はてなキーワード: 反動とは
ちょっと前にtumblrがすごい、すごい言われていたけど、
正直フィードリーダーとどう比べてすごいのかイマイチわからんかった。
転載問題がいろいろ言われているときにちょっと使ったことがあるんだけど、
イイ感じのユーザーいないかなー、って探している時間が浪費に思えた。
けど、すげーすげー言われてホットエントリにも入ってんのに
すごさがわかんないのが悔しかったから、全然使ってないけどどこがすごいのか考えてみたよ!
使っていたもっともシンプルな時代。
たまに確認できたりする(あれで登録する人っているんだろうか?)。
タブブラウザと併用して、お気に入りに登録しているサイトを一気に開いて更新確認!
なんて方法で使っている人もいるかもしれない。
しかし、これだとあるとても大きな、生死に関わるほどの問題が発生する。
サイトがいつ更新するかなんて天使じゃなくて管理人の気まぐれなので
わざわざ訪問しても何も変わってないってことがしょっちゅう起こった。
時間が経っているから更新されているかもしれないとまた最初から確認しだす……
実際それで時間を浪費しまくって大学を留年、はては中退してしまった、なんて話も聞いたことがある。
人の人生を狂わすのはよくない。
たとえそれがここ一年で運動したといったらガンプラのやすりがけぐらい、なんて奴でもだ。
この問題を解決したツールとして「アンテナ」が登場する。
はてなユーザーにとってはもちろんはてなアンテナが馴染み深いだろう。
見た目では単なるリンク集だが、並びが常に順不同。
定期的に巡回したいサイトをアンテナに登録してぶち込んでおけば
まめな性格のロボットくん(オプティマス・プライムみたいなカッコいいのを想像してくれよな)が
数時間おきに確認してきてくれて「これ更新されてたっす!」って感じでアンテナのページのトップに持ってきてくれる。
サイト巡回における無駄な時間が大幅に削減されることになり、日本人に大きなゆとりがもたらされ、
俗に言う「アンテナ革命」って奴が日本に巻き起こった。ここ、テストに出るから要チェック(あと「マドンナ旋風」も出るよ)。
アンテナで得た余暇で芸術活動に打ち込めば新たなルネッサンスが起こるのも夢ではないとささやかれ、
そのテーマソングとして「ルネッサンス情熱」という文法的にも造語的にも「?」な歌が出されて、オリコンでなんと史上初の0位。
さらにアンテナは同じサイトを登録しているアンテナを見ることができたため、
そこから好みの似通ったアンテナを見つけてきて巡回サイトが増えていくなんてこともできた。
アンテナは些細な変化でもチェックしてくれるため、
記事とは関係ないちょっとした小さな変化でもトップにきちゃうのが魂に傷。
さらにはしばらく放置してるとどのサイトが何回更新したのかわからなくなったり、
短期間で連続更新されても一回更新しただけだと勘違いしたりと細かい難点があった。
そこで出てくるのがフィードリーダー。
フィードリーダーはあらゆる意味で画期的だった。まず「リーダー」って語感がカッコいい。
中身としてはコンテンツをサイト単位で捉えるのはやめてしまった。
登録したサイトの「記事」を一つのユニットとして配信するようになったんだ。
「このサイト更新されました」から「こんな記事書きましたよ、こいつ」に。
愛しい雌魯音(メロン)ちゃんに連絡するのに声だけ似ているババァを通す必要はなくなった。
もう更新を見逃すなんてことは起きりゃしないし、どうでもいい更新は即読み捨て。
みんなが見るのはサイトではなく記事。サイト名ではなく記事タイトル。
だから、今はみんな必死に記事タイトルを工夫する。休日はタイトルだけ考えて過ごす。
「○月×日」なんてタイトルじゃだれも見向きもしない。逆に前衛的と捉えられるんじゃないかって風潮すらある。
そういえば管理人のどうでもいい近況を書いていたりした「一言メッセージ」なんてなかった? サイトトップとかに。
あれって絶滅しちゃったねぇ。インターネットレッドブックへ仲間入りだ。いや、twitterに生まれ変わったのかな。
さらにリーダーをソーシャルブックマークなんかと併用するとすごいことになる。
好みの似通ったブックマークユーザーを探してきてポンと登録すると、あら、大変。
「こんな記事を見つけてきました、ご主人様っ♪ へけ、へけけけけけ♪」
なんと面白い記事を無償で勝手に取ってきてくれるメイドちゃんが誕生(ひまわりの種をあげて育てよう)。
これでもうなーんにもしなくても面白ネタやネットの流行をチェックできるようになった。
口をあーんと開けていたら勝手にぼこぼこと食べ物が放り込まれていく。うーん、マーベラス。
これでもう完璧。発展しようがなくね?
記事の収集はロボットと世界中の引きこもりにまかせて、俺たちは女の子とデートでもしようぜ!
……なーんて思ってたら世の中大間違い。
タンブラーは怠け者のためにさらに磨き上げられた最新の玩具だ。対象年齢は五歳以上。
フィードリーダーは記事を一単位として拾ってきたけど、タンブラーはもっと崩した。
そこだけを取ってくるようにしてしまったのだ。
わざわざ全部食べるのめんどくさいよ。一番美味しいとこだけ頂戴!
ブラボー、なんて強欲なやつらだ。もはや前フリとかオチとかどうでもいい。
マグロの一番美味しいとこだけ切り取って食べて、あとはぜーんぶゴミ箱行き。一番賢いともいえる。
人間、みんな怠け者だし、美味しいものが好きだし、タンブラーが主流になるのも近いだろう。
しかし……すべてを機械と他人に任せていて、それが本当に人間だと言えるのだろうか?
