はてなキーワード: 正岡子規とは
個人的なことだが、自分は俳句を作るのをちょっとした趣味にしてた
新聞とかに俳句を投稿して、自分の作品が載るのが嬉しかったのだ
だが今はしてない
どうしてかと言うと、大分前に、自分で傑作だ!と思った作品が一つ出来た
自分としてはなかなかの出来なので、すぐには投稿せず、ちょっと一人で眺めていて、一人でニヤニヤしていたのだ
気持ち悪いと思うかもしれないが、とにかくその句を独占して眺めるのがとにかく楽しかったのだ
そんなおり、ある有名の方の句集が出たというので、いつものようにそれをを買って読んでたら、思わず目が止まった
まったく同じではないが、一部の語が同じで使い方も同じ、非常に良く似ていたのである
もちろん、有名な方が私の句をパクったわけではない
そもそも、作った時期だって違うだろうし、有名な方が私の俳句を知る機会なぞまずない
https://ja.wikipedia.org/wiki/正岡子規
俳句の前途より
日本の和歌・俳句の如きは、一首の字音僅(わずか)に二、三十に過ぎざれば、(中略)その数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之(これ)をいはば、和歌(重に短歌をいふ)・俳句は早晩その限りに達して、最早この上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと
子規は、この後、明治で俳句は出尽くし終わるみたいなことを言ってる
私が俳句を作るのをやめたのは、この子規の話を急に思い出してしまったからだった
私が傑作と思って作った例の俳句は、どこかへ投稿すればきっと、パクリと言われるに違いない
そのことをどんな抗弁しても、きっと酷く中傷されるだろう
でもそれが嫌で、俳句を辞めたわけではない
私の中で、俳句と言う芸術が、もう限界なのではないかと思った瞬間、ふっとあれほどあった情熱が冷めてしまった
消えてしまった
アマチュアの私は、簡単に逃げられるが、プロの方はどうなんだろうなと時々思う
まだ新しいものを生み出せるとロマンティックに信じているのか、それとも惰性か
佐野研二郎さんはどう思っているのだろうか
話を聞いてみたいものだ
正岡子規とか石川啄木とか樋口一葉とか、短命な文人が多かったから、せいぜい20歳+30年=50歳程度のイメージだったんだが。
★夏目漱石って、作品を発表していた期間が実はあっという間の短期間だったと聞いて目ウロコ。
初作『吾輩は猫である』を書いたのが37歳、未完作『明暗』を書きながら死んだのが49歳。
わずか12年間も活動で、千円札の表紙に上り詰める文豪の地位を獲得。
★「夏目漱石がわずか12年間の活動で文豪の座まで上り詰めた」ということは、
60歳で定年退職して、『小説家になりたい、という若い頃の夢を果たしたい』というシニアが遅咲きデビューしても、
72歳まで活動すれば文豪になり得る、という夢のある話な訳です。
★夏目漱石クラスの知的リテラシーを持ってる人って、明治時代だと日本で数万人程度だったんだろうが、
つまり「その気になれば、60歳で夏目漱石デビューできる潜在可能性がある人」が、日本では数百万人はいる訳だ
(さすがに明治末期には50歳程度には伸びたとは思うが)
「明治維新当時の20歳より、今の日本の60歳の方が、平均余命は長い」、ということか。
現代人の『60歳定年は、第二の人生の始まり』という比喩は、比喩でもなんでもなく、
★当時は正岡子規のように、文才がありながら早世した文人も多かったからな。
正岡子規とか、もっと長生きしてたら、夏目漱石とは比較にならないくらいの超文豪になってた可能性もあった訳で。
その他、文才あったのに20代で結核で死んで、記録にも残ってない文豪のタマゴも多数なんだろうな
『当時としては珍しく、12年間の活動期間を得られた位に、長生きできたから』かもしれない。
夏目漱石より文才があったのに、結核とか種痘とかコレラとかで死んで、文豪に成り損なった文才も多数いたんだろうな。
★夏目漱石が、40代になってから続々と作品を発表できるようになったのは、彼自身の文才と49歳まで生き延びた生存力のおかげでもあるが、
たとえば新房作品が古人の糟粕嘗めまくりで陳腐である、と正岡子規ばりの批判を展開するとして、
我々の感じる作品の陳腐さ(洗練度合い)のうまい指標はあるか、と考えると、エンディングテーマに
カバー曲を使っているか否かというのは有力な候補に思えるし、ましてエンディングテーマをカラオケ
大会にするとかいうのはそれこそ糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候、と切り捨てることができる。
たとえば「ぱにょデジ」はでじこ本編よりも陳腐さが高い、という判断ができる。
作品のテーマが陳腐、とか、ドラマツルギーが安易である、というのは古今を否、万葉を是とする立場から
すれば問題とはならないのであって、同工異曲といわれても新規に書き起こし意識的に何か固有の著者を
もつ作品からの引用を行っていないことが重要となる。最悪、誰か他人の作品を丸コピーしたとしても
そこに原著者のクレジットが一切なければこれは万葉型の表現ということになる。
マーケティングの結果最終的に選ばれる表現が万葉型になるのか古今型になるのか、というのは
主に対象年齢層と作業(典拠の確認や権利処理等)のコスト、企画者のリスク回避度によって
決まってくる(おっさんにウケる作品すべてが必ずしもおっさんホイホイではないけれども、
リスク回避的な企画者は当然おっさんホイホイを選好する)。ただ、「ゆとりに伝統を教えてやる」と
いうことで意図的に古今型の表現が選択される事例も多い。これはアーカイブの権利者に近いほど
やりたくなる戦略でもある。
いや、とくに結論というのがあるわけではなく。
追記:ええ、一連の「歌よみに与ふる書」をちゃんと読んでいませんが、日本酒の醸造工程の
アナロジーで、現代でいうところの「劣化コピー」に相当する語であることは理解しています。
楽曲の再利用のさらに再利用をしているわけではないので確かにあまり的確な表現ではないのですが。
追記:たとえば『トレインスポッティング』でキルケゴールが言及されている(記憶によれば)
唐突だが、席替えだそうだ。
ゴーフルの缶に入れられたクジを引いた俺は、窓際後方2番目というなかなかよろしいポジションを獲得した!
