はてなキーワード: 読書感想文とは
http://d.hatena.ne.jp/sukebeningen/20120212
も〜読んだけど全然わかんない!ヽ(;▽;)ノ
折角だから、ここに何が書かれているのかということを、
「もしかしてこんなことじゃないのだろうか」という感じで書いてみる。
以前、友人と「ユニクロって結局アリなのかナシなのか」
という話題で盛り上がったことがある。その時は結局は「ま、求めるレベルによるわな」という、
なんとも味気ない結論に至ったわけだが、その会話のなかの友人の言葉で
「ユニクロって、良いとか悪いとかじゃなくて、もう"ユニクロ"としか言えないよね」
というものがある。
ユニクロは大衆服だ。大衆服だからファッション的な価値は要らない。
デザイナーとのコラボやその他「それなりにこだわってますよ」的なやつ(日本製を強調したジーンズなど)は
あくまで大衆に売る為の最低限の質の保証の為の言葉に過ぎず、他の服との差別化なんて全く考えられていない。
マクドナルドのトレイの中に敷かれた紙に書かれた、食材はこれだけこだわってるんです! ってやつと一緒。
大衆服は大衆の服だから無名だ。匿名性の高い、注目のない服だ。それが本質だ。
大衆服だから匿名であるはずなのにユニクロとしてのアイデンティティがそこにある。
一方で、マルジェラはハイブランドだ。ハイブランドだから、独自のデザインや個性など、
そういった価値が求められる。自分はマルジェラって良く知ってるわけじゃない
(ミスチルの桜井さんが好きらしいということをどっかで聞いたことがあるなあ程度)んだけど、
たまに見るネット上の画像とかだと、随分とスッキリしてて、匿名性のようなものを感じる。
ハイブランドだから個性的であるはすなのに、(マルジェラらしさはありつつ)どこか匿名的だ。
つまり、ユニクロって、マルジェラから最も遠いようで、実は構造は同じな逆位相みたいな感じで
ひっくり返して重ねるとピッタリ重なるんじゃないかと思う。
その構造こそが、この中で書かれてる「現代」なのかな、そう理解した。
だから、マルジェラの次の世代を考える時は、ユニクロについて考えるべきなのかもしれない。
ジュンヤワタナベは、なんかコラボが凄いところってのは知ってる。
渋谷のパルコの一階を抜けるときに良く目にするけど、いつもなんかとコラボしてる。
ブランドって、自分の価値や個性を強調したい筈だから、通常はコラボをしても自分の価値がメイン。
あくまでコラボは相手の知名度や特徴を借りて、自分の宣伝をするもの。
でもジュンヤワタナベのコラボは、むしろコラボ相手の服に依って自分のイメージを形作ろうとしているように見える。
つまりコラボ相手の服の価値がジュンヤワタナベの服の本質の重要な一部として、宣伝ではなく取り込まれる。
そしてそうすると、母体であるコムデギャルソンすら、ジュンヤワタナベの利用すべき一ブランドとして、
ジュンヤワタナベの下位に置かれることになる。この貪欲な構造がジュンヤワタナベの「現代」だと、自分は思った。
エイプはもう全然知らない。高校時代に、友人が読んでたファッション誌にエイプの服があって、
「えっこれこんな高いの!? 」と驚いたことがあったけど、それ以来特にまともに見たことはない。
確かどの商品にも大体猿のマークがくっついてる。
うちの実家にあるタオルにもYSLって書いてあるし、デパートに行けば
でも、それは本体の価値がちゃんとあって、それをロゴが借りてる、というものだ。
でもエイプはもはやロゴが本体って感じ。猿の記号が本質。サンリオグッズと一緒。
権威付けしてくれる本体と記号が同一だから、アーノルドパーマーのように
それがすごいところなのかなーって思う。
ここまで思ったことをなんとなく書いてみて、終着点が全然見えないから
ここでやめようと思う。
いや、今日そういう奴を見かけたので。
他人を参考にするのは悪いことじゃないのだが、あんまり受け入れる幅を広げすぎて
自分を引き裂くようなマネをして欲しくないな、ト心配になった。
生きてる限り矛盾は生じるけれど、その矛盾を高いレベルで両立させられる人は
多少分裂症的な部分がひつようというか、要するに天才だと思う。
自分が天才だと思わないなら、少なくとも習慣レベルでは一貫性を持っていたほうが生きるのが楽だと思う。
いや、本当余計なお世話だとは思うんだけれど。
特に「マインドマップ的読書感想文」と「ライフハッカー」ってサイトが好きなんだよね。
あそこ前者はイケイケで雑食のような気がするけれど、いわゆる癒し系のライフハックとかは扱わないんだよね。