今こそ機械文明のゆがみが、我々の生活に現れてきているのではないだろうか。
昨今のスピリチュアルブームも、行きすぎた科学信仰への反動ではないだろうか。
「右」といったらお箸を持つ手である。きちんと自分の手で箸を持ち、食物を口に運ぶ。
そういった素朴ながらも確かな生への実感が求められている。そんな気がしてやまないのである。
一応説明すると、新しい政権および、日銀は円高容認かなと思っています。
米ドルも対円に対してはドル安を容認した状態なのかなと思います。一部米国政府高官の発言もありますし。
対極ですね。
日本の市場の場合、平均で27%、主要株で40%ぐらいが外国人投資家です。
なので円高が続けば為替で益がでるので売り越しが続きます。
1ドル100円で1万円の株価と、1ドル80円で8000円の株価。比較は難しいです。
立ち位置によって観測結果は異なります。
これくらい為替が変動していると、当然下がった上ったはあまりリンクしなくなります。
”ドル安”の流れは止めることができません。
これはクロスで米ドルと他の国の通貨を比較してみることでわかります。
旧自民党政権の場合、その産業の主軸はモノづくりでした。介入してでもドル安を防いできました。
トヨタやキャノンなどの製造輸出産業は円高になると莫大な損をぶっこきます。
大切な自民党の票田なので守られて来ました。日本は貿易収支で黒字できたわけです。
貿易黒字になると円高圧力が強まります。
民主党政権への以降は劇的なものだったので、スムーズな移行というのはできていないと思います。
市場はある程度織り込み済みですが、この50年に貯め込んできた反動はまだ続くものと考えています。
日本の製造業はもう10年も前に終了していたのだけども、ソフトランディングしようと無理にひっぱった結果代替策もなく事態を悪化させてしまいました。
最近マークアップエンジニア志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去のHTML(特に90年代以前の仕様)を読んだことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「マーク・アンドリーセンをどう思う?」と聞くと、「アンドリーセンって誰ですか?」という答えが返ってくる。「ヨスケの独自要素で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔のHTMLを見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「とほほでやっていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、HTMLを体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題仕様ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといて標準化団体ごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。HTMLは、もう長いこと(90年代の早い時期から)インターネットの王者としてあらゆるWeb関連技術の上に君臨してきた。だから、Webを作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
HTMLは、表・画像・フォーム・音楽・デザイン・フレーム・動画など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、HTMLを読まずして現代のインターネットは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、HTMLを読むことは欠かせない。また、単に読むだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、HTMLを包括的・体系的にとらえることによって、現代のインターネットそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、Webを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔のHTMLをほとんど見たことがないという人や、あるいはHTMLそのものもあまり見ないという人のために、これを見ればHTMLを体系的に理解でき、現代インターネットの成り立ちや実相までをも包括的にとらえることができるようになる、7本の仕様を紹介する。
ここで紹介するHTMLは、いずれも後のWeb業界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、HTMLという標準のありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、HTMLというのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、体系的に理解できるようになる。そしてそれが、世界のインターネット利用シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、第一次ブラウザ戦争前のHTMLをひとまとめにするところから始める。
80年代末にティム・バナーズ=リーの発明したHTMLというメディアは、その後『HTML 1.0』(1993年)『HTML+』(1994年)『HTML 2.0』(1995年)などの仕様で次第にそのスタイルを確立していき、マーク・アンドリーセンが一大産業として発展させた後、『HTML 3.0』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
ブラウザ戦争前のHTMLは、これ1本だけ読めば良い。このHTMLに、戦前のHTMLの全ての要素(属性)が詰まっている。このHTMLを見れば、HTMLのインターネットの王者としての風格、スターという存在の大きさ、作者以上にブラウザが重視される「産業」としての側面、お尻Pから終了タグ省略可へ・文字情報から画像付きへと移り変わった技術革新の変遷など、戦前のHTML史やWeb業界のありようが全て分かるのだ。
このHTMLの魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『HTML 3.0』の魅力を知るには、まずは読んでもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも読めば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『HTML 3.0』を見て驚かされるのは、現在のHTMLと比べても全く遜色ないところである。破棄されてから14年の時が経過しているが、現代人の読解にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえばHTMLというものは、今から14年前、つまりこの『HTML 3.0』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『HTML 3.0』は、HTMLという標準が到達しようとした一つの極みである。それゆえ、HTML史というものは、『HTML 3.0』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られたHTMLで、『HTML 3.0』の影響を免れたものはないからである。
iモードが世界のHTML史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに小さなものである。日本人というのは、「日本の技術が世界に影響を与えた」というと、なぜか鼻高々と聞いてしまうところがある。「日本はガラパゴス」という言葉は聞いたことがあっても、「それって日本人が過小評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかしiモードは、真に日本のHTML史を塗り替えたサービスの一つである。特に、このサービスの後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
iモードは、ドコモのメインストリームだったポケットベルが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたPHS流行後すぐの時期、そんなポケットベルに取って代わって、日本で最も輝いていた携帯サービスであった。それゆえ、広末に見蕩れた世界のHTMLファンたちは、iモードのWebサイトを見ることによって、失われかけていたWeb制作の魅力を再発見することにもなったのである。
iモードは、没落したHDMLに変わってモバイルWebの命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。海外のモバイル陣営が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を切り捨て、日本の後代へと引き継いだ重要なリレー第一走者としての役割を、HTML史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取った日本の若きWebデザイナーたちが、2000年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、モバイルWebは鮮やかな発展を遂げる。だから、もしiモードが存在しなければ、HTMLの様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんなiモードHTMLのバージョンはいくつもあるのだが、中でも特に多くのHTMLファンを――取り分け日本の若きWebデザイナーたちを魅了したのが、この『Compact HTML』である。この仕様の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたW3C Noteであろう。HTML史において、これほど拡張多く適当なディテールで構成されたNoteは他にない。そのためこのNoteは、これ以降無数に手本とされ、真似され、拡張されることとなるのである。
正字正仮名の影響を受けた日本の若き日記書きたち――言うなれば「CSSコミュニティ」――が頭角を現す直前のW3Cで、HTML史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の仕様が誕生する。
この時期、情報技術の進歩によって、HTMLにもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った国際化、全く違ったアクセシビリティ体験を生み出すことに成功したのが、この仕様『HTML 4.0』を勧告したWorld Wide Web Consortiumである。
『HTML 4.0』は、HTML史において最も革新的な仕様の一つとなった。この仕様に初めて触れた当時のWebデザイナーたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのないマークアップがくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しいHTML体験を、そこで味わうことになったからである。
W3Cの果たした一番の功績は、テクノロジーとHTMLを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えばそこでは、「スタイルシート」という新しい技術のデザインと、それでレイアウトされたページが閲覧者に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しいHTML体験を生み出すことができたのである。
この仕様『HTML 4.0』には、そうしたテクノロジーとHTMLとの融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、HTMLはここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「CSSコミュニティ」がWeb日記業界に論争をもたらすのは、2000年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、1947年生まれの非政府組織で、IECとも協力した生粋の工業標準化団体であった国際標準化機構が、この仕様『ISO/IEC 15445:2000 (ISO-HTML)』によって成功を収めたことである。
このHTMLは、単にJIS的に標準化しただけではなく、文化的な意味においても、フラットでリニアな構造の力を広く世界に知らしめることとなった。この仕様の成功によって、世界の人々は、レベル付けされた見出しの魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて見出しのレベル分けが世界のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように使う状況を育んでいくのである。
またこの仕様は、CSSコミュニティそのものにも大きな影響を与えた。この仕様の成功に刺激を受けた才能ある若きコミュニティ住人たちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名サイトを生み出していくからである。
それらが相まって、やがてCSSコミュニティは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『ISO-HTML』なのだ。
『HTML 4.0』で繁栄の足がかりを築いたW3Cは、この仕様『XHTML 1.0』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたメタ言語も、W3C勧告のの一つであり、また『HTML 4.0』を作ったSGMLの改良でもあった、Extensible Markup Languageであった。
この勧告は、史上最も商業的に成功した仕様となる。そのためこれ以降、この勧告にならって商業的バズワードを盛り込んだ仕様が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きな商業的話題を集めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの意見は、やがて再びW3Cに還元され、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この仕様がきっかけとなってW3Cにもたらされた意見は、HTMLという言語を変革させていくことになるのだが、それに伴って、HTMLそのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬW3Cの手によってなされた。ここで『XHTML 1.0』の成功によって手にしたメンバーをもとに創設した文書マークアップの開発集団「HTML Working Group」が、より魅力的な拡張性を追求していく中で、やがてM12n(モジュール化)という技術の開発に至るのである。するとそれが、これまでのHTMLを一変させたのだ。
