はてなキーワード: 四諦とは
本当に助けをくれるツィートと、助けと偽って食い物にしようというのが見えるツィートできょう溢れかえってるわ。山上に宗教団体が絡んでるという話で昨日だいぶここでかいたからな。
後世に残る思想というのは、各時代の人がこれは良いと増幅していった思想。だから宗教思想のみは良いものが多いよ。世界がどうなっているかなんてどうでも良い。もっと根源的などうやって苦悩から脱するかだ。
少なくとも仏教では四諦と言って一度全部を諦めてしまうことではあるんだが。
だけど、「良いものはそれを騙って食い物にしようという輩が増える」ということ。昔の宗教は権力と一体となってたから異端審問で悪い宗教を指弾できたが、今は信教の自由でできない。
宗教を騙ったが、弱まったやつや食い物にするやつで溢れかえっちゃって止められないんだよ。良いものは騙って食い物をしようという輩が増えるという原則は自己啓発や起業についても言える。
世界には喜びより苦しみの方が多い。数千人の幸福と喜びは、一人の人間の苦痛を補う事はできない。そして全体的に考えると生命は生まれない方がより良いだろう。
ベネター
Julio Cabrera は出産は人間を危険で痛みに満ちた場所に送り込む行為だと述べている。生まれた瞬間から死に至るプロセスが開始される。Cabreraは出産において我々は生まれてくる子供の同意を得ておらず、子供は痛みと死を避けるために生まれてくる事を望んでいないかも知れないと主張している
アケルマ
カリム・アケルマは、人生の中で起きうる最良のことは最悪なこと―激痛、怪我、病気、死による苦しみ―を相殺せず、出生を控えるべきであると主張している。
ザッフェ
我々は満足させる事ができない欲望と精神的な要求を持っている。人類がまだ存続しているのはこの現実の前に思考停止しているからに他ならない。 Zapffeによると人間はこの自己欺瞞をやめ、その帰結として出産を止めることによって存続を終わらせる必要がある
てめえが名前を挙げた学者の中に出産を肯定してるやつはいないんだが?
Hari Singh Gourは彼の本The Spirit of Buddhismの中で、とりわけ四諦とパーリ律の始まりを考慮し、以下のようにブッダの教えを解釈している。
ブッダ曰く、人生が苦しみである事は忘れられがちである。人が子供を作る。従ってそれが老いと死の原因である。彼らが苦しみの原因がその行いにあると気付いたならば、彼らは子供を作るのを止めるだろう。そうして老いと死のプロセスを止めるべし。
四諦そのものは反出生主義とは関係ない上に、この解釈すら、出生否定してる。
キリスト教 マルキオン派
wikiのマルキオンに反出生主義とあるだけで、実態に関するちゃんとした情報がわからなかった、あるんなら出してくれや
これを反出生主義と結びつけて考えるような記述はどこにも見当たらなかった、が、
そもそも、禁欲って、基本性交とかそこらへんに関するものであって、出生は関係ないだろ
マニ教的な善悪二元論を説く。人間の魂は、悪しき肉体に拘束されている、この世の物質的なものは全て悪魔(サタナ、ギリシア語でサタンの意)の手で作られたものである、救いのためには全ての物質的なものを否定せねばならない。
おめでとう、これが唯一の反証だよ、つってもこれも、死ぬ間際に(生殖含む)禁欲すれば、天国行けるっていう
生まれてくる子供の苦しみとかも関係ない、俺からしたら反出生主義って言っていいのかかなり怪しい代物だけどな
出産を控えるべきなのか?
出産を完全にやめるべきなのか?
みたいなこと言ってるやつは居ねえんだよ
つか、おまえ書き方からして、内容が少々違うってだけで、多様な解釈があるって捉えてんだろ。
まあ、カタリ派の例だけ持ってきて、ほら!条件付きで子供産める反出生主義者もいるじゃん!って言ってもいいけどな、まあ、そう言うなら、俺の負けでいいよ、俺はカタリ派が反出生主義だとは思わんし
もうカタリ派滅んでるけどな
Wikipediaだけでも見ればいいじゃん。
たとえば、仏教の四諦、マニ教、キリスト教マルキオン派、キリスト教禁欲派、キリスト教ボゴミル派、キリスト教カタリ派あたりが挙げられていて、これらの教義は少しずつ違う。
ショーペンハウアーやベネター、カブレラ、アケルマ、ザッフェ、その他諸々の主張もそれぞれ異なる。
すなわち、
出産を控えるべきなのか?
出産を完全にやめるべきなのか?
当然ながら「全人類が出産しないこと=反出生主義」は共通理解ではないということになる。
「出産は罪だが現実的に生まれてくるのは仕方がないので神に救済してもらおう」から
医学部なら四諦の例えは聞いたことがあるだろうが、俺は患者の言葉は信用しないようにしている。参考にしたらアレだから言葉半分で聞きなよ。
まず前提として、大学の友人か高校の友人以外は全員信頼できない。信頼できる人数は世界全体で0だ。
0.1とかじゃなく、0だ。
信頼は会話の絶対条件ではない。
全く信頼しなくたって会話は普通にできる。
その後の検査でだいたいわかるわけだし。
ただ、好き放題喋らせるだけ。
一応それらしい会話はしておくが、実際は聞いていない。
相手の話を真面目に聞いていると、
例えば相手が胸がズーンと押さえつけるような痛みがあると言ってきたとする。もしかして狭心症かな?と思う。
心拍数を測定したら、狭心症か不整脈かのどっちかに絞り込まれた。
どっちで判断を下すべきか?ここで患者の話を参考にすると、誤った判断を下してしまう。
患者がセカンドオピニオンで不整脈だったと言ってきて、責任追求されたら?
いやこんなこと言っちゃダメだけどさ。
信頼するという行為は、常に期待した結果を運んでくるとは限らない。
ならば、期待値を下げて下げて下げまくって、「信頼」という不確かなものが不要になるところまで行為を洗練すれば、信頼に惑わされることはないはずだ。
人の命を預かってるんだ。信頼なんて神頼みみたいなもんじゃないか。
それは患者のほうはしてもいいが、医者のほうはしてはならないことだ。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20121210/1355153569
を読んで色々調べたらこんなのあった。
http://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-11001677436.html
また、途中で話が脱線し、濱野氏が最近「はまり気味」のAKB48について言及されたので、私が、自分の持論として、AKB48とは、その数字と言い、グループの構成の仕方と言い、仏陀とその教えに「深い縁」があり、その人気の裏側には、仏の守護があるのでは!という話しをさせていただきました(笑)。
仏陀は、日本仏教では4月8日生まれ、その中核の教えは、四諦八正道。有名な無我の教えの本質は、「私」とか、「彼」といった、(そして「AKB48」といった、)名前によって一つの存在のように見えているものが、それを構成する様々な要素が無常に移り変わっており、実体がないというもので、メンバーが総選挙で変わるAKBとよくシンクロした教えなのです(笑)。