はてなキーワード: 校閲とは
あー、なんだい?論文を書きたいって?でも初めて書くから書き方が分からないって?ああ、そりゃ大変だね。自慢じゃないけどおじさんは自分で論文を書けるようになるまで10年かかった。まあ簡単には書けないさ。すぐに出来なくても焦らなくていいよ。ペーパーテストじゃないんだからね。何回書き直したっていいし、どれだけ時間が掛かってもいい。もちろん辞書は使いたい放題だし、ググルスカラで気の利いた表現はすぐ出てくる。間違った表現かどうかも分かる。エキサイト翻訳の精度も随分上がったしね。ちょっとお金出したら業者が校閲してくれるしね。英語なんて高校生レベルで十分さ。問題は研究結果だよ。当たり前の事だけど新奇性が十分無いといけない。でも君は普段から先行研究を十分サーベイしてたよね。そこは大丈夫な筈だ。もし君の研究に今までに無い知見があって、君がそれを永遠の形に残したいと思うのなら、じゃあ論文を書いていいんだよ。論文の書き方には色んな流儀がある、どんな風に書いたっていいんだよ、多分ね。重要なのは読んだ人にメッセージが伝わること、そして標準的なサイエンティストの批判に十分耐えられること、この二点だけだ。後者は色々難しいかな。人によって「標準的」は随分違うしね。物理学会の領域8みたいなdisり合戦に十分耐え、どんなクレーマーにもびくともしないデータの質、精密な議論。そりゃあ、望ましいけど、多くの場合はオーバースペックだよ。年を取ってこだわりたくなったらトライすればいい。最初はデビューすることだ。君の論文の伝えたいこと、メッセージ、が標準的な科学者が納得できるエビデンスが揃ったらどんどん進めばいい。周りの人が「もう論文書けるね」とか言い始めたらそれがシグナルだ。論文を一度書くと、人の論文の読み方も変わってくる。場合によっては査読が回って来たりする。それが論文を書く時に役に立つ。この感覚はやってみないと分からない事が多いと思う。最初から完璧に書こうとせずに、何本も書きながら成長する方が遥かに効率的だよ。ある先生は論文を書けない私を「3本書きましょう、3本書いたらみんな書けるようになりますよ」と励ましてくれたんだけどね、これは金言だと思うよ。じゃあ具体的な話に移るよ。まずタイトルだ。これは出来るだけ短く、しかし君のメッセージを出来るだけ伝わるように選ぶ。この二つを両立させるのは難しい?まずは後者で作って、その後、少しずつ削ればいいんだよ。そして意味が不明になる直前で止める。これで終わりさ。次はアブストラクト。アブストラクトは論文に書いた後に書くって流儀もあるそうだけど、私はアブストラクトが書けないうちは論文を書かない方が良いと思う。だってアブストラクト~君の伝えたいこと、メッセージ、だからね。これが固まっていないと迷子になると思うよ。アブストラクトは全体の設計図、骨格なんだよ。そして次にイントロダクション。イントロダクションと結論は対応していないとダメだからね。結論を意識して、読者に結論を理解出来る必要十分な情報を提供するのがイントロの役割だ。もちろんこの際、先行研究を正当にリファーする必要がある。自分の結果の新奇性を十分に主張するためには自然とそうなると思うけどね。次にエクスペリメンタル。ここはそんなに難しくないかな?そして肝心のリザルツアンドディスカッション。ここは先ずグラフを先に作るほうが良いと思う。君のメッセージを一目で伝えてくれるような分かりやすくて美しい図、それを作るんだ。図の作製は重要だよ。論文を読む時は図だけ先に読めとか良く言うでしょ?ログ-ログ,リニア-ログ,リニア-リニア,色んなプロットを試してもっとも良いのを選ぶんだ。そして図を、君のメッセーが伝えやすいような順番で並べる。レターだったら3つぐらいフルペーパーだったら10を超える事もあるかもね。とにかく色んな順序で並べてみて、君のメッセージを伝えるストーリーを考えるだ。もっとも分かりやすい順番を選べば良い。数学の証明のように順を追って謎を解き明かず方法もあるだろう。最も重要なメッセージを伝える図を最初に示して、それを補強していくやり方もあるだろう。どちらにせよ基本的に英語は一本道だ。日本語みたいに、「なお」「話は変わるが」みたいな唐突に話を変えるような事は殆ど出来ない。そう考えると自ずと解は多くない。ここまで出来たら後は文章化するだけだ。On the other hand, moreover, in contrast みたいな単語で文章をつなげれば良い。これは色んなサイトで表現を紹介しているよね。便利な時代だ。最後に結論。Summaryだとほんとに本文を拾ってくるだけでもいい。最初はこれで十分だと思う。慣れてきたらSummaryとConclusionの違いを意識してみる、とか色々考えればいい。投げやりだって?ごめん、勢いで書き始めたけどもう眠いんだよ。最後に君に是非伝えたいメッセージがある。論文を書くという作業は楽しい物なんだよ。君の研究結果を永遠に、多くの人に伝わる形に結晶化させる作業だからね。早くその楽しさを知って欲しかったのさ。
姉妹店ってことは、他のお店でもやっている
これが真理だと思う。何か間違えてるんだろうか?
