はてなキーワード: パラノイアとは
「ふたば二次裏でまとめられていた、中高生のための100冊」シリーズの外伝的ネタ
『夢渓筆談』 沈活
宋代中国に書かれた古代中国科学史を研究する上での必読書だけど
今俺たちが読めば民明書房気分を味わえる名著だし仲間に入れてくれよ
小学校6年生の病弱な子がすごくよかった
『糞尿大全』 柳内伸作
とにかく世界中および歴史上のありとあらゆる糞尿に関する事柄をまとめた本
なるほどそんな事がと頷かせながらも
日常においてまったく役に立たない無駄な知識が!!
読んでると
腹が
減る
読書を始めた
あの
頃に
ホモホモしたり百合百合したり、大興奮間違いなし!
つい盛り上がってしまいパンツを脱いでしまったが大後悔!
『ダークライン』 ジョー・R・ランズデール
『ゼーガペイン 忘却の女王』 日下部 匡俊
言わずと知れたゼーガシリーズの外伝
先輩も出るよ!
ようぐそうとほうとふ!
ようぐそうとほうとふ!
ようぐそうとほうとふ!
『ニンギョウがニンギョウ』 西尾維新
あと拳銃は右手で
『ちびっこ吸血鬼はミステリーがお好き』 アンゲラ・ゾンマー・ボーデンブルグ
汚職に直接関与する事件のみならず副次的な殺人すら隠蔽せねばならぬことにうんざりした
アレクサンダー・マッケイはなんとか政治的な判断を相手に促しつつも事件の過熱化を防ぐために奔走するが
関係者よりも力を持つ上院議員とのコネを繋いだところでマッケイは殺害される
『異常の門』 柴田錬三郎
例によって「夢殿ウタタ」という名前に一癖ある主人公が、エロゲ展開とシリアス路線を並行して、物語の謎を解きあかしていく
主人公を助ける強力な右腕、ルートから外れたヒロインのひどい始末、クライマックスの盛り上がりという、シバレン小説の醍醐味が一冊で味わえるのでおすすめだ
『死ぬことと見つけたり』 隆 慶一郎
厨侍が厨性能で唯我独尊状態
娘の黒髪おっぱいは必読
1ページ目からやっぱり常人とは違うと思い知らされる
独特の人生観が貫かれてる傑作
『永遠も半ばを過ぎて』 中島らも
-永遠も半ばを過ぎた。わたしとリーは丘の上にいて、鐘がたしかにそれを告げるのを聞いた-
(書評1)異性との交際、学問への精進、肉体の鍛錬、
そんなものとは無縁な大学三回生の物語
まるで「」の活躍(?)を見るようだった
(書評2)来るべきハッピーエンドを目指したいけどそんなのは軟派だと世を拗ねてみるけどやっぱりなんとかしたい、という
まさに大学生「」というべき男が主人公
一緒に「夜は短し歩けよ乙女」も読むと幸せになる気もする
いもげの100冊がいもげの1冊になり兼ねない恐怖の書
急に読みたくなった
冴えないおっさんが若い女性に誑かされたりするよ!
(書評1)エロ面白い
(書評2)それ近くの図書館で高校の時に見つけてな…… 何度か借りて一年くらい使えた
二巻、三巻は男の子も多くて実に「」向きだよ
『神秘の島~ミステリアスアイランド~』 J・ヴェルヌ
ほぼ何もない状態での無人島サバイバル
海底二万マイルと実は繋がってる
『肖像画、馬車』ゴーゴリ/平井肇訳
神絵師になれるかもしれない才能を持った若き絵師「」が
悪魔のような肖像画に出会ったために破滅の淵へ追いやられる「肖像画」
のどかな農村で繰り広げられるホラ話と、それによって大恥をかく「」ちゃんが出てくる「馬車」の二編を収録
神絵師を志してる「」ちゃんは、「肖像画」の方だけでも読んでおくいいんよ
『ショスタコーヴィチの証言』 S・ヴォルコフ
長年真贋が論議されてきたが今ではほぼ偽書ということで確定している
ただ全部が嘘じゃなくて半分くらいは真実じゃないかというのが現在の評価
スターリン支配下にあったソ連の芸術家がどういう立場にあったかが分かる
あとアネクドートとかそういうので面白い
『私の一世紀』 ギュンター・グラス
20世紀百年、それぞれ一年につき一編の短編が収められた連作短編集と長編の間の何か
WW1を振り返る五年間がレマルクとユンガーの架空対談に費やされているという時点で
ドイツスキッヒにはたまらないだろう
『キッチン』 よしもとばなな
名前は聞いたことあるけど、あまり「」が読まない本だと思う
だけど地味に面白い
今でも通用する小説だと思う
自分の趣味に没頭する話
400ページくらいの本編に脚注が400くらいある
『かえるくん、東京を救う』 村上春樹
かえるくんいいなあ
いいなあかえるくん
白痴の人妻と「」がキャッキャウフフするお話
孔子は詐欺師ぺてん師パラノイアであることを文献引きまくって描く
呉智英推薦
『りかさん』 梨木香歩
WW2後イタリアの田舎で友達の妹とキャッキャウフフする物語
自殺した中学生の肉体に、天使が記憶喪失の魂を入れ直して第二の人生を生き直させるお話
キャッキャウフフあり、青臭い中学ドラマあり、少年の心を忘れない「」にお勧め
オチのカタルシスは語りつくせないのでぜひ一読を
『ガルガンチュワ物語』 ラブレー
世界一お下劣な文学と名高い
ケツの拭き方が24通りも載っているのでメルターの「」には必携の書
