はてなキーワード: 全称とは
ずっと、なんで嫌韓の人がいるのか分からなかったんだが、最近になってその理屈が理解できたので、理解できないという人に向けて書く。つまり、左右の意思疎通を目的とする。以下の「事実」は事実でないかもしれないが、嫌韓の人は事実だと考えている。しかしそれこそが重要なことで、もしそれが誤りならばそれを訂正すれば良いのである。個人的に見聞きしたことが多く含まれているので、全ての嫌韓者には当てはまらないだろうことも明記しておく。一サンプル程度に捉えておくのが良い。
まず、嫌韓者は韓国を以下の国であると考えている。順不同であるが、説明の都合でこの順番にした。色々絡んでいるのですんなりと区別できるものでもない。
1) 他国の文化を韓国が発祥だと言い張る(いわゆるウリジナル)
4) 平気で嘘をつく
嫌韓者は、およそ1)に不快感を抱く。嫌韓者は基本的に保守的であり、伝統的な文化を重んじる。そしてそれは日本人が作り出したものであり、我が国の誇りだと考えている。ところが、韓国はそれを平気で窃取し、自分達が発展させてきたのだと言い張る。これは嫌韓者の目には、日本人の歴史を冒涜するもので許し難く映る。ここで重要なことは、嫌韓者は何も「寿司の元々の原型は~」という事実を知らないわけではない。その意味で、寿司は日本発祥!と言い張りたいのではなく、少なくとも現在の日本の寿司は日本オリジナルであるということを誇りに思っているので、(現在良くしられている)寿司は韓国発祥!のような主張は受け入れられない。
なぜ日本の文化を窃取するかと言えば、それは2)があるからであり、韓国にとって下の立場であるはずの日本の文化が海外に受け入れられているのは許し難いことで、その葛藤から逃れるために韓国は日本の文化は実は韓国由来だと主張していると嫌韓者は考えている。しかし事大主義そのものが韓国内部の勝手な妄想であり、なぜ日本がそんなに下に見られないといけないんだと、嫌韓者は考えている。
そして、その事大主義が歴史的なものならばともかく、現に3)のように現在の学校教育で反日が教え込まれているものも、嫌韓者は許し難い。確かに併合はしたが、全てで悪いことをしたわけではなく、生活水準を上げた側面だってあったはずだ(この点で嫌韓者は台湾を支持しうる)。それなのになぜ「日本統治時代は良かった」と発言した老人が殺されなければいけないくらい全否定されねばならんのだ、と嫌韓者は考える。さらに、日本は賠償金を支払ったのにそれを韓国政府は韓国の発展(いわゆる漢江の奇跡)のために費やしたが故に韓国国民は賠償金を受け取れず日本が賠償金を支払ったことさえ反日教育のために知らない。これで日本は戦争の賠償をしていないと言われるのはアンフェアだと嫌韓者は考える。
これらの結果として、嫌韓者は、韓国は自分に都合の悪い事実を伏せて嘘をつく人たちだと考えている(4)。現に在日韓国人だって自らの意思で日本に来て、帰ろうと思えば韓国に帰れたのに帰らずに日本にいて強制連行されてきたと嘘をついて特別永住権をもらっているではないか、と。嘘をつく民族なのだから、慰安婦も日本海呼称問題も竹島も、韓国の嘘からスタートした問題に違いない。もしそうでないと言うのなら、1)から3)の韓国内部の問題を解決して韓国の言うことは信じられるようにしてからにしてくれ、そう嫌韓者は考えている。
慰安婦問題で日本が非難される理由はよくわかる。だが、韓国もあり得ない数値で事実を盛って欧米に発信しているのではないかという疑念を嫌韓者が持っていることも理解できる。強制連行された韓国人慰安婦がゼロなわけはないし、だが一方で韓国人慰安婦が何十万人だとか全員が強制連行だったわけもない。互いに極端なことを言っているだけである。そんな全称命題は論理的には簡単に崩すことが可能だ。
これまで見たように、慰安婦問題で異を唱える人は、人権問題を気にしているのではなく、実は韓国の態度を問題としている。従って、はてなにいる左側の人間の指摘しがちな「慰安婦問題を受け入れない人は人権を軽視している!」という指摘は全くもって嫌韓者には通じず、論点はそこじゃない感が強い。レイプ被害者が自分はレイプにあったとは言いにくい側面があるのは承知の上で、しかし韓国の1)から4)の態度から信頼性が全くないから「本当に慰安婦ってあったの?」という気持ちになっているのである。もし本当に嫌韓者を説得させたいと思うのならば、「韓国にも問題点があるのはわかってます。だから奴らのことを信頼できない!というのも分かります。でも国際社会通念上、それを否定すると困ることになりますよ。だからそれは認めましょうよ。」という形に持っていくのが最も適切であると考えるが、嫌韓者が前段を重要視しているにもかかわらずそれを軽視しすぎる左の人間が多いのは、互いのコミュニケーションにとって問題だ。(国際社会では韓国の反日教育等はあまり知られていないので日本人が勝手に噴き上がっているように見える。)
