知っているということの証左ではないだろうか。
しかし、ここで疑問が生じないだろうか。物語の主人公たちは、元々名前を持っていたのではないだろうか。特殊な設定でもなければ、ほとんどの人物たちは最初から名前を持っている。それなのに、その名前が物語の序盤ではアイデンティティーの基点になっていない場合が多いのである。シャナはその特殊な「最初は名前がなかった」という例だが、命名されてすぐにアイデンティティーが確立できたのかといえば、まったくそんなことはない。
ここで僕が提示する答えは、名前は確かにアイデンティティーの基点なのだが、時間の経過に伴う経験の蓄積を通して、意味を充填されることで初めてその機能を果たす、というものである。つまりシャナでたとえて言えば、命名された時点t1における「シャナ」と、その後の経験を蓄積した時点t2における「シャナ」では、その意味する「シャナ」の内実が違うのである。
ところが、内実が違うのに同じ「シャナ」である、というところが名前というものの核心である(多分)。過去の自分と現在の自分は本当は違う存在のはずである。なぜなら、過去の自分の経験と現在の自分の経験は違うからである。肉体的にも我々は年を重ねて少しずつ変化を遂げているのであって、「同じ」であり続けることはない。にもかかわらず、われわれが自分が自分である同一性を失わないのはなぜか。名前を持つからである。正確には、他者に呼ばれる名前を、であろうか。一つの「他者から呼ばれる名前」が、過去の自分と現在と自分を統一的に(この統一的にという部分に注意されたい。離人症患者などではこの統一性は失われる)つなぎ合わせることによって、アイデンティティーを確立することができるということである。
シャナがかけがえのない個人「シャナ」として確立されるのは、大雑把に言えば悠二から「シャナ」と呼ばれることの連続性によっている。思えば、『とらドラ!』においても、大河との関係を徐々に深め始めた竜二が「大河!」と大河の名前を叫び、「俺は犬じゃない、竜だ!」と宣言し、大河がその名指しに反応するという場面があるのだが、これもある視点を持つ他者から名前を呼ばれる、ということがアイデンティティー確立の物語へのスタートになっている。さらにスタートだけでなく、物語の途中も、終結も、すべて名前を呼びかける他者を基点として展開する。
シャナにおいては、「シャナ」という固有名の確立を際立たせる展開として、平井ゆかりでもフレイムヘイズでもない名前、という対比がなされる。平井ゆかりというのはシャナが人間世界で暮らすための偽名であり、日常の人間関係に重点のあるミクロな価値を象徴する名前である。それに対してフレイムヘイズは世界のバランスを保つという彼女の社会的使命に重点を置いたマクロな価値を象徴する名前である。第一期の終盤、彼女はマクロな価値のためにフレイムヘイズとして悠二を殺すべきか、ミクロな価値のために平井ゆかりとして悠二を助けるべきかという選択を迫られる。しかし彼女はシャナとして世界も悠二も救うという選択をする。これは悠二と経験したのがマクロな世界での戦いとミクロな世界での日常の両方においてであったことと関係しているだろう。シャナにとって、マクロとミクロは矛盾しない。なぜならマクロにおいてもミクロにおいても、シャナは悠二からシャナと呼ばれ続けたからである。
他者からの呼びかけによって、一つの名前に時間とともに意味を充填していくこと、それによってアイデンティティーは得られる。それは物語というものの本質でもあるかもしれない。
ウイルス99%遮断? マスクの多く、表示効果下回る http://www.asahi.com/national/update/1118/TKY200911180453.html
ってのを見て国民生活センターのアレを頑張ってまとめてみたよ
元データは http://docs.google.com/viewer?url=http://www.kokusen.go.jp/pdf/n-20091118_1.pdf を見てね
これは、ライフサイクル仮説というので説明されることが多い。
一般的に、老後の貯蓄率<若者の貯蓄率で、老人が増えて若者が減れば、国全体の貯蓄率が減る。2000年以前は、日本に当てはまらない仮説だと言われていたのだけど、ここ数年で貯蓄率が減少してきた。
高齢化の進行に伴って家計部門の貯蓄率が低下するメカニズムは、ミクロベースのライフ・サイクル仮説によって裏打ちされるものであり
日本の家計貯蓄率の高さは、老後生活のために貯蓄に励んでいる現役世代の割合が高かったという人口構造に由来するところが大きかった。高齢化が進んだことによって65歳以上人口の割合が22.1%に上昇し、老年人口割合が最も高い国のひとつとなったことで、日本の家計貯蓄率は大きく低下している。