もう60近い年齢の方がメイドさんの小説を書いてると思うと時代ってのはすごいなと感じる
途中からエロ小説 とってもライトな読み味でいい
前者は20世紀における数学大事件の一つであるフェルマーの最終定理の証明を、数学の歴史に沿って、数学が苦手な人にも分かるように説明された良書
後者は楔形文字からエニグマから量子コンピュータまでの暗号と数学と人の歴史をこれまた専門外の人でも楽しめるように書かれた良書
「本当は怖いグリム童話」を怖いところを薄味にしてラノベに仕上げたような作品集
作者は流血とかが苦手らしいのでそういうのはぼやかした表現とかカットとかしてある
『楽園の知恵』 牧野修
お気に入りは「逃げゆく物語の話」
人型の物語再生機の面々が当局による弾圧から逃れようとするお話でせつない結末が待ってる
『シグナルとシグナレス』 宮澤賢治
鉄道本線の信号機シグナルと、軽便鉄道の信号機シグナレスの恋物語
鉄道の信号機の擬人化恋愛モノというまさに「」風の尖ったセンスに脱帽すること間違いなし
「ピタゴラス派の天球運行の楷音です」って台詞が大好き
『バルタザールの遍歴』 佐藤亜紀
それくらいハズレなし
男の子同士の友情を、少年サイドと中年サイドから迫った「飛ぶ教室」は人気が高いね
エーミールも好きだが、続きのないこちらを推そう
魔性の女に会ってにんとかかんともならなくなる話
人がいっぱい死ぬ
カルト専門ジャーナリストが幸福の科学の本を読んでたら突然偉人が乗り移ってきて…
大川隆法の著作をパロって
大川が偉人が乗り移っていったと書いている内容を著者に乗り移った偉人が批判する
タイムリーな本なのに絶版
『寄生虫実話』
自分の息子の首を切ったお母さんにインタビューしに行く話
『ワルの恋愛術 ワルな男は3秒で女を虜にする!』 内藤詛人
恋愛指南書という「」からもっとも離れたところにある本だが、
心理学者である著者の語るテクニックは心理学の実験や理論を基にしており
そこいらのホストの書いた本よりも興味深く、真実味にあふれる
また、作者が前もって宣言している通りわかりやすい口調で書かれており
心理学入門書としても楽しめる良著
表紙のメイドさんや挿絵がかわいらしい
「私の記憶は80分しかもたない」
事故で記憶容量に80分のリミットがついた天才数学者の爺さんと、そのヘルパーの女性、そしてその息子通称ルートが数式によって親密になってゆくお話
数学嫌いの俺でもすらすら読めた
数式が「美しい」ってのを肌で実感できたのは初めてかもしれない
『百頭女』 エルンスト
「あの猿に聞いてごらん――百頭女って誰なの?
教父さまみたいに彼は答えるだろう――百頭女をじっと見つめるだけで、わしにはあれが誰なのか分る。
ところが君が説明を求めるとそれだけで、わしにはその答えが分らなくなってしまうのじゃ。」
絵本を模して、コンピューターや二進数の原理をわかりやすく説いた本
あちらこちらにジョークをちりばめユーモラスに書かれているが、内容はいたってきっちりとしているので
全く判らない素人にもお勧め
絶版なので図書館を探すこと
『銀河旅行』 石原 藤夫
ロケットの基礎原理から化学エンジン、原子力エンジン、反物質エンジンの各特徴と、なぜ化学エンジンでは銀河旅行が出来ないかなどの、宇宙機に関する基礎的な物理がわかりやすく解説されてる。
SF要素をふんだんに盛り込んだヒロイン達に振り回される学園もの
一巻は良かったんだ一巻は…
倫理とか意識って何なんだって話をつきつめてく話。
シノフサの先輩の人で、こないだ亡くなりました
『ふわふわの泉』 野尻抱介
ゼロからの世界構築でありつつ、どこかで見た(聞いた)ような気がするので決して障害にならない
アニメで見た「」もぜひ読んでほしい
「大人は読書をする時、それまでの経験を踏まえ、解析を試みながら”読む”。つまりは半ばその是非を疑いながら読むのである。」
「子供は読書をする時、経験が無い為に移入する。そのものに成り切ってしまうように。その世界観に染まるのである。」
これも極端な話だ。読書中に大人がスキゾで子供がパラノとはね。
と考えると、ワタシは「読書中に限り」子供でパラノイアだ。自分で言うのもアレだが、移入の鬼だろう。
小説のキャラクターの台詞をパクってそのものに成り切ったりとかね。コスプレだよコスプレ(笑)
しかしながら、普段のワタシはそれを否定する。裏切る。
『網状言論F改』だろう?「オタク」の奴。アレは当初物凄い没頭した。
でな、2年前に裏切ったんだ。呆気なく。切っ掛けはスラヴォイ・ジジェクだった。(例の東さんもお好きなようですが・笑)
要するに「裏切りの過程」を全部見せていた訳さ。ひょっとすると、今までに無いパターンだったのかもしれない。
「そのものに移入し、それが後になって全否定される。」という強烈な振り幅。
因に『身体なき器官』の冒頭に有った「対話こそ哲学に対する最も際立ったアイロニーである。」は今でも正しいと思っている。
『山月記』の詩人は人と一切交わらず虎に成っただろう?虎のままで居たければ人と交わらない事しか無いんだろうか?
