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はてなキーワード: 遠近法とは

2013-11-26

http://anond.hatelabo.jp/20131125233249

加害者とか被害者とか、そんなに気にすることかなあ

ほとんどの人間って事実上プラスマイナスゼロでしょ

まあ勿論いちいち細かく見ていって総和とれば微妙プラスだかマイナスだかだったりするのかもしれんけど

絶対値が小さすぎるから遠目から見ると大した意味を持たない

勿論自分のことは距離が近いか遠近法よろしくいちいちデカく見えるんだけどそれは気のせい

それを気にするなってのは強弱の問題じゃなく視点の問題だと思われる

2012-06-16

デッサンへ取り組む姿勢

デッサンをするとき技術と心の2つ必要だ。

前者は知識であり、我々に平等に与えられる。

知識とは明暗や遠近法といっただれにでも等しく理解できるものだ。

仮に知識のみで描けば、我々は写真のように緻密な絵を描くことができるはずだ。

後者は描き手の価値観に基づき、我々に平等には与えられない。

「描き手の価値観に基づく」とは言語で共有しうる価値観のことではない。

言葉にならないものに対する、潜在的な思い入れのことである

それは我々の過去経験によって形成される。

私はこの両者のバランス重要だと考える。

2012-02-08

http://anond.hatelabo.jp/20120208155738

寓話を観光資源に転換しようとした際には、売り込み方が変わってくるのでマネジメント的には重要

吉四六さんとか、遠野物語とか、ある程度観光資源化できる具体的な情報や諸説の取集などやることはいっぱいあるわけで。

例えば、ワシントンの斧を観光資源化しようとしたならば、

目的に沿うような木を探してこないといけない。

この際に、桜の木を探すか桜桃の木を探すかの違いがまず出てくる。

ここで桜の木を探して来たら、桜なんてあの時代にねーよwという事になる訳で、探すのは桜桃の木にしないとならない。

この手の観光資源化は当時の品物とか風俗の展示がセットなので、当然それと売り込みの柱である寓話が乖離しないようにしなければいけない。

とまぁ、全くのフィクションだったとしても、事実により近いだろう情報が無いと酒飲み話にしかならんのよ。

寓話とは多少ずれるが、ディズニーランドのこの手の努力ってのは凄まじいものがあるぜ。

どうやって、実際のアミューズメントアトラクションに落とし込むかとか。

ノイシュヴァンシュタイン城をモデル眠れる森の美女の城をデザインし、そこからシンデレラ城をデザインしているわけで、元ネタ築城技術に詳しくないとデザインとかできない。

強化遠近法とか使っているから、変なラインとか残ってたら破たんするしな。

2010-12-03

ニコニコ生放送 村上隆芸術闘争論#2 森川嘉一郎プレゼン

以下、森川プレゼンの聞き取りメモ

村上は美大を問題にしてるが一番問題なのは小中高の美術教育だと考える

村上が批判するところの『自由主義』≒内発的なものを表に表現することこそ美術の真髄であるという思い込み

そのルーツは小中高の美術教育

小学校はともかく中高でそういう教育を行うのは問題なのではないか

日本美術教科書は他国と比較すると異様に薄く内容的にもかなり異なる

典型例として

自画像

自分を見つめる

生まれてからずっとつきあってきてる自分ですが、自分のことはよく分かってるようで中々つかみどころがありません。

自分ってなんだろうは永遠課題かもしれません

今の自分をよく見つめ、心の中や自分らしさがあらわれるような自画像を描いてみましょう

このときアニメ絵を描くと教員は嫌な顔をし、

「それはあなたの絵ではなく誰か他の人の書いた絵でしょう」

「人の真似ではなく見たまま感じたままを描きなさい」

NGが出る

褒められる絵

美術教師・教科書が褒める絵のスタイルには傾向があり、顕著なのが風景画における印象派

心ひかれた場面に出会ったら絵に表してみましょう

光や影、広がりや奥行きを各画面の構成や色彩で工夫すれば、印象深く表すことができます

印象派

日本美術教育印象派美術最先端だった頃に開発された技法が輸入され太いチャンネルになっている

その結果として印象派的な書き方を教えることが日本美術教育の一つの王道を成している

外国美術教科書ってどう違うの?

