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はてなキーワード: 合唱とは

2008-09-25

いまさらiPhone

iPhoneが不評な理由を挙げるとき、自分が個人的に一番理解できないのが「メールのプッシュ受信が貧弱」という項目だ。

そもそもメールというかインターネットって「生のままで流されるデーターは情報の正確性と速度は一切保証されない通信方法」なわけで、そのインターネット回線を平分で流れるメールなんて、最初から即時性求めてちゃだめなんじゃない?

実際自分は即時性を求める連絡事項は絶対にメールだけでは済まさないし、相手にもそれを求める。

仕事だとそれはさらに徹底するので、しがな自営業やってると短期的に見てビジネス的に不利になる場面も少なくはないが、

メールという遅延に全く誰も責任が取れないメディアにこちらが即時対応を義務づけられると、それが積もり積もるともしものときにもっと手痛いダメージをこちらが一方的に被ることになるので、こちらに即時対応を求められるときは必ず電話などのリアルタイムで連絡可能なメディアを通じて、その補助としてメールを利用している。

そうするとメールはプッシュである必要は全くない。IMAPであれPOPであれこちらが確認したいときにサーバー接続して都度必要な対応をすればいい。即時対応が求められるなら、その前に必ず電話なり何なりの連絡が来ているはずだから。

これが携帯電話だけしか持っていない層になるとまた話が違ってくるんだろう。

携帯電話メールは、古くはポケベル方式で文字のやり取りを可能にしたPHSデジタルツーカーカシオモデルだったり、確かSMS方式っぽい方法で文字データやりとりしたJSkyメールあたりが発端になってるはずなので、

回線業者に囲い込まれたインターネットしか体験していないユーザーにはメールはプッシュが当たり前なんだろうし、

実際その層で多いのはいつも誰かに存在が確認されていないと自分が消えそうな子供思春期の年代が大半だろうとは思う。

で、iPhoneなんだけど、これはPCを持ってるのが前提なわけで

携帯電話しか持っていない層よりもはるかに少ない、PCで一通りのことは出来る上に自分なりの使い方を持っていて、さらにそれが多少なりとも外に持ち歩ければ、

という現在まだ非常に少ない層にジャストフィットした商品である以上、そこを理解していないと重大な過ちを犯す。

そこに輪を掛けて、スマートフォンというものに過剰な期待を抱いて勝手に舞い上がってた、PDAスマートフォン慣れしてなかった層まで加わって、「がっかりした」の大合唱

iPod touchのときも2chニュースサイトで舞い上がって鼻息荒く「公衆無線LANと組み合わせてライフハック!」を夢見ていた人たちが居たが、その人達の提供するライフスタイルが常に回線ありきでPDA慣れしてないと感じた。

今回iPhone日本携帯市場を揺るがすとか鼻息荒かった人もいて、それを見るたびいつも「あーこの人PDAスマートフォン慣れしてねーなー」と苦々しく思ったものだが、

PDAはそもそも職場や自宅のPCと「同期」させて外にデータを持ち出すと便利になる一部の層のためのツールであって、スマートフォンはそこに外でも回線接続の可能性が増えたに過ぎない。中には外での回線接続に音声通話も可能な物もあって、電話の機能もつけるけどiPhoneはそのうちのひとつにしかない。

思春期あたりの子供が下すiPhoneへの評価はまだ理解できるが、出発点を見誤って息巻いてるPDA慣れしていない自称ライフハッカー達の見当違いな評価はウンザリだ。

いろいろ言いたいことはあるんだけど、とりあえず「iPhoneメール機能が貧弱だ」という意見には全く同意できない。

プッシュが貧弱なのは、携帯PCに限らずメールでの即時性は思春期を過ぎればそんなに対した問題じゃないし、むしろ即時性を求められるほど迷惑になってくるし、

では試しにi-modeGmailを読もうとしたら何回クリックしないといけないのか、そもそもIMAPPOPアクセスしようと思うと自分でサーバー立てたりJAVAアプリ作ったりしないと何も出来ないのに対して(どこか他人のサーバーを一度介せばいいんであれば携帯電話でもIMAPPOP読めるサービスアプリあるけどね)、

それに対してアカウントさえ設定すれば、常にアクセスしたらメールが簡単に読めるこの端末のどこがメール機能が弱いのか、全く分からない。

2008-09-13

weezerさん時短ですか?

個人的にはweezerライブは4回目なのですが、

今回の9/12 zepp tokyoでのライブが一番きつかった気がします。

何がきついって演奏時間の短さがです。

開園が19:00で20:10にはもう終了のアナウンスがながれてましたから。

実質、演奏時間は1時間もなかったのでは?

アンコールもなし。僕の好きな「Surf Wax America」もなし。

なんだか少し物足りない感じがしました。

僕の感覚が十分おっさんになってしまっているとは思うのですが、

ライブってこんなもんでしたかね?

最初のリヴァースの日本語交じりの余興?も、僕にとっては微妙なものでした。

みんなで「ぞうさん」を合唱しだすし…。

2008-08-28

お前ら、ストリートビューの提供元が朝日新聞でも「問題なし」って言うの?

Googleからではなく、まったく同じサービス朝日新聞から提供されるんなら、今頃上へ下への大騒ぎになってるんじゃないの?

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0808/28/news032.html

上の記事では「賛成が半数以上」とかなってるけど、これがPresented by 朝日新聞なら「ほぼ全員が反対」で、増田なんか「朝日死ね氏ねじゃなくて死ね。」の大合唱だろうし、某高木浩光先生なんかごはん12杯くらいいっちゃってるんじゃないだろうか。というか、Location Viewに苦情が来ないのは「日本的気配り」とかじゃなくて、「誰もそんなもん知らんし」が真相だろうが。何を言ってるんだ、この自意識過剰野郎!全員、死ね

2008-08-18

ボール乞食

ドーム球場野球(二軍)の試合を見に行った。途中で気づいたんだけど、攻守交代の時に「ボールくださーい」って叫んでいるガキどもがフェンス際に群れているのね。最初は一塁側のほうにたくさんいたんだけど、試合が進むにつれ三塁側にもその手のガキ(+大人)が群れてきてウザいったらありゃあしない。ボール回し終わった時とかにそうやって声かけても別にいいんだけど、だんだん酷くなってきて、選手フライ捕って1アウトになっただけで「ボールくださーい!」の大合唱。気持ちはわかるけどあのボール乞食っぷりは何なんだ。つうかフェンスにへばりついててもそこにボールはまず飛んでこないだろ。

飛んできたボールへの群がりっぷりもハタで見ているぶんにはいいんだけど、あれに巻き込まれるのは勘弁だなあと思った。実際他の客をまきこむ危ないシーンも見たし。なんかオバチャンがキレてたよ。そりゃあキレるわな。

んで、ボールを捕れなかったガキどもの、捕った奴に向ける恨みがましい視線とかブツブツ言う恨み言(なんであんなところに投げるのか=自分のほうに投げないのか)がなかなか面白かった。自分も昔はあんんな感じだったなあというどんよりした気分にも。

以上、久々(というか十何年ぶりか)の生野球観戦でした。

2008-07-29

実録小説加藤智大「僕を救ってくれなかった宇野常寛へ」

僕は押井守の「攻殻機動隊」や「パトレイバー」、大友克洋の「アキラ」や機動戦士ガンダムシリーズが好きなんだ。どれも色んなことを考えさせてくれるいいアニメたちさ。それと、あんまり中身のないアニメは好きじゃなくてね。最近ネット上でやたらとい盛り上がってる萌えアニメみたいなやつさ。あんなののどこがいいっていうだい。キモいオタクたちがハァハァするためにデザインされた目がやたらデカくて、髪の毛の色がパステルカラー美少女が乱舞してるあれさ。中身がなくて反吐が出るね。あんなゴミみたいなアニメがやってるから、いまだにアニメ一般人からキモいものだって認識がなくならないんだよ。ほんと死ね萌えオタ、ファッキン萌えオタ。