哲学とコミュ/非コミュ、詩人/虎、大人/子供。それにな、今は「メディア」が介入する。
情報公開/非公開という要素は案外無視出来ない。過去の日記は非公開にしている。
最近じゃ「自分の所有物である」という主張すら止めた。だから増田。それも今年で終わりにしようと思う。20世紀が終わったからだ。
でもこの状況でも「怪物」と言えばマイルス・デイヴィスだ。エヴァンゲリオンの方がネタとしては解り易いかもしれない。
TV版の最終回は単なる「悪戯」だ。だが「通過儀礼」でもある。
アニメという強シンクロ、「見たまんまが総て」という全能感からたった2晩でそれを総て裏切る。
と言っても所謂「酷いオチ」では無く、総てへの裏切りである。失恋に近い感情を抱いた人が多かったのだろう。
(これ実際有りましたよそりゃ。良い歳こいた大人が「はぁ〜」とか言いながら人生語ったりするのよ。エヴァ語りながら・笑)
で、次の映画版のラストは前も言ったけど「中途半端な破滅願望」な。
「失恋すると世界が終わるような幻想を抱く事で自分の精神を防衛する」これはアンナ・フロイトが言っていた事だけど、
世界が終わっても結局シンジとアスカが残っていた訳。これは新しいパターンだよ。「破滅した。だが人類は滅亡していない。」
後輩の女の子がエヴァ劇場2作を振り返ってこう解釈していた。「あれはアダムとイヴなのだ。」とね。
で、次だよ。今のシリーズ。
「アニメは言わば強シンクロの世界だ。そこに映る物で総てが説明出来る。」とは『アフロ・ディズニー』のネタなんだけど、
先の『破』はとてつもない強シンクロの世界。シンジは男らしく、レイは女らしくなった。恋をして、守ろうとした。言うなればただそれだけ。
それだけに素晴らしい。監督が自分の望む世界を雄弁に語った。それに尽きると思う。
評価は分かれたな。移入出来れば、まるで自分が恋をしているかのような感情すら抱くと思うし、
出来なければアレだ。「今更庵野と手を組む気は無い」とか言ったりする。両方ともファザコンに近いなぁもう。
東の新作は実はコッソリ読んでみようと思う。哲学談義が現在大パニック状態なだけに多分面白い。(好事家なので)
やっべ。クソ長ぇ文に成っちまった。多分こんなのまともに読まれないだろう。
(まぁ、誰か読んでくれるかもしれないからこのまま落とす。)
ランド研究所というのはアメリカ空軍が設立したシンクタンクで、色々面白い研究をしている。
ゲーム理論とか線形計画法、動的計画法、帰納推論に正規表現、論理回路の縮約法、パケット交換ネットワーク、
RAND のレポートが先で、学術論文は後、そんな 1950 年代はアメリカの冷戦パラノイアいっぱい夢いっぱいの時代だった。
彼らがどうも昔のレポートを気まぐれに無料公開しているっぽい。2005年から毎年その数は増えている。半導体のスイッチング速度が10ギガの壁にぶちあたり絶賛停滞中のわれらが人類文明だけど、近過去に目を転じると、けっこーすげーじゃん、って気分になれるかもしれない。
試しに
site:www.rand.org/pubs/papers/2008/
とか
site:www.rand.org/pubs/papers/2005/
とか、年号を変えてぐぐってみよう!
追記:
site:www.rand.org/pubs/research_memoranda/2005/
とかもためしてみてね。ペーパーとメモの違いは正直よくわかりません
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090904/p3
http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20090906/p1
猿のほうは「所得の再配分」議論では勝ち目がないからそっちは捨てて、「反共パラノイア」だと言い始めた。が、「理解する気すらない」のは猿のほう。
渡部昇一のことは「あんなものだ」でスルーするのにトリアージ=ホロコーストにHALTANが引っ掛かったのは、「反共パラノイア」だからではない。ことのきっかけを思い返すと、HALTANが猿を買い被っていたことに原因がある。hokusyuあたりが言うならともかく、まさか猿まで同調するんですか?!というのが発端だった。トリアージ論争の前まで、南京事件で膨大な資料と議論をUPしていた猿にHALTANは幻惑されていたわけだ。そういう発言をした記事もHALTANにあるんだが、いまさら見つけるのは面倒だからリンクしない。
しかしHALTANに問題があるとすれば、この買い被りだった。それで渡部昇一に対する反応と異なることになってるのだから。
つまり、買い被っていた分、失望したときの落差が大きいから去年のような反応に出たのであって、「反共パラノイア」が原因ではない。むしろ、無理解にそう言いたてることで猿の自己認識を告白してしまっているような部分がある。
猿の短い記事を分析してもいいけど、もうバカバカしいからやらない。ただ、一言で言うと、猿の意図とは逆に、これで猿がいかに左にぶれているか、読み手に印象付けてしまった。ついていけるのは、かつてのHALTANのように幻惑された読者と、サヨクだけ。
2009/08/31(月) 17:52:15.84
早い話が普段政治なんかどうでもいいと思っている無党派層の浮動票をどう取り込むかが大事だったわけだが
従ってそこに幾らアピールしても既存の自民支持者にアピールする以上の効果は無い。
ここでは+民をアホ扱いしているが
あそこはネットの中の底辺かもしれませんが、世間にはネットにすらたどり着かない更なる底辺があり、むしろそっちの方が多数派で
その理由を考えてみた。ちなみに、以下語られる匿名的なウザさとは、主に感情的な発言(コメント)と関係するものであることに注意。
人間の一般的なコミュニケーションにおいて、「その発言者がどういう人であるか」ということは、とても重要な要素だろう。なぜなら、そのような人間像は、その人の発言を、一種の文脈へと収め、安心することを可能にするからだ。特に、感情的な発言の場合そうである。例えば、「らきすたクソつまんねぇ」と言った人が、普段から萌え四コマを嫌っていれば、「この人がそう言うのも解るな」と納得できる。それどころか、「普段から萌え四コマを嫌っている」という情報のみで、らきすたを嫌っているという明白な発言がなくとも、その情報から「この人はらきすたを嫌っているかもしれないな」と演繹できるかもしれない。
このように、「発言者はどのような人間か」という「人間像」は、その人の発言を「納得可能領域」へと高めてくれるし、前もって予測することも可能になるため、自分が不快になるようなコメントが不意に飛び込んでくることも少なくなる(気の知れた友人の会話は、たとえそれが愚痴であっても納得できるものだ)。それに対して、匿名的な発言者は、そういった「人間像からの納得」という次元をもたらさない。それ故、「らきすたクソつまんねぇ」とか「かがみんウゼぇ」というコメントを目にすると、それを文脈へと収めることができず、我々は躊躇してしまう。その発言者は、まるで予測不可能で理解不能な「他者」であるからだ。