分厚い

美術史を丁寧に教える

ルネッサンスの項では遠近法が開発され、そうした理論の注入が行われた結果それまでの中世の絵から

どのように変わっていったのか、等が論理的に

20世紀の項では

ピューリズムとかシュープレマティズムなどマニアックな流派まで結構詳細にどういう背景を持って

どのような流れで出てきたのかを触れる

中学生教科書

半分は美術史をやり残り半分は実作

こういう教科書を読みどういう課題をやるのか

例えばエジプトの壁画、ファンアイクの絵、マチスの絵に到るまで丁寧に模写をした上で

それがどういう時代背景の元にどういう技法で描かれているか自分なりに読み込んで

まとめる、ということを行う。

日本でも美術史をやらないわけではないが、それは日本史世界史の授業で行い

美術の授業とは切り離されている

基本的に向こうでは美術史自分で描くこととを両輪のように組み合っせてやってる

こういった模写を通じた美術史教育を受けることによって、

美術というのは歴史があり、何が「美しい」と思われてきたのかは時代時代によって

かなり変わってきている。

歴史の積み重ねがそれを作り上げている。

それは宗教だったり政治であったり、そういった権力のもとで作られてきたとか

あるいはフランス革命により王政が打倒された結果、描くモチーフが王侯貴族から市民に変わっていったり

そういう技法まで含めて流れがあり

我々が何を美しいと感じるかというのは、実は自分が生きた時代に人々がそういうものを

しいと思うように訓練されたから、そういうものを美しいと思うのだということが体得されてゆく。

しか日本場合

ある人がなにかを美しいと思う、それは何か訓練された結果美しいと思うのではなくて、

あくまで内発的ななにものにも影響されないそういう感覚があり、その美しいと思ったその感覚

あるいはそれを表現することそのものが美術なんだという風な、いわば洗脳を受ける結果として、

自分があるものを美しいと思うときに、例えば広告とかTVCMとかの結果としてそういうものを

しいと思うようになっているにも関わらず、内発的に美しいと思っていると誤解している

ところが発生しかねない。

疲れたんでここまで

以下、日本美術教育のこのような特殊性のルーツはなんのか、等々

またこういった『自由主義』が美術教育専門家ら自身にも問題だと認識されていること、

にもかかわらずこーなってんのか、日本美術教育がどのように位置づけられてるからなのか、等々。

更にかつて現在美術界同様な状態だった日本建築界が磯崎新の仕掛けによりどのように

変わってゆき、現在のような5~6人のワールドクラスを輩出するまでに変わっていったか、等々

村上は磯崎が建築界で起こしたことを美術界で起こせるのか、等々

と続く

とにかく根拠が実感だけの村上さんよりはるかに具体的で面白かったんで、こんな糞エントリじゃなく

直接↓を見てもっと洗練されたまとめ、感想、そしてツッコミを書いて欲しい。誰か。

http://live.nicovideo.jp/watch/lv33643068

2010-02-26

ピカソって何が凄いの?みんな分かったフリしてるだけだろ?

ttp://chaosch.blog106.fc2.com/blog-entry-168.html

宗教画の時代

 ↓

もっと人間社会ありのままを描きたい!

 ⇒ルネサンス遠近法発明

 ↓

以降、写実性重視の時代がずっと続く

 ↓

19世紀ころ、写真発明により画家達の生命ピンチ

 ↓

そんななか、日本浮世絵に感銘を受けた一団

「3次元を2次元に忠実に写し取るより、

もっと感じるままに描いたらいいんじゃね?」

 ⇒印象派ポスト印象派の登場

 ↓(ここから様々分岐、発展)

・「つか、色とかも見たとおり描かなくていいんじゃね?」

 ⇒フォービズム

 

・「形とかも見たとおり描かなくていいんじゃね?」

 ⇒キュビズムの登場・・・ピカソはたぶんこのへん

・「現実にあるものを描かなくてもいいんじゃね?」

 ⇒シュールレアリズムの登場

・「つか、もうどうでもいいんじゃね?」

 ⇒抽象絵画ドリップアートとかいろいろ登場

2009-09-20

http://anond.hatelabo.jp/20090920103827

小野谷とは違う視点だけど、「臼井さん」というところが気になるなあ。

どんなに感情移入してるか知らんが、おそらくは知り合いでも何でもないであろう有名人のことを「さん」づけで言うのって、やっぱり対象と自分との距離を喪失しちゃってるんだなと思う(例:タモさん)。

想像力たくましくて対象を生々しい人間として感じてらっしゃるんでしょう、けっこう。

だけどそれ自分を中心とした世の中の距離を完全に見誤ってませんか? 関係性の遠近法がガタガタになっていませんか?