そんなゴミのような萌えアニメが氾濫し始めたのはいつのころからだろう。記憶が確かなら僕が中学生だったときあたりから繁栄していたはずだ。僕はこのころから萌えアニメ軽蔑していた。あんな中身のないアニメを楽しんでいる奴等は馬鹿だ。そう思っていた。たしかゲームでも「シスタープリンセス」だの「Kanon」だの、妹が12人いて好かれるだの、目のでかい女の子が頭の悪いしゃべり方するようなのがネット界隈じゃ人気らしくて、こんなのを支持してるやつらはよっぽど頭の中がおかしい連中なんだと思ったね。

ちなみに僕が好きだったゲームテイルズシリーズだね。アクションRPGのなかでも格別の面白さだな。だからこそ、最近シリーズの、変に萌えオタクに媚びたようなコンセプトにはがっかりしたね。

まあいい、こんなゴミクズのために貴重な紙を無駄にすることはないんだ。僕は萌えアニメを見てるような奴らはみんな女の子から相手にされていない恨みを美少女キャラにぶつけてるんだ、そう思った。でもその僕の考えは高校で否定されることになったんだ。

僕が入ったのは県内でもそれなりのレベルの共学校。僕は青雲の志を抱いて高校へ行った。そして、僕はここでなら彼女んもできると思っていた。

気づいた時には僕の高校ではギャルゲー萌えアニメ萌えマンガが大流行していた。発端は何だったろう。オタク男子たちがそんな代物を恥ずかしげもなく教室に持ってきて、それを女子たちが興味深げに眺めている。たしか最初はそんな感じだったはずだ。

僕はそれを不快に思っていた。こんなクズがいるから、日本の誇りうるべき文化たるアニメマンガが誤解されるんだよと。こんな屑萌えアニメなんかよりもすばらしい作品がこの世界にはたくさんあるんだよ、と。

しかし、彼ら萌えオタクどもが布教したのだろうか。女子も含めたクラス中の人たちが、そういった萌えアニメギャルゲーを楽しむようになっていたんだ!そして、給食時間にはギャルゲーだかの主題歌らしい甘ったるい声の女の歌が流れたと思ったら、クラス中一斉に歓声が流れた。僕は内心こいつら全員死ねと思っていた。

気づいたときに萌えアニメブームに乗らなかったのは僕だけになっていた。僕は誰ともしゃべらなくなっていた。クラス萌えオタク男子たちは彼女を作ってデートをしているという情報が毎日耳に入ってきたが、僕は全部ウソに決まっていると言い聞かせた。


受験時代がやってきた。僕の目指すのは京都大学、最低でも旧帝大クラスには入りたいと思っていた。

そんな時、僕の高校ではもえたんとかいう英単語帳が大ブームだった。表紙には萌えオタクどもが喜びそうな目だけでかい萌えキャラが踊り、内容も僕は妹をギュッと抱きしめただのの、萌えオタクの醜い妄想を並べたような代物でヘドがでそうだったね。僕は心底軽蔑した。こんなゴミ単語帳使ってるやつなんてどこの大学にも行けるわけがない、そう思った。

しかし、もえたんを使っている連中は、もえたん発売と同時に英語の成績がぐんぐんと伸びていったんだ。

それだけじゃない。もえたんは男だけじゃなく女の子たちにも愛用されていた。キャラがかわいいんだそうな。絶対に間違ってるよ!

僕はもえたんなんて絶対使わなかった。あんなもの使うぐらいなら死んだほうがましだと思った。

そして、もえたんを使っていた連中のほとんどが東大京大早稲田慶応といったトップクラス大学合格していた。あとで合格体験記を見たら、もえたんのおかげで英語の成績が伸びたと言っている奴がいっぱいいたとか。

そして・・・僕は受験に失敗した。そして浪人したんだ。

2年目の受験、そこでも僕はセンター試験で信じられないような悪い成績だった。これではどんな大学も入れやしない。もうこれ以上予備校通いをできるような経済状況でもない。だから、今の僕でも入れるような場所、短大しかなかった。最後の最後で僕は短大合格した。

短大での2年間もまた、高校のころと変わらない、惨めな生活だった。ここでも、萌えオタクたちが大手を振っていた。文化祭では萌えアニメ主題歌を歌ったバンドが大人気となり、あとで聞いた話では彼らはライブの後、ファンの女の子たちを全部喰ったらしい。

そして、僕は就職活動にも失敗した。萌えオタクたちはみんな成功していたというのに!

就活に失敗した僕は派遣社員として働くことになった。

派遣先で僕は散々苛め抜かれた。きっかけは僕が、とある萌えアニメについて社員がしゃべってるときに話を振られて「そんな内容のないアニメなんて見る価値あるません!」と言ったところ、連中逆鱗に触れたらしい。それからは靴に汚物を入れられたり、つなぎを隠されたり、落書きをされたりした。

でも、この苛めはある種僕に誇らしい気持も与えた。そうだ、萌えアニメのファンはこんな残忍なことを平気で出来る人間の屑なんだと。僕のような中味あるアニメを見て育った人間はこんな他人を傷つけるようなことはしないんだと。


それでも僕は度重なるいじめに疲弊していた。そんなとき、僕はインターネットであるサイトを見つけたんだ。それは「第二次惑星開発委員会

僕はこのサイトを読んで目から鱗が出たね。こんなところに僕と同じ考えを持っていた人がいたなんて!

特に素晴らしかったのは最近萌えオタクの間でブームらしい涼宮ハルヒの憂鬱とかいうアニメの項目で

>この作品が好きなオタク男子たちも、「酸っぱい葡萄」状態にあるんですよ。 本当は

>「等身大青春」に憧れているんです。でも、残酷な話だけどおそらくはスペック上の

>問題で、それが手に入らない。でも、そんな悔しさを素直に認めたくないんですね

と書かれていたことだ。やっぱり萌えオタクはもてない恨みを美少女キャラにぶつけていたんだ!でも実際にはモテるはずがない!ざまあみろ!どうせ職場連中モテないからハルヒとかに入れ込んでるんだろ!その恨みが爆発して僕のような人間いじめるんだ。萌えオタク人間の屑だ!

そして、一緒に旧惑星開発委員会も見た、そこは作品レビューが中心のページだったけれど、どれもこれも僕の考えとおんなじだった。Kanon受け手も送り手も救いようのない作品だとかね。

それに主催善良な市民さん(宇野常寛)の高校時代の話も面白かった。確かにこういう奴らは僕の高校にもいたと納得した。ただ、ちがっていたのは僕の高校ではギャルゲーマーだった連中にはみんな彼女がいたということだが、このことを思い出すと、市民さんの話が楽しめなくなるので思い出さないことにした。

そして僕は善良な市民さんの言葉に救われた気がした。勇気づけられた。

そうだ、僕はまちがってなんていない。間違っているのは萌えアニメ好きな連中のほうなんだと。やはり中身のあるアニメが一番なんだ・・・。



僕はこんな最低の萌えアニメ信者どもがたむろする職場にはさっさと見切りをつけて、また別の場所へと行こうとした。そして、僕は惑星開発委員会を読み倒し、次の職場では華々しくデビューしてやろうと思ったのだ。

僕は大きな希望をもって次の職場へと向かった。

次の職場じゃまたしても内容のないらき☆すたとかいう萌えアニメが大ブームだった。でも僕はこれまでの僕じゃない。惑星開発委員会の力を得たんだ。そして僕はその時やっていたアニメの中で最も大好きだった電脳コイルを薦めたんだ。電脳コイルは素晴らしい。これこそ僕がこれまで待ち望んでいたアニメだといっていい。

「そんなものよりも電脳コイルみようぜ!すごい面白いんだぜ」

僕は声を大きくして叫んだ。はっきりいうがらき☆すたなんていうくだらない萌アニメよりも電脳コイルは数百番倍面白いと断言できる。だからみんなも早く見て目を覚ますんだ。

