はてなキーワード: 合唱とは
テラ豚丼、合唱祭、初音ミク騒動と今月立て続けに騒動のあったニコニコ動画
http://japan.cnet.com/blog/takahito/2007/12/24/entry_25003348
急に注目が集まる動画サイト「zoome」に、機能改善のお知らせ
http://internet.watch.impress.co.jp/static/yajiuma/2007/12/26/
ウソか本当かなんてこれをみればわかるけどさぁ
あと、googleでの検索回数はどうなっているか?
・なんとか動画
http://www.google.com/trends?q=zoome
急上昇にはビックリ
実際にサイトを見てみるとなんとか動画は重すぎてログインすることさえ難しい状態
動画はニコニコ動画にあるものが多く、コメントもニコニコのようなコメントが多い
そして年明けには新バージョンに移行するらしい
これはzoomeでキャンペーンをしている影響なのか、結構動画が集まってきている
あと、ニコニコでは対応していないH.264とHE-AACに対応しているのも影響しているみたいだ
他にも個人的には以下のものがオススメ
結局のところ、日本の指導的ポジションにいる老人達は円環的時間のなかに子どもを閉じ込めて、自分達の予期可能な範囲のことしか出来ない人々だけを生産したいってこと?
イノベーションとか口先だけだよね。社会を変革できるような人材、したいような人材は、叩き潰したいと思ってるんじゃないかというか。もちろん、子どもの親は、彼ら老人より若いので老人達とは考えが違うので、信用されていないし、決定権も奪われている。「モンスターペアレンツ」って、要はそういうことだ。親としての当然の権限・権利行使にはモンスターのレッテル。
梅田もっちーとか、エンタメとしては読まれても、あそこで肯定されているような人材がうまれやすい環境作り、なんて話は、フルボッコで否定だよね。うちの会社も、もっちーを社内講演に呼ばなくなったな。もっちーから切った可能性もあるが、どうも会社的にああいう話は禁句になったっぽい。一次元の価値観の中で、ある層以上は官僚か大企業サイコー、地方では地方公務員か教員、これ。そこからこぼれそうな人達は、それなりに。さらに下に非正規雇用。「けものみち」なんてものは、あってはならない。あったら生コン流し込んでおけ。「学習の高速道路」?日本にあるのはアメリカのフリーウェイじゃなくて、料金所がたくさんある有料道路。そして、学歴という通行許可証を集めないと、通ったことにはならない。
そして、ネットのコミュニティ、なんてものからは子どもを切り離せ!!!という大合唱。もちろん、大人になっても、ネットのコミュニティに参加しない、参加しても二次的、というのがいいこととされている。コミュニケーションは、地縁・血縁・学閥・職縁つながり。結婚はもちろん、そういう縁つながりの見合いが恋愛結婚より格上、ネット恋愛とかは論外、という価値観。
それで、どう世の中みんなが食っていけるのか、よく分からんけどさ、経済のパイを増やすよりも、そういう序列と秩序の維持のほうが上、という空気が、最近満ち満ちているように感じる。
ウザいという言い方に落とし込むことが適切かどうか分からないけど、
??騒動に乱入するためには
の物言いに一番腹が立った。病んだ人間より自分の方が「上」だと思っているその傲慢に。そしてその無自覚に。
もちろん、ほとんど不治の病にかかった人がいてその人を「救いたい」と思うことはいけないことではない。でも医学者になって治療法を探すという発想もない人間が「救いたい救いたい」でワラワラと病床に寄ってきて医学者が近づく邪魔をするなんてばかげてる。ハッキリ言えばそれは、人間という種の思考法のセキュリティ的脆弱性(「傷ついた、弱った仲間がいると近寄らずにおれない」型)に基づく錯誤だ。心の病でも、それは同じことだ。誰もMasaoのようなことをしなかった/せずに「医者へ行け」と合唱していたのは、大抵の人がそれを知ってるからだ。
これは大人が子供を支えるというのと、ワケが違う。暴走するダンプカーを素手で(医学的知識や臨床経験といった道具も持たず)なんとかしようというような行為であり、それを愚かと言わずなんと言うのか。ダンプカーにひかれた彼に鞭打つ積もりもないし個人的には彼を気の毒だとは思うが、泥にまみれようとし実際泥にまみれただけ彼にはまだ救いがある。