2009-03-31

メンヘルハンターありむー 第1話

駅前のモスバーガーで私と有村くんは弟の話をしていた。近場だと、弟にばれてしまう可能性があるため、有村くんの提案で普段と少し外れた町に来ていた。私が詳細を語り、頭を下げると、有村くんは指を口びるにあて、くりくりと目を動かし、少し笑った。

「んー、別に君が悪いわけじゃないから、大丈夫だよ。気にしていないから」

 私は少し安心し、もう一度頭を下げてありがとうと言う。

「いいよいいよ、そんなことしなくても」

 彼はぱくりとモスバーガーを食べる。パンとパテの間からソースがこぼれる。トマトベースにしたと思われる鮮やかな赤のソース有村くんは唇についたソースを口で拭き、そして舌でぺろりと舐めた。そのあとは他愛もない話をした。最近人力検索を使って大量のバカを釣った、行っているバイト上司がむかつく、とかそういうどうでもいい話の羅列。そんな話をしている時の有村くんの眼はとてもいきいきとしていて、私は嬉しくなる。

「もうそろそろ帰らないと弟からまた文句言われるんじゃないの?」

 彼の一言に、もうそんな時間だっけ、と時計を見る。まだ少し余裕があるから、大丈夫だよ、とは言うのだけれども、彼は早めに出ていたほうが、ばたばたしなくて済む、と言った。確かに、ぎりぎりになって、何かのせいで遅れたならば、また弟に、また"制裁"をされるだろう。単純に困ってしまう。私は、彼の好意に甘えて、出ることにした。彼は笑って、いいんだよといった。その笑い顔は本当に眩しかった。

 でも本当に、好意、なのだろうか?

 有村くんは少し早道をしようと言って、私の手を握り、裏路地へと回る。道は二人並んでやっとくらいの狭さであり、その道を挟む無機質なビルが自らの存在を主張し、圧迫感を感じる。見上げると空が細長く切り取られている。今日は曇り。

 私達は歩き続けた。右に曲がったり、左に曲がったり。私はいったい何処へつれていかれるのか解らなかった。解っているけれども、このまま時空の歪みでもうひとつの世界へと軟禁されてしまうのではないかという気がした。でも、それで弟から逃げられるならば、それもいいかと少しでも思った自分は少し残酷人間だと思った。

 気のせいか、段々と雰囲気が鬱屈したものとなり、人の臭いのしない道になってきた気がする。相変わらず私を押し殺してくるビルの数々。

 ――そして行き止まり。

「あれ、道間違えたの?」

 私は後ろから声をかける。有村くんは素早く私の後ろへと回り込み、袋小路へと押し込む。遠近法錯覚なのだろうか。見ては解らなかったけれども、段々と道は狭くなっており、袋小路の壁へとついたころには、一人通るのが精一杯で、すれ違うことも難しいような場所になっていた。

「ううん、間違っていない」

 不意に足元が崩れ、視線に入るのが道路から空に変わる。そのあと、有村くんが覗きこむ。

「手荒な事をしてごめんね。こうするしかないんだ」

 こうすること?どうして?私は理由を聞こうとする。だけれども唇で塞がれる。

「ねえ、もう弟の思い通りになるのは辞めたらいいと思う」

 彼は私を見下ろしながら服を一枚一枚脱ぎ始めた。

 細長く薄暗い空。殺伐としたビル。そこに一厘の花のように咲く彼。その彼の白い肌は何かの御伽噺から抜け出てきたように綺麗だった。出るところは出て、引き締まったところは引き締まった、メリハリのある、成熟した男の体。もしかしたら本当に御伽噺なのかな、とも頭では思った。そうであった欲しかった。でも現実。手を伸ばし、私の首筋を軽く爪で掻く。弟との鎖の跡。

「弟に言いように扱われて苦しいんだよね、解ってる。その鎖は今のうちに切り離しておかないと、段々と君をがらんじめにして窒息させてしまう」

 そんなこと、昔から解っていた。でも、私にはどうすることもできなかった。いや、なんとかすれば出来たのかもしれない。でも弟に対する疚しさもあったのだろう。彼の愛に答えることができない、自分の不甲斐なさに。

「僕と、セックスすれば、弟君の鎖も切れるよ」

 でも、それは別の帰結を作り出す。

 つまり、有村くんの鎖を受け入れるということ。

 それは、弟の鎖よりも幸せな鎖になるのだろうか?