後者は逆にあんまりジョブズを一押ししていない。実践可能な、身の丈にあったレベルってコンセプトを感じる。
で、最近みかけた「なんちゃら紹介しちゃいます」みたいなサイト、あれはダメだ。ろくなコンセプトがない。ああいうのは嫌い。
ベストセラー作家だけど質問があるよ? - ハックルベリーに会いに行く
「 http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111019/1318990671 」
えーと、ハックルベリーさんこと「もしドラ」の筆者である、岩崎夏海さんが色々とはてなの利用者に対して質問してきていたので、質問内容が色々とこじらせていて正直めんどくせーなと内心思いつつ、なんか興味を持ったので答えてみるかみたいな気持ちになったので、岩崎さんの質問にざっくりと答えてみます。
(なお私自身これ書くまではてなダイアリー使ったことなく、一部見にくい所もあるかと思いますが。その点はご容赦を)
このブログ内容を見る限り、あなたのことをあまり知らない人でも普通の人は承認欲求の強い人間にしか見えないんじゃないかなぁと思いますけれどね。それがいい事なのか悪いことなのかは不明
申し訳ないですが、あなたのブログを日頃閲覧していませんので何とも言えません。はい
まぁそれは置いておいてあなたは自分自身の良い所、悪い所を探ろうとしてこんな質問をしてるのですよね(そうじゃないような気もしますが、そういうことにしておきましょう)、それって他の人があまりやろうとしない、なかなかできない立派な行為だと思いますよ。はい
それと多くの場合、短所は長所の裏返しでもあるってこと忘れちゃいけないよって言ってみる。
そうですね、例えば私だって進んで今食べている肉料理の食材がどんな感じで作られているか見たくも想像もしたくないですもの。こういう風に考えてしまうのは精神衛生上人間仕方のない部分もありますよね。またいちいち、真実を追求していくとキリがないというのもありますけれど。そういう意味で視点にバイアスが出てしまうのはどうしようもない所もあるんじゃないかなぁ。
世の中そんなものですよ、あんまり気にしないほうがいいですよ、はい (偉そうに言ってみる)
アップル製品を使ったことがなくてスティーブ・ジョブズさんの事、あまり知らないので何とも言えません。すみません
…えーと、ごめん、頭悪くて、英語の意味わからないです。こんな時はとりあえずそんな難しいこと言ってないで、飯食って歯を磨いてとっと寝ろって返せばいいのかな?
だってそうしたほうが、世間一般に説明しやすいし、しょうがないことじゃないことじゃないかなぁ。
そりゃ肩書のある人は多くの人にとっては偉い人だって思っちゃうわけで、それこそ肩書があるだけで、ほかの人より特に優れている人に見えない人でも、組織の中で重要人物として見られることも多々あるわけで、例えば政治の世界ですと元総理で民主党の羽田さんなんてそうですよね。これがいいことなのか悪いことなのかは正直言って時と場合によってでしょうね。
えーと…終わっているように見えて続いているものって結構あるものですよ(こう返せばいいのかな?)。正直どう返していいかわかりません、明確な答えは私自身持ってません残念ながら、はい
…はてなに関しては、ここ1~2年しか見てきてないのでなんとも言えません。
どういうふうに言われ続けてきたか詳細が分からないのでなんとも言えないし、
そうですね、こうしたベストセラー本を出せたことはやっぱり凄いことだと思いますし、あと(こんなこと言ったら褒めるレベルが低いって言われるかしれないけど)小学生の頃読書感想文で苦労した身とすればあれだけ長い文章を書くってすごい事だとは思いますね。あとブログが続かない私としてはブログがこうして続いていくその点もすごいなと思いますよ。はい
質問の意味がわかりません、いやなんとなく言いたいことはわかるけれど、なんか答えたくない。
私は本を読んでませんが、本について批評もしてないのでなんともいえませんね。
えーとどう返せばいいのかわからないけれど、少なくてもあなたは、こうやって矢面に立って批判を受けていることもあるわけですから。卑怯者ではないですよ。ただあなた自身が批判してきた人に対して、卑怯者だって罵るのは避けたほうがいいとは思います。
http://anond.hatelabo.jp/20111005092209