電脳コイルぅ??知らないなぁ。」

「ああ、ちょっとだけ聞いたがある。小学校女の子が見るようなアニメだよね」

「えー加藤君って、小学校の女子が見るようなアニメ見て楽しんでるの?幼稚ぃ??、っていうかロリコン?」

「違う!確かに小学生女の子向け作品だけど、大人もちゃんと楽しめるんだよぉ!」

「必死なところ図星のようだねぇ」

「違うんだ!一度見てみろよ、面白いから!」

「そもそも加藤君みたいな人間が面白がってるアニメってきっと気持ち悪いマニアックアニメだよねぇ」

「ふざけるな!それなららき☆すたなんて萌えアニメのほうが気持ち悪いわ!」

・・・この通り僕のデビューは無残に失敗した。そのあともらき☆すたブームはとどまることを知らなかった。それに、みんなの話題はメイド喫茶とかアキバ系の文化の話ばかりだった。

カラオケで、らき☆すたOPであるもってけ!セーラー服とかいう気持ち悪い歌をみんなで合唱しているのにも入らなかった。そして僕は電脳コイルOP曲を歌ったが「キモい」と言われた。


もう僕は限界だった。僕が間違ってるはずがない。惑星開発委員会だってそう言っているはずだ。同時に僕は出会い系にはまっていた。彼女は僕の話をやさしく聴いてくれていた。僕が職場萌えオタクどもへの悪口にも「うんうん」とうなづいてくれていた。彼女こそが僕の思い描いていた理想の人だと思っていた。

そのころ、惑星開発委員会主催宇野常寛さんがメールマガジンコラム発表していた.その名も“友達からはじめよう”

そうだ僕もそうやって彼女と新しい生活を始めよう。

僕は彼女メールで呼び寄せた。彼女がやってきた。

「友達からはじめよう!」

僕は彼女に満面の笑顔を向けていった。

キモっ」

彼女は僕の顔を見るなりそう吐き捨てた。

「ずっと思ってたけど、あんたキモいのよ、何?アキバ系キモいって?あんたのほうがよっぽどキモいわよ。金をもらってたから反論しなかったけどね、アキバにはあんたなんかより百万倍いい男がたくさんいるわよ!私ね、アキバハルヒダンスしてた男と寝たことあるけどね、本当にすごいテクニックだったんだから。何度も逝かされたわ!あんたなんかには無理よ!メイド喫茶で働いている女の子たちも必死で仕事してるんだからね!あんたなんかに悪口言われる筋合いないわよ!それに萌えアニメのほうがあんたが楽しんでるらしい電脳コイルだのコードギアスだのよりも面白いし人気なの知らないの?もう近寄らないでくれる?」彼女は一気にまくしたてると去って行った。

僕は何もできなかった。でも、心の奥底で激しい憎悪の念が湧きあがってくるのを感じていた。秋葉原にいるような萌えオタクがいるからこんなことになるんだ。アキバにいる萌えオタクどもを皆殺しにしてやる。そうすれば世界は元に戻るんだ。僕のようなちゃんとしたアニメが好きな人間が心地よく生きられる世界ができるんだ。そのためにも地上にいる萌えオタクどもは抹殺しなければならない。手始めに、萌えオタクどもの聖地秋葉原を崩壊させてやる。これで萌えオタクどもも終わりだ・・・。そう思うと、僕はコンビニダガーナイフを買いに家を出た・・・。


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この手記を残したのは何を隠そう、秋葉原路上連続殺人事件の容疑者加藤智大である。加藤はこの手記を書き終えた後に、秋葉原に向かったのである

加藤は「日曜日の夕方に秋葉原にいるということは奴らはコードギアスを見ていないということ、こいつらのせいでギアスが低視聴率なんだ。こんな奴らは殺してしまっても構わない」と供述し、また「もし、1年前だったら、電脳コイルガンダム00がやってる土曜日の夕方に犯行を決行していた」とも語っている。

しかし、これらの証言と手記は、今回の事件は萌えオタクの犯行にしたくてやまないマスゴミどもの手によって闇に葬り去られている。

また、このような犯罪者を生み出しながらも、のうのうとした顔でデビュー評論「ゼロ年代の想像力」を刊行した宇野常寛インタビューにてさも自分は関係ないといわんばかりのコメントを残している。

http://anond.hatelabo.jp/20080729030358

俺は人生初期における団体活動のほとんどがテニスだったもんでわからんけど、

合唱をやっていた姉によると、

文科系の団内のもめごとというか人間関係の困ったことは非常に多いと、

そして怖い・うっおとしいのは女であると、

聞いたんだけどどうなんでしょ。

大学テニスサークルは、立場はともかくテニスをするという点では「男=ガチ」「女=まあ適当」だったので文科系とは都合が違うと思われる。)

それにしても羨ましす。

2008-07-27

http://anond.hatelabo.jp/20080727164502

確かに今後は被害者遺族が「犯人死刑にならなければ自分が殺す」って発言はやりづらくなるだろうな。

直接的にそういう発言をするのではなく、如何に「自分は悲惨な被害者」をアピールして「世間」という責任の実態の無いものに「殺せ!殺せ!」と大合唱してもらうか、がカギになるんじゃないか。

2008-07-19

http://anond.hatelabo.jp/20080719212504

ナナナナ世代のおれだけど、平成米騒動のときに米屋上がりのコンビニバイトしてたら客がわんさと押し寄せてきて米をよこせよこせの大合唱だったときは(ごめん少しだけ大げさに書いた)歴史を感じた。

あとバブル崩壊直後(92年くらい)に親父の会社が傾いて、「これからは今までより生活が苦しくなるかも知れん」て涙目で語られた時も歴史を感じた。バブル時代にはテレビCMやってたような会社で、親父はそこの役員だったのに。

2008-07-15

わが子を自分探し病から守る 前編

あなたも私も自分探し

あなたに漠然とした質問をひとつします。

深く考えずにとりあえず答えてみてください。

「答えはどこにあると思いますか?」

本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。

でも、答えてください。

反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。

何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。

答えましたか?

これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。

「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。

このテストは、速水健朗自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。

自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。

でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。

娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。

「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。

しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。

では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。

そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。

現在子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。

あいのり」に漂う時代の空気

自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探し社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。

我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。

私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。

私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。

ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。

高身長高学歴高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。

就職恋愛自分探しの「あいのり」世代

私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せ社会人になれると刷り込まれ続けてきました。

というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。

自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。

常に本当の自分とやらを見つめ続け、

「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。

ファンタジーのつもりだった「個性重視教育

問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探しキーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。

罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。

その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。

(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育

をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、

「個性重視教育

になってしまったのです。

ファンタジー現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。

だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉キャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。

相当に丁寧な言葉キャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。

議論を台無しにする認識のずれ

このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。

50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、

へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。

問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。

だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。

自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。

たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。

しかし、まさに「ブーム」でした。

ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。

自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。

しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。

自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。

そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。

404 Blog Not Found

「探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない」

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html

Baldanders.info

「『自分探しが止まらない』を眺める」

http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml

どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。

適応しすぎた私と背中を向け続けた妻

自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。

妻のおかげです。

私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。

私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。

あくまで事実を書いただけですw

より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。

キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。

要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。

就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。

一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。

なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。

要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教憂鬱で仕方なかったとのこと。

相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。

まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。

私と妻の価値観のぶつかり合い

実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。

私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

「俺には輝かしい学歴があるからね。」

「あなたの大学卒業生はみんな幸せになれるの?」

「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。

だけど、俺は違うよ。就きたい職業イメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」

「あなたの希望通りの仕事に就けたら、私を幸せに出来るの?」

仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」

「本当に?」

「たぶん…。」

「私を幸せに出来るの?」

「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」

真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。

私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。

輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。

三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップステップジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。

走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。

更に言えば、ホップステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史教科書ではむしろ多数派です。

何はともあれ跳ばなきゃ話にならない

そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界内定をもらいました。

しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。

跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。

その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。

三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。

内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。

そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。

「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。

だって、就職留年して別の会社内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」

彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。

そして、私は無事に大学卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。

助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。

たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。

足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。

だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。

でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。

「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。

ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。

でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

「誰にも負けない何か」を求めたくなる理由

「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。

閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。

でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。

私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。

学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。

大規模リストラニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。

そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。

かといって官僚も、天下りありきの賃金構造モチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。

そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。

確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。

でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。

だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」

「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」

「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」

「ある!…はず。」

「食べていけるの?」

「…いけると思う。」

子どもの学費もあるんだよ。」

「いける…ん…じゃないかな…」

「厳しいんじゃない?」

「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」

それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。

そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。

というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通人生以上の修羅の道です。

要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。

でも、なにか確かなものが欲しい!

そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。

どうして妻は私にとってかけがえがないのか

私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。

私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。

そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。

「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」

妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。

一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。

今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。

「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。

一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw

もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。

自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。

そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。

結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。

不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。

答えはどこにあるのか?

私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。

そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。

かといって、「キミとボクの関係世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。

そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。

「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」

という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。

追記 わが子を自分探し病から守る 後編へ

後編へのリンクを忘れていました。

増田なもので、すみません。

わが子を自分探し病から守る 後編

http://anond.hatelabo.jp/20080715002502

2008-07-10

高齢の現役にーと(学生)だけど、2兆円

http://anond.hatelabo.jp/20080710001202

2兆円?少なくない?

俺はみんなにくばる。60億人に平等に配る。350円位?世界中のみんなが吉牛食べられるよ!

それか、会った人に毎日配る。俺に挨拶しにきたら千円、一日一回限定、みたいな。

でもたぶん日本だけだと地元テレビに取り上げられて終わりだろうな。

だからもちろん、世界を廻るよ。

成田出発してインドに降り立ったらナマステーの大合唱。おれもナマステーナマステー言いながら歩くうちに秘書がどんどん千円入りの封筒を配る。空港からホテルに着くまでに2000人は下らないだろうな。

翌日から用意してた自転車で各地を廻るの。うわさを聞いた群集がどんどん俺についてくるの。俺のちゃりんこの後に何万のインド人がドドドドドって砂埃上げながらついてくるの。レグールの黒い砂埃が俺のうしろで舞うわけ。それで、行く村々でみんなが首を長くして待ってるのな。村人の好意で寝床も用意してくれるんだけど、夜中の0時をまわった直後に挨拶に来る連中が列を作ってるからおれなかなか寝れないのな。またかよっ、とか眠くて機嫌悪くなってるけど、そもそも言い出しっぺ俺な。

その頃にはロイター世界中にこのニュース配信してて話題騒然なわけ。で、南インドまで行ったらおもむろに言うの。「陸路でアフリカ行こーかな」ってさ。

インド人動揺するの。やっぱりインド人はびっくりするの。もっとびっくりしてるのがパキスタンとかの人たち。まじで?やべーよ、まじであの変なヤパン人くるわけ?おとーさん頑張っちゃうぞーみたいな。

で、俺はそのまま自転車パキスタンに入国するの。国境にインド人が集まってるのな、インドだから半端ない人数で、80万人くらい。でパキスタン側にも5万人くらい集まってるの、国境が混乱して

やばい、時間だ。途中だけど、そろそろ逝かないと。夢語るうちに終わることもあるよ。

2008-06-26

男ってなんで「どうせイケメン選ぶんだろ、女なんて幻滅した、氏ね」とか言う割に、その一方で女に「男って彼女よりセフレがいいとかセックスだけできりゃいいとか女なんて肉便器とかなんでそういうことばっか言うの?」って言われると開き直って「は?男はそういうもんだし。受け入れろよ。夢見てんな」とか言うの?それだったら女にも夢見るなよ、現実の女受け入れろよって話じゃない?

男って平気でそういうダブルスタンダードかます人多いよね。自己中っていうか。なんでそこまで呆れるほど自己中心的に生きられるんだろうって近頃驚く。罪悪感とか良心のかけらもないのかな?

それと普段は平気で「女って○○」って一くくりにするくせに、いざ女に「男って○○」って言われると「男が全てそうとか思うな」とか言ってくる。でも「女って○○」っていってる男にはそういう批判はほとんどこない。きてもそれは女が言ってるだけ。でも「男って○○」って言うのには男も女も「男が全てそうとかいうな」って言ってくるし。

大体肉便器なんて言葉普通に言えちゃう時点でどうなんだろ、って感じ。冗談でも引く。

都合悪いものはなんでもかんでもスイーツスイーツ

携帯電話の充電器についてちょっとでも女が何か言おうものならスイーツ氏ねの大合唱

でも同人取締りとかアニメについては自分の権利だけを守ろうと「権利者氏ね!」の大合唱

一体どこまで自分勝手なのか。

2008-06-19

re:エコブームという無駄遣い

どうもエコ増田です。

http://iiaoki.jugem.jp/?eid=2162

そこで環境省は4年前に港区温暖化啓蒙する科学館「ストップおんだん館」を開設した。これを運営する財団法人日本環境協会は年間7億円もの補助金を受けているが、ここを訪問する来場者は1日に50名程度という少なさという。

えーと、まず環境協会の仕事はおんだん館の運営だけではありませんが

おんだん館に人が入っていないから無駄使いですか。なるほど。

すべて環境庁天下り組織として設営したもので、環境を出しにした税金無駄遣い以外の何物でもない。

天下り組織として設営したというのは何ソースですか?

日本国中でエコの大合唱であるが、何もしない方がよほどエコ貢献するような気がする。

気がする?気のせいです。(「何もしない」が何にかかるのかにもよりますけど)

確かに利権もあるだろうし、政治絡みもある。

テレビで大合唱も気持ち悪いのは同意です。

しかし、そこへの感情的な反発心である程度の立場がある人が

ソースのない適当物言いをするのは非常に無責任であると思います。

2008-06-03

トラバを受け付けないとかコメント欄を閉じていると、それブログじゃなーいとか言われていたときもありました。

炎上したときにコメント欄を閉じると、もう卑怯者の大合唱

そんなことを言っていた人が今どうなっているのかなと思って調べてみると、

最も新しいもので1ヶ月前、その前となると半年前、もう一つ前になると1年弱にまで遡る。

首を突っ込みたい時だけ突っ込んで、軽く前言を撤回する人をみると、

なかなか難しいものだと思う。もう誰もオカエリナサイとは言ってくれないだろうけど。

2008-05-26

5/25の例大祭ですが

東方厨×ニコ厨コラボで大変だったようですね。

34 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2008/05/26(月) 02:20:21 ID:ZUiAtZwN

神主を見たニコ厨が「なんだあいつ?偉そうな奴だな、うぜぇ」ってガン付けてて目眩がした

地霊殿体験版を手にして嬉しそうに「こいつをCDに焼いて秋葉原あたりで高値で売ろうぜ!」って叫んでて

何か色々と疲れてしまった、ニコ厨死ね、氏ねじゃなくて死ね

35 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2008/05/26(月) 02:26:03 ID:hXNhdcUX

秋葉にいる怪しい中国人と何ら変わらんな

引くわ

36 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2008/05/26(月) 02:26:29 ID:IxLOomb2

そりゃねーわ・・・酷過ぎる・・・

37 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2008/05/26(月) 02:27:50 ID:cFa8b1jT

>>34

これホントならひどすぎるな

38 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2008/05/26(月) 02:30:19 ID:lq0G496W

どうやったらニコ厨だと分かるんだろ

会場には行ってないんだが、見れば分かる?

40 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2008/05/26(月) 02:32:39 ID:ZUiAtZwN

見た目厨房で団体でいて空気読まずにニコニコネタで盛り上がってるから丸分かりだよ

270 名前:カタログ片手に名無しさん[sage] 投稿日:08/05/25(日) 10:23 ID:???

あークソガキがうぜぇ

ニコニコ知識披露宴はもうたくさんだ

えーりんとかしゃめいまるとか寒くて痛いんだよ死ね

315 名前:カタログ片手に名無しさん[sage] 投稿日:08/05/25(日) 10:31 ID:???

