どっちも食べたくない がファイナルアンサー
炊き出しのことをすっかり忘れていたので広場にあわてて駆けつけたときはもう撤収が始まっていた。辺りにはカレーの匂いがただよっている。顔見知りのボランティアに残ってないか聞くとカレーはもう無いと。テーブルを片付けてるひとりに聞くとカレーはないけどご飯はあるよとパックを手渡された。プラスチックのパックにご飯がぎゅうぎゅうにつまっている。タッパーからたくあんを出してぎゅうぎゅうの中に押し込んでくれている。ありがたい。スプーンのかわりに割り箸を2膳つけてくれた。ここはもう終わりだからできれば別の場所で食べてほしいと言われ素直にうなづく。
3月、一旦暖かくなってからの冷え込みは辛い。時折強い風も吹く。雨も降りだした。行きつけの公園のあずまやで食うことにする。あそこなら雨も防げる。
ベンチに腰をおろしそそくさと弁当の輪ゴムを外すとパックがいきおいよく開く。割り箸を取りだしいちめんの白い飯に取りかかる。固い。飯に箸が刺さらない。ここへ来るまでにじゅうぶん冷えてしまっているのだ。無理をして飯を掴もうとすると頼りなげな箸はぷるぷると震えベキリと折れた。怒りと悲しみと情けなさと寒さが襲いかかる。あずまやに雨も吹き込む。しかしそれよりも空腹が勝る。それに、あのボランティアがここまで想定してか渡してくれた2膳めの箸が俺にはあるのだ。
今度は割り箸を割らずに使うことにする。無事なほうの割り箸と合わせて力いっぱい飯に箸を立てる。ギギギと箸を引くとパックを持つ左手が震える。落としては元も子もないからベンチに弁当を置き、パックを左手で押さえ飯の山を切り分けた。6つの飯の塊が出来上がった。こんな俺でもやればできるのだ。
雨はどんどん強くなる。俺が着いたときから公園には人影はない。塊に箸をぶっ刺し食う。無論固いが、噛んでいればそれなりになんとかなる。ひたすら飯を咀嚼する。ひたすら飯を咀嚼する。たくあんの存在が嬉しい。最後の塊を飲み込んで格闘は終わる。言っていなかったいただきますと合わせて心の中でごちそうさまを言う。雨は止まない。熱い茶がほしい。
会社で年齢が20歳くらい上の同性(女)の主婦とおいしいお惣菜の話になった。
そんで「うちの近所にすっごくおいしいメンチカツのお店があるのよ~」と言われたので、食べてみたいですとキャッキャウフフな会話をした。
そしたらその人いい人なので「それじゃ明日持ってきてあげるね」と言われて、お金払いますと言ったけど「そんなのいいのよ」と楽しそうにしてその日は別れた。
わくわくして翌日会社に行ったらその人すごくすまなそうな顔をしてた。
ばつが悪そうな感じだったので理由を尋ねたら「今日あなたに持って行くつもりで朝メンチカツをお弁当に詰めて用意していたら、夫に見られて目の前で食べられた」と言われた。
本当に持って行くつもりで結構こってつめていたのに、ちょっと目を離しすきに弁当の中身を全部食い散らかされたと言っていた。
バナナが無限にあったとすると、無限の半分の無限しか食べられない。
逆に言うと、バナナが4分の1しかない場合は、さっちゃんは8分の1本しかバナナを食べられない。
n×0.5本分つねに食べることを赦されるにすぎないさっちゃんには何らの随意性もない。
これは原曲歌詞がそう描くとおりである。そのうちに遠くへ行ってしまう。
かわいそうだね、さっちゃん。
頭の中に速さの違うベルトコンベアが二つある。
速いほうでは絶えず言葉が流れている。
それは連想ゲームのように繋がっていたり、繋がりがまったく無関係に思える単語だったりする。
一人目の俺はそれを監視していて、何か気になった言葉があれば、それを二つ目のベルトコンベアに乗せる。
実際に俺の中で思考として成り立っているのは、この二つ目のベルトコンベアのほうで
二人目の俺はここに乗っている言葉を吟味して、使えるか使えないかを振り分けている。
そうして使えるほうに入った言葉を拾い上げて、三人目の俺が日本語として成り立つようにアウトプットしている。
こういう感覚、わかる人いない?
好きにしてくれ(したければやれ)、というより、自分らには止めようがないしその資格もないでどうしようもないから精神的安定のために気にしないってだけっしょ。人類の持つ無数の苦しみを、自分の周りの何とかできる問題以外も気にするなんて、よほど自己中心的な視野で全能感に頭が沸いてる奴以外にゃ無理よ