直木賞、芥川賞、本屋大賞など。文学賞を創設してこれというものを選んで授賞する。本屋大賞なんか一番わかりやすくて「書店員が一番売りたい本」を選んで授賞してるんだよね。ある意味で一番効果的なプロモーション。上に上げた3賞以外ではノーベル文学賞が有効。世界的大家でも日本では無名な作家が一気に売れるようになる。
普段本なんか読まない賞にとって、これも有効なプロモーション。俳優陣は勿論、脚本家や監督も実績のある人を採用すれば効果的。観客動員や視聴率のために原作からの改変なんて当たり前だけど(中年男の主人公が若い女性になったり、殺人の動機が単純になったり)、それでも原作が売れるようになる。ただしやり方を間違えると元からの原作ファンが立腹する可能性あり。ラノベのアニメ化もこれに含まれる。
「小節は読まないけどビジネス書は読む」「雑誌や新聞は読む」という人には有効。「もしドラ!」「チーズはどこへ消えた」「GOAL」など。ただ、これ「小説を売る」じゃなくて「書籍というパッケージを売る」というものだけど。難点はブームが去ればあっという間に著者が一発屋化すること。
ここ数年の流行。夏目漱石や太宰治に小畑健の絵をつけたり、サリンジャーやチャンドラーを村上春樹訳で発売したり。これもやり過ぎると陳腐化する。
去年辺りまで流行ってた。小説と言うよりもタレント本といったほうがいいのかもしれない。ただあれだけ話題になった劇団ひとりが2作目は全然売れてないし、水嶋ヒロも2作目が出る気配がない。その後も作家として活動しているのは辻仁成(辻はブーム前に出てきたけど)、川上未映子など少数。
子供のときに読書感想文というのがあって、あれが実にくだらないと、子供心に感じた。だから、絶対に本当のことなど書かなかった。いい加減に書いて、つまり、先生が喜ぶようなことを書けば褒められた。実際に、それで賞状をもらったこともある。ああ、くだらない思い出。
本を読んで、その感想を文章にすることは、自分の考えをまとめる、という訓練としては、そこそこの価値がある。気持ちというのは、なかなか他人に伝達できないものだから、その局所的なものを一般的にする行為は価値がある。しかし、そもそも、人に伝えたい、という気持ちがまず大切であって、「わかってもらいたい」という動機がなければ、文章はけっして良くはならない。その気持ちがない状態で書けば、ようするに入試の小論文に見られる、おきまりの構成、テーマ、常套句の嵐になって、読めるけれど、意味のない文になる。そういったものをいくら書いたところで、それは文章を書けることにはならない。
それよりは、この頃の流行のブログの方が、少しはましだと思う。誰ともわからない相手に(そんな者はいないかもしれないのに)、気持ちを伝えようと前向きになってアウトプットする素直さは、非常に平和的で、社会的で、そして善良である。
自慢したいことや、同情してほしいことや、知ってほしい気持ち、褒めてもらいたい行動、そういうものが誰にもあって、それをこれほど公的かつ私的に(つまり遠いけれど身近で)書けるシステムは今までなかっただろう。この際だから、読書感想文なんかやめて、ブログを学校の先生が読めば良いのではないか。
まず、小説(フィクション)の感想文というのは、小学生にやらせるやらせない以前に、そもそも馬鹿馬鹿しいものなので、これは、教育どうこうの問題ではない。もし、国語の時間に文章を書くことの訓練をさせるつもりならば、小説ではなく、絵画であるとか、古建築であるとか、まったく別分野の芸術に対する感想を文章にさせてはどうか。文章になっているものの感想を書かせると、単に8割はその内容をピックアップするだけで、創造力、文章力の訓練には適さない。出版社に勤めて、本のあらすじを書く仕事を将来するのならば、多少は役に立つだろうか。それ以外に、小説のあらすじを把握する意味も価値もまったくないと思われる。そもそも、本の裏表紙にある「あらすじ」が僕には無意味だ。
一方、ノンフィクションに対する感想文というのは、ある程度、論理的な思考を養う意味では、効果があるかもしれない。受験の小論文で試される学力もここに近い。つまり、求められているものは、論理性、着眼などである。
おそらく最初の目的は、子供に本を読ませること、だったと思われる。僕は、子供に本を読ませる必要は感じない。読みたいものがあれば、必ず自分から読むだろう。それが人間だ。
繰り返しになるが、文章を書くときに必要なことは、読む相手を想定すること。その人に伝わるように書く、という訓練が重要だ。読書感想文は、誰に宛てた文章なのだろうか? いったい何のために書くのだろうか?