このような他者は、それだけで、「闖入的」であり「暴力的」である。そして、もし、こうした匿名的な他者に無理に人間像を塗りつけ、その発言を強引に文脈に収め安心しようとするなら、それはパラノイア的な妄想に過ぎなくなってしまうだろう(「お前ニートだろwww」とか「お前韓国人だろwww」などのコメント。ニコ動のあんな短文な書き込みだけでそれを判断してしまうのは横暴)。
もしこうした軽率な態度を取らないとすれば、我々は「理解不能な他者」の「きまぐれで偶発的な」コメントに、不安になり続けねばならない。
(追記:増田なんかも同じ理由でウザさや不安を惹起するかもしれない。また、ブコメもある程度上記のような性質を持つ。しかし、その人が普段どんなブコメを書いているか、あるいはどんな記事にブクマしているかを探すことで、その人間の人間像=文脈を形成し納得しようと試みることはできる)
統一された人間像が形成されない、というのは、発言者自信にも適用される。実は動画内の発言者にはそれぞれIDがあって、ツールを使えば表示できるのだが、盛大な批判コメのすぐあとに賞賛コメを書いている人も多い。同一人物としての一貫性の意識が自らのうちに形成されていないのだ。それ故、彼らは無責任である。
特に、真面目で長時間のコンテンツであるほど、コメントがウザく思える。それは、「その動画すべてを見た後でなくともコメントできる」というシステムの問題だ。熟慮が必要なコンテンツであるのに、サクッとコメントされてしまえば、それが軽率なものである確率は高いだろう、ということもある。しかしより重要なのは、そういったコンテンツは、最後まで視聴して初めて意味が解るものであるということだ。ある話が一種の伏線となっていて、のちの話に展開し、それがまた先ほどの話への補足になっていたりもする。こういう連関があるにもかかわらず、そのつながりの途中で「ツッコミ」が入ってしまったりするのだ。もっとよく視聴してからコメントして欲しいものだが、こういうサービスであるので仕方がない。
――――
文字情報で言えば、文脈は長文であればあるほど形成されやすい。しかし、一番人間像を作りやすいのが対面のコミュニケーションなど、ノンバーバルな情報(表情など)を含むもの。
これが最も尊厳を保ちつつ、あわよくば回復する可能性もある手段。
因みに付け加えておくと、現在ワープアだけども親から一定の遺産相続が見込める方は死んではいけません。(是非、相続税を緩いままにしてくれる政党に投票して下さい)
幸せというものは、人それぞれの形があると思います。
しかし、ある程度の一般形とも呼べる幸せの形は存在すると思います。
そのある程度に達するには汚いようですが、はっきり言ってお金が必要です。
一定の所得がなければままなりません。こんな事はワープアを自覚する人ならとっくに理解していることだとも思います。
ですが、ここで改めてそれについて確認したいと思います。
物質主義と吐き捨てる人もいるかもしれませんが、
普遍的に望むものとしてまずは車でしょうか。軽自動車か中級クラスのものかは問わずに、とりあえず車の所持です。
次は住宅ですね。何千万のローンを背負って何十年もかけて返済していくあれですね。
もっともこれはワープアの身分ではおそらく契約もままならないでしょう。
まず、結婚に必要なものについてはしばしば、ネットでも議論が散見されますね。
個人の信条などで大きく左右されます。しかし、確実に一定の所得は必要だとは思いますね。
出会いやお互いの尊重が一番大切という、実に優等生な回答もよくみかけますし、部分的には私も賛成です。
ですが、この手の論を展開する人をよく見てください。
そういった人たちはまずワープアではありません。ワープアでない人たちの人生観を真に受けると
苦しみが増えるだけに終わることも多いですよ。
教育。これはワープアの方なら大概は高卒もしくはFラン大でしょう。
仕事を通して如何に学歴が人生を左右するかもよく存じておられるかと思います。
これもまた学歴だけが人生ではなく、社会にでてからは実力で勝負だと言うテンプレのような優等生的回答が存在しますね。
結婚の話と同じように論を展開する人をよく見てください。
それなりの学歴を保持している人が多いですよ。もしくは中卒だけども今は起業して平均以上の年収だという人もいます。
後者のような方は本当に実力で抜きんでたんだなぁと、感心させられるような人も実際います。
ですが、これはなかなか本人たちが言葉に出さないので見抜けないのですが(成功者は他人から良く見られる姿勢を心得ています)
強運、もしくは汚い真似を成している人が多い。
運も実力であり、汚いかどうかは個々人の基準で変わりますが、ワープアのあなたとは全然違うという事だけは理解してください。
もうひとつは老後の生活です。
仮にワープアのまま実直に生き続けたとして、若年層のあなたが高齢者になったとき
この制度はどうなっていると思いますか?年金制度については破綻論者のほうが優勢です。
ここではとりあえず、破綻したケースで考えてみて下さい。
ワープアではない方たちは良くも悪くも消費を抑えて貯蓄傾向があるそうですが、ワープアな貴方に貯蓄はできますか?
生きる中で発生する苦悩は上記以外にもたくさんあり、またそれ以上の苦痛を覚えさせるものもあるでしょう。
ありがちなものばかりですが、大勢に適用できるであろう事を改めて挙げてみました。
しかし、漠然と問題に対峙するのではなくそれの除去が可能かどうかを更に考えてみて下さい。
今から所得を増やす方法はありますか?
昭和の時代ではありません。終身雇用でもなく定期昇給もありません。ワープアではそれどころか解雇されるかどうかの瀬戸際でしょう。
地道に銀行へ預けても無駄なことですね。昔の用に金利がついて増えていくこともありません。(老人はこの辺りを隠してポジショントークを展開する人が多い)
今から政治体制を変える方法はありますか?
話し合いで解決したことって何かありますか?
これは本当にタチの悪い幻想ですね。物事は恫喝か誘惑で動きます。
善意で動くものゼロではありませんが、大局には何ら影響を与えません。
見事な高齢化社会です。世代ごとに利害関係が衝突も起こしてます。
国会答弁を見ていると、政治家も流石に完全な鬼ではなく若年層の貧困について野党がもの申しています。
しかし、与党は財源がないと切り捨てて終わりですね。財源が無いというのは一見正当性があるように見えますが、
まぁようするに問題放棄です。仮に与党が変わってもワープアは放棄されると思いますよ。
選挙に当選することが至上命題なのでご老人にとって不利益となることが国会で成立することはありません。
寝言ですね。こんなもので国は変わりません。すさまじい暴力はイノベーションを生みますが、
ワープアの引き起こす微々たる暴力は世の中に何ら影響を与えません。
人に平気で迷惑をかけるようなやつだからおまえらは落ちぶれたんだと、団塊の皆さんが説教垂れておしまいです。
全うに問題と対峙しても、明確に閉塞感を感じるだけですね。
突き詰めればやはり人を救うのは自殺です。
現在、日本では確認されているだけでも年間3万人以上の自殺者がいます。
WHO基準を用いるとなんと10万人の自殺者が発生しているとも考えることができます。
日本では年間14万人の変死体が発見されます。WHOでは変死体の半分は自殺と考えますので14万人の半分
7万人と確認された3万人で10万人といった数字に相成ります。
3万人であろうと10万人であろうと、多いと思いませんか?