http://www.nli-research.co.jp/report/econo_eye/2009/nn090708.html
色々、本を読んだり、試したりしているが、難しい。
今までやってきた方法論と考え方をある程度、整理するために、自分の考えを書きながらまとめていこうと思う。
議論はしたくないが(ハイ、チキンです)、ご意見をいただけると嬉しい。
正直、純文学は俺自身よく分かっていないので、エンタメ小説の話という事を前提に読んでいただければ、と思う。
まず、物語のパターンに対する有名な言説として、『村上龍の「穴に落ちた主人公が、穴から這い上がる」「 穴に落ちた主人公が、穴の中で野たれ死ぬ」の2つしかない』というのがある。おそらく、これはエンタメ小説の基本形だと思う。「そもそも穴はどうしてできたのか?」「主人公は本当に穴の中にいるのか?」「そもそも主人公はなぜ主人公なのか?」のようなことを延々と逡巡するのが純文学かも知れない(純文学は読まないので、間違っていたらごめんなさい)。純文学は、(面白い/鋭い/ビビットな/より本質的な)問題提起自体が重要であって、それを読者に考えさせることが主題である……様な気がする。ただ、純文学の作者にせよ、物語の基本を踏まえたうえで、あえて外すからサマになるのであろう、とは思うが。
話を元に戻すと、エンタメ小説の基本を俺なりにさらに単純化させると、「主人公が問題を解決するか/しないか」であると思う(以前、増田の「5分で物語を作れるにようになるコツ(p://anond.hatelabo.jp/20091002081424)」が話題になっていたが、この増田の考え方はそれほど間違っていないと思う)。ただし、エンタメ小説は、エンターテイメントである以上、読者を楽しませなければいけない。問題が解決するにせよ、しないにせよ、きちんと納得の行くオチにすべきであろう。そうしないと、読者は満足感を得られないだろうし、満足度が低い店に行かなくなるように、ファンもまた離れていくと思う。
もちろん、将来のファン離れを心配する前に、やる事があるのではないのか?というのはごもっともな意見だと思うが、やはり、自分でも読んでいて面白い物語を書きたいし、途中まで書いていて、自分でも面白くないなあ、と思った事がたびたびあるのでその辺を考えていきたい。
では、面白さとは何か、という話になる訳だが、「主人公が問題を解決するか/しないか」に絞って下に挙げてみよう。
(1)基本的に、読者は「主人公が問題を解決するか/しないか」分からないから、ハラハラドキドキする。サスペンス性(→suspense 不安感。特に、映画や小説などで、観客や読者が危機的な場面にはらはらする感情)。あるいは、大抵のエンタメ小説の場合、「主人公が問題を解決してしまう(読者も基本的には楽しむために読むので、ハッピーエンドも望んでいるはず)」ので、どのように解決するのかという点が重要。
(2)問題設定の面白さ(舞台設定/キャラクター設定/問題の大きさと主人公の能力のバランスなど)。”奇(変わっている事)”であり、”妙(巧妙さ。全体のバランスも含めた緻密な設定)”なほど、評価が高いのではないか?ジャンルがSFやミステリの場合、いかに凝った問題設定と解法を用意するかがキモになると思われる。ただし、あまりにもぶっ飛びすぎていると、読者が感情移入できなくなる問題も発生するような。
(3)間口の広い感情移入の仕組み。感情移入できない主人公の小説というのは、エンタメ小説の”てい”をなしていないのではないだろうか。主人公に感情移入出来なければ、他人事と捉えられてしまい、熱中して読んでもらえなくなる。想定している読者になんらかの”共感”を持たせるような主人公を用意すべきではないだろうか?(例えば、何らかのコンプレックスを持たせる)
(4)展開のドラマチック性。(1)の”サスペンス性”にもつながってくる話だが、「読者が想定している期待度を超えるという意味で、予想を裏切る」展開が重要になるのではないか。展開が二転三転して、劇的な勝利(問題解決)をするというのが理想かも知れない。もちろん、より読者にドラマにのめり込んでもらうためには、(3)の”間口の広い感情移入の仕組み”が必要でないかと思われる。
つまり、教養小説(ビルドゥングスロマン)的側面。通過儀礼(イニシエーション)としての小説。これこれこういう理由で、彼は”強く””大人に”なったのさ、というお話としてのエンタメ小説。
また、面白さとは何か、を追求していくと、以下のような視点も考えられはしないだろうか?
