はてなキーワード: フランツ・カフカ賞とは
以下村上春樹の主な受賞歴。
群像新人文学賞(1979年)
野間文芸新人賞(1982年)
谷崎潤一郎賞(1985年)
読売文学賞(1996年)
桑原武夫学芸賞(1999年)
フランツ・カフカ賞(2006年)
世界幻想文学大賞(2006年)
朝日賞(2007年)
早稲田大学坪内逍遙大賞(2007年)
バークレー日本賞(2008年)
エルサレム賞(2009年)
毎日出版文化賞(2009年)
スペイン芸術文学勲章(2009年)
小林秀雄賞(2012年)
ヴェルト文学賞(2014年)
アンデルセン文学賞(2016年)
この中から更に主だったものを上げるとすれば、1985年の谷崎潤一郎賞、2006年のフランツ・カフカ賞、2009年のエルサレム賞ではなかろうか。
谷崎潤一郎賞は熟練した純文学作家に与えられる日本の賞であり、またフランツ・カフカ賞ならびにエルサレム賞は国内外の顕著な業績を上げた作家に対して授けられる賞である。率直に言って、これらの賞を受賞している作家は並一通り以上の文学的魅力を持っていなければならないんだけれど、それらの賞を受賞している村上春樹が「文章が下手」っていうのは無理が無いか?
そもそも、村上春樹に「下手」と評価を下すネット評論家諸君が幾らハードな読書家であろうが、村上春樹に対して文学賞を与えている人間の中には、日本で一番小説を読んでいると言ってもいい著名小説誌の編集部のメンバーがいる。それらの日本で最も小説に精通した人々が村上春樹に対して贈った賞の存在は、明らかにネットの無名の評論家の「下手」評価よりも当てになるだろう。何でそんな単純なことがネットの評論家、並びにその評論を信望する人々には分からないのだろうか、と自分としては疑問に思うこと頻りである。
さらにさらに特筆すべきはエルサレム賞で、こちらは文学的評価のみならず政治的な要素の介入する賞だから、純粋に文章力の尺度としてこの受賞を語ることは難しいかもしれないけれど、国際的な評価の裏付けには間違いなくなっていると思う。
また、エルサレム賞の授賞式の舞台では当時のイスラエルの大統領であるペレス大統領も参席しており、それだけ重要な賞であったことが分かる。
審査員が読んでいるのは英語訳だろうし、勿論原文の日本語を正確に評価しているわけではなかろうが、いずれにせよ本編の魅力が無ければ翻訳が評価されることもあるまい。これだけの多種多様かつ様々な審査委員から評価を受けたきた村上春樹に対して、「文章が下手」っつーのはどーゆーこと? ってな話なのだ。
ギャルゲーのオープニングムービーのノリで紹介していきたいと思う。含ネタバレ。
「私なんかね、髪の長い下品な女の子二百五十人くらい知ってるわよ、本当よ」
ノルウェイの森はご存知ダブルヒロインシステムで展開する物語であり、正ヒロインの直子に対する反ヒロインがミドリである。ミドリは深い自己反省を行う直子とは正反対のキャラクターとして描かれているものの、要所で当を得た優れた知性の持ち主でもある。物語の途上、直子との恋愛に疲れ果てていく主人公のワタナベに対して次第に親しみを募らせていき、最終的には恋に落ちる。明るくユーモラスだが苦労人でもあり、「人生はビスケットの缶のようなもの」という独自の哲学を披露する。
「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」
正ヒロイン。ヤンデレの先駆け。高校時代に亡くなった恋人の記憶を延々引きずり続けており、その代償行為としてワタナベとの関係を求めた結果、人生が取り返しのつかないほどこじれてしまった。曰く「自分自身が二つに分裂して木の周りで追いかけっこしている」。物語の中盤から京都のサナトリウムにて療養生活を送ることになるが、最終的にワタナベの魂を深淵へと引きずりこむこととなる。
「私たちがまともな点は、自分たちがまともじゃないってわかっていることよね」
ダブルヒロインと銘打ちつつも、中盤以降登場するサブヒロイン。
若い頃は有能なピアニストであったが、演奏のストレスにより精神に不調をきたしてしまい、それ以来人生に振り回れされ続ける。挙げ句の果てに、教師としてピアノを指導していた美少女にレズレイプされそうになるなど、人生が取り返しのつかないほどこじれてしまった。主人公とのラストシーンで読者を激しく混乱させる。
