モバゲやらGREEやらの全盛期時代から、私はソシャゲというものが大嫌いだった。
しかし、それが何故なのか、言葉にしようとしてもただただ「嫌悪感」という感情論でしか片付けられなかった。
さて、某ソシャゲが大炎上し、課金額がゲーム内通貨として返還され、その「石高」を巡って祭りが起きたのが2/25のことだ。
あれから既に2週間が経つ。
あの祭りを契機に、改めて考えなおすことができた。
そして、なんとか、この嫌悪感を説明することが出来るようになりはじめた。
きっと、私と同様にソシャゲが嫌いな人達も、同じような理由から嫌悪感を持っているのだと信じてこれを書く。
この「面白くない」は、客観的な事実としての「面白くない」だ。
ゲームを「ゲームたらしめている」要素が何か、考えたことはあるだろうか。
「ゲームとは、限られた選択肢の中で繰り返される絶え間ない自己決定である」
という言葉は私がTRPGのGMとなるべく研究をしていたとき出会ったものだが、まさに的を射た一文だと思う。
例えば人生ゲームを考えて欲しい。友人たちと遊ぶのは確かに楽しかった。
残念ながら、人生ゲームに自己決定の介入する機会はほんの数回しか訪れない。ゲーム展開の99.9%はルーレットで決まる。
ここで誤解しないで頂きたいのは、「運ゲー=クソゲー」ではないということだ。
綿密な戦略が求められるストラテジーゲームですら、最終的に攻撃が直撃するか否かは乱数に委ねられる。
しかし、私たちは「集中」とか武器補正で、その確率に影響を与えることができる。これは紛れも無くプレイヤーの自己決定によるものだ。
人生ゲームも、例えば「1ゲーム中10回までルーレットを振り直せる」みたいなルールを足せば、幾分かマシなゲームになるだろう。
仮に全力を尽くしたにも関わらず攻撃がスカったとしても、「命中率を上げようとした」という自己決定自体は確かにそこに存在している。
自分の決定が、ゲーム世界にあらゆる影響を与える。これがゲームをゲームたらしめている要素だ。
さて、ソシャゲに、そのような自己決定を促すメカニズムが十分備わっているといえるだろうか。
典型的なソシャゲには、「ガチャとパーティ編成、ちょっとしたゲームらしさ」が備わっている。
ちょっとしたゲームらしさ、というのは、パズドラやらモンストやらにあるパズルらしい要素のことだ。
左下で3コンボを確定させて・・・とか、ダメージ壁を回避するためにこの角度で・・・という作業は、確かに紛れもなく自己決定の連続だ。これは「ゲームしている」と認めざるをえない。(裏を返せば、ただ戦闘結果を待つだけの艦これ系ソシャゲはその時点で論外だ)
だが、大勢を決するのはあくまでパーティ編成であり、もっと言ってしまえばガチャ運・ドロップ運である。
どれだけ優れた操作ができたとしても、思慮深いパーティ編成を行えたとしても、初期メンバーだけでは一瞬で壁にぶち当たる。
そんな時の解決法は唯一つ。ガチャを引くこと。
これのどこが自己決定なのか?
で、そのちょこっと残ったカスみたいなゲームらしい要素に、何万もつぎ込む価値があるのか?
マクロを組んで放置していればいずれ突破できるような、人間の知性をかけらも必要としない「それ」は、本当に価値のあるゲームか?
こう言うと、間違いなくこう反論される。
「何に価値を見出すかは人それぞれ、そこにケチをつけるのはナンセンス」と。
ここで、ソシャゲを嫌うふたつ目の理由を示そう。ソシャゲの氾濫はゲーム業界にとって不健全だからだ。
「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉がある。
そこらのソシャゲと最新の超美麗オープンワールドゲーを比較して、後者の方が作るのが簡単だと思う人はいないだろう。
しかし、現実には、超美麗ゲームではなく、前者のような極めて低い技術力・アイデアで作られたゲームに、多額の課金という不当に高い評価が与えられている。
今の市場では、本気の一作をつくり上げるよりもソシャゲに流れる方がはるかに安全なのだ。
「ガチャとパーティ編成、ちょっとしたゲームらしさ」という既存のシステムでがっぽり儲けられるなら、新しい技術やシステムは生まれない。
それどころか、数十年にわたって蓄積されてきた技術が次世代のクリエイターに引き継がれず、霧散してしまう可能性すらある。
数年後か数十年後か、もしくは意外とあっさり数カ月後になるかわからないが、とにかくソシャゲブームが終わった時に残っているのは荒廃した大地にほかならない。
これは、パブリッシャーの問題というよりは私達ゲーマーの問題だ。
さて、予め断っておくと、以下は私自身の哲学だから、主観的な内容だ。しかし、共感は得られるだろうから書いておく。
ゲームが私達の金銭状況や感情に影響を与えることがあっても、現実世界の状況がゲームに影響を与えることがあってはならない。
なぜなら、現実世界の現象がゲーム世界に影響を与えたその時点で、ゲーム世界は現実世界の一部として取り込まれ、消滅するからだ。
肉体的・経済的・社会的にどれほど劣った人間でも、ルールの下で平等を再配分され、互角に戦うことが出来る、それがゲームというものだったはずだ。
私達が真にゲームに求めているのは、「ゲーム世界内で」可能な限りの自己決定を尽くすことである。
それでいいのかゲーマーよ。我々はもう一度考え直すべきだ。
今の状況は、ゲームの進化の結果とは到底言えない。紛れも無く、プレイヤーを含めたゲームに関わる人々全員の怠慢が産んだ惨状である。
ゲームは新しい芸術の形だと信じていた、熱量に溢れた彼らはどこへ行ってしまったのか。
クリエイターになったのは、「自分の信じる最高に面白いゲーム」を沢山の人に遊んでもらうためではないのか。
別に、利益度外視・無償で提供しろと言っているわけではない。露骨に集金に走るのをやめて欲しいのだ。
売れない画家が生活に窮して空き缶を拾い集めているようで、見ていて本当に痛々しいから。
わたしのこと、愛してる?
過去に何度となく書かれているだろう類似の記事を探して学ぶこともせずに無駄に長い文章を垂れ流す奴の自己決定なんぞにどれだけの価値があるものか。
言いたいことはわかるし、滅茶苦茶論証が足りていないけどソシャゲが"薄い"のはまあほんとだよね。 だけどそれはほぼお使いクエだから、で済む話だし、何より売れない画家は高潔さ...
多分ゲームとして薄いからソシャゲは流行ったんだと思うぞ コンシューマゲーマーが言う「薄い」は大抵の人にとっては丁度いい塩梅なんだと思う そこにガチャという課金システムが上...