「でも、君は怠け者だから、なかなか自分ではやりたがらないし、仕方ないから僕がしてあげる。これは君の幸せ"でも"あるんだよ」

彼の視線は私を貫いた。それは弟と違う"オトコ"の眼だった。

続く

2008-11-20

http://anond.hatelabo.jp/20081120135107

て感じなのだろうか(↑ピラミッドを上から見ているイメージ)。

上から見てるんなら、遠近法で演出しなきゃだめだろ。

俺が手本見せてやる。

美人イケメン

普通の子・フツメン

ブス・ブサイク

ある意味カタワ的な容姿の者

ピザデブ

2008-08-24

先に技術を教えるのは良くない

http://anond.hatelabo.jp/20080824041507

絵の描き方を習ってないって、それは嘘だろう。

教えてくれてるよ。普通に。

まずは道具の使い方。

絵の具の使い方、パレットの使い方、画板の使い方。

そして絵の描き方。

下書きしてから描きましょう。同じ色で塗りつぶさないようにしましょう。

で、絵を描けと言われて

「影の描き方を教えてくれ」だの「雲の描き方を教えてくれ」だの「もっと立体的に書きたいだの」言うやつってなんなの?

ひねくれすぎだろう。みんな教わったことを使って絵を描いてるんだよ。

教わった範囲内で自由に書けって言ってるんだよ。

「自由すぎてよくわからん」

なんていう奴は塗り絵でもやってろ。いや、塗り絵だって塗る色の自由はあるぞ。漫画家アシスタントでもやってろ。(アシの人ごめんなさい)

自由なんてのは絵を描けって言われて画用紙に粘土を貼り付けて立体感出した奴が成績トップを取ったりしてから言ってくれ。

正直、みんな絵とか作文とかを始めてやってみたときに

「何をすればいいの?」

ってことを感じるのよ。それはたぶんみんな一緒。

でもやってみると、なんとなく分かってくるわけ。絵にしろ作文にしろ。

「何をすればいいの?」

って感じてる子には先生がしっかりアドバイスしてたよ。

「読んでみてどう思ったの?」

「えっと、悲しかったです」

「何が悲しかったの?」

「えっと、主人公の○○が・・・」

「ほら、それを書いて!」

ってな感じで。そうすると感想文って自然と書けるんだよね。

ういういわゆる「基本」ができてから「技術」を教わるわけ。

中学校でようやく絵の描き方とか習ったよ。ただの四角い木の塊を机の上に置いてスケッチ、みたいなね。

影の描き方から遠近法やら学ぶわけですわ。

読書感想文にしたって、主張をどこに持ってくるかとか習うわけですよ。

最初に教わるのは「基本」。それから「技術」。

サッカーだってそうでしょう。いきなりクライフターンとか教わって、そりゃ一人や二人は抜けるようになるかもしれんけどさ。シュートできなきゃ意味ないっしょ。

基本を教わってさ、基本をすぐに理解してしまう人には小学校時代って退屈なのかもしれない。

元増田もそんな一人かもしれない。

でも、そういう人は中学校なり高校なりで「技術」を覚えると目が覚めるんだよね。

微積分なんてツマンネとか思ってたのに物理電気回路で目が覚めた、みたいなね。

目が覚めなかった人は要するにひねくれ者でしょう。

小学校の時に辞めたからもう二度とやってやんね。技術とかしらね。って感じで。

で、今頃になって「あの時教えててくれよー」とか言われてもさ。はぁ、そうですか、と。

あんただけのために教育ってあるわけじゃないんだぞ、と。

[]もっと、学校でテクニックを教えてみた教師の憂鬱

もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのに

技術を教えてみた事例

先日、久しぶりに友人と遊んだ。夜になって酒が入ったところで俺が萌え絵とかそっち方向描いてることを暴露。あれ?大学で意気投合してから、もう6年来のつきあいだけど、いままで言ってなかったっけ?そういえば言う機会もなかったし、そいつと頻繁につるんでた頃は絵は中断してたもんな。まあそんなこんなで話は絵の方向に。

友人「でさー、高学年の奴らに遠近法教えたんだよね。やっぱり技術の上に立ってないと気持ち悪くて…。」

増田理系病だなw…しかし遠近法って…透視図法のことか?あれは難しいんじゃないか?俺でもきちんと使えるようになったのはほんのここ数年だぜ?…一応本来習うのは確か中学校美術だよな。」

友人「そうそう。だから、写真撮ってきてその上なぞらせたりしてさ。そうすると、意外と理解できるんだよ。『確かに一点に集まる!』って。」

増田「一点透視図法ってやつだな。ふむ、なるほど。理論後回しで、体験的に学習させる方法なら5・6年生でも行けるかも。」

友人「あいつらもさ、やっぱり『上手くなった!』って思えるから楽しいみたいなんだよね。」

増田「だろうなあ。写実は、現実に近くなった!っていう明確な目標が見えるからな。」

友人「でも、コンクールにはことごとく落ちたんだよね…。」

どっちがいいかなんて

増田コンクール…。」

友人「うちは、毎年10人ぐらい入賞させてたらしいんだよ。それが今年はことごとく…。『子どもらしくない』んだとorz

増田「…いや、まあ、しかし、コンクールなんて審査員ウケする絵が描けるかどうかだろ?『のびのび、元気よく、多彩な色づかい』みたいな。」

友人「…うん(´・ω・`)確かにそういうノウハウはあるね。」

増田「俺も低学年はそうやってのびのび自由に描くのがいいと思うんだ。その頃は『描くこと』自体が楽しいから。でも高学年になると、しだいに写実的に描きたいって欲求が出てくる子もいるだろ。そういう奴らには技術面を指導しても良いと俺は思うよ。」