窓際後方2番目といえばあまり有名ではないかもしれないが知るものぞ知る良席なのである。 春は暖かい日差しが程よく当たってかの極楽浄土が現世に顕現したかのごとくであるし、夏は日差しがキツくなるとはいえ窓際ということもあり涼風にありつける可能性が非常に高いので遥かな尾瀬が近い空だし、秋は秋で授業中に眼が疲れたなら遠くの山の紅葉を見て眼の保養をするとともに日本人的感性を育むことができて正岡子規が開発した俳句用の色紙(正岡子規式色紙)に一句読みたくなるし、冬ともなると暖かい教室の窓から深々と雪が降るのを眼にしてセンチメンタルでアンニュイな気分でメランコリニスタな気分に浸って若干ハイで眠れないのだ。ならば窓際の一番後ろの席でも良いじゃないかという反論をするものも必ずいるだろうが、その考えは甘いダダ甘い高校3年2学期から受験勉強を始める奴並みに甘いと言わざるを得ない。何故ならば一番後ろの席というのは一見教師の眼が届かなさそうなイメージがあるが決してそんなことは無くむしろ逆であり例えば舟を漕いでいたりすると教師というものは目ざとく見つけてくれやがる。そう考えると後ろから2番手3番手というのはまさに忍術で言うところの木陰の大事であり木を隠すには森の中人を隠すには人の中といった具合なのであるからして良席なのだ。こんな良席を手に入れられるとはそろそろ運が俺に向いてきたといって何ら差し支えは無いであろうしこれでハルヒと疎遠になるだろうことは想像に難くなく俺はいつに無く浮かれた調子でハルヒへの別れを告げんとした。さらばーハルヒー、フォーエ
「7番でごわす」
「うむ、涼宮山関の座席は窓側一番奥でごわすな」
こう宣告されたときの俺の表情は一体如何なるものだったのであろうか生憎自分の顔は鏡が無い限り見ることができないので想像するしか手段が無いのであるがそれは例えばブルータスに刺されたカエサルもしくは仮面に謀られた時の育ちのいい坊やはたまた覚醒した戦闘種族の息子に劣勢に立たされた完全体もかくやと思われるものだったのではないか、まあ俺はとりあえず世界の確率法則が酷く薄情にできていることにもう逆に感心しつつそれを支配しているかもしれない超越存在に向かって喧嘩を売りたいというか叩き売らせてくれよーし神とやらちょっとここに来て座りたまえああいややっぱ座らなくていい久々にキレちまった一緒に屋上へ行こうかボコボコにしてやんよ。
「虹が出ないだろがそれじゃ!」
http://anond.hatelabo.jp/20080315152400]
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社
デリダ『グラマトロジーいについて』
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
メルヴィル『白鯨』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
ブランショ『文学空間』
日本文学
樋口一葉『にごりえ』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
志賀直哉『小僧の神様』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
横山利一『機械』
谷崎潤一郎『春琴抄』
川端康成『雪国』
太宰治『斜陽』
大岡昇平『俘虜記』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
坪内逍遥『小説神髄』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
保田與重郎『日本の橋』
吉本隆明『転向論』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ヴァレリー『精神の危機』
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
デリダ『グラマトロジーいについて』
ベイトソン『精神と自然』新思策社
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
サルトル『嘔吐』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
二葉亭四迷『浮雲』
樋口一葉『にごりえ』
島崎藤村『破戒』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
谷崎潤一郎『春琴抄』
大岡昇平『俘虜記』
埴谷雄高『死霊』
安部公房『砂の女』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
花田清輝『復興期の精神』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。