また、変死体が14万人というのもすごい話です。この科学と道徳のある程度浸透した日本ですら
自然死を迎えるというのはとても難しいことなんです。ことさらワープアな人にとっては。
首吊りのインセンティブとは上述の諸問題を解決してしまうことです。
自殺とは自己保存欲の一環です。これ以上苦しみたくない。傷つけられたくないという己の尊厳を守るための尊い行為です。
一時期、硫化水素を用いた自殺が流行しましたね。しかし、あれは好ましくありません。
あれは周囲に迷惑をかけるという面において影響が大きい。迷惑をかけることそのものよりも、
事後において自分一人で死ねばよかったのに、というTVのコメンテーターにいるような普通の人々につけいる隙を与えてしまうからです。
まず、これは確実です。服毒やリストカットなどは未遂に終わったり、後遺症が残るなど確実性に欠けます。
女性の自殺志願者が未遂に終わることが多いのはそういった方法を用いることが多いからです。
よく、糞尿を垂れ流して醜い死に様であると揶揄されるこの方法ですが一定の誤解があります。
人は死後硬直が発生します。死後1~2時間程度で始まります。ポイントとなるのはいつまでも硬直しているわけではなく
数十時間経過すると筋弛緩が始まります。ここで初めて体内から糞尿が漏れ出すという事態になるのです。
およそ丸一日は硬直していられますので、こういった面を気にする方は割と発見しやすいところを選ぶと良いのではないかと思います。
また、一般的に首吊りというと空中に宙ぶらりになった状態をイメージすると思いますが、これを定型縊死と呼びます。
それに対して非定型縊死という状態があって、これは膝をついた状態で首に荷重をかけた死に方です。
結局のところ、動脈と静脈に荷重をかければいい訳なので、およそ30kgほどの荷重が必要です。
先にあわよくば回復と書きました。
とかく、ないがしろにされるワープアですがそれなりの母数はいるのです。
一人一人では本当に脆弱な一介の貧乏人に過ぎませんが、連ねれば産業構造に欠かせない要素の一つなのです。
ここに勝算があります。
現在サイレントテロなどという行動様式があります。しかし、そんなものではなま温く遅い。
従来の外部へと働きかけていたテロルを自己がいつのまにか所属していた属性にぶつける。つまり自殺です。
ドラスティックに短期間で多くのワープアが自殺すれば産業構造に大穴を開けることができるのです。
これは社会的強者、上位層を道連れにできるという効能を備えています。
他人を能動的に傷つける従来の先鋭的自殺(自爆テロ)よりも、遂行者を貶める隙を与えません。
一人一人の小さな自殺がいずれ社会を大きく変えていく……これって素晴らしいことだと思いませんか?
私自身は絶対に自殺なんてしません。自分を殺すくらいなら平気で他人を傷つけます。
その方が比べようもなく爽快で愉快な手段です。
これから先しばらくはサイコパスだけが生き残る。そんな世の中が続くと思います。
「たばこをモクモク吸う人は皆、健康で長生きしています。たばこは吸わない、酒も飲まないような人に限ってストレスで早死にしたり、鬱病に罹って会社の厄介者になっているんじゃありませんか」
「禁煙狂連中のネチネチとしたシツコサはそれこそ正真正銘のビョ―キです。インターネットのたばこ関係の膨大な書き込みの内容を眺めるだけで、連中のパラノイア症状の深刻さが覿面にわかります」
全面的な禁煙をしろとは言わない。
ストレス発散になって他人に攻撃的にならないのであれば、問題ないので吸っても構わないと思ってる。
たばこを多く吸っていた人が健康で長生きではなく、たまたま身体的に問題が無かっただけの事かもしれない。
モクモク吸う人は長生きなんて主張をするのは、単に自分の欲望の為に主張しているだけで説得力が無い。
それに禁煙狂というような言葉と禁煙派を病人扱いする時点で、日本パイプクラブのモラルの欠片さえ存在しないのではないかと疑ってしまう。
禁煙禁煙とうるさい輩がいるのであれば、隙を見せるような行動をしなければ良い。
嫌う人は重箱の隅をつつくように指摘を狙ってくるものだ。
嫌な顔をする人の傍でタバコを吸う事で、果たしてストレス発散になるだろうか?
底意地の悪い喫煙者ならありうるだろうが、たいていの良識人であれば嫌っている人の傍で吸うことはしない。
まして、どうしても吸いたくなったのであれば、一言断りをいれるはずだろう。
要するに空気を読めないのであれば、黙って一人で喫煙できる場所に消えるべきだと思える。
そうすれば、誰からも文句は言われないのだから。
なんにせよ、このご時世だ。喫煙者には肩身が狭い。
男性です。
母は警察に何度も被害相談し、父も警察にDV相談するも、警察はノータッチ。
その頃は、男性に対するDVは目立たず、警察は被害を受け付けなかった。
父は1週間に一度しか外出できず。食事は一日1回だけ母が棒をもって父を制止しながら支給。トイレは自室にて。最後は3週間監禁されたため父が私の所へ逃げてきた。
父は普通のおとなしい社会人だが、高度自閉症ぎみのため、それまでは逃げ出さず。
私は自分の自殺未遂問題に一杯一杯で、父の問題まで関わることができない。また、そこまでひどいDVとは知らなかった。
私は何度も自殺未遂・リストカット、社会的ひきこもり。金銭的自立が必要なため簡単な仕事をしていたが、友人は全て切って、新しい友人も作らなかった。
克服直後に父が逃げてきたため父親を引き取って、何度も引っ越して仕事も変えて、母は私たちの居場所を把握できなくなった。
父と母は離婚せず(離婚協議で母と接したくないため)。父は年金の2/3を母に送金。残りの年金と私の給料(給料は十分にあったので)で二人で生活。
先日、母が亡くなったので、30代半ばにしてやっと恋人ができて結婚を考えれるようになった。
もうちょっと早くなんとかしたかったけど、どうしようもなかった。
友人に打ち明けれれば良かったのだが、プライド?のために、それができなかったので、全ての友人を切ってしまった。
今にして思えば、友人に全て打ち明けて助けを求めればよかったと思う。