ニコ厨まじでやべえな

つるんで来てる奴前見てねえし声でけえしどんだけだよ

361 名前:カタログ片手に名無しさん[] 投稿日:08/05/25(日) 10:38 ID:62g4WtHI

アリス列でランランルーは止めてください

最終鬼畜を歌わないでください

ニコ厨帰ってください

930 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2008/05/25(日) 22:45:42 ID:bLsDQjdv

つーかニコ厨オーエン大合唱ってマジすか?

こりゃ緋にも地にもフランちゃんでなくて逆に良かったかもわからんね

2008-04-17

http://anond.hatelabo.jp/20080417145143

まあ昔の話だし田舎の話だし今みたいな「お客様神様!傷つけること言っちゃ駄目!」大合唱な文化もなかったし、火葬場の人にそういう高度サービス業的なことを求めるつもりはない。火葬場おもしろいよ火葬場。人生の縮図があるよ。

2008-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20080407094340

自分はどっちかというと逆だなぁ。

飲み会楽しいのは美味しいご飯くらいなもので、そこでのおしゃべりは正直言って、どうでもいい。

自分が食事してる姿を見られるのは、我慢できないほどではないにせよ、できれば避けて通りたい。

おしゃべりだって飲食を楽しむにあたって阻害か雑音としか思えない。

でも、カラオケ行くってなったら即座に手が上がってるんだよな。スナックカラオケは行ったこと無いからどんなのかは知らないけど。

他の人を歌ってるのを聴くのはとても楽しいんだ。普段知る機会のほとんどない、その人の音楽趣味を知ることができるし。

合唱をしてるからかな?歌を歌っているときの人間ってのは凄く好きだ。

勿論カラオケだけでわかるわけないんだけどね、好きな歌が入ってない場合なんてのは洋楽だと良くあることだしさ。

アルバムシャッフルでは聴かない、だってその曲順には作った人の意図があるわけなんだから、なんて言っていた友人は一度も仲間内のカラオケに来ることはなかったし、その気持ちはわかる。

ただ、

流行ロック青春パンクしか歌っちゃダメカラオケなんていくらでもある。

ってのはよく耳にするけど、どんな感じなのか顔を出したことないので良くわからない。

誰かもうちょっと詳しく、実際にどうだったのか教えてもらえないだろうか?

ひょっとすると、自分がその雰囲気を醸し出している一員であって、それに気づいていないだけという最悪のパターンであることも考えられるけど。

2008-03-23

http://anond.hatelabo.jp/20080323224207

これは規制をしろという主張ではありません。ゾーニング自主規制等のなんらかの社会的な対応を求める主張でもありません。

増田の人じゃないんだけど、自分は、街中でその手のイラストが表紙になってる本とかを見ると、なんていうのか、本当に街中の衆人環視の中でスカートめくってる女の子を見ているみたいな、一種の羞恥プレイを見せられているような気分になる。二次・三次関係ない。記号に反応してるので、二次の方がきつく感じる傾向がある。実際、三次ではそこまでどぎつい表現みないし。こういう風に、人の感覚は様々じゃないかな。いい年した大人でいろいろ経験してるけど、感覚はこんなもん。

でもこういうのはま、言われる方にしたら言いがかりにしか聞こえないだろうと思うんで、普段(なにもないとき)は言わない。ただ最近みたいに、そう感じること自体が無い無いあってはいけないと合唱されると「無いわけではない、我慢してるだけだ」と言ってみたくなる。でもそれ言ってどうしたいかと言うと、言いたいだけっていうか、知ってもらえば充分というか、たとえば他の話だとめっちゃ我侭あるいは極端な意見でも笑い流されたりしてるわけで、それと同じ程度に扱ってもらえれば満足。二次エロ楽しんでるって意見と同じ重さで、ああそれで傷つく人もいるんだなーと思ってもらえば充分。

性に関する不快感とか性被害の話とかは、その他の話みたいに扱ってもらえず、なんかこれだけタブーになってる。言う方が悪い、感じる方が悪い、不快な話を聞かせるな。だから女友達にも言わない。経験上、女性の方が「不快な話を聞かせるな」系の反応が返ってくる率高いし。別に他の人を押しのけて自分達の感覚を尊重しろって言いたいわけじゃなくて、他の人と同じ重さの発言権が欲しいだけなんだけど、なかなか「ああそういう人もいるのね」にはならない。言い方が悪いのかな。定番の男女論みたいに「改善策を求めているわけじゃない、ただ話を聞いて欲しいだけだ」って前置きすればいいのかな。

こんなことをもやもや思いました。

2008-03-15

http://anond.hatelabo.jp/20080315063529

サービス残業必要悪だと、みんな思い過ぎているのかもしれないね。そう思わないと社会人じゃないとかね。

労働時間内に終わらせて「おつかれさまでした!」って、みんなで笑って帰宅して、自宅でゆっくりできるのが、本当は当たり前だと思うんだ。

今、そういうわりと自然っぽい労働形態の中で働いているので、サービス残業とかやたら低い労働賃金とかで無理に働くのがおかしいって、体験的に良く分かってきたんだよ。

前の職場がわりとそんな感じで……。両方を経験すると、これはおかしいって分かりやすいと思うんだ。

問題は、その、両方を経験した人が少ないことかもしれないな。日本ではまだまだ転職マイナス要因になりやすいみたいだし。変えて行こうっていう雰囲気が生まれにくいねえ。

でも、サービス残業は、自分の時給を自分から実質的に下げているんだよね。そこのところ、国のえらい人が、もっと理解してほしいし、働く側が、気が付いて大きい声で合唱しないと、変わらないような気がするよ!

2008-03-05

一般にmixiスイーツと考えられているが

実際にはmixi日本最大のオタクツールと化している件について。

ニコニコ動画うp主や「歌ってみた」作者が裏で連絡取り合うのに使っていたり

例の大合唱祭の呼びかけに使われたり。

仮にニコニコ動画BBS機能が付いていたらこうはならなかっただろうが。

2008-03-01

初めて合コン行った

無論人数合わせ要員で

一言で言うと凄かった

本当にドラマみたいなことみんなやってんすね

ビビったわマジで

凄いノリに全然ついてけなかった

男性から話しかけられてもなんか丁寧語になっちゃうわ、いかにも愛想笑いだわで全然もりあがんねー

ていうか、まだ皆酒飲んでないのに酒飲んだようなテンションになってるのは何故?

「○○ちゃんだっけ?可愛いね!どこらへんに住んでるの?」

ってえっいきなり個人情報取得?みたいな

「北の方です」

とか言っちゃうし自分

「えっ北?北ってどっちだっけ?右?

右!?

そしたら他の男がやってきて

「バカだなお前ーw南の反対だよ

そりゃそうだけど!!しかもその男それで分かったのか「あーなるほどね!」とか言ってる。こいつカルピスサワー2分の1杯でもう酔っ払ったというのか…?

これはもう増田に書くためにネタを提供してくれてるんだなとしか思えなかった。

休みの日とか何してるの?」

はてな注目エントリーとか見て、盛り上がってそうな話題を見つけたらそこからたどって言ってブログ同士の応酬を見てます。

とも言えず、

「犬と遊んでます」

と言った。これは自分の行動の中で、最もリア充的行為だと思って堂々と言ったんだけども、なぜか相手の反応は

「えっ!?犬と?一人で?」

「え…はい…」

「さみしいよー!!!w」

何故か爆笑。そのまま他の人たちにも「ねぇ○○ちゃん休日犬と遊んでるんだって!」と公表される始末。おいおいおい。

「えー!さみしいよ○○!」「それはさみしいなあ!!」の大合唱となる。なんじゃこりゃ。

女子の一人が「もー誰か誘ってあげてー」と冗談交じりに言う。えぇー別に誘ってほしくなかよ。ていうかお前ら、犬の可愛さちょっとナメとんのとちゃうか?ネット上じゃ何故か猫の鍋だとかなんだとかいって猫ばっかもてはやされてるけども、犬の可愛さってもんをここらでいっちょ見直してみた方がいいんと違うか?特に子犬破壊力といったら物凄いものがあるのだぞ。これはイヌという生物の罠なのか?ヒトに一切の世話をやかせ、自身の種を苦労なく保存するというイヌの罠なのか?私はそれに今ずぶずぶとハマってしまっているのか?この可愛さはそのための進化だというのか?生きるため、種の繁栄のために作られた究極の可愛さだというのか?だとしても……だとしても私はこの罠から抜け出せない……

と考えてる最中に、男子の一人が「じゃあ休日遊びに行こうよ☆」(本当に☆マークが飛んでる感じだった)と言ってきた。

「いや、ここんとこ忙しいから…」

と断る自分。本当に忙しいのだ。今週の休日には一人で映画を見に行き、一人でショッピングをし、本屋へ行かなければならない。それは前から決めてあった予定なのだ。

「えー。彼氏いるの?」

脳内ならいますよ。もう婚約までいきました。

とは言えなかった。

「いませんよ?」

「え、じゃあなんで忙しいの?

