この話を始めるにあたっていくつか留意してもらいたい点がある。
一つ、これはいわゆる「腐」の作品を創作するオタクの話である。
特定のワードに触れるつもりは全くないが、カプや界隈といったそれらしきワードは話の進行上必要なので、そういった要素が許せない方は読むことをお勧めしない。
二つ、この文章には特定の誰かを非難したり貶めたりといった意図が存在しない。
この文章の書き手である私は確かに傷ついている。でもそれは誰かのせいでは全くなくて、強いて言わずとも私が勝手に傷ついているだけである。
おそらく、当事者たちがこれを読めば自分のことだ、あるいは関係者が読めばあの人のことだ、と思い当たるかもしれない。
もしこれを読んだあなたが当事者ないしその関係者であるなら、お願いだから私の前でこの文章に言及しないで欲しい。
私はどうしても抱えきれなくなってしまった気持ちを誰かに知ってほしくてネットの海にこれを投げ込んでいる、でもそれを自分の眼前に突きつけられて正常でいられるほどの覚悟を持っていないし、今後も持てることはないだろう。
いくつかの界隈を転々としながら現在の界隈と自カプに落ち着いている。
現在の界隈はとても狭い。きっとおそらくこれから広がっていくだろうが、これを書いている現在は創作をする人の数はとても限られている。
そんな狭い界隈の中で、私は自分と同じカプが一番好きだ!という人をまだ見つけられないでいる。
おそらくいないんだろうな、という諦めを持って久しい。だから少しでも自分のカプを好きだと言ってくれる人が現れるように、果ては自分のカプを創作する人が現れてくれるように、と祈りとも呪いともつかない気持ちを込めて創作をしている。
話は少しそれるが、界隈の中で私には仲のいい人が何人かいる。
その中から2人をこの話の登場人物にしたい。仮にAとBと置こう。
Aは雑食を自認するオタクである。一番好きなものはあるけどどれもこれも好きだし創作もする。
私はそのマインドが羨ましいと思いながら、仲良くさせていただいていた。
Bは雑食とまではいかずとも、自分の自カプに愛を注ぎ素敵な自カプを生み出すオタクである。
Bの自カプと私のそれは一緒ではないけれど、界隈の中ではお互いにとって数少ない解釈の合致する相手だった。
同じテーマで創作する、という企画を何度かやるくらいには仲良しであると思っている。
2人とも、通話をする仲であるし、都合が合うなら会おうとも言い合う仲だ。
Aの本命カプと、Bの自カプは一緒であった。
2人の一番好きなカプは私の自カプとは違った。それでも2人とも私の創作を好きだと言ってくれた。
前述の通り私は2人とよく通話をする。
Aは、喋らないと感想を言えない、と言っていた。
文章に起こすことがどうにもできないらしい。
そういう理由から、私はAから通話の際に自分の作品への感想を音声で受け取っていた。
Aが喋る称賛の内容は流量な語彙とみずみずしい感情にあふれていた。そんなに人を褒めることができるなんてすごいなあ、と思うくらいだった。
ところが、残念なことに私は音声で情報を受け取るのがとても苦手である。
学校の授業でも先生が喋ってる内容だけでは追いつくことができず、先生の板書を合わせないと理解することができなかった。
通話で予定を決める際にもなんども聞き直してしまうほど、音声情報を処理するのがどうにも苦手だった。
だから、大変失礼な話であるのは承知だが、Aが褒めてくれた内容を私はほとんど覚えていない。
褒められた事実は覚えている、でも何を褒められたのかはほとんど覚えていない。残らないのだ。
感想をくれなきゃ筆を折るぞ、が口癖だ。実際常にそう思っている。
だから、音声情報を処理できない脳みその都合から、ツイートや匿名ツールなど、文章として残る形で感想が欲しかった。
そうすればスクショなどの方法で保存して見返すことができる。いただいた感想は全てスクショして携帯のお気に入りに登録し、いつでも見返せるようにしていた。
そうして見返すことが私の創作をする心の支えであった。
私は人のリプ欄を見るタイプの人間なので、誰かからのリプライだってもしかしたら私を知ってもらえるきっかけになりうるという下心だって、あった。
でもAがそうやって喋った方がつつがなく思いの丈を伝えられるのなら、と、自分に残らない悲しみを飲み込みつつ受け取っていた。
また少し話がそれるが、本気で筆を折りたいと思った出来事があった。
詳細は省くが、創作に呪われ界隈を転々としながらも創作をやめられなかった私が創作をやめてしまおうと思ってしまったほどの衝撃だった。
でも、今はまた復活させている。創作意欲は死んでいる。生き地獄だ、と思っている。
なぜなら、少し前から私はAとアンソロジーを発行する企画を立てて主催を担っているからだ。
アンソロ参加します、買いますって声を受けているしそもそも主催なんだから放棄するような真似はよくないよ、と諭されて泣く泣くアカウントを戻した。
わかっている。Aの言うことは大正論だ。わかっている。
でも自分の創作意欲は死んだままだ。自分の作品なんて誰が好きなんだろう、私はこんなに心を注いでいたのに、と思う気持ちが止められない。
そういう時に一番薬になるのは自分の創作への感想だ。でも、直近で自分が投稿した作品の感想は一つも届いていない。
苦しい。続けるエネルギーがないのに、続けないといけない。
別のカプのつぶやきや作品はどんどんいいねが増えるし共感のリプがつく。でも私の創作にはつかない。
私はなんのために創作をしていたんだろう、と思うようになった。
もともと創作が楽しいから、自カプが好きだから始めたんじゃないのか?それとも認められるためのツールとして創作をしているのか?