(1)読者の想像力を喚起させる事
例えば、文章レベルで言えば、情景が浮かんでくること。読者に、痛み/恥ずかしさ/快感などの感覚を想起させ、リアリティを持って受け止めさせ、疑似体験させる事。”体験的なもの”として、読者に受け取ってもらえるか。文脈レベルで言えば、展開の読めない”不安”感、手に汗を握る”緊張”感、問題解決による”達成”感などを過去の展開の蓄積により実現しているか?
(2)読者の欲望を刺激する事
例えば、女の子の描画。ポルノでも萌えでも女の子のかわいらしさをどういう風に表現し、読者の想像力を喚起させるか。あるいは、食べ物の描画。うまそうな食べ物をうまそうに(文章で)描画できるか。カッコイ戦闘機をどう格好良く(文章で)描画できるか。外には、ファッションなど。粋なファッションを粋に表現できるか。読者が関心がある事柄に対して、いかに”幻想”を抱かせ、”欲望”を感じさせるか、という点。
(3)教養としての側面
さりげなく、”うんちく”を混ぜる。例えば、中世ファンタジー物だったら、朝食は貴族しか取れなかった事を説明しながら、朝食を要求する元貴族の商人の心理を読者に想像させるなど(ライトノベル「狼と香辛料」にそんなネタがあったはず)。個人的には、少々苦手。資料用に読んだ本で気に入った設定はメモっておくなどしているのだろうか?
(4)虚構と現実の境界性
例えば、伝奇ものの面白さ。現実の実在の人物(や場所?)がファンタジーで出てくるというハイブリット感。あるいは、2chのどこまでネタか分からない感というか。
(5)比喩表現の面白さ
暗喩と直喩。村上春樹は独特の比喩表現で有名になった訳だが。(1)の”読者の想像力を喚起させる事”や(2)の”読者の欲望を刺激する事”に密接に関わってくる。例えば、「彼女の組んだ腕の上には双丘が気持ちよさそうに並んでいる」の様な表現などはどうだろうか。
(6)気の利いた会話
最近流行りの会話劇だが、コントや漫才、ネット上のやりとりなど、トレンドの文脈をある程度押さえつつも(気に入ったネタはストックしておくべきか)、表面だけの真似に留まらないために、自分の言葉による体験的要素も問われるのではないか。
(7)説得力のある説教
ガンダムの富野氏の説教くらいに説得力がありつつ、面白い説教するためには、独自の価値観を持っている必要がある。大抵の人は人生経験を積めば、それなりの一言を持っているはず。一人の人間としての成熟性が問われる、のかも知れない。
(8)笑いの要素
ギャグ/ユーモア/パロディ/言葉遊びなど。個人的に苦手な要素である。自分の場合は、どうも野暮ったくなってしまう。センスや基礎教養が問われるからかも知れない。とにかく面白いと思う話を大量に読み、小話を書いたりして、自分にあったやり方を発見するしかないのではないか。自分の場合は、実にどうでも良い事を真剣に議論していく話がウケが良いようだ。
(9)恐怖の要素
笑いと恐怖は近いものがある、と言われている。(8)の”笑いの要素”がうまく書ける人は、恐怖もうまく書けるのではないか。これも個人的には苦手な要素だ。ホラー映画も苦手だし。単に読者のトラウマを刺激しても、嫌われるだけだろうし……。ただ、最近のトレンドにはこの要素が絡んでくる作品も多いのではないか。また、サスペンス性を上げるという面でも重要な要素であろう(ジェットコースターのようなスリルと快感の関係というか)。それから、演出技法としては(1)の”読者の想像力を喚起させる事”と関連性が高いと思う。スティーブン・キングなどを読んで勉強すべきかも。
(10)恋愛的な要素
いわゆる一つの萌え要素、と言う訳でもないが(ほら、スベった)、自分の中にある理想のヒロイン像を具現化して駆け引きを思考実験するという意味では、裸になって踊るようなものだと思う。慣れれば快感になるのかも知れない。ただ、個人的には最近、食傷気味。
(11)バイオレンス
闘争本能を刺激する要素。”読者の想像力を喚起”させ、重みのあるリアリティとして受け取ってもらえないと、単なる茶番になるような気がする。
……ひたすら要素を羅列してきたが、要するに、”読者の感情や価値観を揺さぶる”という点が重要なのかも知れない、と思った。
