「仇討ち」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 仇討ちとは

2011-03-03

http://anond.hatelabo.jp/20110302202019

あぁ、そうだね。

人殺そうが、物盗もうが、起訴されて裁判で有罪にならなければ犯罪者じゃないよね。

ゴメンゴメン。

えっ、目の前で人が殺されたら、殺した奴は犯罪者だろって?

そんなことはないよ、犯罪者と断ずることが出来るのは、裁判官だけなんだから

そう。

私刑を排除することは法治国家として当然。

仇討ちなんぞされてはたまらない。

そこで国家が刑罰権を独占している。

また、あなた自身「起訴しない理由なんていくらでもある」と言っているが

犯罪についてもその通りであって、たとえ人殺そうが、物盗もうが、無罪になる理由はそれなりにある。

その点からも、勝手犯罪者と断ずることはできないし、また私人にそのような権限もない。

ロス疑惑での一連の訴訟も関連するか。

そのどれかも、「はっきりしない」、判断されなかったからね。

正直な話、いっそ裁判した方が被告に有益だったよね。

はっきりしないのであれば、無罪と解せばよい。原則だろう。

あなたが、「いっそ裁判した方が被告に有益」と思うのは、はっきりしなければ有罪という偏見があるから

そしてそのような偏見がある限り実のところ裁判をしても無意味

刑事裁判は黒か否かを判断するのであって、白も灰色無罪となるのだから

 

さらに、裁判所は「起訴猶予処分」なるものに特別の意味を認めず、要するに不起訴処分としている

起訴猶予不起訴処分の理由に過ぎず、ことさら意味があるものではない。

http://anond.hatelabo.jp/20110302203531

検察官の独断だから一個人の意見に過ぎないとでも思ってるの?独任ってのは権限を認められてるけど個々の判断が組織としての判断なんだよ。意見担当が交代されても引き継がれるもの。検察官が業務として行った判断は特別な問題が無い限り検察庁の判断だ。検察官に独自に判断する権限があるだけ。それは一個人の判断ではなく委譲された権限に基づく組織の判断だ。

まず、処分庁の誤りは単純に間違いだということ。

不起訴処分の処分庁は検察官である以上、権限は検察庁より委譲されたものではない。

さらに、検察官同一体の原則等から、その判断に上司(決裁官)など組織意見が反映されることはあるだろうが、

検察官の名で処分をしている以上は、その一義的な責任は当該検察官にある。当然の理屈だろう。

もともと、犯罪の嫌疑というものは、犯罪を犯した疑いにとどまるものであつて、確定的に犯罪を犯したことを意味するものではなく、それは単に有罪判決を獲得する可能性として公訴提起の要件となるにすぎないかなり漠然したものというべきであり、しかも、起訴猶予処分における犯罪の嫌疑は、その存在公権的に確定されたものではなく、捜査にあたつた当該検察官が嫌疑ありと思料して起訴猶予処分にしたというにすぎないものであつて、もとより裁判所その他の国家機関のレヴユーを受けた、犯罪の成立についての公権的な判断ということのできないものであることは明らか

繰り返しになるけど、地裁判決をもう一度引用http://anond.hatelabo.jp/20110302160544

これを「組織の判断」とことさら強調するのは、悪意をもって氏を貶めるものではないか

 

また、逆に言えば、たとえ嫌疑なしの不起訴処分がなされたとしても、たいした意味がないことがわかる。

嫌疑なしの不起訴処分は、「捜査にあたった当該検察官が嫌疑なしと思料した」にすぎないわけだ。

たかだか検察官の思料、それも内部的なものにどれほど意味があるのか。

だいたい起訴猶予処分にたいした意味がないことを強調する方がLibrahack氏の利益にもなると思うが。

今回の件は、弁護士だって見直されるべきと言ってる。

この反論は正直幻滅。

2011-02-28

死刑は絶対に廃止すべき

Qお前の家族を殺された後でも死刑廃止を主張できるのか

家族というもっとも大切な存在を奪われた人間は冷静な状態にはないし、ましてや死刑というものについて議論できる立場にはない。感情論で「殺して」と叫ばれても何の意味もない。ちなみに、死刑を望む遺族に対しても同じことが言える。遺族の意向通りに死刑を執行しなければならないというのは、仇討ちが禁じられているという現実と矛盾する。遺族が殺して欲しいと言ったから殺してもいいということにはならない。