「なんかさ、うまく言えないけど、本当の弟みたいな気がしてるんだ」
『海辺のカフカ』はドイツにおける「フランツ・カフカ賞」やイスラエルの文学賞である「エルサレム賞」の獲得への原動力となった作品であり、ギリシャ悲劇の色彩とインスピレーションを帯びたポップな文体が特徴である。主人公は十五歳の少年で、田村カフカという偽名を名乗っており、作中においてその本名は明かされない。
作中一番最初に主人公が邂逅する他者がさくらであり、彼女もまた苦労人。幼少期から両親との折り合いがつかず、一刻も早く自立し一人で生きていくことを人生の方針にしていた。職業は美容師。
主人公はかつて姉と両親の四人暮らしをしていたが、その途上で母と姉は家を去っている。主人公はその、顔もろくに覚えていない姉の姿を、さくらへと重ねるのである。ヒロインというか擬似的な姉とも言うべき存在。
「あなたは誰なの? どうしていろんなことをそんなによく知っているの?」
正ヒロイン。五十代の美しい女性であり一切が知的に洗練されているが、巨大なオブセッション(強迫観念)によって人生を摩耗させている。
彼女の人物設定は『ノルウェイの森』をなぞる形となっており、先に紹介した直子の鏡写しのような存在である。彼女が勤めている私立図書館は、かつての恋人の父親の所有であり、話がややこしくなるのだけれどこの父親は物語中には登場しない。問題はその恋人とのことで、彼女は幼少期から恋人と親密な関係を築くのだけれど、最終的に死別する。それから三十年以上もの間、彼女は自身の空虚な人生に苦しみ続けた結果、主人公と出会う。
「いつそれを言ってくれるか、ずっと待っていたんだ」
ヒロイン欄にこの人物の名前を記すこと自体が既にネタバレなのだけれど、とにかくヒロインの一人。ボーイッシュ枠。
美しい太った娘。村上春樹は1979年にデビューして以来、1987年に至るまで十年近くキャラクターに名前を付けるのが恥ずかしかったとのことで、一部の例外やあだ名を除いてキャラクターは無名である。よって1985年に出版された本作においても、一切の登場人物の名前は明かされない。
幼い頃に家族を全て交通事故で失って以来、祖父である天才科学者の「博士」の元で純粋培養された少女。十七歳。教育方針によって学校には通わず英才教育を受ける傍ら、適度に脂肪を取らされ、適度に太らされている。性欲一般に関してあまり理解しておらず、主人公に何かと性的な質問を向けては困らせる。
「博士」による教育の結果、語学などの現実生活を送るための技術を複数習得している才女。決断力というか胆力があるが、どこかしら世間知らずな面は否めない。
「それが何かはわからないけれど、どこかで昔感じたことのあるもの。空気とか光とか音とか、そういうものよ」
多重世界の表の側である『ハードボイルド・ワンダーランド』に登場する娘。なお裏の世界である『世界の終り』においても、同一存在として主人公の前に現れる実に因縁深い存在でもある。図書館のリファレンス係をしており、主人公が一角獣に関するテキストを請求したことから親しくなる。大食漢であり給料の大半が食費に消えるが、上記の娘とは違い極めて均整の取れたスタイルの持ち主である。
「――私の心をみつけて」
多重世界の裏の側である『世界の終り』に登場する娘。リファレンス係の娘の多重存在。「古い夢」と呼ばれる一角獣の頭蓋骨を、図書館で管理している。
『世界の終り』においては心は動き回る影の形で存在しており、影は人が大人に成長する前に特殊な器具によって切り離され、埋葬される。その儀式を経た後は全ての人間は「完全」となり、年を取ることもなく何かに怯えることもない。彼女もまたそのようにして心を喪う中、やがて外の世界からやってきた主人公と出会う。
「俺は君をどうしても外につれだしたかったんだ。君の生きるべき世界はちゃんと外にあるんだ」
おまけ。
『世界の終り』に登場する主人公の影。頭の回転が速く機転が利くが、主人公と切り離されてしまったため大きく体力を奪われており、ほぼスペランカーと化している。
『世界の終り』において門番の男に幽閉され、真綿で締め上げられるような虐待を受け続ける。
俺は『騎士団長殺し』を除いて全ての長編を読破しているんだけれど、まだまだヒロインはたくさんいる。あるいは続編を書くことになるかもしれない。