しかしこの状況で、まだ『金だけ出して高見の見物をしよう』なんて人がいることに、心の底から憤りを覚える。少しは自分のしていることを振り返って欲しい。この世で一番タチが悪いのは善意で悪を為す人種だ。
もしかしたら、この年越しがテレビ滅亡のカウントダウン開始になるんじゃないか、と最近思う。
まず、紅白歌合戦。
たとえDJ OZMAがもう一度出ても、見ようとは思わない。
でも、
小林幸子や美川憲一なんてとても適わない位衣装が凄いアイマスMADだったり、
初音ミクがエベレストのてっぺんとか、どっかとんでもないとこで歌うのだったり、
ねとらじやスカイプを駆使してニコニコの各シンガーが大合唱するのだったり、
そうしたら、僕はネットに張り付く。
そして格闘技。
これだって、実況板あたりでエキサイトプロレスのプレイ動画が配信されたら、そっちをみる。
みんながニコニコ動画で人気のキャラのスキンを作成して、トーナメント。楽しいだろうなあ。
僕ならそっちをみる。
横にあるブラウン管にも、にぎやかしに何かは映していてはもらうかもしれないけど。
もしかしたら、この年越しがテレビ滅亡のカウントダウン開始になるんじゃないか、と最近思う。
#そういえばRC2で付いた時報とかニコスクリプト、これも活用したら凄いことになりそうだよね。
#ニコニコショッピング、みたいな番組つくってAmazonのアフィ貼って、みんなでおんなじ耳当てを買って初詣に行くのとかも楽しそう。
#つーかこんなとこで書いてる間に動画作ればいいのか。
私はまだ幼い頃、しばらく合唱と取り組んでいた。部活動とか OB の集いとか、要はクラス合唱に毛の生えたようなものだったけれども、クラス合唱レベルでは体験できないうたやオンガクの世界を垣間見ることができた。
でもって、クラス合唱や授業での合唱かそれ以上のことをやったことあるかたならば必ず経験のある儀式、パート分け。声(音域)が高いからソプラノ(テノール)、声が低いからアルト(ベース)、に分ける、と思っている人が多いのではないだろうか。ほんとうは違う。これは、理系文系の区分けと実によく似ている。
実際、普通の個人の発声できる音域の差というのは、そう大して違うものではない。簡単にいうと、存在するのは「ソプラノ向きの声」と「アルト向きの声」だ。プロを考えてみればわかる、3大テノールの人は、ベースの音域が発声できないか、そんなことはない。充分カバーしている。(ではベースの人が世界レベルのテノールが歌う高音域を出せるのか、というと、それは流石に無理だし、逆も勿論そうだ。しかしそれは飽くまでぎりぎり限界まで追求するプロ同士の場合の話であって、通常の合唱曲のパートぐらいならば余裕だろう。)
しかし現実には、クラス合唱などでもありがちな話として、ほんとうに喉から音が出ない、という物理的な制約からパートチェンジを余儀なくされることはある。「○○ちゃんと一緒のパートじゃないとヤダ」とかいう中二的な物言いなんかあったりして、懐かしい(まさかと思うかもしれないが、女子だけではない、男子でもこういうことを言うのを目にしたことがある)。身体ができあがってなければ正直なところ声はできあがらない。まだまだ未熟…というか、ほとんど取り組んでもいない状態で、これからどう伸びる可能性があるかわからない状態で、パートわけをしなくてはいけないのだ。たまたまそのとき高い音が出しづらいだけかもしれない。たまたま低音が乗っているだけかもしれない。(もちろん、「ハモリパートが好き」とかいう単に音楽的に器用かどうかがパート志望の理由になることもあるし、「主旋律じゃないと歌った気がしない」なんていう(楽して)目立ちたいかどうかだけがその理由になることもある。)ただまあ、ひとつ言えるのは、中学生で変声期も迎えたかという頃になんなんとすれば、多くの人にだいたいその「片鱗」は見えてくるものだ。私は合唱の指導の経験はないが、ときどき街中を歩いていて聞こえてくる喋り声を聴いて「ああ、この人はソプラノかな、高音域の楽声を聴いてみたいなあ」とか「この低音の充実感はアルトだろうな」とか思うことがある。因みにしゃべり声の高低と合唱におけるパートは無関係ということも多く、地声が高くてもパートはアルトの人もいるし、地声がガラガラでやんちゃなのにソプラノの人もいるのだ。(…ただし、私の「妄想」が合っているのかなんてわからないのだけど。)