男性向けの自己啓発本は、「マインドマップ的読書感想文」に代表されるように、肉食的なガツガツしたやつとモテ系が多い。キャリアアップや成長曲線が前提。
女性向けはどっちかというとスピリチュアルであったり、今を楽しく生きるとか身体を健康に保つとか、若い状態をキープする横ばいの曲線が基本。
男性と違って20歳あたりからすでに老いを恐れ、その対策を強いられる女性の感性からしたら当たり前やね。とにかく人生計画とは無縁。
一時期勝間和代が、この女性の傾向に対してリベラルな存在として立ち上がったけど、やっぱり長続きしなかった印象。
どだい、自分のキャリアのためなら離婚も辞さず、くらいの覚悟がないと、長期的な人生計画、キャリア計画を維持することが女性には難しい。
肉食系と言われる人たちでもせいぜい和田裕美とか佐藤なんちゃらさんくらいがちょうどいいレベルのようだ。
ちなみに、これは一般的な女性向けの話で、昔から勝間さんのようなスーパーウーマンというのは一定数存在する。
彼女たちはもともと「名誉男性」と言われるように男性以上に男性的なので、女性向け自己啓発書など必要としていない。
・私がわたしになれる本
・人間関係がうまくいく本
・鏡の法則・スピリチュアル系(江原じゃなくてバシャールみたいなやつ)
などなど。こういうのを眺めて憧れを抱くのが基本。
小中学校の読書感想文って、担任や国語担当の教師が気に入るように、
指定されたつまんない本の中からちょっとはマシな本を選んで、
ついでに文章の長さのマネージメントを身につけたり、
教師心をくすぐるような文章を入れてみたり。
そういう経験って学生時代はそうでもないけど会社員になってから生きてるかも。
顧客が提示してきたつまんない元ネタからおもしろそうなところをピックアップして、
ターゲット層が興味を引きそうな、かつ、長さのちょうどいい文章を書く練習になるよね。
読書感想文はそもそも作文能力を高めるのについてクソの役にも立ってないだろ。
本人がまず作文能力終わってそうな小学校教師が「思ったままに書けばいいのよ」とか意味不明なこと言って無理矢理書かせてるだけだから。
どこがいいとか悪いとかの論理的なフィードバックもない(というかできないんだろう)。
あれは「昔からやってるから今年もやるってことにしとけば波風立たないし、新しい方法考えるのめんどくさいし」というサラリーマン根性の結果でしかない。
答えは、
なぜかというと、
一度も文章読解をせずに人生80年を過ごす事は不可能だからである。
読解能力がなければ説明書きを読めないので一人で手際よく進められない。)
さて、話を戻そう。読書感想文によって、
読書が嫌いな子供が増えているという事実を思い返してもらいたい。
「作文能力を高める訓練」を行えば行うほどに、
「読解能力を高める訓練」から不幸にも子供がどんどん遠ざかっているのである。
まったく本末転倒、これでは何もしない方がマシだ。
読書を嫌いにさせてまで、
すなわち、読解能力を下げてまでして、子供の作文能力を高める必要などあるのだろうか?
(いや、ありはしない!)