死刑囚の命を奪うのは人権侵害だというが、そもそも死刑囚はたくさんの命を奪ってる

A既に起きてしまった取り返しのつかない事と、これから行われることを混同してはいけない。これから殺人をする人間を事前に逮捕して処刑出来るか?死刑執行という名の殺人は、それが行われる前に止めることが出来る。よって人権を尊重するならば当然殺人を止めなければならない。


Q人を殺すという最大の罪と釣り合うのは死刑だけだ

被害者の遺族は大切な人間を失ったまま生きていかなければならないが、死刑囚は彼らよりも早くこの世からいなくなることが出来る。殺人を犯した者にとって、この世で生きている限り自分が人を殺したという事実は決して消えず、たとえいくら反省しても心からお詫びをしても被害者が生き返ることはない。その苦悩を一生自分で背負いこまなくてはならないはずなのに、死刑によって人生をいち早く終わらせることは彼らの反省の機会を奪い、苦悩する贖罪の日々を消すということに等しい。これが本当に被害者遺族が望むことなのか?一時の感情で殺せと叫ぶ遺族は、このようなことを望んでいるわけではないはずだ。自分たちが一生苦しむのと同様に、加害者にも自分の罪を背負い続けてほしいと思うはずである。殺せば全てが終わってしまう。反省の機会も、自分の犯した罪を償う時間も、全て奪われる。死刑を望むことは被害者遺族自身を苦しめることになる。


*どんなに言い繕っても、死刑国家権力による殺人である事実からは絶対に逃れられない。殺人をしても良いと考える人はいないはずだ。

2011-01-23

法務大臣が着任早々に失言

"人間はいつかどうせ死ぬんだから、別に死刑執行しなくてもいい気がする"と、言ってしまったらしい

死刑執行しなくてもいいならば、殺人を罪として裁く必要も無くなる。国家存在意義の一つである治安の維持という重責を、いきなり放り投げる発言である。遺族に向かって、それを言えるのだろうか。被害者人権を踏みにじったことが、法廷において確定して死刑判決が下った以上、死刑囚人権は、同じように踏みにじられるべきである。それに対して配慮するのは、被害者人権を重ねて冒涜する行為であるという認識が無いのであろう。そんなに死刑執行命令を出したくないならば、仇討ち合法化という対策を主張した上でやるべきであろう。

死刑執行を法務大臣が命じるのは、法務大臣死刑判決を否定させる為ではない。死刑囚は、死刑判決が確定してから半年以内に執行命令をださなければならないと、法律で決まっている(刑事訴訟法475条2項)。ただし、共犯者がいるときには、死人にくちなしと、死人に全責任押し付ける行為が出てくるから共犯者の罪が確定するまで、証人として生かしておかなければならない。これを合法的に実現する為に、あえて、半年以内に執行命令という原則を、法務大臣多忙サインが間に合わないからという理由で、捻じ曲げているのである

共犯者の罪が確定した時点で、粛々と死刑は実行されなければならないし共犯者がいないのであれば、法律の規定どおり、6ヶ月以内に刑の執行を命令しなければならない。

法務大臣死刑執行命令を出さないのは、厳密にいえば、職務怠慢であるしかし、この職務怠慢には、罰則規定がわざと作られていないという点にこそ、意味がある。

死刑執行命令を法務大臣が出さずに放置できるというのは、死刑を執行してしまうと証人がいなくなり、全責任を死者に押し付け無罪を主張する犯罪者が出てくるという欠陥を、未然に防ぐ為の意図的な法網の穴であって、決して、死刑制度の是非を法務大臣に考えさせる為ではない。立法府の側が、制度の是非を論じるのは当然であるが、行政府に入った者が、対策も出さずに好悪の感情を並べるだけの書生論をぶっている暇は無い。それが嫌ならば、閣僚指名の段階で拒否するべきである

法務大臣はいずれ辞めるんだから、今の法務大臣には今すぐ辞めてもらってもいい気がする。いや、今の内閣自体に、今すぐ辞めてもらって、総選挙してもらったほうがいい気がするのであった。