質問の意味が分からず一瞬フリーズした。

「じゃあ」って何が「じゃあ」なんだよ!?

「いやー色々…」

「いいじゃん。遊びに行こうよ」

なんでいいんだよ…なんなんだよこのダメポジティブぶり…

結局断った。もう私は烏龍茶についてきたコースターの裏に何か落書きでもして過ごしたくなってきた。なんかノリについていけないのだ…

テレビ何見てる?」

と聞かれ、これはリア充的回答が出来るぜ!!とまた気張って

「あ…相棒見てるよ!」

と言ったら

「え?相棒?何それ」

ドラマ?」

という薄い反応…マジかよ…またもやリア充的回答が散っていった…

要望されたなら、合コンの場で右京さんのモノマネでも余興でやる準備は出来ていたというのに…

実は本当にやる気でちょっと緊張していたのに…

とてもこの空気でやりだす勇気は無かった…

しかし代わりに女子の一人が急に

「そういえば○○って手品できるんだよー!」と私に話を振ってきた。

マジでー!みたいー!と騒がれ、急遽やることになった。といっても所詮素人マジックなんでそう期待されても困るんだけども…

「えーでは誰かコインを貸してくれますか」

とかなんだかんだノっている私。正直一番楽しかったのはここだった。

無事成功した後、またノリノリの会話に「へへ…さいですか…へへ」と媚びを売る商人みたいにヘコヘコしながらついていき、ようやっと終わった。

誰からも番号聞かれなかったのは、幸いだったのか、不幸だったのか……

まあ全然問題ないんだけど、他の女子全員聞かれて私一人聞かれないと流石に帰りの風が寒く感じたよ。まああんな態度じゃそりゃそうだわな…。

あー、でも、同じくらいの年の男子とこれだけ喋ったのって初めてかもしれない。

貴重な体験でした。

2008-02-07

初音ミクがしぼんでしまった 敵は身内ではないか?

年明け後、ニコ動初音ミクの勢いがまるでない。

新曲ランキング1位はおろか、10位もままならない状況になってしまった。

理由は色々あろう。

 ・視聴者が飽きたのでランキングに上がらない

 ・作り手がボーカロイドに飽きた

 ・作曲の敷居が高くなり、作り手が減った

どれもそれなりに大きい理由のように思うが、今でも新曲は存在する。だが以前のように「これは凄い」と即座に思える曲がほとんどない。要因として、腕の立つp(プロデューサー)のモチベーションが軒並み下がっているようにも思える。

一通り持ち歌も作りきったのでネタ切れ、という理由があるかもしれないが、一連のドワンゴJASRAC騒動で萎縮してしまったのではないだろうか。彼らのモチベーションは間違いなく聞いてもらって喜んでもらうこと。自分の時間を削ってまで頑張っていたはずだ。なのに、なにげにやったJASRAC登録でそこまで叩くか、というほど叩きまくられてしまった。

喜んでもらうことがモチベーションの源泉なのに、思いもかけぬところから嫌われ叩かれる可能性を目にした。叩かれたpはもちろんだが、叩かれず横目でみていたp達もどう思ったのだろう。どうも思わなかったかもしれないが、心の奥底から沸きあがる熱いモチベーションを冷やすには十分の騒動だった。

おそらく叩いていたのは一部の人間だと思う。しかし一部の声が集まりやすいネットでは、叩く人間が100人中10人もいれば萎縮させるには十分すぎるほどの声となる。

「どうせ金儲けだろ!」

「金に目がくらみやがって」

そういって彼らは叩きまくった。

彼らが忌み嫌うJASRAC既得権益を打破する力に、いずれ成り得たかもしれない新参勢力を潰したともいえる。

日本にはこういった人間が必ず一定数いる。他の国にもいるだろうが、割合が多いのかもしれない。目に見えないところで稼いでる巨大勢力には全く気付かず、目に見えるところの小さな成功者を叩く。「出る杭は叩く」は何も政治芸能界だけの話ではない。我々若い世代にもあてはまることだとネットを見ていてつくづく思う。

調和を乱すような人間組織でもいいが)、自分たちより稼ぎが良くなりそうな人間は妬み、叩く。

社会規律を守る、現行システムを維持したい人間からすれば極めて便利な集団だろう。

今の社会政治も同じ構図だ。格差是正の大合唱のもとに、国際競争力のない土建農業に自助努力を求めず、保護と助成を与える。その助成は回り回ってグローバルで競争力のある工業界の足を引っ張ることになる(EPAの締結遅れなどその最たるものだ)。

正直、老齢化の進む日本人だけでこの国が目に見えて良くなるとは思えない。

移民こそが力のアメリカはもとより、東欧を併合し移民で勢いを付けるEUなどとも勝負になるはずもなく、このままずるずると政治を遠巻きにバカにしつづけてジリ貧になっていくのかもしれない。

将来、日本人は異質の塊のような移民を受け入れられるのだろうか。

答えは極めて難しいと言わざるを得ないのではないか。

移民を受入始めた途端、いまの叩きまくっているニート集団が「仕事が奪われた!金儲け企業を潰せ!」とドイツで騒ぎ立てる右翼連中のようになるのが目に見えるようだ。また頭のいい人間にのせられ、組織化され利用されるのがオチかもしれない。

これはなんという和製ナチスもどきか。

話がミクから右翼まで多岐にわたったが、以上。

2008-01-09

大蔵省財務省)の実質権力をめぐって

以下では、官の頂点にある旧大蔵省をとりあげ、行政権力の根を見ます。行政権の枠を決めるのは法です。法は国会が決める。国会議員国民が、代議員制度で選ぶ。

国民主権国民権力が至高だというのは、形式論です。実体論では、国民は統治される者であり、中央官庁が統治者であると言っても過言ではなかった。

国家公務員試験第1種とは何を試験するのか

キャリア官僚を選ぶ国家公務員試験第1種(上級公務員試験)には、昨年

38,841名が受験し、合格は1,228名。32倍の狭き門です。(試験は、隋・唐時代の、官僚選抜の科挙伝統を引く感じです)

約半数くらいは東大で、国公立、私立が続きます。毎年1200??1500名くらいのキャリア官僚生産され、現在5万人が在庫されていると見ていいでしょうか。

合格者の一次試験、二次試験の順位で、省庁への順列的な割り振りが決まります。各省庁は、競い合って成績上位者の確保を運動します。なぜでしょうか? ここに官僚生産する「商品」の特殊性が関係しているのです。

官僚の作業能力商品

1回のペーパーテストの成績が、能力やその後の仕事の成果と、どう相関するか?民間企業では、ほとんど無関係というのが結論でしょう。

企業が販売するのは「商品」であって、文書作成や言語能力ではないからです。

官僚商品とは?】

官僚の作業能力、そして行政権力のもとになるのは、文書作成と法の解釈能力、及び利害の調整能力です。それ以外に、商品はない。

官僚仕事では、

(1)論理付けを含めた「言語能力」、

(2)関係者の「調整能力」が必要であり、

(3)彼らが「生産する商品は文書」である、と言っていいのです。

(1)マスコミ野党から突かれる隙のない論理で武装した文書を作って、

(2)政治的な権力者関係者関係省庁に配布し、

(3)説得的に説明し、調整するのが官僚仕事であり商品です。

【上級公務員試験と入省年次】

ペーパーテストの上位者は、言語能力に優れていることが多い。

それで、公務員試験ではペーパーテストを重視するのです。

上級公務員試験の成績順位と、入省年次がその後付きまとい、事務次官候補のエース組みが選ばれ、将来のポジションの序列を決めます。その意味での「実力主義」です。次官競争での落伍者は、天下る。