もうひとつ、現実には「パートバランス」という切実な社会的要求がある。個人の資質をどれだけ正確に見極め、適切なパートに放り込んだとしても、合唱全体が「頭数」としてそのバランスでいいといっているかどうかはまた別問題だ。高々数十人という狭い範囲内(社会)で、これは解決されなければならなくなる。「どっちでもできそうな人」や「正直どっちとも微妙な人」などが、パートを移動することになる。勿論この「パートバランス」に関する要求というのは、歌われる楽曲によってそれぞれ異なる。だから、場合によっては、曲の部分部分で「あなたとあなた、ここだけアルトを手伝ってね」とかいう「手」もたまに使用されたりする。さらに、テノールの人間がアルトを手伝ったり、なんてこともないわけではない。
(「どっちとも微妙な人」(つまり、合唱全体の中では声量的に貢献しないんじゃないかという人)を動かして意味あるのか、と思う人もいるかもしれないが、これがまた合唱というものの不思議なところで、案外意味があったりするのだ。)
でもって実際、歌い始めてみると、「音域」と呼べるほど音程が異なるのは曲の中でもそう多くはなく、ほとんどが 3度 とか 6度程度。1オクターブも違いやしない。通常の流れでは「音域」はほぼ重なっている。単に「役割分担」程度の話。クラス合唱なんかでパート分けをなかよしグループ分けか何かと同一視する病理をあながち一笑に付すこともできない。
楽曲が高度になってゆくと、パート内で「ディビジョン」が頻繁に発生する。通常、合唱団では、ディビジョンした場合のパート分けは決まっており、例えば私はセカンドテナー(テノールの下のほう)だった。男声四部の場合は通常上から 2番目を担当することになる。トップテナーを担当することはあまり無かった。私の同期に私よりも適任がいたからである。ただし楽曲が高度になってゆけばゆくほどこの予め分けた「パート分け」は強い意味を持たなくなってゆく。
個人の資質というところでみると、例えばソプラノだったら高い音を出す練習ばかりしていればいいか、というと、そんなことはない。全音域を練習し、充実を図り、音域を広げる努力を続けることが、ひいては自分の得意な音域を充実させることに繋がる。
こうしてみてゆくと、パート分けにかかるあらゆる事項が「文理分け」と酷似していると言える。まだ習いたてもいいところの数式を目の前に「得意・不得意」を判断し、たまたまあたった先生のその授業で「苦手かどうか」「伸びうるかどうか」を判断し、また判断される。実際は、もっとあとに決めたい。でも、あとでは遅い。いま、決めなくてはならない。そんな中、「どっちつかずの人」とか「正直どっちでも同じようにできそうな人」なんてのも必ず出てくる。周りがどう見ても「こいつは理系だろ」と思うのに、「自分には将来やりたいことがある」と、文系科目をさらりとこなして進学してゆくようなのもいる。
理系だからといって物理数学ばかりやってればいいというものではない。様々な分野を習得し、深めてゆくことにより、ひいては得意分野についても実力の「底上げ」が図れるのである。
合唱はおもしろい。ソロでは決して為し得ない音楽をつくり出すことができるのが、合唱だ。しかし、全体として少々高度なことをやっていこうと思うと、たちどころに構成員の個人個人の資質がその成果へと反映してゆくのだ。この点も文理を基準として見た場合の社会のありようとすさまじく似ているといえよう。
個人で何かやろう、事業でも起こそう、なんて思った人にとって理系文系がどんどん関係なくなってくるのも、そうだ。曲を構成できる音域を全てカバーしなくてはならない。苦手な音域も多少の無理をしつつ広げていかなくてはならないかもしれない。でも、そういうのが向いている人もいる。向いていない人もいる。
いま、その分野で、自分は「鳴って」いるか。「響いて」いるか。これからのひとは、長い目で見て、そのパートを気持ちよく充実して歌いこなせそうか。そのための鍛錬ができそうか。そんなふうに考えてみるのもいいかもしれない。
「その音域が出せるか」ではない。誰だって出せるのだ。「その音域を響かせることができるか」「その音域をよく鳴らせているか」。
あいかわらず、この国の死刑制度に対する存置世論は強いようで、、、
痛いニュース(ノ∀`)【光市母子惨殺】 元少年「生きたい」「検察、僕をなめないでいただきたい」…弁護団、涙で「こんなに胸を張って弁護できたことはない」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1033297.html
ブログ主の編集方針が偏ってるって事情を差し引いても「吊るせ吊るせの大合唱」状態。あまりに人の命の重さに対する感覚が軽すぎるんじゃなかろうか?