まず 「読書を嫌いにさせない」 というのが最優先事項じゃないでしょうか。
昔から負けっぱなしだった
頭はいい方だったけど、読書感想文コンクールなんかで表彰もされない
何かのイベントで一番になることも全くない
学年トップを取ったことはあるけれど、周りが思い浮かべる学年トップ集団で名前は挙がらず常に次点のイメージ
実力的には決して劣らないはずなのに、と思うが劣ってるからそういうイメージが付くんだろう
その大学でも自分より遥かに出来る人間がいて、努力を結果に変える連中ばかり
当然首席などではない
ちょっとした議論になるとほとんど言い負かされる
インターネットでも論破される
論破された末に見下される
論破するときもあるが、それは口ぶりからだいたい年下で、勝つというより指導するに近い
集団でボロクソに言われたこともある
次はいつ勝てるだろうか
また見下されるだろうか
そしてこういうことを書けば、きっとコメントでも「他人との優劣を気にするなんて~~」という感じでやはり見下されるのだろう
もしくは変わらないといけないとかやはり上から目線で言ってくるのだろう
このままで勝ちたいのに、それも叶わない
今の自分が容易く大勢の他人に否定される
いや、それでいいのかもしれない
どんどん見下してくれ
それでこそ自分なのかもしれない
勝てない
勝てない
勝ちたい
「○○についてどう思ったか」と言われても「世の中には○○という物があるんだと思った」程度の感想しか持てなかったから。
思い返すと、子供の頃って本や人から聞く事は全て「知識」で、まだ経験や感情が伴っていないから何も「思わない」んだと思った。
純粋な「知識」としてありのままに受け入れてしまうんじゃないかと。
大人になってから比較検討する為の材料集めの時代とでもいうのかな。
「花が咲き乱れている」と言われて何かしら感想を言える子がいるとしたら、花が咲き乱れている事に感情や経験がちゃんと結びついている子、
あとは「こういう言葉を言っておけば大人は喜ぶだろう」という大人受けを狙える子くらいだよ。
「考えようと思えば考えることはたくさんある。」と言うけれど、大人と違って子供はその「考える事」に対しての感情的経験的な取っ掛かりが何もないんだよ。
(ただ、そんな中でも「好き」「嫌い」はあって、好きな物や嫌いな物に対しては感情や経験が蓄積しやすい傾向はあると思う)
こんな感じで何も感想を持たない子供時代を過ごした私でも、大人になった今は何かを見て「思う」事はたくさんあるし、読書感想文だって普通に書けるので変に怖がることはないと思うよ。
もし増田が子供に関わる活動をしているのなら本や口伝てで知識を与えるだけじゃなく、感情や経験もたくさん与えてあげれば良いと思う。
バサーニオーとか、借金があるのに金持ちの美人女に惚れて、んでこの女をゲットするためにさらにカネを欲しがって、
んでリア充友だちのアントーニオーにカネ貸してと無心する。
アントーニオーは、それこそ歯の浮く様なセリフで俺とお前の仲じゃないかいくらでも貸すぜとか言う。
(アントーニオー「きみはぼくという男をよく知っているはずだ。それなら、ぼくの友情を遠巻きに攻めたてるような暇つぶしはやめにしてくれ。
言語道断だよ、きみにたいするぼくの好意を秤にかけるなどとは」)
⇒何だよ借金こさえときながら、女を落とすためにさらにカネを欲しがって、しかもそれを友だちにたかるとかって。
しかもキモいんだよ友情のこれみよがしな語りとか。J-popかよ。
んでアントーニオーは船に投資して手持ちの現金がないから、信用貸しをアテにしてユダヤ人のシャイロックに融通を申し出る。
⇒なんだよ、心の友の言うことなら全財産だって貸してやるさ!とか威勢のいいこと言って、やることは結局別口のカネの無心じゃないか。
⇒しかもなんだよ、無心のアテってのが、昔っから蛇蝎の如く嫌っていたユダヤ人相手とかって。他にいねえのかよ。
(シャイロック「アントーニオーさん、今日までいったい何度になりますかな、あんたは取引所でこのシャイロックの顔さえ見ると、
きっと毒づいてきなさった、…おれのことを、やれ邪教徒の、やれ人噛み犬のと。そしてこのユダヤ人の着物に唾を吐きかけなさった…」)
で、この金持ちの美人のポーシャが、これまたリア充にお似合いの手合いときてる。
リア充同士で惹かれ合うってのはまあ分かるわ。