2009年5月から施行される裁判員制度。重大な刑事事件の第一審を6人の裁判員と3人の裁判官で"事実の認定""法令の適応""量刑の判断"を決定しなければなりません。そんな裁判員制度、なぜ日本でしなければならないのか、誰が得をするのか、もしかして一定数の利権の為に国民が利用されるだけなのか、反対賛成という議論ではなく、施行する事で社会がどう変わるのかをドグマ的メモとして言及したいと思います。 (半分パラノイアです)
まぁ、一般的に知らないのが当たり前だと思います。「法律なんか分からない」「私には無理だよ」というのが大多数ではないでしょうか。しかも、マスコミ、特にTVや新聞で報道される過激な犯罪、無罪を主張する被告人、嘆き悲しむ被害者遺族の姿、少年犯罪などを見て勝手に、「最近では、変な犯罪が増えたよね~」などと思い込まされているし、悪いことをすれば、全員が逮捕され刑務所に入れられると思っていたりもする。
しかし、マクロ的に見ると全く違う。むしろ逆のロジックなのかもしれない。逮捕されたところで刑務所のキャパシティが決まっているので数パーセントしか入れられない。少年院を合わせても想像以上に少ないのが現状だろう。
それからマスコミで報道される事件というのは、万人受けする記事を書く上での選別をしているので、つまらない殺しとか、話題性のない強盗とかは一切取り扱わないし、教育上使えるものを選んでいる程度だと思われます。だから実際裁判員として法廷で担当する案件はもっとえげつない事件に当たる可能性は十分にあります。
例えば、4人で銀行強盗をして帰りに仲間3人を殺したなど、マスコミでは報道していない(できない)事件を目にすることになると思うし、事件現場の写真や、証拠写真、バラバラ遺体写真も見ることになるかもしれない。言うまでもないが、これもTVで見ることはできない。
そもそも日本というのは、犯罪率や再犯率が非常に少ない国であります。重大事件といっても年間で何百件程しかないですし、その内7割が全面自供をしているので、裁判員として法廷に参加しても、7割の確立でただ見ているだけという授業参観状態になると考えられます。国民が想像している「無罪を主張している被告人」などというのは1%にも満たないですし、それがマスコミで話題になり報道されるので、人々が誤解をし勝手なイメージで司法を捉えてしまっているのではないでしょうか。
刑事事件というのは、警察が逮捕して検察庁に送られます。そこの執務室で検事が起訴するかを判断します。起訴された被告人は裁判所で裁かれる流れなのですが、この時の裁判所での有罪率が99.9%と言われています。ということは、検事が起訴すれば有罪。逆にいうと、犯罪者でも起訴されなければ無罪になるということなのです。つまり、裁判所で白黒を決めているのではなく、検察で有罪か無罪かを決め、裁判所で量刑を決めているのです。
少し話が脱線しますが、被害者遺族が法廷で被告人に質問などができるようになりました。しかし、この制度も明らかに奇妙なのです。例えば、こんなシーンを見た事ないだろうか。自分の子供を殺された母親が被告人を恨んで殺してやると涙してる姿を。しかし、実際にはこんなケースは希有で、殆どの殺人は身内殺人や遺族殺人ですから意味がないのです。しかも、色々時間掛けて参加しても最終的に無罪になれば被害者遺族は無残な事になります。このことから被害者参加の意味というのは私には理解ができないのです。
ご存知だと思いますが、国民の殆どが裁判に興味がなく参加したがらないのが現状です。これは施行後も変わらないでしょう。なのに裁判員制度は走りだしています。検察も弁護士も判事も政治家かも、これといって得をする組織がありませんし、国民も得をするとは思いません。
今までの司法村のあり方にガタがきているからか?グローバル化によって日本が静寂してるからか?いくら考えても何の為に施行するか考えつきません。個人的には、裁判官と話ができるし、法廷の雰囲気を体感できるので前向きに参加するのでいいのですが、俯瞰的に見たときにこれといった理由が思い浮かばないのが結論です。
ここからは私の理想論なのですが、裁判員制度を施行するのであれば、もっと国民が司法に介入してもいいのではと思っています。今の裁判員制度だと一生に数回しか参加できないですが、国民一人ひとりが裁判員を年に1回参加する頻度にすればいいのではと考えます。確定申告みたいに。そして、取り扱う案件も幅広くし、裁判官の人事権も参加できるようにすれば良いのではないでしょうか。つまり、社会の当たり前として考える事により色々解決すると思う訳です。具体的に何が変化するのか考えて見ました。3つあります。
一つ目は、大企業は勿論の事、中小企業や個人で仕事している人でも裁判員制度で穴が開くことを前提で仕事を組み立てようとします。そのことで働きすぎの企業体系も、仕事のあり方すら変化するのでは考えます。
二つ目は、司法村の改革です。重大事件以外も裁判員制度にすることで保守的な司法をオープンにできればと願います。
三つ目はは、国民一人ひとりの意識改革です。日本人は極めて傍観者的であり、お任せ意識が強く、何事にも関わろうとしません。昨今では、グローバル化で日本は先進国と言われていますが新興国の追随で、このままでは淘汰の可能性もあります。裁判員制度をきっかけに、銘々が少しでも自立し国全体の温床になればと妄想します。
ショッキングな事に、裁判官は法律を調べて量刑を決めていません。判例と比較して量刑を決めているのが実態です。なぜかというと、司法村で個性的な事(判例を無視した量刑)をすると左遷やクビになるからです。冒頭で述べたように、基本的に検察が白黒を決めているようなものなので、裁判所ではセレモニーが行われているだけなのです。判事にとってノルマは絶対ですし、仕事を溜めるのはご法度、勾留を却下することもできない、そんなマニュアルを見ているが如く流れ作業をしている判事なので、裁判員制度くらいでは保守的な考えは直らないだろうと思う訳です。
何が言いたいかと申しますと、例え裁判員(素人)が参加したとしても、3人の裁判官の内一人でも無罪に入れないと過半数でも無罪にならないことから、判事は絶対の権限を持っていますし永山基準は変わらず、保守的な形態は緩和しないのではと懸念します。
先ほどでも述べましたが、私としては、判事の人事権や重大事件以外(勾留判断とか)でも国民の監視下に入れることにより、ブラックボックスの司法村の透明化、国民のインセンティブ、国の温床になると考えますので、やるのであれば徹底してやるべきだと私は思う訳です。
