質感は出せない。コストが高くつく難しい加工もできない。優秀なデザイナーを雇うわけにもいかない。
デザインかじった程度の人が関わってくれるだけで御の字ってとこじゃないか
今年も優勝したチームがビールかけに興じてた。
自然な流れを考えると、
↓
↓
この野郎こっちもかけてやる!
↓
って流れだと思うんだよね。
で、ビールかけってのが浮き世の辛さを忘れるぐらい楽しくて楽しくて仕方がなくて、ビールかけがしたいがために優勝するといっても過言ではないくらいビールかけしたいんなら別にいいんだけど、
「優勝しましたからビールかけを行いましょう、それでは皆さん会場へどうぞ。目に入らないように水中メガネもどうぞ。耳などに入らないよう気をつけてください。それではやりましょう」
みたいな話なら何でやってるの?という気がするんだよね。
私には、シュタイナーの人智学は理想主義的すぎる勝手理論、実践手法はオカルトすぎると思いました。
軽くつまむ程度なら良いのかもしれないけど。
友人について言えば、「意識の高いお母さん方」とのマウンティング合戦に苦しそうな時もあったので
つい最近似たようなことあったわ!
知りあってから10年以上、学生時代には数えきれないくらい飲み会、旅行…とウェーイやってた仲だったのに。
結婚しました、半年前に式挙げてました、このあいだ子供生まれましたと、テキストで事後報告のみ。
紅葉だとか、桜だとか、夕焼けだとか、青空だとか、そういう季節のものや自然のものを見て綺麗だと思えないってのは、
心のどこかが疲れてる証拠だと思うんだよね。
考えすぎの癖が抜けてないんじゃ無いかな。
最近ずいぶん安い価格帯のスマートフォンが各メーカーからでてくるようになったが、どれも判で押したようにデザインがださい。
もともと、テルミーホワイといったので僕がホワイといったことにたいし、答えはすなわちテルミーしてくれといった。
こういうことって日常によくあることだと思う。
たとえば、フローリングが汚いなあといった。
それは誰が?僕がだ。
いや、それは誰が、っといったのは誰なんだ。
誰が僕に対し誰がといったのだろう。
僕は、僕がといったのだけど、それは誰に対していってるのだろう。
さて、今まで言ったことはただの掴みだ。
それは僕がおもっていることだ。
危ない。今も危ない。僕が…といった時に100%の僕が今ゆらぎかけた。
しかし、もし100%ぼくでないとしたら、その%は誰のものになるんだろう。
ぼくでないとしたら、僕でない誰かは何になるんだろう。
誰だ。誰なんだ。