(文字による心理操作によって衝撃を与える、という意味では、詐欺師に近いものがあるというか。嘘をつくのがうまい人間がお話を作るのが上手、というのも頷ける。本来、エンターテイナーというのはそういうものなのかも知れないが。ヤクザな業界というか。現在最強の任天堂さえ。というか、任天堂こそが勝つべくして勝っている”名博打打ち”なのではないか。そもそも、経営という概念自体が(ry)
あと、話題になっている、うまい=面白いでない、という件について。
テクニックは描いた量に比例する(作品の)魅力は考えた量に比例する
物語の中だるみについて。
途中からなんだか間延びしている、なんだか乗れない、と感じたとき、物語の推進力が低下している。
主人公を追い込んだり、障害を増幅したりして、推進力を高める必要がある。すなわち障害やクリア条件を上げていくのである。
主人公は最後のゴールに簡単に到達してはいけない。ハードルが最初よりも下がってはいけない。敵が最初よりも弱くなってはいけない。
考えてみれば、続刊の出ない、あの小説やあの小説も、すでに、主人公を危機に陥れる「強い敵(難しい問題)」が取り除かれてしまったのではないか。あとは、シミュレーションゲームの終盤局面のように力押しで何とかなる状態というか。主人公がリアルに死ぬ/臨死体験するくらいの危機が常にある状態で、最後の最後で、”おおかた”の問題が片付くのが理想かも知れない。
文章力の磨き方。
基本かも知れないが、自分の好きな作家の文章を写す(タイプする)。良さが理解できない作家の文章を写しても多分、意味は無いと思う。文章を写すだけのヒマがない場合は、ラインを引きながら読むだけでも違うような気がした。逆に思ったのだが、好きな作家の文章をラインを引きながら読んでいると、作者の認識力の限界を見切る事がたまにある(例えば、そもそもの問題設定の矛盾とか、作者のルーツ(根源)はどこにあるとか)。その辺が大切なのではないか。また、好きな作家は最低二回読むべきかも知れない。
(Webより引用)
正しく見るためには二度見よ。
美しく見るためには一度しか見るな。
実は、優れたツリーの裏側に何十枚もの「デッサン」がある。
例えば医者コントってテーマを決めたら、オーソドックスな医者コントを、だーっと全部考える。
それだけでも充分おもしろいっていうネタにしておきつつ、更に松本がやった作業って言うのは、 部分部分で、どれだけ予想できる笑いを裏切るかって作業。確かにこれでもおもしろいけど、ここはこうやったらもっとおもしろい、こうやったらもっと裏切ってる…そういうのを延々繰り返していって、どれが一番ベストな裏切りかなぁってことを積み上げて、ネタを磨き上げていくんだって。
例えば、小説の創作手法にシミュレーション的手法を取り入れるということなのかも知れない。つまり、何回も思考実験を繰り返して、ドラマチックな展開のものだけを商品化する、という考え方。確かに、小説は元々、思考実験的な物を含んでいると思う。
その他。
「最初からフルスクラッチすると、効率が悪すぎる(1から作るのは大変であり、ベーマガのプログラムを改造しながらプログラミングを覚えていったように、まず改造する)」「問題を小さく切り刻む」「リファクタリング」的な要素を考えると、二次創作のSSをとにかく大量に書き、慣れてきたら、規模を増大させていく、徐々に設定も作り込んでいく、の様な方向になるのではないか。
まだよく分かっていない事。
あかほりさとるの新書に、「見たいシーンを書け」と書いてあったが、全く別のWeb上の指摘で、「最近のドラマは、脚本家が見たいシーンだけ繋げていった感じで、物語的な山場や整合性が軽視されているのではないか?」のようなものがあった。その辺の解決法。
文章の勉強以外であまり再読をした事がないので、よく分からない。
何かを創り出そうというタイプの人間には多かれ少なかれ、精神的な「欠損」があります。
その欠損を埋めようとするところから、何かをクリエイトしたいという欲望や欲求が生まれてくることが多いのです。
もちろんそれだけじゃないけど、そういうケースはしばしば見受けられます。
問題はその欠損をどこまで「普遍的なもの」にまで高めていけるかということだと思うんです。
中にはその欠損の欠損性にいつまでも拘泥しているという人もいます。
それでは本当の芸術にはなりませんよね。そのためには、人はもっと広く世界を見なくてはなりません。