体重計とカレンダーと手帳があれば出来るというお手軽さにひかれてはじめてみた。
約1ヶ月たったので一時的にまとめてみる。
一番めんどくさそうに感じていた部分がここ。
でも、実際やってみるとそんなに大変じゃない。逆にカロリーを調べてメモするのが楽しい。この辺はパラノイア気質を持ったオタクのオイラだから楽しいのかも。
でもって、コンビニ弁当やお菓子などのカロリー表記のある食べ物は助かるけど、自炊とか外食が難しい。あと飲み会。
この対策として…
グラムをしっかり計って後述するカロリー計算サイトで調べたカロリーを足し算して何となく付けてる。
野菜なんてほとんどカロリーが無くて、刺身は100g100kcalとか、脂身はこええええとか。
チェーン店の場合、オフィシャルサイトを調べてみて、載っている場合それをメモ。ファーストフードはちゃんとしてる。カロリー恐ろしい値だけど。ポテトは絶対食べないようになった。
載っていない場合は…いろいろ類似を調べて、あとは気合いで数値化。多めならいいだろという気分で。
何を食べたか忘れる&大人数で取り分けるから量不明なので、もうここは気合いで2000kcalとか適当に付けちゃう。
そのうち体重の推移でどれだけ食べたか分かるようになるよ。
googleで「(食べ物) カロリー」で検索すればほぼ100%わかる。
意外と写真付きの下記サイトが便利。自炊の際のグラム計算なんてここ無しでは考えられなかった。
http://www.eiyoukeisan.com/calorie/gramphoto/index_gram.html
オイラの持っている体組成計はメモリー機能があって、それでいいかと特に手書きで毎日記録を付けていなかったんだけど、今回カレンダーに毎日の記録を付けてみた。
メモリー機能だと、前日の次が先週一週間の平均になっちゃうから、先日食べ過ぎた事により何日ぐらいで増えてる減ってるが分かりにくいのね。
カレンダーにメモして、週に1回程度Excelに入れて統計を取ってる。
これが面白くて、グラフにしたり移動平均を取ってみたりと、興味津々。これに食べたものメモのカロリー表記を入れて相関を取ると、何か分かってくるかも。
とりあえず、現在は一ヶ月で2kg減。
調子がいいので、今度は体脂肪に注意してもっと頑張ってみるよ!
統失かパラノイアだから相手にしない方が良いぜ
そ〓、だから、スキルの断絶を埋めれる様な規約は無理なんじゃないかね?と
再帰や多重継承を禁止の規約とか、トリッキーなコード量産して欲しいんですか?って感じだし
それぞれ使うべきところがある
使うべきところで使うべきアルゴリズムでコードを書くことを禁止する規約は守ったとしても
あんまり意味のある結果にならないと思う
で、高スキルな人のコードで読みにくいのは、使うべきじゃないところでも
無駄に面倒くさい書き方してる点が問題だとおもう
で、これをパラノイア的な書き方と書いたつもり
うん、それはそう思う
でも、言ってるのは、高スキルな人の書くプログラムで読みにくいのって
パラノイア的な物くらいじゃないかね?
マルチスレッドで多重継承で実行時型参照とかやられるとどこが実行されてんのやら?ってなるが
全部組み合わされてない限りそれぞれ有用だし
後は、規約ってのは問題が起こりにくくするために作る物で、人を責めるために作るもんじゃない
誰にも従ってもらえない規約はその意味ですでに規約とはいえない
池プログラマと同レベルでの保守は池プログラマが居ないと無理だろうけど
どんなコードが書かれているとしても、そのときその場に居るプログラマのレベルで保守が行われるんじゃないか?
スキルが高くないと保守できないプログラムってのはそもそも低レベルもしくはパラノイアってだけで・・・・・
で、池プログラマが書く低レベルでは保守が難しいプログラムってパラノイア的に入り組んでる奴だと思うが
そんなの滅多に見かけないと思う
つか、コード規約でパラノイア的な物を禁止するほど厳密な規約作っちゃたら
コード規約を覚えるだけで一苦労の超大作になって誰にも従ってもらえない
問題が起こったときに誰かを責める根拠の為だけの規約になる気がするよ
※友人がオタクについて語った文章が面白かったので、許可を得て増田へ転載。
以下、友人の弁。
オタクが現実の問題について考えるとき・語るときに陥らないよう注意すべき点として、オタクのなかに強く見られる論理と心理の問題を以下に例示する。
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
カッコイイズム
「カッコイイ」ものに対する素朴なあこがれと肯定の心理。ここで言う「カッコイイ」ものとは、たとえば、強さ、正義、純粋さなど、ヒーローものやロボットアニメなどに典型的に表されている価値観。こうした「カッコイイ」という観念は、具体的な作品を通して、実体的なものと結びついている場合が少なくない。典型的には武器・兵器との結びつき。強さへのあこがれと肯定が武器・兵器へのあこがれと肯定になって表れる。とくに男性オタクの場合、幼少期の経験によって、こうした素朴な心理がほとんど所与のものとなっている場合が多い。
こうした心理が現実の問題に適用された場合、非妥協的で一方的な強硬論の主張として表現されることになる(ヒーローはその純粋さと強さでもって有無を言わさず正義を実現する!)。たとえば、オタクが対北朝鮮問題について一方的な強硬論を唱えたり、日本の安全保障について軍拡論(さらには核武装論)を唱えたりする場合、その中には素朴なカッコイイズムの心理(しかも軍事力と結びついた軍事カッコイイズム)が混入していることが少なくない。もっと穏やかな形では、「あんなヤツやっつけちゃえよ」といった言説。自分だけの単純・素朴な心理(しかもしばしば暴力と結びついている)だけでもって複雑な現実を捉え解決しようとする点で非常に問題。
善悪二元論……敵の悪魔化と味方の無謬化
正義と悪の戦いというものの見方。典型的なヒーローものの論理。
敵=悪玉の論理。相手が何か一つでも悪事をはたらけば、事の大小も問わず、責任の限界も取り払って、相手を邪知暴虐な悪の枢軸にしてしまう。相手のすべての行動が邪悪な行動とされ、相手は邪悪なことなら何でも企みうるし、なし得るとされる。敵の悪魔化・万能化。行動が悪なのは人格が悪だからという論理、悪の人格からは悪の行動しか出てこないという論理。さらには、その悪に関係する人、組織、集団や、悪を擁護するものも一律に悪とされる。悪の肥大化。