2009-09-25

http://anond.hatelabo.jp/20090925003503

あなたのいう「第三者の感情」というのは抽象的な一般国民の「一般意志」のことで、

私がいう「第三者の感情」というのは、被害者に近しいというだけの、

当事者でない人間の個人的な報復感情のことだ。

個別具体の感情を、国民一般に適用される司法に反映させることがあってはならないだろう。

遺族が望めば死刑、遺族が望まなければ懲役

殺したのが高所得者なら有罪、浮浪者なら無罪

被害者の他者からの評価や社会的身分によって措置が違ってはならない。

同じ態様で殺したら同じ刑罰が科されるべきだ。


仇討ちを認めると人格連続性を認める、

つまり被害者は遺族の所有物だということになるだろ。

近代国家では親だろうがなんだろうが、別の人間は別の人格を持つとされるべきだ。

身分制度を「愛され度合による序列」と書いたのは、

本当に他人から愛されている程度という文字通りの意味ではなく、

社会が決めた尊卑の差ぐらいの意味にとらえてもらえばいい。

「愛されレベルが高い順に尊い」というルール国家が決定することになれば、

究極的には身分制度に行きつくし、最終的には政治司法に介入しうる神の存在を認めることにもなるだろう。

人権宗教ではない。もっと科学的な原理で、近代社会を運営するに際して守られなければならない基本原理だ。

国人であろうとも普遍的に人権は適用されているし、

仮になんらかの制約が課せられたとしても、

個人の人権国家によって担保されているものである以上、国家ルールに沿った制約であれば仕方ないだろう。

2009-08-20

かつては「家」というシステムがきちんと運営・循環されていた。

しかし「家」から出て行く自由を許し、

「家」というシステムを成り立たせる構成員=家族がいなくなった為,

「家」というシステムは循環しなくなり、希薄となった。

っていう過去の上に今が乗っているよね?

サマーウォーズを観たけれど、プロットは良いと思った。

「かつて」をスペクタクルで見せてくれる。

それでいてその描き方が「ペシミストになれ!」って方向ではないから、

お婆ちゃんを失った陣内家の崩壊は、ラスト,スゴくそう快な

カタルシスでやってくる。

お婆ちゃんが亡くなって、「仇討ちだっ!」って男たちが活気づいて、

最後、「家」はそう快に半壊すんの。

アラワシの直撃は回避するんだけど、衝撃波はあって、ちゃんと半壊する。

でも、みんなぴんぴんしてんのね。

明るくお葬式とお誕生日なの。 大円団なの。

そういうプロットは良いと思う。

でも何が惜しいかっていうと、主人公の健二でね。

「なんで健二を主人公にしてるのかなぁ?」とついつい言いたくなってしまう。

時かけの時にも思ったけれど、「我が身を削って物語を顕現させる」っていう

姿勢ではなく,大多数の当たり障りのないところに落とし込むのな。

それだったら、佳主馬を主人公として、夏の娯楽映画として、

少年成長物語として構成した方がよっぽど素直に観れたよ,と思うのです。

健二が旧家に飛び込む現代っ子代表だったら、「自分の家では一人だったので、

この家に来れて嬉しい」っていうのを演出で見せて、受け手に委ねてくれればいいのに

台詞で言っちゃうしさ。(台詞で言えたら、彼は素直だね。って広がりのみさ!)

健二は数学天才って設定だけど、それ以上に、あの年頃の男の子で、

ああ素直なのは、きっぱり特異だよ。

健二は裏方に徹っし、格闘ゲームチャンプ子供の佳主馬と、健二が

憧れる先輩で女の子の夏希がバトルは受け持つので、それでそのふたりが、

素直に頑張る健二の横顔に、ぽーっとなるから、平衡はとれてるけど。

「今の男の子にとっての家」っていうのを、描き出すには、

健二はあまりにぶれてない(健二は侘助とも対比になんない‥!)

家族愛情なんて、同じ釜の飯でも喰ってりゃ、後からついてくるもの。

そういうスタンスで作られたこの映画において、健二が旧家の大家族

受け入れられることはさほど問題じゃない。

(だから健二が素直でさっさと問題解決なのはイイ!)

旧家は壊れて、じゃあ新しい「家」は?

新しい「電脳共同体」という大きな家族の在り方は?