人生は長期戦ですから、ゆっくりとしっかり息をしながら、前に進んでいってください。
まとまらないけど、以上。
補足。
(1)確かに、とりあえず、稚拙でも一作書き上げるという考えもありかも知れない。試してみるか……。
(2)色々本の紹介、ありがとうございます。
(3)Webからの引用元を書かないのに、他意はありません。面白いと思った文章は個人的にスクラップしているのですが(ローカルのメモ帳にコピペするだけ、のようなもの)、URLまでは保存していませんでした。申し訳ないです。
(4)確かに、あるパターンの繰り返しや場面転換の組み合わせというのは、あまり考えた事がなかったですね。なるほど。……少し見通しが立った感じです。ミクロレベルとマクロレベルの視点を重視しすぎて、中規模レベルのパターン認識がうまくいっていなかったようです。皆さん、ご意見ありがとうございました。(さらに追記すると、これは上に書いたあかほりさとるの新書の話にも繋がってきますね。それなりに問題意識を持っていたけれど、もう一押し足りませんでしたね>自分)
そういう風に噛み付く人って大抵は何らかのの心当たりがあるからやってるんだろうけど。
子供手当てと高等教育無償化って、別に中年以上を対象とした政策ではないと思うのだけど。中年以上の人間は子供の養育・教育なんか半ば以上終わってると思うし、そもそもこれらの政策の主眼は、そういう親世代に対する負担の軽減というよりも、その子供達が持つ潜在的な人的資源の価値を高めるための投資じゃないのかしら。(まあ、親世代に対する効果を狙っていない、ということはないだろうけどね)
それと「施し」「開発」なんて言葉で括って現代政治を捉えるのはちょっとどうなの。国民の福利厚生・教育水準を高く保つことは、同時に将来の先端産業の発展可能性を高め、その消費者を生み出すことでもあると思うのだけど。何でそんな二項対立の構図で政治を捉えているのかが皆目見当が付かない。元増田が考える「開発」って一体ナニ?申し訳ないんだけど言ってることが凄く前近代的な印象を受けるよ。
今更国家主導の産業・経済政策を称揚するが如き言説をするところもそうなのだけど、元増田は政治に対する意識が非常に保守的というか、アナクロな部分があるように思う。正直、あんまり同意できないなー。例えば、かつてのシグマ計画みたいなことをやられても「開発(笑)」みたいにしかならんし、その手のミクロな経済・産業振興は民間に任せろよ、と。市場がまともに機能してないような国じゃないんだから。
あとこの辺、
民主主義における選挙では、頭が悪い人間をたくさん集めることすなわち勝利なのだ。(頭の良い
人間は、機会がある度に判断して誰を支持するか考えなおすので信頼がおけないが、無知な人間は
一度支持と決めたら「支持すること」が目的にすり代わってしまうことが多々ある、あるいはそう
導きやすいのも都合が良い)
定量的にこの主張を裏付けるような研究・文献があるようなら教えて欲しい。
正直、そんな単純な動きで政治を測ることができるなら、自民党はあんな大敗を喫することはなかったと思うのだけど。
はてな界隈では「はてサヨ」なる言葉があるぐらい、右翼とか左翼とかという単語はバズワードなので、
そもそもそれぞれどういう思想を指すのが適当なのかについて、整理してみた。
フランス革命政権において、非特権階級の利益を代表する勢力(=共和派・革新派)を左翼、それに対して旧体制における受益者の利益を代表する勢力(=保守派)を右翼と言ったことから(議会の座席の位置取りに由来)
持たざる者である左翼が、(平等志向の)分配を要求し、持てる者である右翼が非分配を主張するという構図が一般的。
左翼は(理想主義的な)平和志向が強く、右翼は好戦的とは限らないが、交戦権自体は主張する。
ただし、これに関しては例外は多い。
自民党のやってきたことは「右」路線なのは間違いない。(陳情によるボトムアップは正に「右」の手法)
しかし徐々にボトムアップの「ボトム」が経団連に代表される巨大企業になっていったことで、義理と人情の代表ではなくなった為、
小泉手法のような奇策に走らざるを得なくなり、そのあとは政権を失ってしまったのだと思う。