これと対照的な形で善玉の論理が出てくる。上記のような巨悪を批判・非難する側はつねに正義であり、悪を殲滅するまで徹底的に攻撃を加えるべきだとする論理。結果として、邪知暴虐な悪との対決にはあらゆる手段が用いられ、往々にして敵よりも残酷で非道な手段を用いることも少なくないが、そうした手段は目的の「正しさ」によって正当化される。敵が悪魔化されたのとは対照的に、味方は無謬化される。宗教戦争に典型的に見られる正戦論の論理。
こうした論理が現実に適用されている例は枚挙にいとまがない。犯罪者バッシング、不祥事バッシングのほとんどがこうした論理によって展開されている。
現実はもっと複雑であり、善悪二元論で割り切れるものではないということ。善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるわけではなく、しばしばその逆であるということ。仮に犯罪や不祥事があったとしても、その事実をありのままに観察して論じること。特定の人格、集団、組織にすべての悪を引き受けさせるのは現実的なものの見方ではない。悪をなした側には悪をなした側なりの論理や心理がありうる(一応、オタク文化にもそうした側面に配慮した例外的な作品はある。『逆シャア』など)。単に人格的なレヴェルの問題だけでなく、構造的なレヴェルでの問題を見ること。そうした現実の複雑さに耐えきれず、問題を最初からすべて善悪二元論の鋳型に流し込んでしまうのは、宗教家かデマゴーグの方法。
問題の人格化
肯定・否定問わず、あらゆる対象を大小さまざまに人格化・キャラ化する論理。
これが現実に適用されると、典型的には民族や国家を人格化するようなことが起こる。さいきんでは『ヘタリア』の例。人格化された対象はある一定の本質を持っているように描かれ、ステレオタイプが促進される。
さらに、人格化された対象が実在の特定人格と結びつく傾向もある。たとえば、日韓関係が小泉vs盧武鉉のような形で著しく人格化されて語られた。これを歴史観に反映すると特定の人物に歴史を仮託した英雄史観になり、現実政治に適用された場合には指導者待望論につながる。
感情移入と過度の思い入れ
対象へ感情的・感傷的に没入する。対象と一体化した共感・同情。惚れた状態。マイナス面が見えなくなる。あばたもえくぼ。
現実に適用された例としては、拉致被害者家族会に対する感情移入。「被害者家族はこんなにかわいそうなのに、どうして北朝鮮に譲歩するのだ」という主張。共感・同情・思い入れが唯一の原理になる。没入対象が民族や国家などの場合は排外的ナショナリズムになる。
主観主義・心情主義
主観的心情と客観的現実とを同一視。あるいは、客観的現実を無視。
典型的な形態としては精神論。あきらめず努力すれば必ず夢は叶うという心情(ジャンプ的な少年マンガにも、少女マンガにも共通した心理)。
観念的空想
観念的な空想をもとに話をしてしまう傾向。「あれは??に違いない」「これは??なのではないか」という、根拠の薄い空想や概念操作を前提として議論を展開する。
オタク的な想像力の源泉とも言えるが、現実の問題に適用された場合、「どうせ??だろう」といった非現実的な憶測・陰謀論や、「もしかしたら??かもしれない」といった希望的観測にしかならない。
拗ね者意識、ルサンチマン
オタクがなお社会的弱者であるという現実から引き起こされる心理。潜在的にせよ顕在的にせよ、自分が疎外されているという意識。
こうした疎外感や拗ね者意識はオタク文化が閉鎖的土壌のもとで独自に発展する要因ともなったが、関心が外の現実に向けられた場合、マジョリティ・メインストリーム・既得権益、さらにはほかの社会的弱者に対する引きずり降ろしの心理がはたらく。
また、社会的弱者であることを一種の免罪符としてあらゆる粗暴が肯定され(被抑圧状態の復讐)、ひとしきり気分よく暴れることで欲求不満を一時的に解消しようとする。
「正しさ」信仰による偏向
どこまでも「正しい事実」を追求する態度。オタク文化の創作物のなかには「正しい公式設定」が存在しうるし、作品解釈をめぐってはそうした(しばしば枝葉末節に渡るほどの)「正しさ」が重要な論点となる場合がある。オタクのパラノイア的側面。
しかし、現実世界においては「正しい公式設定」は存在しない。正しい見方、正しい歴史、正しい勢力は存在しない。あらゆることが論争の対象。「正しさ」だけをもって現実を語ることはできない。政府の「公式見解」が時として「正しい事実」に反することには異議を唱えなければならないが、一方でそれが時として「事実上」(de facto)通用するという現実の意味も認めなければならない。現実の複雑で多様な側面に目を配る必要。一方だけの「正しい」主張しか知らないのはいかにも中途半端で偏向している。
中道、無関心への逃避
積極的な主張をするのではなく、むしろ中道や無関心を言うことで、現実の多様性とそこから要請される態度決定を忌避しようとする心理。「人それぞれ」という底なしの相対主義もこの系列。
しかし中道や無関心も歴然とした1つの立場である。これを認識することが肝要。むしろこうした無自覚な中道派や無関心派は、普段から積極的に態度決定する訓練をしていないだけに、イザというとき冷静な判断ができないおそれがある。
議論ずらしと無責任
「ネタ」「ベタ」「メタ」という形で議論のレヴェルをずらす傾向。オタクのスキゾ的側面。
空想や観念の世界に思いをめぐらす議論ならともかく、現実について考える・論じるときにこれをやると、とんでもない無責任な方言、責任回避になる。
とくにネットのような場所では、万人が非常に気軽に意見表明できると同時に、その影響範囲はきわめて広範囲に及ぶ可能性があり、責任は思いのほか重大。他者に責任を転嫁したり、「ネタだから」などとごまかすくらいならば、意見表明などしないほうがよい。
※投稿者としてはこの主張全てに同意するわけではないのだけど(例えば、一口に「オタク」と言っても、北朝鮮への一方的な強硬論や核武装を訴えるような軍オタにはそうそうお目に掛かれない)、こういう傾向は確かにあるかもしれないと感じる。これを見ているオタクの増田諸兄はどう思われるでしょうか。