M12nは、HTMLに魅力的かつ効果的な特殊語彙を、DTDでしかも複雑怪奇にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に世界から見捨てられていった。そのため今では、M12nの使われているHTMLを探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『XHTML 1.0』がWeb業界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
2000年代以降、繁栄を謳歌したW3Cは、しかしその栄華の大きさゆえ、00年代中盤に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な仕様はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が5年は続いた00年代の後半になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代のHTML WGメンバーたちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代のHTML WGメンバーとは、マイクロソフトやモジラ・ファンデーション、オペラらに代表される「ブラウザベンダ」と、無関係な編集者たちであった。
彼らに共通するのは、文書構造に不必要なものなら全て――とるに足らないガジェット的なものまで含めて――残らず切り離そうとする「オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだったHTMLの些末な要素にスポットを当て、それを別仕様に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った草案を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として00年代の後半に登場したのが、XHTML2 Working Groupだ。
XHTML2 WGは、特に99年に最後の草案が作られたこの仕様『XHTML 2.0』によって、オタク的なHTMLの楽しみ方が、一部のマニアだけにとどまり、それ以外の多くの人たちには受け入れられないことを証明してみせた。この失敗が、デ・ファクト的な新生HTML WGにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けたWeb WorkersやDOM Level 3 Eventsといった、次世代のWeb標準たちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、第二次ブラウザ戦争の集大成ともいえるこの仕様である。
『HTML5』は、HTML史においては『HTML 3.0』と同じような意味を持つ。つまり、それまでのHTMLの要素が全て詰まっているのだ。この仕様を見れば、それ以前のHTMLの歴史というものが全部分かる。
『HTML5』には、HTMLのあらゆる要素が詰まっている。ここには、『HTML 3.0』のような歴史的な仕様としての「総合性」があり、『Compact HTML』のような「実装の実在さ」がある。『HTML 4.0』のような「マルチメディアとアクセシビリティの融合」があり、『ISO-HTML』のように「セクション構造の魅力を全世界に知らしめ」た。また、『XHTML 1.0』のように「バズワード的に成功」したのはもちろん、『XHTML 2.0』が別仕様に押し出した「オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこのHTMLは、『HTML 3.0』と全く同じ意味合いを持っているのだ。HTML史というものは、『HTML5』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られるHTMLで、『HTML5』の影響を免れるものはないであろうからである。
以上、これさえ読めばHTMLを包括的・体系的にとらえることができる7本の仕様を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、歴史的に重要な仕様は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「素数の分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた仕様は、いずれも「読むことによって他の仕様にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『HTML 3.0』を読んだならば、ブラウザ戦争前夜の独自HTML拡張に自然と興味がいくだろうし、『Compact HTML』を読んだなら、iモードのそれ以外のバージョンのHTMLも見たくなるだろう。CSSコミュニティについてもそれは言えるし、『ISO-HTML』を読んだなら、このHTMLを流行らす土壌ともなった「フラットでリニアな構造」というムーブメントにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『XHTML 1.0』はXMLオタクになるきっかけになるだろうし、『XHTML 2.0』はその他の「オタク的なXML EventsやXForms」の仕様も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『HTML5』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこのHTMLは、完成度があまりにも高いために、これを見た後に他のHTMLを読むと、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの仕様を読むことによって、HTMLをさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの仕様を読むことによって、HTMLを包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな助けとなるはずだ。
上に挙げた仕様への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「HTMLを体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
高校時代に読んだこのサイトによって、「リソースとは何か」ということを、ぼくはを知った。
「HTMLはSGMLの応用だ」ということが、このサイトを読むことでよく分かる。何気なく見ていた省略記法でも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
世界がCSSコミュニティの何に驚かされたかといえば、それはやっぱり精緻に書き込まれた正字正仮名にだ。ノジタンの日記には、HTMLの本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くの日記で多くのコミュニティ住人に、言及されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、とほほ氏がHTMLというジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた感想のいくつかは、このサイトに書かれていたばけらさんとの「スタイルシート論争」を参考にしたものなのだ。
これらのサイトを読めば、どんなHTMLが素晴らしく、どんなHTMLがそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あのCSSコミュニティ住人の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
最近アニメーター志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去の作画(特に90年代以前の作品)を見たことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「金田伊功をどう思う?」と聞くと、「金田伊功って誰ですか?」という答えが返ってくる。「なかむらたかしの作画で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔の作画を見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「youtubeで流れていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、作画を体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題作画ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといてタイミングごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。作画は、もう長いこと(20世紀の遅い時期から)マイノリティの王者としてあらゆるオタクの上に君臨してきた。だから、作画を作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
作画は、絵コンテ・演出・レイアウト・原画・動画・背景・撮影など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、作画を見ずして現代のアニメは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、作画を見ることは欠かせない。また、単に見るだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、作画を包括的・体系的にとらえることによって、現代のアニメそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、ものを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔の作画をほとんど見たことがないという人や、あるいは作画そのものもあまり見ないという人のために、これを見れば作画を体系的に理解でき、現代アニメの成り立ちや実相までをも作画的にとらえることができるようになる、7本の作品を紹介する。
ここで紹介する作品は、いずれも後の作画界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、作画というジャンルのありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、作画というのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、作画的に理解できるようになる。そしてそれが、アニメの作画シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、金田伊功前の作画をひとまとめにするところから始める。
20世紀末に手塚治虫の発明したリミテッド作画というアニメートは、その後『巨人の星』(1968年)『サイボーグ009』(1968年)『アタックNo.1』(1969年)などの作品で次第にそのスタイルを確立していき、東京ムービー・東映動画が一大産業として発展させた後、『タイガーマスク』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
金田前の作画は、これ1本だけ見れば良い。この作画に、金田前の作画の全ての要素(魅力)が詰まっている。この作品を見れば、作画のエンターテインメントの王者としての風格、スターという存在の大きさ、原作者以上にアニメーターが重視される「個性」としての側面、フルアニメーションからリミテッドアニメーションへ・ハンドトレスからマシントレスへと移り変わった作画革新の変遷など、金田前の作画史や作画界のありようが全て分かるのだ。
この作画の魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『タイガーマスク』の魅力を知るには、まずは見てもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも見れば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『タイガーマスク』を見て驚かされるのは、現在の作画と比べても全く遜色ないところである。作られてから40年の時が経過しているが、現代人の鑑賞にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえば作画というものは、今から40年前、つまりこの『タイガーマスク』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『タイガーマスク』は、作画というジャンルが到達した一つの極みである。それゆえ、作画史というものは、『タイガーマスク』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られた作画で、『タイガーマスク』の影響を免れたものはないからである。
金田伊功が国内の作画史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに大きなものがある。アニオタというのは、「作画文化がアニメに影響を与えた」というと、なぜか話半分で聞いてしまうところがある。「作画のカナダ」という言葉は聞いたことがあっても、「それって作画オタが過大評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかし金田伊功は、真に国内の作画史を塗り替えた人間の一人である。特に、彼の後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