ここで重要なのは、陳情をしてくる相手が票をまとめられる存在であり続けたなら惨敗にはならなかったという事ではないかと思う。
企業トップの利益がその従業員、および取引先企業の利益と決定的にかけ離れてしまっているからこそ、自民党路線は民衆の支持を得られなくなってしまった。
また、一方で、企業の側も、(国内)政治による利益誘導がどうしてもと言うほど重要ではなくなっているからこそ、票をまとめられるような待遇と政治への要求をしなくなったのでは無いかとも思える。
もはや舞台は国内の議会政治がメインではなくなったのだと言う事で、もう議会の中での勢力争いそのものも時代遅れになっている。
民主党が「左翼政党」かと聞かれれば、微妙だと言わざるをえない。
なぜなら、左翼は最適社会の構築の為にこそ奔走するのであって、それに「友愛」が必要な筈はないからだ。
どちらかと言えば「人情」を謳う(日本的で穏健な)右翼の手法に近いが、「友愛」は外国に向けても謳われているところが違う。
推測するに、「全体」の範囲を「地球」に拡大した上での、経済的分配を伴わない「最適化」のツールとして言っているのではないか。
新種の左翼だとしても、多分200年は早い(かりに方向性があっていたとして)。
・ネトウヨが有名に。
・頻繁に誹謗中傷が飛び交う
・しかし余り極端な左翼論者が多いようには見えない
・ナチュラルに右翼な発言の人が散見される(そしてホッテントリ入り)
・個人ブログでの左翼な発言は目立ちにくい?(ホッテントリ入りはあまりしない)
それはファッションやITなんかのミクロ分野がどれほど市場を広げても、昔の建設業や自動車産業の替わりにはなれないからじゃないの?
マスコミの報道を見ていると、ある企業はこうやって売り上げを上げたとか、ジーンズの安売りを取り上げて固定客の確保とか、出てくる話はミクロの最適化の話ばかりなんだよね。
どうしてマクロ経済レベルで攻勢に出るには?デフレを退治するには?という取材ができないんだろうか。
母子加算、子供手当て、ご尤もです。
でも、これが1ヵ月後の雇用状況を良くするわけではない。
政治家に取材する時にも、即効で効く経済政策は何なのかって視点で聞かなきゃ意味ないでしょ。
先週9月27日の勝間和代が出てた番組、勝間がフィリップス曲線を出した途端にカットだったんだね。
その後、デフレ対策とかインフレ目標についてかなり激論があったらしい。
報道する価値を認められなかったのか、それとも報道するには微妙すぎる問題だとされたのか、どっちにしろ、肝心かなめのところが見られなかった。
その考え方は嫌いじゃないのです。むしろ、ありかなって思う。
実質的にそこに宇宙がるかどうかはまた別の話だと思うのですが、ミクロを追求していけばマクロを包括するというような思考展開は大好物なのです。
そしてやはり、手塚治虫は偉大だ。みんな考え付くことなのかもしれませんけれど。
しかし、宇宙も実質的に九割以上がよく分からない物質でできているのだし、宇宙がどこに存在しているのかが謎ですよね。
現状では開いている宇宙ということになっているみたいですが、その外が分からない。宇宙というものも空間ですから、必ず境界はあるはずなのに。
世の中よく分からないことだらけです。
がいて、もとの文章は「2)と3)の奴は頑張れよ」と言ってるように見える。
反論は「世の中 3) みたいな奴がいるんだから解れよ」と言ってる。
確かに「3)みたいな奴」がいることは考慮しないとかも。それを考慮して「2)の奴は甘ったれんな!」と言う主張なら反論ないだろうか。
ただ、それでも。
マクロで見たときには「3)みたいな人を何とかしなきゃ!」「不況で 2) に属する人が出て非正規雇用者が出るから何とかしなきゃ!」という問題があって、何とかしなきゃいけない。
でもミクロの自分の問題として考えてみると、普通の人にできるひとは、選挙で誰に投票するかを良く考えるぐらい。
そして、世の中が変わるのを待ってる間に、自分の就職活動期間は終わってしまう。
だからミクロの問題では、自分が2)だろうが3)だろうが、甘ったれずに努力して何とか内定もらわないと問題解決しない。
「正論言われて頭にくる!」とかじゃなくて、「誰が言ったかじゃなくて、何を言ったか」を気にして考えれば、甘ったれずに努力する意外に答えはないと思うんだけどな。