それはもう卵が先か鶏が先かという話だからもう考えるのをやめた。
ぐちゃぐちゃだった。創作をやめることはできないのに、しないといけないのに、ずっと気持ちの整理はつかないままだった。
そんななか、Bがその自カプの作品をあげた。
素敵なお話だった。Bが生む作品はどれもこれも素敵で、新しく上げたものも例に漏れず素敵な作品だった。
純粋に自カプへの愛にあふれているんだろうな、と思ったその作品に、Aがリプライで感想を送った。
音声で聞くそれと遜色のない、語彙と称賛の気持ちにあふれた、文面だった。
心の中で何かがぽっきりと折れた。
肥大した承認欲求をかろうじて支えていたピンヒールが折れたような、乗っていた薄氷が足元に投げ込まれた石でがらがらと崩れ落ちたような、そんな気持ちで、私はAとBの会話を眺めていた。
私は文字で褒められたいと思っていた、それが私のわがままであることは火を見るより明らかだ。
Aに限らなかった。でも、Aに文字で褒められたいと思っていた。Aは私の創作が好きだと信じていたからだ。
私のお話が好きなら文字で褒めて、と願っていた。実に身勝手なのはわかっている。
でも、私が願って願ってやまなかったAからの文字での称賛を、Bは簡単に受け取った。
どうしても羨ましかった。
私はもらえないんだ、と思った。
本当に、筆を折りたいと思った。純然たる私の醜い嫉妬だ。
創作をすることで呪われた承認欲求が首を絞めるから、いっそ創作人としての人格を殺してしまおうと思った。
その苦しさを引きずって、怨霊のような私の創作人としての人格が生きながらえてしまっている。
いいねだけは来るけど感想が来ない、という理由で筆を折った作家は何人もいる。
私もそのうちの1人になりそうだ。
別に、そうなってしまっても構わないんだと思う。それでも世界は回る。
ただ、どこにも名前が残らない程度の作家である私の、そんなに短くない創作人としての過去が、何一つ報われないまま死んでしまうだけだ。
そうなったって、世界は回るし、私のフォロワーはきっと私を忘れていく。
誰かが送ってるだろうから私はいいや、どうせ貧弱な語彙しかないから、と感想を送らずにいる読み手のあなたへ。
それが続けば、たとえあなたがその作家を好きであったとしても、静かに筆を折って手の届かないところへ行ってしまうだろう。
そうなったら、どんなに嘆いたってもう帰って来ない。帰って来るかもしれないけど、帰って来ないかもしれない。
傍観者効果で人が死んだ実例がある。誰かがやるだろうから自分はいいや、という気持ちで人は死ぬ。人格は死ぬ。帰らぬ人になる。
創作人のわがままで申し訳ないとは思っているが、好きですの一言では不十分だ。
好きです、の前に一つの単語でいいから、目的語を添えて欲しい。あなたの絵が、小説が、この作品のこの場面が、表現が。なんだっていい。
何が好きなのか、それだけでいいから教えて欲しい。それだけで、読み手が思う以上に創作人は救われる。
一度呪われてしまえば、誰かの一言ぽっちで救われるほど心が弱くなってしまう。
たとえ悪意がなくても、誰かの一言ぽっちで死んでしまうほど心が弱くなってしまう。
そんな呪われた創作人を、救うことができるのは目に見える感想だけだ。
いちいち注意事項書かなくてもこんなクソ長文書くの腐ってみんなわかってるから
アカウント教えてくれや 感想投げに行くからヨォ
文章は読みやすいし、表現も丁重なので、言いたい事は判りやすく伝わっているよ。文章の才能は有ると思うのでそのまま続けた方がいいよ。承認欲求はそのまま創作意欲の強さなので...
今日も女はめんどくさい