金田は、国内のメインストリームだった虫プロが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたワンサくんすぐの時期、そんな虫プロに取って代わって、国内で最も輝いていた作画人であった。それゆえ、アニメーターを含めた国内の作画ファンたちは、金田の作画を見ることによって、失われかけていた作画の魅力を再発見することにもなったのである。
金田は、没落した虫プロに変わって作画の命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。戦後の東映動画が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を受け継ぎ、後代へと引き継いだ重要なリレー走者としての役割を、作画史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取ったアニメーターの若き作画人たちが、1980年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、アニメスタジオは鮮やかな復興を遂げる。だから、もし金田がいなければ、作画の様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんな金田の代表作はいくつもあるのだが、中でも特に多くの作画ファンを――取り分けアニメーターの若き作画人たちを魅了したのが、この『無敵超人ザンボット3』である。この作品の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたパースであろう。作画史において、これほど格調高く見事なディテールで構成されたパースは他にない。そのためこのパースは、これ以降無数に手本とされ、真似され、翻案されることとなるのである。
金田伊功の影響を受けたアニメーターの若き作画人たち――言うなれば「金田モドキ」――が頭角を現す直前のアニメーションで、作画史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の作画が誕生する。
この時期、作画技術の進歩によって、作画にもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った映像、全く違った作画体験を生み出すことに成功したのが、この作品『伝説巨神イデオン』を作画した板野一郎である。
『伝説巨神イデオン』は、作画史において最も革新的な作品の一つとなった。この作品に初めて触れた当時のアニオタたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのない映像がくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しい作画体験を、そこで味わうことになったからである。
板野の果たした一番の功績は、ミサイルとカメラワークを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えば彼は、「板野サーカス」という新しい技術の動きと、それで作画された映像が観客に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しい作画体験を生み出すことができたのである。
この作品『伝説巨神イデオン』には、そうしたテクノロジーと作画との融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、作画はここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「金田モドキ」がアニメーションに復興をもたらすのは、1980年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、北海道生まれのスタジオNo.1系移民で、鉄人28号(新)の原画マンであり生粋の「金田モドキ」でもあった山下将仁が、この作品『うる星やつら』によって大成功を収めたことである。
この作品は、単に演出的に成功しただけではなく、作画的な意味においても、アニメーターの力を広くアニオタに知らしめることとなった。この作画の成功によって、アニオタの人々は、金田系作画の魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて金田系作画が作画のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように見る状況を育んでいくのである。
またこの作品は、金田系作画そのものにも大きな影響を与えた。この作品の成功に刺激を受けた才能ある若きアニメーターたちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名作画を生み出していくからである。
それらが相まって、やがてアニメーションは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『うる星やつら』なのだ。
『うる星やつら』で繁栄の足がかりを築いたアニメーションは、この作品『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたアニメーターも、金田モドキの一人であり、また『Gu-Guガンモ』を作った井上俊之の友人でもあった、磯光雄であった。
この作品は、史上最もエフェクト的に成功した作品となる。そのためこれ以降、この作画にならってエフェクト的成功を当て込んだ作品が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きなエフェクト的成功を収めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの爆発は、やがてちょっとハリウッドに煙でも見してやれ、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この作品がきっかけとなってアニメーションにもたらされたエフェクトは、作画という産業を変革させていくことになるのだが、それに伴って、作画そのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬ磯の手によってなされた。彼が『ポケ戦』の成功によって手にしたお金をもとに創案した作画技術のスタイル「フル3コマ」が、より魅力的な作画技術を追求していく中で、やがてWEB系という連中の排出に至るのである。するとそれが、これまでの作画を一変させたのだ。
フル3コマは、作画に魅力的かつ効果的な特殊映像を、中割り不要でしかも手軽にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に個性出したがりアニメーターに広まっていった。そのため今では、フル3コマの使われていない自己主張作画を探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『ポケ戦』が作画界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
70年代以降、繁栄を謳歌したアニメーションは、しかしその栄華の大きさゆえ、90年代に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な作品はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が10年続いた90年代の末期になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代の作画人たちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代の作画人とは、大平晋也や森久司、吉成兄弟らに代表される、「実験的な手法」を得意とするアニメーターたちであった。
彼らに共通するのは、作画にまつわるものなら全て――とるに足らない破片的なものまで含めて――残らず愛そうとする「作画オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだった作画の些末な要素にスポットを当て、それを前面に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った作品を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として90年代の初めに登場したのが、湯浅政明だ。
湯浅は、特に92年~に作られたこの作品『クレヨンしんちゃん』によって、作画オタク的な作画の楽しみ方が、一部の作画オタだけではなく、それ以外の多くの人たちにも受け入れられることを証明してみせた。この成功が、作画オタク的なアニメーターたちにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けた末吉裕一郎や西見祥示郎といった、次世代のアニメーターたちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、アニメーター黄金期の集大成ともいえるこの作品である。
『THE八犬伝』は、作画史においては『タイガーマスク』と同じような意味を持つ。つまり、それまでの作画の要素が全て詰まっているのだ。この作品を見れば、それ以前の作画の歴史というものが全部分かる。
『THE八犬伝』には、作画のあらゆる要素が詰まっている。ここには、『タイガーマスク』のような歴史的な作品としての「総合性」があり、『無敵超人ザンボット3』のような「パースの大胆さ」がある。『伝説巨神イデオン』のような「カメラワークと作画の融合」があり、『うる星やつら』のように「作画の魅力を全アニオタに知らしめ」た。また、『ポケットの中の戦争』のように「エフェクト的に成功」したのはもちろん、『クレヨンしんちゃん』のような「作画オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこの作画は、『タイガーマスク』と全く同じ意味合いを持っているのだ。作画史というものは、『THE八犬伝』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られた作画で、『THE八犬伝』の影響を免れたものはないからである。
以上、これさえ見れば作画を包括的・体系的にとらえることができる7本の作品を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、作画的に重要な作品は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「タイムシートの分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた作品は、いずれも「見ることによって他の作画にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『タイガーマスク』を見たならば、戦後の東映動画に自然と興味がいくだろうし、『ザンボット3』を見たなら、金田のそれ以外の作品も見たくなるだろう。板野についてもそれは言えるし、『うる星やつら』を見たなら、この作画を生み出す土壌ともなった「スタジオZ」というアニメスタジオにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『ポケ戦』はエフェクトオタクになるきっかけになるだろうし、『クレヨンしんちゃん』はその他の「作画オタク的なアニメーター」の作品も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『THE八犬伝』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこの作画は、統一度があまりにも低いために、これを見た後に他の作画を見ると、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの作品を見ることによって、作画をさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの作品を見ることによって、作画を包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな妨げとなるはずだ。
上に挙げた作品への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「作画を体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
ニート時代に読んだこの本によって、「作画とは何か」ということを、ぼくはを知った。
「作画は技術の集積だ」ということが、この本を読むことでよく分かる。何気なく見ていたシーンでも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
アニオタが金田の何に驚かされたかといえば、それはやっぱり大胆に歪まれたパースにだ。金田のパースには、作画の本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くのスタジオで多くの作画に、翻案されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、大塚や宮崎が作画というジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた作品のいくつかは、この本に書かれていた大塚の評価を参考にしたものでは別に無い
この本を読めば、どんな作画が素晴らしく、どんな作画がそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あの大塚の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20091126/1259227980
※「伝説巨人イデオン」になってた所を「伝説巨神イデオン」に修正
※一部改訂してます
24歳女。
進学高校入学後すぐ理由不明の神経症発病。
人生最大の苦しみから、3年時に高校を中退したことでとりあえず逃げ出せた。
通信制高校で単位取得し卒業。しかしかなりのショックとその後続く自責の念。
一度目の引きこもり。
病気の症状はだいぶ軽くなった。人生うまくいくと確信していた。
自分に自信いっぱいだった。
楽しい日々。蘇った私。
しかしそれは長く続かなかった。
気がつけば高校時代の同級生は皆大学卒業し有名企業に就職・・・私は猛烈に焦る。
資格の本、専門学校の本、大学の本、留学の本など読みあさった。
あーでもないこーでもない。私はどうすればいいんだ!