成績トップクラスの入省先は、大蔵省です。大蔵省のみは官僚の中の官僚で、特殊ポジション

言語能力の優秀さで政治家と他の省庁を説得し、切れる頭脳で他を圧倒しなければならない。

(01年1月6日から、省庁再編で財務省になり、金融部分が金融庁に切り離されました。実態はさほど変わっていない。以下ではあえて大蔵省という、伝統的名称を使います)

大蔵の実質権

なぜ、大蔵省がこの国で特殊ポジションであったか、理由があります。

(1)80兆円の省庁の予算編成、配分権を持つ。(主計局)

(2)国債の発行権を持つ。(主計局)

(3)残高414兆円の財投の配分権を持つ。(理財局)

(4)民間金融機関の認許可、指導権を持つ。(銀行・証券・保険局)

(5)税を決め、徴収する権限を持つ。(主税局・国税庁

以上5つで、国家マネーの出入りの急所、及び民間銀行マネーの急所を、押さえていたのが大蔵省です。

他の省庁は、大蔵省に対して、一段低い予算申請団体の位置です。

信じられない位の、権限の集中です。

大蔵省官僚国税庁を含めると8万人。1%の800名がキャリア官僚。どの省庁でもノンキャリアは、1%のキャリア官僚の支配下にある。画然とした、不文律身分制度がある。

公式的には三権分立で、行政は法の執行であり、法と制度を決めるのは立法(国会)です。

ところが立法の実務、つまりほとんどの「法案、予算案の作成」は、各省庁のキャリアが行い、自民党の実力者との調整で決めますから、実質権力と言えるのです。

予算委員会という場の機能】

最も重要な「予算委員会」で、予算の中味の審議が行われますか?そこで、予算が変わりますか? 決まったことを通す、形骸化した儀式です。テレビ中継を見れば分かりますね。

質疑の内容は、マスコミが取り上げた問題や、大臣首相の発言の追求です。予算配分の調整が問題になった審議は、見たことがない。国会の各委員会は根回し、調整が終った後に、野党の顔を立て、国民マスコミへに対するガス抜きの場になっている。

野党が机を叩いて、口汚く叱責し正義の味方を演じる。

首相大臣は、その罵詈雑言に耐え、言い逃れをする。

▼ここで蛇足的な逸話:民間銀行に対する恐怖型支配

ある銀行の支店に大蔵検査が入った。検査官に混じって1人、入省2??3年くらいのキャリア組みがいた。銀行にとって、大蔵検査は鬼より怖い。次長が応対した。新米キャリア官僚が、銀行業務のイロハも知らないような質問をした。

次長は「これはどこの銀行でも同じでして・・・」と説明した。キャリア官僚は、「他行のことを聞いているのではない。この処理の説明をせよ」と、怒り始めた。無知をさらしたことを恥に感じたためです。そのキャリアは、怒りで手を震わせていたという。

次長は、思わず「こわっぱ役人が・・・」と小声でつぶやいた。それが聞こえたのか、後日、銀行に、「貴行の**支店で不穏当な発言があった」と伝えられた。その次長は、数日後に銀行退職した。

これに類する逸話は、多数です。当然、公式には明らかにならない部分です。法に基づかない、恐怖権力です。大蔵省銀行支配には、恐怖権力が根にあった。

省庁にタテをつくと、他の認許可や検査、指導のどこで仕返しされるか分からない。これが、民間企業が行政へ恭順を示す理由になっている。法や税法は、字義通りの執行を行えば、企業を潰すことくらいはできるからです。生殺与奪の権がある。

私の狭い経験からも、十分に首肯できる話です。

ソースは明かせません)

銀行の3分類

銀行頭取頭取含みの役員は、大蔵省系、日銀系、独立系に分けることができます。独立系に対する大蔵検査は、厳しくなる。(現在金融庁

大蔵権限の根は、銀行破綻した時、国家国民の預金を保証することです。つまり銀行は、民間企業として実態的には独立した法人ではない。真の株主は、大蔵省でした。

民間銀行天下りを受け入れるのは、行政指導と認許可で有利な取り計らいを受けること、行政のインサイダー情報の、取得のためです。

銀行は、箸の上げ下げに至るまで監視されていた。

大蔵権力に90年代後期から陰りが見えたのは、大蔵省銀行不良債権問題の深刻さ、巨額さを見誤ったことに起因します。

1997年の第一次金融危機が起こるまで、大蔵省不良債権の寡少見積もりをしていた。対策が後手に回り、銀行の信頼と民間の信頼を同時に失ったのです。

▼しかし今後の政策の、裏の意味を「憶測」すれば

ペイオフの裏】

2003年4月から開始される「ペイオフ」も、大和銀行NY支店の米国債ディーリングの巨額損失隠し事件が表面化した1995年から、事毎に、大蔵省に反発してきた銀行への、意趣返しといった面を含んでいると感じますね。

【95年の大和銀行NY支店事件】

大蔵省(西村銀行局長)は、大和銀行に<損失隠し>を指示していたことは明らかになっています。しかし、米国SECに叩かれると、大和銀行勝手にやったと押しつけた。行政のこうした時の指示は、口頭です。

この事件を契機に、銀行大蔵省関係にヒビが入った。

大和銀行NY支店の損失隠しは、象徴的な事件でした。

【ここまで言うと、危険でしょうか・・・】

2002年4月からのペイオフの実施では弱体銀行に預金引き出しが起こり、日銀特融、または政府資金投入、合併が必要になり、再度、世論マスコミバックアップに官の権力拡大をする機会を狙っているように思えるのです。

信用金庫地銀では、すでに、預金減少が現実に起こっています。

米国銀行でも、事実上ペイオフ金融システムの混乱の害が大きいので実施していない。米国情報は、選択的に利用されます。

不良債権問題の早期解決】

小泉内閣が掲げる不良債権の処理も、銀行自己資本利益での処理では不足することは、誰が見ても分かる。

金融システミック・リスクを避ける手段は、政府資金注入になる。分かり切ったことですね。

政府資金注入は、金融庁大蔵省日銀の権益、天下り先の拡大です。国民金融資産を守るために「やむを得ず」そうせざるを得ないというふうになるのが、一番望ましい。

こうして、時代、時代の世論マスコミ論調、学説を使い、予算をつけ権益の拡大を行うのが、省庁の自己肥大の基本手法です。

以上は「憶測」です。しかし憶測しか方法はない。

誰も、言わないからです。

世の中の事象は、実は、語られないことに重要なことがある。

ペイオフの後、不良債権処理の後、銀行の支配がどうなるかを詳細に見れば、憶測が正しいかどうかわかるでしょう。観察して下さい。

キャリア官僚の最終的な狙いを判断する時は、「推理小説の手法」が、役に立ちます。

「この政策と予算で、誰が、またはどのグループが最終的なゲインを得るか」との方法です。

現在の行政で生きている4つのイデオロギーを示します。

(1)高齢化社会に必要な「福祉」→福祉予算の拡大(極めて強い)

(2)国土の「均衡」ある発展→公共投資・公的事業の拡大(弱い)

(3)不況対策→公共投資・公的事業の拡大(極めて強い)

(4)社会資本欧米に遅れている(強い)

小泉構造改革では、以下のイデオロギーが加わります。

(1)金融システミック・リスク対策

(2)77の特殊法人、26000の公益法人の順次民営化

(3)地方分権

(4)失業者のセフティ・ネット職業教育

(5)郵政三事業の、公社化から民営化

(6)年金への401K導入

(7)証券市場での直接金融制度

これで、予算が動きます。具体策の起案は、官僚が行います。その時、世論マスコミガイアツをバックアップにした新たな公的セクターの、認許可、指導のための組織ができる可能性が高い。

