真横でいちいち指導する以外ないのでは
査読文化を持たない分野はその分野なりの伝統があるってだけだろうに
相当周りが怖いのだろうなぁとは感じる。
過去さんざん傷つけられてきたから、自分というものが大事で固執してる。
マインドフルネスや瞑想周りの本を読ませてやりたい。ただマインドフルネス周りははもともと仏教の思想由来だから、霊感商法や怪しい自己啓発セミナーも近くにいる。霊魂やあの世、先祖、スピリチュアル系の話が多ければまがい物だと言えるが。
「最高の休息法」とか、「マンガで分かる心療内科マインドフルネス編」を読んでみて、もしよかったら彼にその本をあげたらと思うが、効果は保証しない。
奇声を発することを禁ずる法律があるのですか
・タイトル以外も読んだか:すべて読んだ上で書いた。
・努力が報われる理由:絶対うまくいくと信じてやるしかない。やってみてうまくいかなかったらそのとき考える。(c)柴門ふみ・あすなろ白書の掛居くん
そういうのって不平不満があるからそれを解消しようとしていると捉えているんだけれど。
わかる、わかってる、被害者が我慢しないといけない世の中の方がおかしいってわかってる。
けど、時間と労力とときにはお金もかけてまで、価値があるのか?
他人や世の中変えるよりそっちのほうが早いと思うし。
それこそ、デモやってる人たちは何やってるんだろうって。
国に文句あるなら自分が住む国変えた方が早くないか。時間も労力もそっちの方が安く済むんじゃないか?
だから、声をあげて不平不満を述べて、「こんな世の中変えましょう」って言ってたらうわあ、って思ってしまうんです。どんなに酷い扱いを受けていたとしてもね。我慢しろよって。
よくない、非常によくない、わかってる。
多分私がちょっとしたことなら言わずに溜め込んでしまうから、こんな思考なんだと思う。
言わずに我慢するのが美徳だから正義だか、そんな風に私は思ってる気がする。
だから声あげてる人たちのことを悪とかきたないものとかそういう風に見てしまう。
この考え方変えたい。
変えたいと思ってるのに、やっぱり何あの人たち気持ち悪い、って思っちゃうのが嫌だ。
昔母が言っていた
「他人は変えられない。自分が変わることはできる。だから自分を変えようと努力しなさい」
なんでこんな事になったんだろうな。
「○○には、うちみたいなところより××みたいなところの方が向いてるのかもね」とか言う。
風に揺られる狸の金玉を