友人「…でも確かにクラス全部、画一的な絵になっちゃったのは間違いないんだ。隣とかと比べると、これで良かったのかな…って。」

増田「まあ、写実はゴールがあるから画一化はするよな。でもさ、のびのび描く絵だって『のびのび』って名の下での審査員ウケ狙いの画一化じゃない。だから大丈夫だよ。入賞させる人数にノルマがあるって訳でもないんだろ?」

友人「でもコンクール入賞するってのは、子どもモチベーションになるんだよね。どっちが良いかは分かんないや…。」

増田「そっか…。難しいね。」

専門じゃないから分かること、分からないこと

教育大学小学校課程を勉強したとしても、美術系の授業なんて前後期で1授業ずつぐらいだし、絵画技術なんて教わらない。友人もこの透視図法教えるために相当自分で勉強したんだろうな。自分は絵が苦手だって言っていたから、きっと子どもに苦手意識を持たせないにはどうすればいいか、自分なりに試行錯誤して「技術を学ばせる」方針にたどり着いたんだろう。新米だから風当たりも強いに違いないのに、よくやってると俺は思うんだ。

こういうのって教える対象子どもの発達段階による部分も大きいし、専科を作れば解決って問題でもない。(専科になったら苦手科目で目を回してる教員は嬉しいだろうけど。)

教育に一般解はないんで、だからこうやって現場現場なりに日々もがいてますよ、と。できれば「教師は…」ってひとくくりにしたり、「教師だめぽだめぽ」って責め立てたりしないで、力を貸してくれると嬉しいな、と。そういうことが言いたくて増田

友人「でさ、俺のキャラクターって言うか、カットって描ける?ああいうのあるとプリント作りやすいんだよ!」

増田「おまwww…おk、似顔絵は苦手だが教採終わったら頑張ってみるわwww」

※この文は全てフィクションです。実在の人物・団体・思想とは一切関係がありません。

参考

俺らが逆らえない何か。(指導要領は実は法律として効力を持つ。)ネットで指導要領見られるって知らない人多いよね。


指導要領解説(実際に参考にするならこっち)もあるよ。いちいちZIPだけど、そこはお役所クオリティって事で。


(追記)

この話、結構意見がばらけてますね。自分のは文章がまとまってなくて申し訳ない。

これ、美術とかに限った話じゃなく、「発想の土台となる基礎知識をどれぐらい教えるか」も同じ話だと思うんだ。例えば「理科で草花の名前を単純に覚えさせるの、どうするよ。」みたいな。つまり「知識と経験の比率」だね。詰め込み教育は知識重視、ゆとり教育は問題解決学習や応用力を重視している…だから経験重視だ。

この文だと分かりにくいのだが、この友人は絵がコンクールに通らなかったことや方針そのものに落ち込んでる訳じゃないと思う。たぶん、さじ加減が強力すぎたんじゃないか、詰め込み偏重になってないか、てことで考えてたんじゃないかなと思う。元増田みたいな「もっと基礎を」という意見が出てきたり、友人みたいな悩みを持つ現場があったりするのは、ゆとり教育見直しという現状をよく表してるんじゃないかと思う。

えっと、だから言いたいこととしては、「ハンドルは切られ始めてるよ!」「でもどれだけ切ればいいか現場も(たぶん)文科省も悩んでるよ!」「だからあんまり現場を十把一絡げでいじめないでね!」「文科省任せにしないでいろんな意見が出た方が良い気がするから、ゆっくり議論していってね!!!」…かな?

2007-09-03

なにが意味がよく分からないのか

二次元を疑似的に三次元のように見せるのが遠近法じゃないか!

2007-05-04

http://anond.hatelabo.jp/20070504165121

次元?それとも詭弁

そんなになんでもかんでも加えていくものでしたっけ。

遠近法は2次元を3次元のように見せる目の錯覚だよね。


アニメ絵を2次元。実写を3次元ということに問題があるのかな。

じゃあアニメ絵写真でとったらこれは何次元だろ。

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