気に食わないやつが殺されたらスッキリするっていう人権感覚が蔓延したら「正義のための人殺しは容認される」っていうことにならないかと心配だ。
さてそれにしても、僕にはむしろ悲しみにくれる被害者を救済する手段が「被告の死だけしかない」というこの国の現状こそ問題にすべきだと思える。
刑事裁判の目的が、被害者救済ではなく社会秩序の維持に偏っている(っていうか、それしかない)現状のもとで、被害者家族は裁判へ参加することもできず、真実から遠ざけられてきた。(少しは改善がみられるが)
悔しさを晴らしてくれるのは「厳しい量刑=死刑」のみ、それだけが唯一の望みという人生はあまりに虚しい。
一家の大黒柱を失った被害者に必要なのは、加害者への報復的判決よりも、むしろ明日を生きる「生活の糧」じゃないだろうか?
例えば、殺人事件の被害者遺族が、交通死亡事故の被害者遺族が受け取る死亡保険金程度(あるいは、それ以上)の経済的救済を受けられたとしたら、被害者遺族は被告の死刑をこれほど強く望むだろうか?
いまでも量刑の判断基準に「被害者(遺族)感情」が加わっているため、加害者に経済的な余裕があれば、賠償金と引き換えの減刑っていうのが現実に行われているけど、これって金持ちなら加害者になっても減刑されるっていう不公平な仕組みだと思う。
自動車事故のように、過失割合も加味して、被害者に落ち度がなければ100:0、怨恨であれば80:20、正当防衛であれば30:70といった具合に、刑事裁判と民事の救済をセットにして判定をし、はじき出された金額を国庫から支出、加害者に財産があれば、それを没収して国庫に充当させるのだ。こうすれば、加害者の経済状態に関わらずに被害者全員の救済が行われ、金持ちだけを特別に減刑させる手段を取り上げてしまえる。
また、社会全体にとっても、死刑にならないことを前提で取り調べが行われたほうが、検察の言いなりになって供述調書にサインをしたり、弁護士の小手先の法廷戦術で事実に反する供述調書を丸呑みしたりして「事実の究明=事件の教訓化」よりも「反省の態度=上辺の取りつくろい」を優先するようなケースが減るんじゃなかろうか。
大事なことは、事件の背景にある社会矛盾や人間心理の不条理を解明して教訓化し、社会全体が努力してこれを取り除くことであって、上辺だけの反省は真実の究明にとって邪魔なだけだ。
そして「だれがそのコストを負担するんだ!?」って反論には「もちろん税金で」と答えたい。っていうか、人命よりもコストを優先する発想って、先進国としてどうよ?