だけど、バサーニオー以外の求婚者に対して言う、こき下ろしの文句のまあ極悪なことときたら。
(ポーシャ「そう、あの方は文字どおりの頓馬…」
「ああいう人たちと結婚するくらいなら、口に骨をくわえた死人の首と暮すほうが、まだまし。…」
「たとえ気ちがいのように愛してくれても、こちらはなんのお返しする気がないのだもの。…」
「まあ、どんな悪い籤を引こうと、あの人の手にだけは落ちたくない。…」)
⇒なんだよ口に骨くわえた死人の首と暮す方がましとかって、どんなに人を嫌ってたってそうそう口の端に出てくるような言い回しじゃねえよ。
こんな感想をナチュラルに吐き出せるとか一体どんな神経してんだ腐ってんだろ頭とか根性とかいろいろ。
あり得ねえよこいつどう考えたって童話に出てくる意地悪婆の役どころだろこのアマ。
それでシャイロックが千載一遇のリベンジをしてやろうとしたときの、リア充なクリスト教徒のみなさんの罵詈雑言は本当に酷かった。
よく禁書にならないもんだと思うよ。
(「この因業爺め、こんな野良犬は見たことがない」
「相手はユダヤ人だ、渚に立って、盛りあがる高潮に鎮れと命じるようなものではないか。
狼に向かって、なぜ仔羊を食い殺して牝羊を泣かせたかと問うても仕方はない。」
「きさまの欲の深いこと、狼さながら、血に飢えて飽くことを知らぬではないか。」)
⇒全世界ユダヤ人協会は、今すぐシェイクスピアを提訴して謝罪と賠償を要求するべきだと思います。
小学生のときとか読書感想文なんて誰が好きこのんで書くかとか思ってたけど、
原稿用紙とかに。久々に。
対人のしがらみにとらわれない素朴さを持ってること。
でも、読んでいて何か足りないなっていつも思うんだ。
いや違う。
私の中で「自動的に駆動する思考」を子供は持ってないんだなって事に気づく。
たとえばコレね。
読書感想文が嫌だ。
私にとって本を読むとはこう言うことだってのはとっても良く主張出来てると思う。
でも、「だったらどうする?」のところで
「私は読書感想文は嫌だといってるだけです。他の人と違う考え方でも私はこうなんです」
ってところで止まってる気がする。
止まってるっていう言い方はフェアじゃないか。
あくまで私にはそう感じるんだ。
それが言えないなら嫌だって行っちゃダメだくらいにしつけられちゃっている。
「ぼくはこれがいやだなぁ」
「そうか。じゃあどうする?」
「でもいやだっていうなら、かわりにどうするか考えないと」
「どうしてぼくがそこまで考えないといけないんですか。
だいいちいやなものをいやだとおもうきもちはどうしようもないです」
「それ済むとおもってんのか。」
「お前がいやだと感じる気持ちがしょうがないというなら
俺だってじゃあどうにかしなきゃって気持ちになるのはどうしようもないんだよ」
「ぼくにはよくわかりません」
実際に会話するとこういう感じになってしまうんじゃないかと思う。
どっちが正しいってわけじゃない。どっちもどうしようもないものはどうしようもない。
あとはそれを表に出すかどうかの問題だ。
どうしようもない気持ちを制御して周りと合わせることが大人に求められるなら
とにかく思ったことをそのまま主張できるのは子供の特権だと思う。
いや、書評と言えるほど内容があるわけでもないので、要点だけ転載していく書き方かな。
はてブで目につく「個人」だと、「わかったブログ」ttp://www.wakatta-blog.com/や、
「smooth@マインドマップ的読書感想文」ttp://smoothfoxxx.livedoor.biz/などがある。
ウケそうなフレーズを本から引用して、それに対して一言二言添えていくやり方。
まとめる人の能力ははっきり言って要らないし、その割に読む方からしたら楽しめるから、
なかなかニーズがあるみたいだ。まとめのセンス的なものは、2ちゃんのまとめとかに近いと思う。
これを組織でやってしまおうというのが、「ブクペ」ttp://bukupe.com/
ビジネス書の要点まとめサイトって感じなんだけれど、著作権的にも良いのか悪いのか分からんぐらい
まとめてある。記事書いた人には、アフィリエイトから収益を分配する仕組みになっているらしく、
いまいち人の来ないブログを運営している人から見ると魅力的なのだろう。はてブ層にもウケが良いみたいで、
最近目に入るようになってきた。
ビジネス書って、要点を例え話などで広げて一冊にしているようなものなので、