それらは尻すぼみっていうか、別段提起されてなくってさ‥‥

健二みたいな子が、ウチの婿だったら可愛い!って理想男の子話に

摩り替わっちゃったYO!っての。

まったくサマーウォーズ平和だよ。高校野球の試合も中止にならないわけだ。

2009-08-17

車輪の下

ヘルマン・ヘッセ小学校中学校教科書に一部載っていて、

興味を持ってその当時読んでみたんだけど、

死のにおい(と閉塞感)がぷんぷんして

最初のほうを読んだきり読むのを途中で投げた思い出がある。

同じように宮沢賢治銀河鉄道の夜

死のにおいがぷんぷんしてだめだった(こっちは最後まで読んだけど)

ノルウェイの森自殺ものだと聞いて読んでない(元になった短編作品は読んだ。ダメだった)。


死がストーリの中に組み込まれている作品っていうのが

どうしても読めない(「100歳のおばあちゃん先生」はノンフィクションだけれどもきつかった)。

要はガキなのか、死の恐怖に耐えられないのか、

フィクションフィクションとしてわりきれないのか。

ナディア(『ふしぎの海のナディアアニメ)は最初はショックだったけど、

何度も見れた。ほたるの墓は無理。

死を描いた作品でも

いっぺん最後まで我慢して読んで感動すると、何回も読んだり見たくなるもんなのかな。

まぁ内容によるのだろうけど(自殺ものと仇討ちものは全然違うから)、

内容が読む前はわからないから取捨選択はできないよな。

2009-05-12

http://anond.hatelabo.jp/20090511181253

しかし、実際には仇討ちなどとして差が設けられることが多い。

2008-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20081208100304

・同じ硬貨で一度に支払えるのは20枚まで

銀行で両替したときにセロハンでくるまれてる五十枚一括のやつは、結構喜ばれる

・隣家から境界線を越えて伸びてきた枝を勝手に切ってはいけない

隣家から境界線を越えて伸びてきた根は勝手に切ってもよい

・年齢は満年齢で表すよう心がけなければならない

人が死んだときの「享年○」は、数え年

決闘を挑んだり決闘をすることは罪になる

刑法仇討ちのためにあるのではなく、法を犯した者を処罰するためにある

・正当な理由なく封をしてある手紙を開けてはいけない

借金返済の催促を誰でも読める葉書で送ると、個人情報漏洩で訴えられることがある

2008-07-22

http://anond.hatelabo.jp/20080722115834

私は死刑廃止に賛同する。

もっとも、あなたの様に優しくはないし、思慮深くも無いので、フィーリングなのだが。

とりあえず、なぜ殺すのかわからない。

殺人が良いとは思えない。

邪魔だから消すってのも、いかにも安易だ。

仇討ち代行とか見せしめとか言われるが、あまりそういうのは大っぴらにやってほしくない。

殺して無かった事にしたいのか、死んで責任を取った事にしたいのか、そういう、臭いものにフタをする風潮がやだ。

人殺しが許せないのなら殺すのを許すのはおかしい。

人を殺すのはダメ、というのにあまり例外を作ってほしくない。

正当防衛でも、殺さなくて済むなら殺さないほうが良い。

殺す必要が無いのに殺す必要はない。

戦争だから殺しても良いというのは変な話。

だから、人を殺すのはダメ、でよいと思う。

2008-04-26

私は死刑制度には反対。

殺人を、合法的なものと違法なものとに区別することが気持ち悪いから。

私は、もし、愛する人が殺されたら、犯人を殺すと思う。

でも、司法に殺させたくはない。絶対に自分の手を下して殺したい。

仇討ち法案なんかが欲しいわけじゃない。ちゃんとした不法行為として相手を殺したい。

法を犯すような理不尽なことをした相手に対しては、法を犯すような理不尽なやり方で復讐したい。

そういう風に考える人ってあまりいないのかな?