姉妹店であれば似たような事を行っている可能性が高いかもしれないが、確実な証拠があるまでは断定することはできないし、してはならないと考えるべき。
それを「真理」とまで言い切って、しかも間違いないと思っている。
という風なことを
「とう風なことを」などという言い方は現在であっても出版社の校閲・校正で朱入れ訂正されるレベル。
http://anond.hatelabo.jp/20110103151807
によればこの表現に疑問を持たない人も最近は少なくないようだが、決して「現代の日本語」の「正解」ではない。
わざわざあげつらって得意げに指摘しているが、「昔はどうだか知らないけど」と、本当の正解を調べる気もない。
ようするにこれを書いた奴は自分の思い込みだけを根拠に他人を断ずることに疑問を持たない、オレ様主義な馬鹿なんですね。
最近こういう人増えてるのかなあ。怖いなあ。
なんか「ツイッター 140文字が世界を変える」という本を読んだんで、ツイッターをやってみた。
とある著名ツイッターユーザーに意見を書いたり、ちょっとエッチなことを書いたら、現実世界で知っている人から「そんなことを書くな」と言われた。
なんなんだろう。つぶやきって本来自由なんじゃないの?
いちいちそこにまで干渉されなくちゃいけないの?
ツイッターに書くことって吟味し、校閲に出してようやく発信できることなの?
コグレマサトさんとか、いしたにまさきさんとか「ツイッター 140文字が世界を変える」という本の
帯に寄稿した佐々木俊尚さんとか。
なんか不自由だね、ツイッターって。
何がいいのか教えてくれないかな。
僕にとってははてな匿名ダイアリーの方が自由な気がするんだ。
ツイッターの可能性なんて閉ざされた気がする。
結局名前が割れている人にとっては
無難なことを書き続けるしかないのかな?
厳正な処分とか書いてるが、結局毎日と同じでまた放置。
朝日新聞社?がまた同じような事やってんじゃんないのーw
いや、増殖?www もはや公害
http://www.asahi.com/national/update/0331/TKY200903310332.html
朝日新聞社内のパソコンからインターネットの掲示板に不適切な内容の書き込みがされていたことが分かった。本社は31日、この文章を書いた社員を特定し、事情を聴いたところ、投稿を認めた。
社員は東京本社編集局の校閲センター員(49)で、掲示板サイト「2ちゃんねる」に断続的に投稿していた。部落差別や精神疾患への差別を助長する内容が含まれていた。3月30日夜、外部から指摘があり本社が調査を開始した。
このセンター員は「他の投稿者と応酬するうちにエスカレートしてしまった。悪いことをしました。釈明の余地はありません」と話している。
◆本社「厳正に処分」
朝日新聞社広報部の話 弊社社員が2ちゃんねるの掲示板にきわめて不適切な書き込みをし、多くの皆さまに不快な思いをさせ、ご迷惑をおかけしたことをおわびします。事実関係をさらに確認した上で、厳正な処分をいたします。
・「小沢さん」を擁護する書込みが激減
・民主党を擁護する書込みが激減
・日教組を擁護する書込みが激減
・マスゴミ擁護の書込みが激減
・低レベルな論争が減り非常に静かになった(N+,ν速,東亜,極東等)
その結論はまったくその通りなんですが、その理由としてこう書かれていました。
この部分は誤解が多いと思うので、編集者の私に説明させてください。
皆さん書籍の出版というとおもに文芸ものを想像なさるせいか、著者が「こんなの書いた/書きたいけどどう」と編集者に提案する、みたいな図式を考えることが多いようです。
しかしそれ以外の多くの本、新書、実用書、解説書のたぐいは、たいてい編集者が「こんな本が求められていて売れるに違いない」とまず企画を立てるところから始まります。(編集プロダクションが企画を立てて、版元=出版社の編集者へ売り込むこともあります)
そしてその内容の原稿を書けそうな人に、「著者になってくれませんか」と依頼をするのです。