どうも最近の死刑論議・刑事司法論議を眺めていると、感情的な死刑存置派の背後に隠れて(時にはそれを煽って)被害者救済や犯罪者厚生のためのコスト負担を安上がりにしたいという国家権力の怠慢を感じる。
WiiでRimo見たい!って書いたら、もらえるかな。>http://d.hatena.ne.jp/rimotv/20070426/wii_campaign
http://anond.hatelabo.jp/20070419001713
http://anond.hatelabo.jp/20070422000431
「なんだか物によっては周辺の2次創作だけ抑えて判った気になってしまうんです」
「そ、そりゃいかんですよ。僕は原作を極力おさえるようにして…」
女性なのに男性向けエロパロから作品に入るのはどうか、と太一郎は思う。
パセラから駅へ、駅から早稲田へ。電車に乗りながら、ぽてぽてと歩きながら、そんなオタクトークをする。
「あっちょっと待ってくださいソフトクリームが」
「ソフトクリーム?」
どうみても雑貨屋の前だ。彼女は雑貨屋に踏み込んでいく。後について入るが、やはりかわいらしい小物が陳列してある。奥を見ると、小さな喫茶スペースがありソフトクリームを販売していた。
「凄いところで売ってるなあ。東京には無駄にする土地は少しもないということか」
「ほらここに看板があったのを見つけたんですよ」
「よく気づいたなあ」
やはりこの人はどこか聡い。なのに何故文章はあんなに燃料満載なのだろうか。
コミケでの過ごし方などについて話しつつ歩いていたが、かなり歩いたのに着かない。彼女は早速そのへんの人を捕まえて道を聞いている。
「この先の大きな交差点で右に曲がるんですって」
非コミュを自称したり、職場で非コミュを実践していたエピソードを語る割に、こういう行動には問題ないらしい。太一郎なら適当に当たりをつけて誰にも聞かずに進み、後悔するだろう。
非コミュというのはいったいどういう物事なのだろう。話をしながらそんなことを考えていた。
「ここです」
みるからに怪しい小さな店の前で彼女は立ち止まった。
中に入るとそこには、あるはてなダイアラーがマスターとして準備をしていたが、彼女を見るなり(某はてなダイアラーの名誉のために略)叩きつけられる机(略)空き瓶を額で(略)「あなたこの間私のこと嫌(略)「こんなに俺が(略)太一郎はネタなのかマジなのか決めかねていた。マジだったら介入すべきなんだろうが微妙な線であり介入したとすると(略)
事態が収集され、落ち着いて座る。中には今日のマスターと、太一郎と、彼女だけ。
改めて回りを見回すと、少し居心地が悪い。内装の雰囲気は、大学のサークル部室に似ていた。しかし、その雰囲気は太一郎のような電算機サークルのそれではなく、ベタに文化系サークルのものだ。共産主義運動の香りのする張り紙。傷だらけで無秩序なインテリア。
ここはアウエイだ。強くそれを自覚する。
カウンターの隅にあるPCで太一郎は自分のダイアリーを表示して教えた。電車の中で小説のお勧めを聞かれて即答できずダイアリーに書いていると言っていた為だ。
「私ストーカーだから過去日記とか全部見ますよ!さかのぼって!」
「うわあ。まあいいけど」
目の前で日記を読まれているというのはなかなか恥ずかしい体験だ。
4人ほど学生が入ってきて、80年代文化について輪講をするという。レジュメを配っていたので太一郎もついでにもらう。レジュメは3題話の様相を呈していた。80年代のクラブシーンの音楽、ハッカー文化、エコロジー。レジュメからヤバイ感じがする。ポイントを外した、ハッカー文化に対する理解。
輪講が始まって、予感は的中した。薄い、薄い、ポイントを外した理解に基づいて延々と語られるコンピュータの進化の歴史とハッカー文化。
「くわっ!これはイラっとくる!」
「まあまあ」
気を利かせて本の話題を振ってくれたりしたので、太一郎はそれにのってしばらく話した。最初に大きい嘘を一つだけついて後は誠実に論理的に話を転がしていく本が好きだ、だからロボット3原則ものは面白いとアシモフの話をしたり。
しかし、最終的には学生たちに対して延々とハッカー文化について語ってしまう。自分は当時ハッカーを憧れの目で見ていた少年に過ぎなかったにも関わらず自分のことのように語り、文化に対する解説という名の説教をしてしまった。
学生たちが帰ると、夜にあるというライブに向けて徐々に人が集まってきた。狭い店内は熱気で暑くなり、身動きがとりづらい状態になる。
叫ぶ詩人。エレキ尺八。双合唱。何度かの休憩を挟み、ライブが続いていく。
「ああ、凄いですね、なんだかエネルギーがあるというか」
心にも無いことを適当に言ってあわせながら、あまりの暗黒ぶりに太一郎はおののいていた。あまりにも波長が合わない。心が闇のように黒くなるような、そんな音楽。
へとへとになって店外に出ると、「革萌」と書いたヘルメットをかぶった人たちが来ていて入れずにブルーシートを引きだしていた。
「なんだよ呼ばれてきたのに中に入れないのかよ!ひどいよ!」
外に出る太一郎。入れ替わりに2名ほど中へ入る。
屋外で楽しそうに立ち話する革萌の人たち。奥へ奥へと動いてついにカウンターの中に入ってしまった彼女。
「象徴的だな…」
店内で最後の最も盛り上がる演奏が行われる中、太一郎は暗い暗い空を見上げて微笑み、自販機の缶コーヒーをちびちびと飲み続けるのだった。
(おわり)