2007-12-01

「何を持って人格者たる資格とするか」についての回答

http://anond.hatelabo.jp/20071201140522

を読んで。

面接すればある程度は分かる。と言う人もいるかもしれないけれども、

実はその人が人格者かどうかについては、何か大きな出来事がその人の身に起こらないとよく分からない部分がある。

老子は、「忠臣というのが注目されるのはその主君が暗愚であるときで、仁や義というものが注目されるのは世の中が乱れているときだ」というような意味のこと(調べていないので文章は正確ではない)を言っていたと思う。

大石内蔵助が「忠臣」として名を残しているのは、主君である浅野内匠頭があのような形で切腹したのを仇討ちしたからであり、近藤勇土方歳三が「義士」として名を残しているのは、徳川慶喜があのような形で大政奉還を行い、新政府軍の恨みが会津藩新選組に向けられることになっても、最後まで「義」を通して戦ったからだ。ということが言える。

歴史に名を残した人が全て人格者だったということではないし、名も無き市井の一人物として過ごした人が、優れた人格者だったということもある。

しかしそこまで大きな出来事ではなくても、その人の言動を見ることによってどれくらいの人格の持ち主かということはおのずから量ることができると思う。

ここから先は私見になるけれども、

1.自分がお金を払う立場になった場合に、店員のことを見下すような言動をとる

2.公共の場・公共の物をわざと散らかしたり、無駄遣いするような行動を取る

3.約束を特に納得できるような理由もなくドタキャンをすることを特に悪いことであるようには思っていない

のどれか一つに当てはまるような場合は、その人には人格に大きな問題を抱えていることが多い。

書いていて少し頭の中身が整理されてきた。

テーブルマナーで、ゲストが手を洗うためのボールの水をうっかり飲んでしまった場合には、自分もそのボールの水を飲むべきだ。というものがあったように記憶している。

人格者」というものは、周囲の人間またはその人の人生を後から眺めた人間が、深く感銘したり快い気分になるような言動をとるような人物ではないか。と思う。

でも、一見「人格者」のように見えているけれども家族の誰かや特定の人物を苛め通していたという場合もあるから、簡単には判断がつかない。

2007-11-08

http://anond.hatelabo.jp/20071108101356

たとえ性犯罪被害者だろうが殺人事件の遺族だろうが、

なんの関係もない他人に酷い言葉を吐いていいわけじゃないだろう。

加害者仇討ちするならまだ同情も得られようけども

幸せそうにしていたからって通り魔になったらそいつもただの加害者だよ。

2007-06-23

死刑って「国があなたに代わっておしおきするから、個人的に仇討ちとかしちゃダメだよ」というコンセプト

違うよ。近代法復讐を全否定している。これは大前提

2007-06-22

anond:20070622174706

なるほど…

後半も含めて面白く読みました。

死刑って「国があなたに代わっておしおきするから、個人的に仇討ちとかしちゃダメだよ」というコンセプトなんでしょうけれども(ここですでに間違ってたりして)、死刑をしない国は国民復讐欲をどう昇華させてるのかしら。

安田弁護士弁護団?)への懲戒請求についての書き込みにもリンクしておこう。→anond:20070622023757

2007-02-19

仇討ちでござるの2

http://anond.hatelabo.jp/20070219194759

殺人犯に対する復讐」って何するの?相手を殺す以外で納得できる?

できないよなぁ・・・。つか同じ事を並列して書いた自分が悪かった。

仇討ち」は相手を殺すことだよね。

で、殺人犯家族復讐してよいのかな?

で、殺人犯家族復讐された家族復讐してよいのかな?

で、(ry

仇討ちの連鎖を止める術はあると思う訳だ。

例えば世界史で皆が習う「ハンムラビ法典」だって、その内容は「目には目を倍返しとか連鎖とか駄目よ。法典に書いてあるとおりにやるからね。」ってな訳で。

江戸時代仇討ち制度だって、お上から仇討ちの免状を貰わなければ単なる私闘になって刑罰の対象になっていた。

今の法体系でハンムラビ法典やら江戸時代仇討ち制度がイケナイっていう根拠って何だろうね?

なんか「フリージア」みたいな話になってきた。

Re: 仇討ちでござる

殺人犯に対する復讐」って何するの?相手を殺す以外で納得できる?

仇討ち」は相手を殺すことだよね。

で、殺人犯家族復讐してよいのかな?

で、殺人犯家族復讐された家族復讐してよいのかな?

で、(ry

仇討ちでござる

そもそも何で「殺人犯に対する復讐」やら「仇討ち」がいけない事なのか?

法学を学んだエロい人、このバルバロイに教えてくれ。

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