まともな解は、確かに強制連行はあった(かもしれない)しそれを受け入れるがその被害者の数は「論理的に妥当な」ところだろう、という感じか。しかしその論理的妥当性を議論するのはナチスのホロコーストの被害者がどのくらいかというのと同じで結論を出すのは難しい。だからこそ互いにその数値には拘らずに未来志向でやっていくしかない。一方で、韓国のロビー活動に対応すべく活動しなければ、日本に対する国際社会の視線も不当に理不尽なものになる可能性もある。左の人間は「別に日本がどうなったって知ったことじゃない」と考える人もいるが、それは間違いだ。日本が弱くなれば結果として必要な弱者救済もままならなくなることもあり得る。
いくら韓国がむかつくと思っていても、それぞれの韓国人をその人となりを知る前から「韓国人だから……」と考えるのは差別になる。その人にむかついたとしてもそれはその人がむかつく人なのであって全ての韓国人がむかつくとは限らないはずです。そんなことをすれば、嫌韓者の不快に思う反日教育の結果としての日本人差別と同じことになります。やめましょう。
オッス、元増田です。ご検証ありがとうと礼儀としちゃ言うべきなんだろうけど、そんな話じゃないんだけどなーという印象。
「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。
また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。
ここで全称命題の話にしますか(笑)。前世代、前々世代に比較すればあながち的外れな考察でもないと思いますけどね。もちろん統計データなんてありませんけど、クラスのほとんどが読んでいた、半分くらいは読んでいた、5人くらいは読んでいた、と比較すればほとんど読んでいないという大きな主語は、この場合、個人的にあれも読んでいた、これも読んでいたというのよりはよほど実態に即していると考えます。それともそれこそ何か統計的なデータでもお持ちでしょうか。
1971年生まれで、チャンピオンを追いかけている人は相当稀少だったのではないでしょうか。何といっても同時代的には「ドラゴンボール」「北斗の拳」「聖闘士星矢」「キン肉マン」などのジャンプ黄金時代だったわけですし、6割ジャンプ、2割マガジン、1割サンデー、残りの1割でその他というのが実感です。70年代黄金期を過ぎてのチャンピオンの凋落ぶりは言うまでもなくて、看板作品でも老若男女誰でも知っている作品というのがもうここ30年ないですよね。
たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイが本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチは岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。
「漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったものと想像します。
ま、これは確かにそうですね。一般週刊誌は文春、新潮、朝日のみというのが感覚的には正しいと思います。この三誌とそれ以外では、オーソリティがまるで違うからです。この三誌がクオリティマガジンとは言いませんが、WILLに連載するのと、中央公論に連載するのとでは全然意味が違うのと同じです。ロッキード事件やリクルート事件など社会的な問題でたびたび尖兵となってきた雑誌と、スポーツ新聞に毛が生えたような雑誌とでは社会的な意味が違います。それは現在に至るまで、掲載されている作品の内容でも歴然と異なります。
特に80年代は、週刊文春は花田体制の下、絶頂期にあって、100万部を毎週越えるような規模としても内容としても一軍でしたから、基本的には政治経済、時事的なトピックでそれだけ中心的に扱われているメディアに漫画が乗った(プレイボーイならいざ知らず)ということ自体がトピックであったという意味で、アドルフの例は出しましたけどね。ただしアドルフ以後、この三誌での漫画連載は定着しませんでしたが。
ブコメで「サンコミックスが昭和40年代に出るまで単行本はハードカバーが普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります。
純粋にハードカヴァーの作品自体であれば貸本屋の漫画は基本的にハードカヴァーでしたし、店頭でよく見かけるものとしては、学研の「ひみつシリーズ」もハードカヴァーでした。ただしサンコミックスなんてほとんど誰も知らないように、社会的な景色の話ですからマニアックな話をしてもしょうがないわけです。平積みにされて、多数の人が「おお、漫画もハードカヴァーになる時代なんだな」と認識することが重要であって、消費物としてではなく作品としての漫画、芸術としての漫画という意味合いを一般化したのは手塚がやはり尖兵であったという、そういう話です。「火の鳥」と「のらくろ」のどちらが先なのかは分かりませんが。
赤塚さんはあと、コロコロでは「花の菊千代」を連載しています。その後、ボンボンでも何作か連載していますが、知る人ぞ知るという程度の作品で、連載作家として仕事はしていたわけですが、雑誌の主力になるようなパワーはなく、その仕事自体が大御所としての余暇的なものであったと思います。