公開直前のインタビューで新海は「賛否が分かれるものを作った」と語った。
それを見て、「あ、いつもの新海に戻るのかな?」と思った。『君の名は。』で釣った客にポエムと自己完結の新海ワールドをぶつけて全面戦争を仕掛けるのか! と。しかしそんなこたー全然なかった。蓋を開けてみれば『天気の子』は単なる劣化『君の名は。』に過ぎなかった。がっかりだ。
ダメな点は色々あるがクリティカルだったのは物語の感情がまだらになってるところ。ようは暗いシーンのあとにやや明るいシーンが来るのだがまた暗いシーンになるためどういう感情でいればいいのかが凄くわかりにくかった。
『君の名は。』はややおセンチなモノローグから始まるが、すぐに入れ替わりのコメディシーンにつながり、テンポの良いそれは見ていてとても楽しい。
楽しい気分にひたっていてやや飽きを感じ始めた頃に瀧と先輩のデートが失敗し、「なぜか。もう二度と。俺と三葉との入れ替わりは起きなかった」という“謎”が提示される。
そして瀧は直に会おうと糸守を訪ねるが、そこで彗星の落下によって三葉がすでに死んでいることを知る(シリアス)、という感じだ。
『君の名は。』のストーリーはこれ以上追わないが、コメディ→謎→シリアス→目的の明確化(彗星が落ちる前に皆で避難する)→歓喜(かたわれ時の再会)→暗転→奮闘→大団円、と今どういう感情でいればいいのかということを物語が迷わせないつくりになっているし、『君の名は。』はそういった完成度を持った作品だった。
RADWIMPSの楽曲も、シーンの移り変わりや強調に使われて非常に効果的だった。
翻って今作である。
冒頭、ヒロインが天気の子になった経緯を説明されたかと思うと、家出してきた主人公が新宿歌舞伎町で世間の冷たさを味わうシーンに続いていく。いきなり説明→暗いシーンをカマされ気分は上がらない。
その後やや明るいシーンになるが、主人公やヒロインの生活環境がアレなので底部に流れるテンションは暗く、そしてそれがやがて表面化(その最たるはヒロインの消失)する。
その表面化も事前に予測がつくように設計されてるため、明るいシーンを見ていても「どうせ後で……」と落ち着かない。つまりずっと消耗させられっぱなしなのだ。これはキツい。
もうひとつキツいのは主人公が幼稚すぎて感情移入しづらいという点だ。
子どもが主人公がなんだからそらそうだろ、という話はあるのだが、“学校”がフィールドだった前作とは違って家出してきた少年のフィールドは“社会”になるためアテもなく家出してきたことやそれが故に困窮しても「帰りたくない」と言い張る姿はやはり幼く映る。
特にコイツやべーとなったのはヒロインが消えた理由を理解しない周りの大人にキレ散らかすところだ。普通こういう情報格差によって周囲が無理解な時、視聴者としては主人公側の心情に立つものだが今回は中々そうなれない。何故か。それは視聴者と主人公の側にも情報格差があったからである。
俺は基本的に主人公と視聴者の情報格差はない方がいいと考えている。視聴者が得ている情報によってこうすべきと思う行動を主人公が取らないと苛立つからだ。もし主人公と視聴者の情報格差を作るならフォローは必須だと思ってる。『天気の子』はそのいずれでもない。
ヒロインが消えると視聴者は早い段階で予測できる。そういう設計になっている。しかし主人公はそれを察しないし、決定的な情報が提示されたときも反応が鈍い。それなのに自分は周囲にキレ散らかすのだけは忘れない。ただのやべーやつである。
主人公がそんなだからヒロインと再会し、気持ちを確かめ合うように互いの名前を呼ぶシーンも冷めた目で見てしまった。『君の名は。』のかたわれ時やラストシーンのよっしゃ感とは雲泥である。
そろそろまとめに入ろう。最初に『天気の子』は劣化『君の名は。』と言ったが、『君の名は。』とは何でどう劣化しているというのか。
『君の名は。』とはひょんな出会いを果たした少年少女が超常現象によって引き裂かれ、残された側は相手ともう一度出会うために必死にもがいてそれを果たす“エンタメ作品”である(『言の葉の庭』と『秒速5センチメートル』以前は“エンタメ作品”ではない)。よく見かける構造といえばそれまでだがいずれにしても『天気の子』はその形を踏襲している。しかし肉付きが圧倒的に劣る。
これまで挙げてきた要素はその筆頭格だし、その他にもふたりが再会するシーンのアイデアや演出にも歴然とした差がある(「かたわれ時だ」は非常に美しい)。「忘れないように名前書いとこうぜ」からの「好きだ」のようなぐっとくる演出(コメディ部分で手に名前や苦情を書いて伝えていた、という点とつながるのが良い)もないし、ラストシーンの拙劣さは『君の名は。』に比べると目を覆わんばかりだ。「天気って不思議だ。ただの空模様にここまで心を動かされてしまう」という主張も正直「だから?」という感じで刺さらなかったというのもある(けっきょく大事なのは天気ではなく大事な誰か、という結論だし)。
『君の名は。』がヒットしたから次もそれで、というのは理解できるし、これ以外でどうやれというのかとすら思う。ただ肉付きでここまで劣ってしまうなら違う構造の話にチャンレジして死んだほうがまだマシだったのではないか。
というわけで『天気の子』はがっかりするほどの駄作だった。クソミソにけなしておいてなんだけど俺は新海誠のファンなので悲しい。
『ほしのこえ』で新海を知り、『秒速5センチメートル』で「これは新海の集大成だ!」と吹き上がった過去を持つ俺でも『君の名は。』のPVを見たとき「あ、これは売れる」と素直に思った。実際その通りになったし(もちろんあそこまでの大ヒットになるなんて思いもしなかったが)、そんなクソウザい古参でも『君の名は。』が新海作品の中で一番面白いと胸を張って言える。
新海誠はいつまでも過去やどうにもならない何かに拘泥する男を描くだけのクリエイターじゃなくなっていた。それはとても喜ばしいことであり、同時に階段をいくつも上ったんだと確信した。『天気の子』のPVを見て嫌な予感はしたが、押し殺して封切り初日に映画館へ向かった。嫌な予感を信じるべきだった。だって『君の名は。』はPVからして面白そうだったんだから。
前作の半分、悪ければ1/3ぐらいの興収だろう。口コミも広がらず、けっこうなコケ方をすると思う。
新海誠は新海的なものとの決着を『秒速5センチメートル』でつけ新境地を切り開こうとした。しかしそうして出来上がったのはジブリの劣化コピーだった。『言の葉の庭』という中編で再起を果たし、『クロスロード』という小品で手応えを得た新海は金字塔を打ち立てた。しかし次に作ったのは前作の劣化コピーだった。
新海はこの先、どこに向かうんだろう。今作が劣化コピーだったという認識なくして前には進めないと思うが本人も周囲もそれをひた隠して次なる場所を目指すんだろうか。