焦り→超前向き、自責→超後ろ向き、この二つの巨大なパワーが交互に私を混乱させた。
「よーし頑張ればできないことない。今までの分取り返すぞ!」「もう死んだほうがいいんだ。どうにでもなれ。」
行き詰った。
そんな中私は何を思ったか半分ヤケで突然今年の3月一人東京に出た。
私は履歴書で1つ目の高校を卒業したと書いていた。ずっとそうしていた。
母親が倒れたと嘘をつき入社を取りやめた。
その反動で再び引きこもって3ヶ月。
東京で一人。
昼夜逆転だらだら生活。
再び「焦り」と「死」。
わたしはどうなるのだろう。
ニーチェによればルサンチマンの人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
よって、ルサンチマンの人は非常に受け身的であり、無力な状態で、フラストレーションを起こしている。行動を禁じられて、その結果自身の無力を痛感している人なら誰でもルサンチマンに陥る。すなわち感情を表に出すことができなくなってしまうのである。
強者であればこの状態を克服できる。その場合、ルサンチマンの状態は(復讐心を克服するときと同様)一時的なものでしかない。反対に弱者はルサンチマンから逃れられない(復讐心が脅迫観念になったり、ある行為を後悔するあまり日々悶々として、気の休まるときがなくなってしまったりするのと同じ)。そして、フラストレーションの味方をして、なにもできないのを正当化し、価値の否定および反転を行う。自分を正当化しようとするこの願望こそ奴隷精神の最大の特徴である。
これを読んで、勝間和代とその信者にルサンチマンを見た池田信夫を考えると面白い。勝間和代は自己啓発の本を多数出しており、今回はデフレ退治へと行動している。自己啓発の本では人々に学習することを求め、デフレ退治では政治的に動くことを要求している。どちらも人々に行動することを要求しており、「単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつける徒輩」とはほど遠い。真っ逆さまと言って良いだろう。
対して池田信夫の出した『希望を捨てる勇気』は、その真意はともかく、多くの人に今のままで十分であり、何もするな、希望を持つなと誤解させるに十分な内容である。真意は超人であることを求めていると思われるが、実際にはルサンチマンの人により歓迎されるだろう。
ニーチェは、ルサンチマンの人の例として、キリスト教を奴隷の道徳と考えた。自分たちが善であると考えることで、世界を正当化して心の中だけで復讐して奴隷として生きるのだ。
池田信夫信者もまた自分たちの考えが論理的で真実であると考えることで、世界の正当化して他者の無知を心の中で嗤い復讐して奴隷として生きるのだ。まさに池田信夫とはルサンチマンの人によって支えられたアルファブロガーである。
にもかかわらず池田信夫は、自身ではなく勝間和代にルサンチマンを見い出す。これは精神分析でいう投射である。自分自身の特徴を相手に見い出すのだ。なぜなら自分自身の特徴こそは自分にとって最も気になることであり、相手を見るときもまずそこから徹底的に調べるからである。
投射を行う人間は、得てして合致する部分が見つかるとすぐに合点して推論を止めてしまう。精神ストレスに対する耐性がないと、自身を直視することを恐れ、自己の推論について検証することができないのだ。
説得力のない嘘でもひたすら言い続けると説得力が生まれるもの。人々はそんな馬鹿なことができる人がいると信じられないのだ。中庸を取ってどこかしら真実だと考えしまう。しかし嘘ですべてを固めてしまうという人は存在する。
精神ストレスに対する耐性が極端に低い人間は、堂々と嘘をつき続ける。本当のことを言ったり考えたりする苦痛に耐えられないからである。嘘を正当化するためにまた新しい嘘が必要になるからである。堂々した嘘には説得力があることを知っているからである。これは葛藤に直面しても現実を直視することができない人間の特徴である。
リフレ派は、日銀の金融緩和が不十分で、かつすぐに引き締めにはいろうとする姿勢を問題視しているんでしょ。実際、2006年の引き締めは時期尚早だって批判をしてたし。
あと、インフレターゲットによるインフレ抑制は他の国ではそれなりに機能しているでしょ。導入している国は結構多いと聞くしね。
ただ、リフレ派の主張の難点は実はここにあるんじゃないだろうか。
どういうことかと言うと、リフレ派の主張は、日銀というのは基本的に経済学の素養のない東大法学部出身者によって動かされていて、インフレ抑止を主眼とする伝統的な金融政策(日銀理論)に固執している。だから、効果もろくに出ないうちにすぐに引き締めに入るし、そのせいで日本経済はずっとデフレに悩まされてきたのだという。要するに、日銀が無能だという話。
他方で、ハイパーインフレを懸念する声に対しては、上で書いたように、インタゲを導入している他の国ではインフレ抑止に成功しているのだから、日銀がことさら無能でもない限り、そんなことは起こらないという。
ということは、もし世間の声(?)に押されて日銀がいま以上の金融緩和に踏み込んだとしても、中の人が無能なままだったら、インフレをコントロールできず、結果としてハイパーインフレになってしまうのではないだろうか。(もっとも、生産能力をもてあましている今の日本で、ハイパーインフレって言われてもピンとこないのも確かなんだけど)あるいは、バブルの時みたいに極端な引き締めを反動的にやって、えらいダメージを引き起こしてしまうかもしれない。
はてなハイクでは、
1・議論する人が一定数いる
2・反動で議論するなという声が上がる
ということが起きていて、後者が支配的でありながら、前者がそれを意に介さず議論する、という風潮がある(もちろん論者が常に論者である訳ではなく、ある時は議論を嫌うことも当然ある)。
これではいざ議論ということになったときのルールや合意が形成されていないから、問題がしばしば起きている(1→2となる)。
ルールを作ろうとかいろいろ動きはあったけど、ハイカー全体としては特にルールを作ろうと言う動きはない。多分また問題が起きるだろうが、起きた時は起きた時で考えるということのようだ。
病気かなーと思ったこともあるけど、特に対策はしませんでした。
たぶん、こういう性分なので仕方がないのだろう、とはあきらめてます。
声が大きくて笑えれば、人脈はつくれるとか、前増田かなにかに書いてあったけど、
そこはクリアしてる(ハズ)なので、未来はきっとある(ハズ)だとは思ってるんですけどね。
いちいち振り返らずにやるしかない(ハズ)。
めげねぇ! しょげねぇ! ふりむかねぇ!
ってのは好きだし、熱血でありたい(対外的には)と思ってて、
それも実践できてる。その反動が、身内や、一人のときに出てくるのかも。
ニュートラルの状態なんて、もうわからないですわ。
寝れなくなると大変ですので、これくらいにしておきます。
昔の軍艦ってのは砲弾とその破片を受け止める前提で作ってあって、装甲が厚い。
するとフネは大きく重くなるが、大砲をぶっ放すときに反動を受け止めるためにもある程度図体の大きさと重さが必要なので、そういう事情もあって船体は大きく重く堅い造りだった。
でも今の軍艦にはそんなに分厚い装甲はないよ。ロシアのキーロフ級なんて特別な例はあるけれど、まぁあれは化け物だから。
艦上にレーダーやアンテナなどの脆弱なハイテク装備がこんもり載っていて、攻撃も防御もそれに頼っている現代では
・まずは敵に見つからないことを目指す
・撃たれたら科学の力で敵弾を逸らす
・それでも敵弾がこっちに向かってきたら撃ち落とす
という方法で身を守っている。装甲を厚くしたところで敵弾が命中すればハイテク装備は壊れるし、図体が重く大きくなると隠密性や回避能力の点でかえって不利になるからあまり丈夫なつくりはしてない。
ま、最近はテロリストの体当たり攻撃とかあるご時勢なので構造を強固にしなくちゃいけないのかもしれないけど、それでもなお側面は難しいだろうね。正面は衝角とかドリルとかつければ強化できると思うけど。
本当に匿名なのかは分からないが、こういう場なので、あえてプライベートを書いてみようと思う。特に何がしたいわけではない。
さて、私は男だ。長男である。
父は厳格で、怒り出せば烈火のごとく怒り出す。
母は逆に優しく、甘く、父とは対称的な存在だった。
妹が二人いる。
ごくごく普通の家庭だ。
私は、力が好きだった。純粋な体力、腕力。
自分が力を誇示するということは、そういう目に見える力を使うことだった。
私は、思えば小学校のころから、奇妙なことを始めていたような記憶がある。