要点だけ抜き出すと、ある意味それだけで済む。この辺が、他のジャンルと違う。
漫画や小説など要点だけ書きだしてもつまらないし、料理本やIT本でも同じことだろう。
日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
半年ぐらい前に、ちょっとしたきっかけでとある著名な出版社から本を出すことになったんですよ。ちなみに僕は普段、普通にサラリーマンとして会社に勤めてまして、長い文章なんて卒論で書いたぐらいっていう普通の人です。
それは新書として出すことになって。会社帰りとか、休日を使って文章を書きまくりました。それでも半年ぐらいかかったんだけど、なんやかんやで、
「これはもう、原稿を落としてしまうことはない。締切りまでに原稿を完成できるぞ」
っていうゴールが見えてきた。
そうすると、最初はがむしゃらで全然(といえばウソになるけど)気にならなかった印税のことが、俄然気になりだすわけです。
出版業界って、自分からすると不思議なんだけど、製作開始前に「これぐらいのページ量で、刷り部数はこのくらい、印税はこのくらい」っていう契約を交わさないんですよね。だから、自分がこれを書き終わって、本が出たらいくら貰えるのか、出版ぎりぎりまでわからない。
なんてこと言うので、
「○万部×10%として、税込の単価が800円ぐらいとすると…」
なんて計算してウハウハしてたんだけど、原稿が完成に近づくにつれて
「まあ…○万部は出ないね」
とか言い始めたりする(笑)
価格も、既にアマゾンとかで「定価○○円(税込)」って出てるんだけど、「あれは変わるかもしれないから」とか言って、ほんとに変わったりするんですよね。
余談ですが……
でだ、せっかくもらう印税をどうやって有効に使おうかなぁ、と思い始めたわけです。単にバーンとでかいテレビ買って、PC買って、でもいいんだけど、なんかもっと役に立つ使い方できないかなあと。それで色々と調べてみると、どうも印税を使ってアマゾンで自分の著作を買い占める販促方法があるらしいことを知ったんですね。
なんでこんなことするかっていうと、一瞬で大量の注文を出すと、アマゾンの販売ランキングで一瞬でも上位に踊り出ることができるからなんですね。
そうすると、「アマゾンで1位になりました!」とかって吹聴することができるようになるわけです。これを業界では、アマゾン式販売拡充、なんて言ったりするらしい。(←2ch情報)
中には「最初の印税は全部アマゾンで使う」なんて言ってる著者もいるらしい。でもなんか、これって要するにウソじゃないですか?だから、うそじゃなくて、印税を突っ込んで、うまいこと販促できないものか……なんて思ってたんです。
それで今回思いついたのが、「印税を賞金として突っ込んで読書感想文コンテストを開く」っていうことだったんです。詳しい要項は↓
http://d.hatena.ne.jp/shanaineet/20101117/p1
を見ていただくとして、これなら興味あれば読んでもらえるし、うそもないし……。個人的にはあれこれ買いたいものもあったんですが、まあこれを機に少しでも本を買ってもらえると嬉しいなーと思ったりしてるわけです。まぁご興味あればリンク先を見てみてください.
自己決定能力が薄弱な15歳未満が、親のススメで読書感想文に応募して
それで入賞してはてブで「これはスゴイ」として2,000ブクマを集める、
果たして妥当な判断と言えるのだろうか?
つーか、その人もう立派な成人だし。
以前「小学2年生の読書感想文に2,000ブクマが付くことへの違和感」を投稿した。
http://anond.hatelabo.jp/20101023004716
これについていろいろと批判のコメントを頂いたようだが、自分としてストンと落ちない。
結局、根源的には
「15歳未満の児童の氏名が、ネットや世間に開示されること自体、
マズイんじゃないか」と自分が思っていることが違和感の原因のようである。
あくまで自説であるが、
「15歳未満の児童の氏名がネット社会に開示される、というのは
自らの児童ポルノ画像が氾濫しているのと同レベルにマズいんじゃないか」
と感じてしまう。
自己決定能力が薄弱な15歳未満が、親のススメで読書感想文に応募して
それで入賞してはてブで「これはスゴイ」として2,000ブクマを集める、
果たして妥当な判断と言えるのだろうか?
