その理由を考えてみた。ちなみに、以下語られる匿名的なウザさとは、主に感情的な発言(コメント)と関係するものであることに注意。
人間の一般的なコミュニケーションにおいて、「その発言者がどういう人であるか」ということは、とても重要な要素だろう。なぜなら、そのような人間像は、その人の発言を、一種の文脈へと収め、安心することを可能にするからだ。特に、感情的な発言の場合そうである。例えば、「らきすたクソつまんねぇ」と言った人が、普段から萌え四コマを嫌っていれば、「この人がそう言うのも解るな」と納得できる。それどころか、「普段から萌え四コマを嫌っている」という情報のみで、らきすたを嫌っているという明白な発言がなくとも、その情報から「この人はらきすたを嫌っているかもしれないな」と演繹できるかもしれない。
このように、「発言者はどのような人間か」という「人間像」は、その人の発言を「納得可能領域」へと高めてくれるし、前もって予測することも可能になるため、自分が不快になるようなコメントが不意に飛び込んでくることも少なくなる(気の知れた友人の会話は、たとえそれが愚痴であっても納得できるものだ)。それに対して、匿名的な発言者は、そういった「人間像からの納得」という次元をもたらさない。それ故、「らきすたクソつまんねぇ」とか「かがみんウゼぇ」というコメントを目にすると、それを文脈へと収めることができず、我々は躊躇してしまう。その発言者は、まるで予測不可能で理解不能な「他者」であるからだ。
このような他者は、それだけで、「闖入的」であり「暴力的」である。そして、もし、こうした匿名的な他者に無理に人間像を塗りつけ、その発言を強引に文脈に収め安心しようとするなら、それはパラノイア的な妄想に過ぎなくなってしまうだろう(「お前ニートだろwww」とか「お前韓国人だろwww」などのコメント。ニコ動のあんな短文な書き込みだけでそれを判断してしまうのは横暴)。
もしこうした軽率な態度を取らないとすれば、我々は「理解不能な他者」の「きまぐれで偶発的な」コメントに、不安になり続けねばならない。
(追記:増田なんかも同じ理由でウザさや不安を惹起するかもしれない。また、ブコメもある程度上記のような性質を持つ。しかし、その人が普段どんなブコメを書いているか、あるいはどんな記事にブクマしているかを探すことで、その人間の人間像=文脈を形成し納得しようと試みることはできる)
統一された人間像が形成されない、というのは、発言者自信にも適用される。実は動画内の発言者にはそれぞれIDがあって、ツールを使えば表示できるのだが、盛大な批判コメのすぐあとに賞賛コメを書いている人も多い。同一人物としての一貫性の意識が自らのうちに形成されていないのだ。それ故、彼らは無責任である。
特に、真面目で長時間のコンテンツであるほど、コメントがウザく思える。それは、「その動画すべてを見た後でなくともコメントできる」というシステムの問題だ。熟慮が必要なコンテンツであるのに、サクッとコメントされてしまえば、それが軽率なものである確率は高いだろう、ということもある。しかしより重要なのは、そういったコンテンツは、最後まで視聴して初めて意味が解るものであるということだ。ある話が一種の伏線となっていて、のちの話に展開し、それがまた先ほどの話への補足になっていたりもする。こういう連関があるにもかかわらず、そのつながりの途中で「ツッコミ」が入ってしまったりするのだ。もっとよく視聴してからコメントして欲しいものだが、こういうサービスであるので仕方がない。
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文字情報で言えば、文脈は長文であればあるほど形成されやすい。しかし、一番人間像を作りやすいのが対面のコミュニケーションなど、ノンバーバルな情報(表情など)を含むもの。