運命論を持ち出し始めた。「君がボールに当たったのは、はじめから決まっているよ」みたいなことを言っていた気がする。ことあるごとに妄想にふけり、アニメやマンガの世界に入ったり、「どうして自分はここにあるのか」とよく自問自答していた。
私は、小学校の頃からか、よく正夢を見るようになった。デジャヴュというやつだろうか。
初めは「あれ?」という感じであったのだが、いつしか「夢で見た」と感じるようになった。
ちなみに、今だに正夢は見る。毎日ではないが。
私はよくキレた。なぜかは分からない。だが、色々と気に入らなかったのだ。
私はよくはさみを投げた。よくよく考えると、危ない人間だが、当てる気はなかった。わざとあたらない様にはさみを投げていた記憶がある。
私は人を傷つけるのをよくためらった。どれだけ頭に血が上っても、人に手を上げることはなかった。威圧に留めるか、モノにあたった。おかげで、モノにあたるな、ものを大事にしろ、とよく言われた記憶がある。
私は、そういえば、人と違うな、と思ったことがあった。よくは分からない。だが、そう思った。
私は中学校の頃、よく暴れた。そして、よく教師に注意された。よく教室を抜け出した。何かをしたいわけではない。抜け出した。恐らく、空気が嫌だったのだろう。教室に居る人間一人一人の視線や、感情、色々と混ざり合って、嫌だったのだろう。
私は中学校の頃、自分の疑問を国語の時間の作文に記した。その疑問はその当時の私の想いに引きずられ、ネガティブになっていたが、疑問に思ったことを書き記したことは評価したい。「この世に意味はない。生きていても意味はない。どう生きようとも、死のうとも、死んでいるのならば、変わりはしない。恋愛をしようが、偉くなろうが、死んでしまえば一緒じゃないか。生きていることに意味はない。」こんなことを書いていた気がする。ちなみに、教師は「おかしな考えを持つ生徒」と父親に言ったが、逆に父親は激怒していたようだ。
私は中学校の頃、高校に進学する気などなかった。義務教育は中学校までなのだから、それ以降は働けば良い、と本気で思っていた。実際には敵わず、高校までの学歴がないと働けないことを教えられるのだが、それを教わるまで、なぜ義務教育なのに高校まであがらないと働くことも出来ないといわれるのか理解できなかった。そうした感覚は、ずっと引きずるものなのかもしれない。
私は高校の頃、「いい子」に専念した。自分でも理由は分からない。だが、「いい子」でいようとする気だけはあった。
私は高校の頃、「おかしくなった」。いい子でいた反動だろうか。部活動をやめたくてしょうがなくなり、つい「おかしな自分を装った」。ずっと人からの言動を受け付けず、過呼吸を繰り返した。果たして、病院へと連れて行かれ、「てんかん」と診断されるにいたった。
私は高校の頃から、薬を飲んでいる。正確には飲んでいた、というべきか。結論を言うと、正常な状態の人間に長期にわたって抗てんかん薬を投与されていた状態だ。別にそれについてあれこれいうつもりはないが、高校の頃は、まともに体が動かず、頭もほとんど回らない状態だったのは覚えている。何度か死のうと思ったこともある。
私は職業訓練を受けた。高校の頃の出来事で、就職は不可能と診断された私は、半ば強制的に職業訓練学校へ行くことになった。
私は職業訓練学校にて、社会というものをほんの少し教えられた。職業訓練をする人間は当然高校卒だけではない。失業保険を受けながら通う人間もいた。私がその学校で覚えたことは、専門知識というよりは、社会はこういうものだ、ということだったように思う。ほぼ周期的に飲み会が行われ、数千円単位で金が消えていく。アルバイトなどしたことがなかった私には、反発しか覚えなかったが、しかし、そういうものなのだと、後になって気づくきっかけとなった気がする。
私は今、ニートである。今になって気づいたことだが、私はニートだったのだ。
母親は病気である自分を責めはしない。むしろ私という枷が生きがいであるように思う。
分かっているのだ。今があるのは、過去があるからなのだと。
誰かのおかげで自分が居るのだと。
だが、自分はなぜここに居るのかが分からない。
何をすれば良いのかわからない。
働こうと思えば働ける。ちゃんとうまくやれる自信もある。
なぜか、働く気にはならない。
生きがいとはなんだ、なぜ生まれたのか、なぜ生きねばならないのか。
気づいたことがある。この世は未熟なんだと。
私を教育してきた、教師達、その一人一人ですら、所属によって歪められた個人であったのだと。
教えるべきものは、どうすれば生きれるか。そう、そうすれば生きれる。
だが、なぜ生きるのか、それは教えてはくれない。
教師は仕事で子どもにものを教えている。子どもが好きであっても、無償でなど、教えてはくれない。
生きるための糧が自分たちなのだ。
最近、私はよく顔が変わる。何故かはわからない。薬の影響かもしれないし、長いことニートをしていたせいかもしれない。
ただ、ハッキリしているのは、一人でもさびしくなくなったことだ。
さて、よく分からなくなってきた。そもそも支離滅裂なのだと、始めの行で気づきつつも、あえて書いてきた体たらく。
いや、他人に対して伝える、と言うことをサボってきた証というところだろうか。
誰かに言われた気がする。
「理屈ばかりこねている。あなたは何がしたいの?」
答えはまだでない。
だがまぁ、まだ自分が未熟だった頃に、
「死ぬことなどいつでもできる。迷惑をかけようが、自分勝手だろうが、死ねばなくなるのならば、自分で死期を感じる時まで生きてみればいい」
などと思ったことは、今尚私を愚生の中に誘うきっかけだったのかねぇ。
別に何がしたいわけでもない。
ただ、面白いほうがいい。
国債が全部国内で消化されている事から、このような発想が出てくるのであろう。国債が外国や外人投資家に買われている国家の場合を考慮できない視野の狭い田舎者がマクロ経済を語るばかりか、統治しようという時に、理解できない物を理解した振りをする為に、間違った主張をしているのだが、それを、誰も教えられないという点が、権力者に物を教えることの難しさと言える。
表題の主張にしても、では、国民が預貯金を消費し、不動産資産を換金した場合、そのお金はどこから出てくるのかという問題を出せば、たいていの人は自力で答えにたどり着ける筈である。答えにたどり着けないならば、政治や経済に関わるのはやめて、手に職をつけて身体を動かして稼ぐ仕事につくべきである。
お金はどこで作られているのかという問題がある。
造幣局で作られている紙幣や貨幣の総量は、市中に流通している量のおおよそ5%以下でしかない。残りの95%は、信用供給によって発生したお金である。
市中銀行は中央銀行に法定準備金を積む。この法定準備の9倍のお金を、貸し出しして良いという事になっている。預貯金として集めたお金の9割を貸し出しに回し、1割を法定準備にするというのではなく、10割を法定準備に出す。というのも、お金の大部分は、金融機関の口座の間を転々とし、現金として引き出される額はその一部でしかない。したがって、現金として動いているお金よりも、数値情報のままで動いているお金の方がはるかに多くなる。この、数値として動いているお金の総量が、預貯金額(現金資産)の9倍の融資残高となっているのである。
つまり、預かったお金の9割を融資に出して、金利を稼ぎ、その利子から利息を支払うという状態ではなく、預かったお金を全額無利子の法定準備に積み、法定準備の9倍のお金を書類上の融資に出して金利を稼ぐという状態になっているわけで、貸し出しと預け入れの利差は、ばかばかしいほどに広がっている。
問題は、この9倍の融資予算を元利をきっちり返してくれる人や法人に貸さなければならないという点にある。規制と許認可で企業活動を縛り上げて間接金融による護送船団方式をやっていた時代や、地価の右肩上がりがあった時代には、この仕組みはうまく動いていた。
配当性向が0%に限りなく近く、しかも懲罰的累進課税によって、企業の内部留保が十分に溜まって金融機関のお世話にならなくて良くなると、間接金融による護送船団方式はうまくいかなくなった。そこで、融資の先がマイホームへと向かうようになったのだが、今度は、地価の高騰からローンの期間が長くなり、労働者はローンを返す為に会社にしがみつかなければならなくなり、労使関係に歪みが出てきてしまった。過労死問題が出た後で、その反動で雇用の流動化が出てきたが、企業側の主張だけが通って低賃金の派遣労働ばかりになってしまった。
賃金水準の低下は、預貯金の減少を招き、法定準備を取り崩さなければならなくなる。法定準備を1割削ると、法定準備の9倍のお金を融資に出しているのだから、削った法定準備の10倍の金額を貸し剥がさなければならなくなる。賃金水準の低下から購買力の減少が発生するだけならまだしも、バランスシートの健全性を維持する為に貸し渋り・貸し剥がしをしなければならなくなり、デフレと不景気が同時に発生してしまったのであった。