なので、違和感ということで言えば、まさに
「天才子役の●君」とか
「天才棋士の●君」とか
「リトルリーグの●君」とかにも感じる話。
暴論であるが、「TV等で子役を禁止しろ」とは言わないが
「子役の氏名の公開を自粛しろ」とは思っている。
報道は「氏名が判らない子役A君」でいいじゃないか。
それを氏名を同定して、「未来のスター」なんて煽ってしまうから、
様々な不幸が押し寄せる。
それ13年前のコンクールだから今は21歳になってる筈だが。
21歳が自分が8歳の時の読書感想文が話題になったのを知った所で大した事にはならないかと。
つか21歳ならネットやってるだろうね。
なんか「はてブほっとエントリーチェック」をしていたら、小2の読書感想文について
「2000エントリ」という「異常値」が付いていた。
大人並みの感想文を書く子供だって、一人や二人いたって、不思議ではない。
ただ、
「2,000エントリ、という「異常値」が発生したというはてな現象」そのものが気になったので、
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kaien/20080105/p2
むしろ自分が気になるのは、ここまで「ネット界で有名」になってしまった
「中村咲紀ちゃん」の今後である。
恐らく読書感想文への参加は、本人の意思というよりは、母親の意思だろう。
その結果、多少気の効いたことを書いてしまったが故に「有名人」になってしまったのである。
Google検索で彼女の名前を検索すると、1,000件以上ヒットする。
果たして、これでいいのか?
これって、娘が出生前から「ネット界で有名」になったが故の悲劇を描いた
「とある家族のブログ史」に相通ずる危険性があるような気がする。
http://ameblo.jp/storybusiness/entry-10001854274.html
「アメリカの母親の8割は、自身の乳幼児の写真を(乳幼児に断りなく)
ブログやフェースブックに掲載している」というのとも、相通ずる。
少なくとも、はてなの良識ある「大人」は、
年端もいかない小学生の感想文を、過度に持ち上げたりしない、という
「矜持」が求められるのではないか?
「母親が代筆したんじゃないか?」とか(根拠ない中傷が)書かれているが、
10年後とかに彼女自身がネットを始めて「過去の自分に関するエントリを見つけたとき」に
どう思うか、ということに思いを巡らす良識ある「はてなー」は、いないのか?
さんざん言われていることだが、やはり子供に読書感想文を書かせる習慣はやめさせるべきだな。
審査員やった。審査員は普通、各学校の国語の先生。(俺は違う。)方式は出された作品約300を10組*4人くらいで30作づつ読んで各組上位4作品くらいを今度は40人の教員全員が読んで1-10の点数をつけて平均点の高いのが入賞。ちなみに原稿5枚が制限でもし2枚しか書いていなかったらその時点で落とされる。
で入選するためには
1。昔の課題図書はえらばない。特に数年前のとかは、もう選ぶ側の審査員が飽き飽きしている。「一瞬の風になれ」とか「夏の庭」とか、課題図書は単純な話が多いので似たような感想になり審査員はあきあきしているので感想文自体の出来が良くてもこれは昨年も同じような感想があったとなる。
2、「人間失格」はやめておけ、あれもとにかく毎年毎年読むひとが多いので、審査している方は辟易している。
3、難病、不治の病になって回復する(もしくは回復しない)本はやめろ。ただでさえ暗い話が多い文学の感想の中さらに暗い話の感想は審査員をして(もういいよ!)となる。
4、奇を衒った本(タレント本、やハウツー本)はやめろ。単純に国語の先生はそういう本にいい印象を持っていない。
5、誰も知らない様な本はやめておけ、これは上記よりはましだが、どんなに感想文自体がうまくても、その本を誰もしらないのでなんとなく入選には推しにくい。
6、結論的には、「今年の課題図書」で書け。話が単純なものが多い課題図書なので素直な感想がかきやすく、審査員も飽き飽きしてない上に、「課題図書から入選作を出さなければならない」という縛りまである。今年だったら「「ハサウェイ・ジョウンズの恋」なんか話も面白く感想も書きやすい。今回の例を出すと課題図書で感想文を書いた人は全県で10人くらいしかいなかった、その中から入選3人のうち2人が課題図書だった。これは偶然ではなく必然。こんかいは課題図書が自然に入選したが、もし点数が入選に達していなくても、強引に下位からいれかえて1人入選させなければいけない。
俺は読書感想文とくに、学校教育の中で書かされる感想文なんてなんの益にもならないと思っている。国語教育でなぜ文学作品の感想なんて求めるのかが謎。
好きな本を好きなように読むのがいいし、こういう読書って必ず文系に偏るので小さい頃図鑑やブルーバックスばかり読んでいた俺にとっては無用の存在でしかなかった。こういうノウハウが広まればこういうコンクールはなくなるか縮小の方向になるかもしれないのでアノニマスで書いてみた。読書感想画コンクールは面白いと思うのだが・・。