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2024-03-15

1月日本一赤貝丼を名取市閖上で食ったが最高だった

本当に人生で食べた赤貝の中で1番美味かった

若草寿司さんは本当に素晴らしい🍣

そしてコロナが終わったことだし日本各地で寿司を食いに行けるぞぉー!🍣

お金あんまりないけど貯めてがんばるぞお!

2023-03-11

被災地じゃない私の震災の記録

当時高校生だった私は、とある理由で全校生徒が体育館に集まっていました。

ある時、携帯電話からいたことのない音が鳴り響きました。校内持ち歩き不可のはずの携帯電話男子生徒の制服の内ポケットからスマートフォン女子生徒のカーディガンポケットから、そして渡り廊下の奥の教室から、けたたましく鳴る不快な音。

そしてズズズというこれまた聞いたことのない大きな低い地響きの後に、突き上げるような揺れが起こりました。体育館という建物はバネが効いているので、観測された震度の何倍もの揺れを身体に感じていました。

女子生徒の悲鳴、頭を覆えという教師の怒号、ギシギシと動く体育館の壁、そして見たこともないくらい左右にぶらんぶらんと揺れる天井の照明、何が起こったかからないと口を開けたままの友人の顔。

大きな揺れは収まりましたが、集会は中止になり即座に帰宅指導がありました。地元が同じ人間は一緒に帰って欲しいと先生が言っていました。電車は動いていなかったので、電車で通っている人たちは親の車を待つことになり、しばらく校内に残っていたといいます

この時、電波はなく、また不幸なことにこの地域だけ停電と断水が起こっていました。私たちは大きな地震が近くで起こったのだということしかわかりませんでした。

私は比較学校の近所だったので、歩いて帰りました。雪が残る道を必死に帰りました。家に帰ると、祖母が外で近所の人たちと話をしていました。咄嗟に外に出たと言います。着の身着のままで、寒さからなのか、揺れの怖さなのか、身体が少し震えていました。それは私も同じでした。あの体育館で感じた恐怖がまだ残っていました。

家の中はぐちゃぐちゃでした。食器棚が全て開き、割れた皿はなかったものの、倒れたものが床に散乱していました。

祖母病気後遺症で目が悪く、なにも触らなかったと言います。私はそれを片付け、両親が帰るのを待ちました。父も母も小学校教諭でしたので、我が家にすぐ帰ることは出来ませんでした。2人とも、自分学校の生徒をすべて家に帰し、家まで送り、その後に家に帰ってきました。

私の住んでいた県は断水が少なかったと、後から言われましたが、私の家のある地域は断水しました。そして停電も続きました。

雪国3月上旬オール電化だった我が家は非常に冷たく、静かで、怖かったことを覚えています。家がこんなに寒かったのだと、靴下を履いて眠ったことは初めてでした。

それまで肌が乾燥することはありませんでしたが、寒さにより乾燥し、頬が粉を吹きました。クリームを塗りなさいと親に言われたのは人生で初めてで、そこで寒いと肌は乾燥するのだと知りました。

全く暖房がないわけではありませんでした。石油ストーブがありましたが、この後どうなるかが分からないので、居間ひとつだけ点火し、大事に使おうと決めました。

父が帰宅して、仏壇用の蝋燭の火を囲み、家族4人でスープを飲みました。

その時に、宮城県が揺れたらしいと教えてくれました。父も母も私も、携帯電話電池が惜しくてネットを見ていませんでした。電波はかろうじて復活していたようでした。

明日になれば電気は戻るだろうと、その日は早くに寝ました。何もすることができず、寝るしかなかったのです。

眠る前、ストーブ灯油を入れるために外に出ました。その時、見上げた空を一生忘れないでしょう。私の住んでいた土地田舎で、普段でも晴れた夜は星が綺麗に見えていました。何度か旅行に行った東京の何倍も星が綺麗だなと思ったものでしたが、その日だけは違いました。星しか見えないのです。大きな星が爛々と瞬き、小さな星たちが埋め尽くし、いつもの星空とは全く違うものでした。

あんなに暗い田舎でも、明るかったのです。真に光がない夜はこんなにも星空を輝かせるのだと、心が震えました。そして、とても怖くなりました。知りたくなかったのです。こんなに星が美しいことを、災害で知りたくなかった。冷えた空気が鼻腔を凍てつかせたので、早く家に戻りました。

家に戻ると、父と母が携帯電話を見つめていました。母は手で目を覆っていました。ほら見ろ、と見せられたのはワンセグ放送でした。そこに映し出された映像を見て、足がすくみました。津波映像でした。仙台空港が波に飲まれていく、その映像でした。私は仙台空港自体には行ったことはありませんでしたし、仙台市にもあまり行ったことはありませんでしたが、石巻名取市閖上地区気仙沼には何度も行っていました。仙台空港がこのような状況なら、私たち旅行に行っていたあの場所はどうなっているのか、これはどんな被害なのか、何が起こったのか、全ては分かりませんでした。父の充電はギリギリで、それ以上は見ることができず、その日は諦めて横になりました。私はしばらく寝られませんでした。

閖上のサイクルセンターのどでかい合宿所みたいな部屋に家族4人で泊まり、その施設飲食店晩ご飯を食べたことが昨日のことのように思い出され、その建物は、そこの人たちは、どうなってしまったのか、怖くて怖くて堪りませんでした。

人が死んでしまうような災害だったのだろうかと、それすら曖昧でした。

情報がないというのがこんなにも不自由なのだと思ったのもこの日でした。

翌日電気が復活し、テレビ報道津波被害を目の当たりにしました。

あとはもう、ご存知の通りです。

断水復活までは少し時間がかかりましたが、私の地域はそんなに被害がありませんでした。建物に大きなヒビが入ったり、道路割れたり、といったところでした。余震は続きました。