預貯金額が減れば、必然的に融資予算も減少していくのだが、そうなると、内部留保が十分にある企業は良いが、それらの蓄積が無かったり薄かったりする中小企業は、資金ショートを起こしやすくなり、サラ金や商工ローンといった、筋の悪い金を利用しなければならなくなる。
所得の減少から購買力の低下になり、さらに、資金繰りの悪化とつながり、日本の産業構造だけでなく、社会構造も、かなりがたがたになってきている。
この状態は、国債を出してバラ撒きをやっても決して改善しない。自民党をぶっ壊すという小泉政権に対する300議席の支持も、その後の自民党の迷走に対する反発から、民主党へ投じられた300議席超の支持も、つまるところ、経済の行き詰まりに対する、国民からの請託である。しかし、民主党政権は、自民党の一番悪い時期の政権よりも酷いという事が徐々に明らかになってきている。
社会がまともであれば、母子加算や子供手当てといった政治的給付は必要ない。そんな制度が無ければやっていけないということは、社会が不健全であるという事に他ならない。
行政や司法や政治がでしゃばらない社会が健全な社会である。貧困が無いとか、犯罪が無いとか、援助交際が無いといった状態が健全な社会なのではない。それらは個人の問題であり、社会の問題ではない。それらが発生する原因を無くせないのが社会の問題である。汚職は個人の腐敗であり、汚職を摘発して関係した政治家を断罪できないのが社会の腐敗であるというのが、元ネタだったような気がするが、個別の問題に拘り、全体を見ないというのは、全体を見れないという能力の欠落をごまかす手段として利用される事が多い。
無能である事が判明したならば、速やかに席を空けるというのが、社会人として、世間に晒されている人としての、矜持ではないだろうか。
http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/diary.html [2009.10.13]
なんか昔の自分がいる。
そこまで脳内表現過激でなかったけど。
そうそう、たいしたことしてないのに少し積み重ねるだけで一気に「優しい」「いい奴」になっちゃうんだよ。
そういう評判って一人歩きもするし、その期待に応えないと反動が出る。
可能なら忙しい人になるといいですよ。
そしたら「忙しいから手伝われないのは仕方ない」という評判も一人歩きしてくれます。
で、こちら側は自分で対応できる範囲に収まるように手伝う基準の閾値を調整する。
基準の価値観はあまりぶれないように。
だんだん落ち着くと思います。
自分にとってほんとにたいしたことないことで感謝されることは素晴らしいことです。
バランス取れるといいですね。
http://blog.goo.ne.jp/harunakamura/e/0d5a3464c5354fc1f416451b9b9e940d
クルーグマンは、アメリカの戦後の中産階級社会は、自由主義経済によって自動的に出来上がったものではなく、ルーズベルト政権の政策によって作り上げられた。
労働組合の強化、ソーシャル・セキュリティやメディケアのような再分配原資を確保する為に金持ちに高額課税をしたりすることによって、所得格差を縮小し、労働者階級を貧困から救い出し、ブームを引き起こした。
しかし、保守派ムーブメントによって保守党が政権を奪還して、金持ちを利するために、欺瞞と狂気の政策で逆転させてしまった。
金持ちへの減税、ソーシャル・プログラムの廃止、組合潰し、と言った保守的イニシャティブによって、富める者を益々豊かにし、弱者を貧困に追い詰め、深刻な格差社会を生み出した。として、
レーガン大統領の保守反動政治を皮切りに、アメリカ社会が大きく右傾化し、ブッシュ政権を経て極に達するに至った経緯を、ヨーロッパの福祉国家的な動きと対比させながら、アメリカ独自の「保守派ムーブメント」を浮き彫りにして論じている。
いつからだろう、落書きを書かなくなったのは。
いつからだろう、一日中パソコンの前に座ってるのは。
いつからだろう、物語を創るより見る方になったのは。
いつからだろう、液晶でしか遊べなくなったのは。
いつからだろう、形から入らないと気がすまなくなったのは。
いつからだろう、ヲタクになったのは。
最初からだろうか、自分がこんなに影響されやすいのは。
いつになったら”自分”を固定できるのだろうか。
絵本を書いていたあの頃、漫画を描いていたあの頃、カードゲームなんか作ってたあの頃。
黒歴史なのかもしれない。でも、あの時は確かにそれが楽しかった。あの時の自分は変わっていて、だけど誰もそれを否定したりしてなかったと思う。
厨房になって、ヲタクになった。きっかけはFF11でパソコンをやりすぎてたからだと思う。
ネトゲを通して会うプレイヤー達は皆、成人だったり自分より年上しかいなかった。
その人達との会話は楽しかった。同年代と話すよりずっと面白かった。
まるで自分も大人になったような気がしてた。
気がついたらヲタクになっていた。
今考えてみたらその理由はだいたい分かった。
厨房になってからは異性との接触が殆ど無かった。きっとその反動を二次元に向けたんだと思う。
工房になって異性との接触が増えた。厨房3年間の反動で凄い勢いで異性と話すための努力をした。
好きな人もできた。でも、それは本当の意味で好きだった訳じゃない気がする。
最近一人で色々な事ができるようになった。一人の方が何をするのも楽だという事にも気がついた。
でも友達がいない生活なんて考えられなかった。
でも、自分には高校に友達とよべる人間は存在していない気がする。
理由は大体分かる。自分があまり仲良くしようとしていないから。本来自分の友人になりそうなタイプの人間を避けているから。
別に問題は無いと思う。群れをなすのは大切だけど、群れで生活するのは嫌いだから。
だから自分の友達と呼べる人間は常に1人か2人ぐらいしか居なかったと思う。
その一人を高校で作るのは無理かもしれない。
いつからだろう、面白いことの基準が変わってしまったのは。
いつからだろう、創作より模倣を好むようになってしまったのは。
いつかだろう、卑屈になったのは。
ネトウヨ版を考えようとして挫折した。
一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義の妖怪が。旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪にたいする神聖な討伐の同盟をむすんでいる。法王〔6〕とツァーリ〔7〕、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派〔8〕とドイツの官憲も。
およそ反政府党で、その政敵たる政府党から、共産主義だといってののしられなかったものがどこにあるか、およそ反政府党で、より進歩的な反政府派にたいしても、また反動的な政敵にたいしても、共産主義という烙印をおす非難をなげかえさなかったものがどこにあるか?
この事実から二つのことがあきらかになる。
共産主義は、すでにヨーロッパのあらゆる権力から、一つの力としてみとめられている。
共産主義者がその見解、その目的、その傾向を全世界のまえに公表して、共産主義の妖怪談に党自身の宣言を対置すべき時が、すでにきている。
一人暮らしをして一ヶ月が経とうとしている。
二度目の一人暮らしだ。
大学生の時も一人暮らしをしていたのだけど、仕送りでのほほんと生活していたので
自分の稼いだお金だけが頼り。親に甘えるわけにいかないので健康管理に一層気を使うようになった。
でも大変なことばかりじゃない。
使い勝手や動線を考えてものを配置したり、選んで買ったりすることは楽しい。
自分の好みの皿を買ったり、自分が食べたいものを食べるために料理をする。
布団を干したり洗濯をしたり掃除をしたりするのはスッキリして楽しい。
好きなコーヒー屋のコーヒーを入れて夜空を眺めながらぼーっとすると心底ホッとする。
一人暮らしを始めてから友人たちに、TVもなんにもないのに淋しくないの?と聞かれるけど
ひとりで本を読んだり掃除をしたり料理の本を読んだりやることは沢山あるからまったく淋しくない。
誰にも邪魔されないひとりの時間がほしくてほしくてたまらなかった反動なのか、想像していた以上に淋しさを感じなかった。
でも、ずっと一緒にいるとだんだん疲れてくる。ひとりになりたくなる。
家に帰って鍵をかけて下着も全部脱いで部屋着に着替えるとホッとする。
いまは好きな人もいないのだけど、こんなにひとりの生活に慣れちゃって
どうなんだろうとも思う。
しあわせだからいいのかな?