「この人がこういうことを書いたら面白い本ができて売れるだろう」という企画もあり、その場合もちろんその本人に執筆を依頼します。
ここで、著者さんが「この部分はこういう章立てがいいと思う」など意見をくださることもあります。そうしたら編集者は著者と話し合って、いちばんよい章立てを考えます。
要は、著者に信用や信頼があるにこしたことはありませんが、それは1冊の本が出るかどうかを左右するファクターとしては小さいという話なのです。
書籍がネットより信頼できる理由として大きいのは、個人的には、本の内容について少なくとも著者と編集者という2人の目が通っているからだと考えています。校正によって文章の質だけでなく、数字が間違っていないかなど多方面からのチェックが入ります。
ほとんどの編集者は、本が出た直後なら「あれが書かれているのは何ページあたり」とか即答できるくらいには、中身を読み込んでいます。
さらに校正さん、校閲さんにチェックをお願いすれば、信頼性はもっと上がります。実際にそうするかは、本の内容と予算と日程の関係でいろいろです。
ともかく、1冊の本にかけられている手間が、ネットの文章より大きく上回っている現状が続く限り、書籍への信頼はまだまだ保たれることでしょう。
最近ちょこちょこ見かける「専門家の著書を読み込まないバカは発言するな」という罵倒に呼び起こされた俺の妄想だ。だからもちろんソースは出せない。問い合わせられてもなにも答えられない。
故小渕氏が半紙を持って記者会見に臨んだ時期の前後数年間、俺はとある非営利法人に勤務していた。まだNPO法人制度が整備される以前のことで、それ自体は自治体の認可と出資を受けた社団法人だ。行政からは初期出資以外の補助金も主に人件費名目でかなり支出されており、俺も名目は非常勤の自治体職員としてその法人に出向していることになっていた(はずだ)。当時は今ほど公務員叩きも行われず、時間外手当こそ出ないものの、業績も成果も無関係にそれなりの月給が社会保障込みで保証され、しかも仕事内容は「バイトでもできる」レベル、有り体に行っておいしい仕事ではあった。(当該自治体が今日破綻の危機にあるのが、俺のせいかどうかは知らね。)
しかしこの社団法人、実態はとある市民団体の外郭団体というか数あるダミーのひとつというか、むしろその市民団体の下僕ってのがもっともふさわしい表現だろう。そんなところへ俺みたいな性格と趣味性向の持ち主がなんで雇われることになったのかについては割愛する。というか迂闊なことを書くと正体を特定されそうだ。
正体を特定されると何がまずいかって、なにしろその市民団体がこれまでやってきた行いが尋常じゃない。なにしろ彼らの意に染まぬ発言をし謝罪と妥協を拒否したとある御仁にいたっては、自宅の周囲を街宣車で数週間にわたって取り囲まれ大音量で彼らの主張を繰り返され、ご子息は彼らの意を受けた教師らにより学校で吊し上げられたそうだ。家族や近隣住民を巻き込んでの実力行使をしでかす連中相手に立ち向かう根性は俺にはない。
ちなみに彼らはその行為を現在に至っても反省していない。法廷で有罪を喰らったこと自体は反省してるようだが、「もっと上手くやれば良かった」という戦術級の反省でしかない。そういや部下の発言を根に持っていびり自殺に追い込んだ上司も、一人や二人じゃ済まなかったっけ。
あと、一番多かったのは、こじつけで組織責任を問うパターンだな。中でも印象に残ってるのは、駅のトイレの落書きを根拠に鉄道会社の人権に関する姿勢を糾弾した事件。(そろそろ何という団体か分かってきた人もいると思うが、もちろんこれは俺の妄想だ。)不特定多数の乗客が利用するトイレの落書きを鉄道会社の責任に帰して、社内研修の予算を確保させやがった。もちろん形式的にはそれが直接市民団体に流れるわけじゃないんだが、そこで生きてくるのが俺が勤めてた法人。研修会の主催も使用テキストの発行元も派遣する講師の所属もその法人で、研修予算のほとんどが法人に入ってくる。そして法人は毎年上納金を市民団体に納めるってからくりだ。