ただ、普段明るくおちゃらけ雰囲気の友人が、宮城県単身赴任をしている父親と連絡が取れないと瞳と口の端をぶるぶる震わせて話す姿が目に焼き付いています彼女父親津波で亡くなったと聞きました。

私は大学生を経て、社会人になり仙台に転勤してきました。もっと生々しい震災の話を聞くことが多くなりました。

南三陸女川出身の子達は皆、口を揃えて言います。家は流されて実家はないのだと。仕事がなくなって仙台の街中に出てきたのだと。避難中に津波に巻き込まれて、電柱にしがみついて生きながらえたという人もいました。

私の仕事スーパーゼネコン施工管理でしたので、震災復興事業が主の時期でした。真新しいコンクリートの壁が海を阻みます防波堤は高く高く、そびえ立っていました。ひび割れだらけの建物が、そこらかしこらにありました。そして、本丸と呼ばれたあの地にも行きました。人の住まなくなった家は、あんなにも朽ちるのが早いのかと今も恐ろしく思います

なにより、この地域はよく写真展を開きます震災前の写真、直後の写真、今の写真、それらを並べて展示するのです。私はその写真を見て泣いてしまますイオン一角で、震災を知らない子供たちが走り回るイオンの中で行われていた写真展を見て、泣いていました。

今でも、その地に行くと、津波最高到達点という線が刻まれ建物があります。ここまで津波が来たぞという標識があります

どうか忘れないで。風化しないで。思い出して。

今日だけでいいです。

被災地じゃなくても、地震被害はありました。

お願いです。

忘れないでください。

2021-08-24

閖上駐在所

今年の8月2日から運用開始したらしいが、それに関する報道などが一切見つからない

宮城県内で地震津波によって使用不能になった数十箇所の交番駐在所

この閖上駐在所の完成ですべて復旧完了となったはずで

それなりに特別扱いしても良さそうなものなんだけどね

2021-06-06

anond:20210605203408

トロ丼食えてよかったな!

10年前の閖上津波瓦礫と土だらけで家がほぼ残ってなかった

9年前は草が生えまくり神社は土盛ったとこに移転

7年くらい前はだいぶ整備されてきてたけどまだまだという感じ

今じゃ土を盛って海抜あげたり堤防作ったりとかで開発進んで

増田が大トロ丼も食えるようになってよかったな!!

 

じいさんばあさんの家はもうどこにあるかわからんけど、これからひどい災害が起こらなければそれでよい

2019-08-13

anond:20190813075516

既出ですがエスパルのB1にもいくつかすし屋さんがあります閖上のみせもあるので元増田(上増田)もぜひ行ってみてください

2019-07-12

anond:20190712230515

この前も行ったけど、赤貝閖上に勝てないだろ🍣

仮に、東京まできてわざわざ閖上赤貝食ってたとしたら悲しすぎる🍣

2019-05-20

anond:20190520180011

閖上ブランドとしては突出しているんだけど、もっとうまい赤貝日本のどこかに

いないわけは無いと思うんだよね。

流通してないとか、食わせる店がないとか、単に人が存在を知らないとかあると思うけど

増田には一生をかけて閖上に勝る赤貝を探す人生を貫き通してほしいよ。

2018-07-10

東日本大震災半年後ぐらいの夏、大阪仕事で2週間ほど滞在した。東京から来たと言うと「大変やねぇ、食べ物とか水とかたくさん買って帰らんとー笑笑笑」みたいな反応だった。

東京帰ったら恐くて何も食べられへんやろ笑、買い占めて帰りー、玉出連れてったろか―?笑」とか「もう大阪におったらええやん」とか、割と悪いやつだと「まぁ天罰ちゃうんー」みたいなのまで言われた。

自分東京に住んでいたので生命にも財産にもありがたいことに何の被害はなかったが、地震の当日は地下鉄に乗っていて、幸いなことに30分ぐらいではあったが閉じ込められて怖い思いをしたし、家の中は揺れでそれなりにガッシャガシャになったし、福島原発事故のことも心にずっと引っかかっていたし、震災2週間後に仙台港あたりと名取閖上あたりに会社で行うボランティアどうするかの話をしに行ってひどい状況を見たこともあって、冗談で言っているんだろうけど、どうしようもなく憎らしいなと思った。

なので、今回の水害で「東京から見てるから初動が遅れてるんだ」みたいな言い方をされるのは、ちょっとあの時の言葉の数々を聞いた時の気持ちを思い出して腹が立つ。

もちろんすべての大阪の人が、当時そのように心無いことを考えていたとは思わない。はてブやれるぐらいの人に「これだから東京目線は」と腹を立てられてもなぁという気持ちもある。

寄付はする。災害を免れやす首都に住んでるメリット理解しているし負い目もあるし。でもあの時の腹が立った気持ちも思い出す。

しょせん、私もキミらもその程度のもんだ。その立場になってみないと痛切なもの理解できないものなのだ

2016-03-11

増田の子供達を助けよう

宮城県名取市増田地区の子供・子育て拠点遊具を送ろう。

“下増田地区には、東日本大震災津波で大きな被害を受けた閖上ゆりあげ)地区や市外から転入された方々を含め、

 子育て世代が多く生活しており、平成27年5月拠点施設建設されました。

 今後、拠点施設の拡充工事を行い、児童センター化を目指します。

 今回、子どもたちが元気一杯に遊べる遊具を贈るためのクリック募金実施します。皆さまのご協力をお願いします。”

第14回セブン銀行クリック募金セブン銀行

http://www.sevenbank.co.jp/corp/csr/click_14th.html

 
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