http://anond.hatelabo.jp/20090916220018
たくさんのコメント、トラバありがとうございます。それを読んで考えたことをいくつか。
まず、この表現に関しては語弊がありました。ごめんなさい。
そして「修行しない戦士」たち。「セルゲームなんて怖くていけない」、「天下一武道会なんてめんどくさい」なんて言葉で、あなたたちも人を傷つけていることがあるんです。だって、世の中には本気で、修行をしないと外も歩けない(神経症的な意味で)人がいるのだから。修行をしなくても、強くならなくてもそのままでいられるのなら、それだけで恵まれていることもあるんだよ、とわたしは思います。
これだけだと、完全にこっちが勝手に傷ついてるだけですよね……ごめんなさい。飾らないZ戦士の中にもいろいろな思いがあるのだとわかっています。個人的な体験として、もうすこし直接的な言葉でそういう戦士から傷つけられた(「亀仙人って変身にだまされるんだね」とか「ヤジロベーはそんなに頑張れないわー」とか)ことがあったので書いてしまった、というのもあるなと反省してます。これは私怨でしかなかったですね。
いいわけになってしまいそうですが、わたしは「地球人(笑)の気持ちもわかってくれ」と単に言いたかっただけじゃありません(もちろん、そういう自己弁護的なところも多分にあるのですが)。
コメントのなかに「気にするな」とか「戦闘力競争から降りればいい」みたいな言葉があったのですが、戦闘力を上げる方向にしろ、そこから降りるにしろ、自分の中の戦士性を自覚して、それに無理に適応しようとしたり、抗おうとしたりする時点で、本当はどちらも間違いだし、負けなんです。自分は自分のままでいい。戦士としてどうだ、なんてことは、できれば自分の価値観の中から消えたほうがいい。戦士であることと自分らしさが一致する人はいいけど、それが一致しない時点で、どんな形であれ戦士は業を背負うんです。フュージョンとか、ポタラみたいな新しいカテゴリは、その二項対立から逃れようとする戦士の願望のあらわれじゃないかなって思ってます。つまり、元エントリにあったナメック星人も、わたしも、メンタル的にはまったく同じです(そういうコメントをつけてくださったかたもいて、ありがたい限りです)。
おそらくサイヤ人だと思うんですが、わたしのエントリを読んで「自分も同じだ」と感じてくださった方もいたみたいで、書いてよかったな、と思いました。
自分がZ戦士であることを自覚して、その戦士性と自分自身の折り合いをうまくつけられない人は、ギニュー特戦隊(笑)だろうと、Z戦士だろうと、鶴仙流だろうと、オトコスキー(天下一武道会で戦ってる友だちのなかには、女性性を過度に忌避したり、意識しすぎた反動でそういう道を選んだ子もいます)だろうと、全員同じ問題を抱えてます。元エントリを読んで、その問題を「Z戦士」や「亀仙流」だけのものとして認識してる人が多いのかな?と思ったので、先のようなエントリになりました。
わたしはいま、そこを見詰めるのにスカウターはどれくらい役に立ってくれるんだろう、と疑問に思いながらも、勉強中です。サイヤ人はもちろん、地球人の方もいろいろな可能性を一緒に考えませんか?って感じです。
最後に、すごく心に響いて、うれしかったコメントをふたつ。
y_arim オレに殺されるべきなんだ━━━━━━━━!!!!
florentine「サタンの実力について、当時一世を風靡したボブ・サップよりちょっと弱い程度」『ドラゴンボール フォーエバー 人造人間編~魔人ブウ編』より
こういう話が、もっといろんなところで議論されていけばいいなと思っています。
元増田です。
たくさんのトラバ、ありがとうございます。
(これでたくさん?と思われるかもしれませんが、最近増田を始めたので、これでもたくさんなのです)
様々なご意見、目から鱗が落ちる思いで拝見させて頂きました。
就寝の前にPSPブラウザで確認したら、思いの外トラバがたくさん来ていたものだから、
ポメラを引っ張りだして、コメント頂いて、感じたこと、考えたことを書き連ねていこうと思います。
●友人は本当に「友人」なのか
まず、友人と私の簡単なステータスを上げると以下のようになります。
A:テレビっ子。オタク趣味はないが、少女漫画は好き。地方在住。
D:テレビも見るしネットもそこそこする。ややオタク傾向あり?東京在住。
出会い、というか、この集団で固まった要因は、何となく話が合うから、だと思います。
私が女子大時代に所属していた学部は、ギャルな方々がとても多かったのです。
私のように、明らかにオタク趣味のある人は他に一人もいませんでした。
A,B,C,Dの4人は、オタクではなかったけれども、それ以外では話の合う人たちです。
彼女らがいなければ、私の大学時代はとても寂しいものになっていたと思います。
よくご飯を一緒に食べに行ったり、カラオケに行くなどもしてましたし。学内での行動は大体一緒だったし。
……ただ、大学時代、趣味の話で一番盛り上がる相手は、ゼミの教授だったわけですが。
自作PCの話でよく盛り上がったものです。……と話が逸れました。
しかし、教授とPCの話は出来ても、月9ドラマの話はテレビを見ないからさっぱり分からなかった。
彼女らは、大学時代に仲のよかった人たち、という言い方が一番正しいのかもしれません。
4年間も一緒で、喧嘩も全然しなかったので、この人たちは私を知っている「友達」なのだ!と壮大な勘違いをしていたのかも。
全く仰せの通りです。
こればっかりは私の性格が悪いのです。
内弁慶なものですから、増田では言えても面と向かっては言えないのです。
疲れたとか、他のところに行きたい、と言うと、誰かに迷惑がかかるんじゃないと思い、文句は言えませんでした。
いつからか、他人の顔色ばかり気にして、行動するようになったから、今回の旅行でこういうことになったのだと思います。
自分の言いたいことは言えるように、もっと色んなことをたくさん話せる出来るようになりたい。
小さいときはやかましい性格だったのに、その反動か何かで今ではすっかり人見知り。
色々頭の中で考えて、口には出せないこの性格をどうにかこうにかしないと、次に行っても二の舞でしょうね。
はっきり言えればすっきりするけれど、その後関係が壊れるのが嫌で今まで何も言わなかった。
友人の定義って何なのかよく分かりませんけど、言いたいことが言えないのなら、友人じゃないのかなあ。
この集団の外での出来事の相談には何度も乗ってもらったけれど、この集団内での不満や愚痴を言ったことはそういえばない。
今回の旅行のことも、私以外はみんな楽しそうだったし、頭が冷え始めた今ではこれでよかったのだ、と思い始めています。
自分がこの集団ではマイノリティに属するのだから、不満があっても堪えればそれでうまくいく。
そういう考えが染み付いているから、被害者妄想と不満が爆発してああいう愚痴だらけの日記を書いてしまいました。
●プラン立てて行動しろよ、単独行動すればいいじゃん。
これも仰せの通りです。
とりあえず東京組に任せればオッケーかな、と思いこんだ結果がこれです。
大体行きたいところを決めて、行き当たりばったりな旅でした。
それと、東京組にとっては最早東京は珍しいところではないから、
(前項目の話になりますが、皇居と国会議事堂は、プランを立てたし、意地でも行きました。
プラン通りに進んだのはそこまでだったか)
単独行動は思いつきもしなかった。5人一緒で行動するのが、見えない原則としてありました。
また前項目の話になりますが、この集団の中では私の意見がマイノリティとなるから、言いたくても言えない、
他の子たちに合わせなくちゃ、という意識が、大学時代から根底にずっとあったのだと思います。
今回の件と、頂いたトラバが、大学時代の交友関係を考えさせられるひとつのきっかけとなりました。
次に行く機会があれば、そもそも行く必要があるのか、というところから考えてみたいと思います。
どうもありがとうございました。