それなりの大手の企業/団体の社員/職員研修となると年間数百万なんですぐだし、そういう成果が数百は存在する。もちろん窓口となるダミー団体も複数あって、結局年間数十??数百億が無税で(おっと、テキスト代の消費税は払ってたっけ。)市民団体に流れ込む。
手口は微妙に異なっても、右翼団体や総会屋のやってることと本質的に大きな違いはない。俺たちノンポリの下っ端は、「えせ○○じゃなく本○○だな、俺たち」とか自嘲してたもんだ。もちろん以下に述べるような構成人員の資質や組織のあり方も、右も左も保守も革新も反動も進歩も、そんなに大きくは変わりはせんだろうと思う。ベクトルの方向は違ってても、その先でやってることは五十歩百歩なんじゃねえの、とは思う。
さてまぁ脱線した。その市民団体の主たる主張はある種の人権擁護なんだが、他の様々な正義と平和と人道を標榜する団体と友好関係にあり、互いにしばしば主催する集会等への動員要請が行われていた。で、そういう要請は基本的には下っ端にしわ寄せが来るようになっている。8月6日のヒロシマを筆頭に、ずいぶんといろんなところの員数合わせに駆り出されたものだ。(従軍慰安婦とか南京事件とか○○の人権を求める市民集会とか××を糾弾する市民の会とか、アベレージで年に5??6件は出席した。もちろん俺の所属する法人orその上部団体が直接主催するもの以外でだ。)業務の一環として出張扱いになった上で交通費も現地行動費も出してくれるんだから、断る理由も特にない。
もちろんこれをもって「沖縄の11万人」がどうこうとか言い出す気はない。俺という異分子が1人紛れ込んだ集会がかつて存在した、というだけのことでしかない。がまぁ必ずしも俺一人が際だって異質だったってわけでもなかった。ある時は集会で眠気をこらえある時はデモで熱射病に用心してるうちに、似たタイプの人と親しくなったりするんだ。熱意なんぞ欠片もないがしがらみと人間関係とその他もろもろに絡め取られて動員されてる人たちと、同病相憐れみ、互いに愚痴りながら、所属団体に関して話し合ったりもする。
で、結局愚痴の行き着くところはいつも似たようなもんで、「人だねぇ」。どこでも運動のトップとか指導者は似たタイプだし、運動に理論的正当性を与えてる学者や研究者ってのもまたどのジャンルでも似たり寄ったり、もちろん下っ端で熱狂してるのも、はたまた利害づくで参加してる人たちも、これまた似たようなもんだ。利害づくってのは一番分かりやすい。運動から甘い汁(主に行政からの個人給付……おっと。)を吸えるなら参加するし、吸えなくなれば離れる。別に一般の勤め人とメンタリティが異なるわけじゃない。俺たち「最初は純粋だが今は冷めちゃった」連中より多少は熱意のあるふりが上手いだけだ。
真面目な下っ端ってのはほとんどが主観的に純粋な正義への熱意に基づいてるだけで、なんということはない。言ってしまえばカルト信者と異なるところはない。頭を叩きつぶすか、個別に一本釣りして脱洗脳を施すか、運良く何かの偶然で組織から離れるか、だ。ちなみに俺は三つ目の「運良く偶然組織を離れ得た」口だが、これまた詳細は秘密。
トップにも二パターンあって、ひとつは純粋な下っ端がそのままのし上がった口。もっともこういうのは大概、「敬して遠ざけられる口」ではある。なにしろ清濁併せ呑むことができないから。で、もちろんそういうのは少数派。残りはもちろん下衆野郎。893の頭目やら汚職議員がゾロゾロ。(特に西日本……)
俺の勤め先だと、理事長は前者のタイプかな。お飾りでお神輿なとっちゃん坊やにして便利な宣伝灯。一番勢力の大きい部門の部長は後者、分かりやすい俗物。昼間は数千人を前に人権尊重を講演し夜はセクハラ大王、セクハラとパワハラの合わせ技を連発しつつ部下の若い女性を片っ端から喰いまくるエロ親父。で、一番タチが悪いのが事務局長かな。表では大学講師の肩書きを背に正義と平和と人道を説きつつ、事務所に戻れば部下を交換可能使い捨て消耗パーツとしていびりぬくことに楽しみを見いだしてるとしか思えん。いやいや、こいつの直属でなかった俺は幸せでしたよ。5年間で3人が潰された。
さて、また話がそれた。ようやく本題に近づいてきたな。残る学者や研究者だが、もちろん運動に正当性やお墨付きを与えてくれる先生方だけが、こういう連中と独立に存在してるわけもない。
