「『時計』といえば単にアナログ時計のことを指していたが、デジタル時計の登場によって『アナログ』時計と呼び分ける必要が生まれた」
「『デジタルカメラ』が生まれたことによって、これまで『カメラ』と呼ばれていたものが『フィルムカメラ』という名前になった」
俺検索力はそこそこある方だと思ってたんだが、ショックだ
つらい
ヘリウム「お? 粋がってるじゃん?」
ネオン「俺を燃やしたいってか…? いいぜ」
アルゴン「久々に熱くなってきたぜ…」
クリプトン「私の心を溶かしてくれるのかしら…?」
ゴミがしゃべッタアアアアア
ポジ熊とかチルドとか、あとあいつ何だっけ、青い髪の女の子の二次キャラやたら張り付けて炎上芸やってたやつ、ああいうの最近見なくなったよね。
学力は低下していない
犬が小便するのに文句言う人をちらほら見るけど、こういう偏執的な人ほど声がでかくて熱心で「おしっこくらいいいんじゃないの?」という普通の感覚の人はこういうのに積極的にかかわらないし。
なんか死んでるんだよ
生きてない
第六駆逐帯ならたまに電がこけそうになるのを雷がフォローしたりとかそういうのが必要
単なる裸を見れればいいのは小学生まで
たとえばただオナホがあるとする
それだけだとえろくもなんともないけど、それを壁に埋め込んでその上にキャラの顔の画像を貼る
そうするとあら不思議
無機質なはずのおなほが壁姦に早変わり
これだけで格段にかわってくる
ゴミの中で暮らすな
最近になって働き方改革とかセクハラとか昭和の時代から引きずってきた慣習が変わっていこうとしている。それって、さんざん馬鹿にしてきたゆとり世代が社会に進出したあたりからだと思っている。年々学生の学力が低下しているのは否定しないが、根性論で物事をすすめようとする考え方を一掃するにはカリキュラムを削りに削るのは必要だったのではないか。
それにもかかわらず、プログラミングや道徳の教科化などどんどん教える教科を増やそうとしている。文科省は考える力を養うことや新しい時代に対応するためという理由にしているが、考える力を養う点は今までの主要5教科で十分対応できる。今まで天下り的に教えることをやめればいいだけであって、別に教科を増やす必要はない。考える力をつけるためには考えるための時間が必要である。別に余計な知識を増やす必要はない。
コンピュータリテラシーについては教育すべきだと思っている。約3割の小学生は自分のスマートフォンを持っているという。いくらフィルタリングを掛けていても自分のスマートフォンから発信する方法は規制されていない。学校裏サイトや掲示板といった独自の文化を持った閉じたインターネットでは無くなった。YoutubeやTwitterにはいまや小学生でも投稿できる時代だ。気軽にTwitterにアップした画像が実は位置情報付きだった可能性があると知っている小学生はどれぐらいいるのだろうか。
新元号に変わろうとしているが昭和の時代に逆戻りしているように感じている。詰め込み教育の成れの果ては、ただ知識を暗記するだけが勉強だと勘違いすることだ。それと同じことを次世代の子供達におこなおうとしているのではないか。時間が足りず、義務教育の現場では夏休みや土曜日に授業をしているところもあると聞く。限られた時間で教えるには何を教えるかを考えなくてはならない。むやみに増やしてもコンピュータのストレージのように知識を吸収できる人間はわずかしかいない。そういう意味では、何を絞って教えようとしたゆとり教育は少なくとも失敗ではないと思っている。