現在、公的セクターでも就業人口が多い50代前半の世代の、今後の行き先が問題になっているのです。

組織拡大の技術者たち

(一部:30%)キャリア官僚は、組織拡大の戦略技術者であると認識したほうがいい感じですね。

構造改革合唱に乗り、構造改革での組織拡大が想定される。

今後3年間で、77の特殊法人、及び2万6000の公益法人から選択して民営化される<骨太の方針>は決まっています。

2000年12月、森内閣閣議決定で、民間への天下りが解禁されたのはご存知ですか?今後は、大臣が許可すれば、民間企業へ公然と天下りができるようになっている。

民営化された特殊法人公益法人のトップに天下るための決定でしょう。有力議員官僚に恩を売って、利権の範囲にあった特殊法人公益法人民営化をおこなうために、官僚との綱引き政治的取引をした結果と言われていますね。

加えて、今省庁が狙っているのは、官の文書のデジタル予算です。膨大な官の文書、図面のデジタルデータ化で、30兆円が見こまれている。当然そこには、民間会社の受注活動が絡みます。週刊ポストの「覆面座談会」で、キャリア官僚自身が発言している。<電子政府>の情報化予算無駄だと言う人は、まだいない。

民間会社なら、組織利権拡大は、英雄的な行動です。

官であることが問題ですね。官が食うのは<税>ですから。

2008-01-03

日本絶望の谷に落ちつつある

結論から言えば、日本おしまいなんだと思う。

少子化という事態は、人口の減少は消費の減少を意味する。だから政府個人消費に頼らない経済政策を打つだろう。高所得者優遇を進めることで、個人消費の激減を抑えるようにはするだろうが、貧民の増加に対しては、手は打たないだろう。自己責任原則の過剰さが言われ始めるようになったが、その言葉はすでに10年前から一人歩きを始めている。もう、全てが遅い。失業した人間給料の低い人間雇用が不安定な人間は、その人自身の責任とされ、政府による経済政策の失敗、ひいては官僚機構の無謬性と無責任性の維持のために、自己責任原則はこれからも跳梁跋扈し、大企業正社員たちは自らの幸運に安堵し、生活を維持するために、そうではない人々への同情は、形にはならず、それを訴える声に耳は貸さなくなる。ネットでの叫びは、匿名性の名のもとに、罵倒される。

階級社会現実というものなのだが、社会は連帯ということが必要とされる。いつしか、それが消えてしまった。大晦日格闘技興行で、韓国日本人を破った選手日本人は強いとか勝利後のマイク芸でしゃべったそうな。それはそれでよい。負けた韓国日本人は、大ブーイングを浴びるだけのことをしたのだから。あの勝利のローキックに快哉を叫んだ日本人は多いだろう。しかし、日本人は強いという言葉に素直にうなづくくらいしか、社会の連帯がなくなってしまったのかと思うと、悲しい。連帯が消えてしまった国家社会は崩壊するしかない。崩壊した後に何があるのだろう。どこに自己の帰属を求めればよいのだろう。自己の帰属が会社だった時代が羨ましい。国家が前面に出てこない幸福な時代。もうそういった幸福な時代はやってこない。

連帯も失われ、セーフティネットも形骸化していく中で、若い連中は将来が描けない。描けるのは、高所得を得ることができる人々だけで、それ以外の連中にそれは無理な相談となりつつある。自己責任原則はここでも登場する。将来が描けないのは自業自得だとか、趣味世界に走って、異性に関心を持たない嘆かわしい連中が増えた、何だと、萌えだぁ? こんなことしているから、少子化になるのだといわんばかりのマスコミによる大合唱マスコミに勤める人々は、基本的に勝ち組だ。将来テレビがなくなることはない。テレビを持てなくなる人や見られなくなる人が出ても、彼らは安泰だ。現状のビジネスモデルは、若干の変更が加えられて存続するだろう。そういった連中は、ステレオタイプ若者像を過去何年にもわたって報道し、増幅してきた。ネットでの抗議などは蚊ほどにも感じない。炎上と称しているのもあと数年で、炎上対策がなされ、ネットでの抗議などは意味を持たなくなるだろう。

事実ではなくイメージが先行するのは、さして驚くことではない。イメージ社会が、政治が、国家が語られ、事実や正確な統計は省みられない。イメージが100%正確ではないということではない。一部の人々にとっては正確なのだ。その一部の人々の利益は守られるだろう。そしてそこからあぶれている人々は、貧民としてラテンアメリカのような陽気だけど貧困にあえぐという像を押し付けられる。江戸末期に外国人が来て、日本の一般庶民が大変従順で、幸せそうであることに注目している。彼らは武士たちの巧妙な統治によって、従順化させられていた部分が多分にあるだろう。おそらく数十年後にはきっとそうなる。大して面白くもないお笑い番組年末年始に放送しているのは、愚民化への一歩ではないだろうか。芸人は罪はない、としておこう。一部芸人を除外すれば、多くはフリーターのようなものだ。今年の今頃にはあの人何処に行っただろうとか言っている、某筋肉自慢の高学歴芸人だっているはずだ。それに多くの人は笑い、年末年始を過ごし、貧民化した人々は、また仕事に向かう。明日とも知れない不安定な生活を少しでも支えるために。ああ、忘れていた。年末年始仕事だという人もいる。そういう人もまた、不安定な生活を支えるために、懸命なのだ。人間らしい生活など、何処に行ったのだ?

19世紀の労働者たちは生活向上のために戦った。社会主義やら共産主義という方向に行ってしまったのはさすがにアレだったが、それでも権利獲得のために戦い、いくつもの権利を勝ち得た。しかし、権利とは勝ち得た後が大変であることを忘れていた。権利が形骸化させられること、これは最も恐れるべき事態だが、21世紀日本ではそれが起こっている。貧困が自己責任化するまであともう少しだ。生活保護も形骸化し、雇用保険も同じく形骸化する。ありとあらゆる国民生活を支える社会制度が、崩壊する。崩壊しても制度は残るし、運用者が要る。すなわち。それらを運用する官僚たちだけが生き残るのだ。そういった、本末転倒な事態まであと少しだ。日本は22世紀には存在しないだろう。21世紀中に国家の態なさず、事実上崩壊するだろう。希望というものなど、もはや何処にもない。絶望しかない。政府少子化を訴えても、危機感が迫らないのは、政府自身が手を打つ気がないからだ。

将来、世界史史上稀に見る、統治能力を失って自己崩壊した国家の一例として、日本国が挙げられることとなるだろう。若者たちよ見えないか、ブレードランナーのような情景が眼前に広がるのを。最低限の秩序もないが自然状態をかろうじて回避している、夜警国家以下の情景が。

2007-12-31

紅白一青窈みて思い出したこと

中学の時だったかな?

文化祭の出し物で手話合唱やろうぜ!みたいな話になったことがあったんだが、

その時の担任が、

「みんなは、音声なしの手話だけの合唱を“聞かされる”難聴者の気持ちを考えたことがあるの?」

みたいなこと言ったせいでおじゃんになった。

…知るかよ。俺にわかるわけねーだろ。


あ、ぎりぎりだけど、増田の皆様に、よいお年を。

2007-12-28

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1072689.html

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1072689.html

はてぶではヒステリックに「ありえねー」の大合唱だが、通勤時間1時間半の俺から言わせてもらうと、「妊婦なんて見たことない」超能力とかちゃちなもんじゃねぇ・・・本当にいないんだよ!!

つーか、女性なんてほとんどいない。おっさんばっかりだ。俺が乗っている小田急異次元空間にでも繋がっているのか?

あー、そもそも時間帯が違うのかもな。朝は6時だし帰りは22時過ぎだ。ハハハハ(AAry

もう一つの仮説があって、こんなオイラにとって通勤電車は貴重な睡眠時間でして、乗っている間はずっと寝ている。朝も夜も座れるんですぐ寝ちゃうんだよね。

ふしぎ!世の中ギスギスしているのがふしぎ!

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