俺は上記のような講演・研修のテキストとしての必要もあって、年間二桁単位でISBNナンバー付きの本を作ってきた。もっともほとんどが予算化している企業/団体への割り当てと組織内部の学習用で捌けてしまうんで、一般の書店にはそれほど出回っちゃいなかったが。俺の主たる任務もその一部の校閲・編集だった。
で、そういう出版物の著者が、市民団体と仲の良い学者・研究者の先生方だ。もちろん彼/彼女らの動機は俺は知らん。崇高な真理への欲求に基づく純粋なものかもしれんし、市民団体に利をもたらしそのおこぼれをもらうためかもしれん。書いて出版される内容は学術的に妥当なのかもしれんしデマゴーグなのかもしれん。読んだらためになるのかもしれんし洗脳されるのかもしれん。
ただしその校閲・編集をわずかなりとも担当した個人の感想として、「こんなもん出版して金取っていいのかよ」といいたくなる代物がそれなりの割合で含まれてたことは確かだ。上記のような市民団体幹部との対談をテープ起こしして「てにおは」を整えただけとか、(整えたのも俺だ。)出典とか引用元とかの調査を全部編集担当の俺に丸投げされて、インターネットの普及してないあの当時に泣きながら縮刷版とか復刻資料集(もちろん、本物の原典にあたるスキルは担当者たる俺にはない。そのことは学者先生も承知の上だ。)をひっくり返しまくり、どうしても見つからないものは必死で出典に対するツッコミが入らないように原稿を書き換えたとか。もちろん「こんなんやっちゃっていいんですか」と上司にお伺いをたて、OKをもらった上で印刷所に渡し、ゲラは学者先生のチェックも受けましたがね。
要は俺の脳内妄想レベル+αの代物が、ISBNナンバーがついて書店でもわずかながら売られて運動内部では「正典」扱いされる「歴史書」になっちまった。しかも対立団体からですら、その団体との分裂の前後以前の記述については特に誤りとまではされてないし、発行側と対立団体側の双方ともに大枠を認めてる代物を批判する学者さんも、少なくとも俺の目には入ったことはなかった。つまり外形的には「専門家間でもほぼコンセンサスのとれてる通説」になっちゃったんだ。
うっかりそんなものを世に出す手助けをしちまったショックが強すぎてな、今更「正義と平和と人道に関する歴史の通説」なんてもんを読む気にゃならんのだわ。いまだに書評やらその団体の内部評価を見ると、俺のでっち上げた代物が参考資料扱いされててな、正直、おぞましくてかなわんのだよ。とまあ、これが「俺はいかにして『まず学者先生の御本を読め』という言説にアレルギーを抱くようになったか」という妄想なわけだ。
もう前の人たちに散々言われてるみたいだけど、それは彼個人じゃなくて組織がダメだよ。
っていうか一般企業の人の中に、誤字脱字に関する基本的な認識が間違ってる人がいる気がする。
以下の3つは常識にしておいていい。
つまり作った文書を誰にもチェックさせず、どこかに出そうなんて狂気の沙汰だし(誤字っててもいいならOK)
1段目、2段目のチェックで誤字が見つかったら、それは幸運だったと感謝して、ただ粛々と修正すべきなんだよ。
人はどうしようもなくミスをする。それをできるだけ小さくするのが組織であり
誤字の率とコストをどこで折り合いつけるのか判断するが普通の企業なんじゃねーの。
校正記号の統一なんて飾りです! 偉い人にはそれがわからんのです!
痛い目にあうのが常ですなぁ。ftpに関しても門外漢。社長はそれなりにコミュニケーションには加担しているのかぁ。ヘッダーの「適度につながるコミュニティ」の「適度」の形容具合が的を得てますね。
ベルクの推薦版追記↓
私見としては、はてなには言語スペシャリストとしての校閲担当が必要だ、と常々感じてる。グローバリゼーションの兆候にのってアメリカ進出する一方で、日本人としての本来備わっているべき日本語能力の助成にも、合わせて力を加えておかなければ、グローバリゼーションが危機を迎えた際に、振り戻しとしての右傾化の流れに乗り遅れる可能性がある。