はてなキーワード: フェイズとは
まず、私はキミの書き込みに横レスは一切していない。
そこを勘違いしないように。
もう一度ツリーを丹念に調べるとよい。
「迂闊に突っ込んできて反論に窮した挙句に」具体例も根拠も未だに提示しないのはむしろキミの方だ。
はーい、
何も答えてない鸚鵡返し戦法ですねー。
突然ツリーを深く掘り返して、明らかに俺の書き込みと関係ない誰かの書き込みを俎上に乗せようとしたのはキーミ。
それが失敗したら「俺はそんなことやってない、お前がやったんだ!」ですかw
もうお前がまともに話をする戦意も失って
それがホントかウソかは私は知らん。
無いって言ってみたり有るって言ってみたり知らんて言ってみたり。
そもそも何かの主張の根拠にしようなどと思わない。
俺はよく知らないからそうサイゾーサイゾー連呼されても困るんだよw
さっき言ったよね?
へえ!
さっきは鼻息荒く
さて、規制派が何度も引き合いに出す以下の言及。
金もらったから「すごいファンが集まっています!」とか嘘んこ報道したり、
もう事実を伝えてねーじゃん。
これは元記事が「日刊サイゾー」だよね。
なんつってたのに、
ズルズルとあとじさりして「本当か嘘か興味ないノダ」と来ましたか。
日刊サイゾーの記事がホントであると説得しうる確たる根拠が必要だ。
言っとくけど「ちょっと探しただけでもこんなんばっかり出てくるし。」は理由にはならないぞ。
「韓流自作自演ファン」に関するネット上の記事は全てそのよくわからん
いやーすげえ話聞いた。
ネトウヨとネトサヨに聞かせてやらにゃならんから必ずソースください。
テレビっぽい画面を合成してネットにばら撒く悪のサイゾー新聞社の仕業だったんだネ!
「引っ込みがつかなくなって涙目でオロオロしながらキーボート打ちました、もう勘弁してくだチャイ!見逃されないかな!」
の間違いだろ。
あまり具体的なことは言えないですけど、設計とか問題設定とかはできるという前提で考えて頂ければと思います。
コーディングは実装の手段に過ぎなくて、その前に解決するべき問題設定や設計があって仮説と検証がどうとか、そういった基本的なことは当然ながらわかっています。
実装以前のプロセスだけで問題が解決してしまうような、コンサルタント的な仕事がしたいわけではありません。
そういった分業体制も以前はあったかもしれませんが、現在は無いですね。金も無いですし。
そうして設計したものを、どの言語で、どういった環境で実装するかと言うのが実装フェイズだが、ここからは単なる言語仕様などの世界で、
そう言ってしまえばそうですが、その「単なる言語仕様」が自分にとっては苦痛で仕方が無いということです。
それこそ「できる人」にはこの部分の苦痛はなかなか理解されないんだと思いますが…。
正直な話、「プログラミング」と言う枠で話をする限り、先に進めないと思うよ。
そもそもプログラムは、何かを解決するために書くんだから。
問題を把握したり、それを分解・再構築するのが先で、それで解決されてしまうならプログラムなんて必要ない。
プログラムは、必要とされる「かもしれない」単なる手段の一つに過ぎない。
プログラムを書く技術とは「全く関係なく」、何を実現したいのか、どういう構成要素があって、それらはどの様に管理されるのか、構築する才能が居る。
それがない人は、IT土方といわれる仕事は出来るだろうが、先はない。
そうして設計したものを、どの言語で、どういった環境で実装するかと言うのが実装フェイズだが、ここからは単なる言語仕様などの世界で、
「言語仕様」などの細部に拘っていると、「問題解決」という本質を見誤る。
→ 自分はどうしたいか、どんなふうに仕事をしたいかを優先する
→ 相手はどうしたら動きやすいか、なにを協力できるかを優先する
◎折衷ルール
→ 相手の動きを見つつ、その中で自分はどうしたらやりやすいかを伝える
→ いまこう思っています、こういうところがつらいです。もしくはそれを我慢
○相手中心
→ どうですか? お手伝いしましょうか? この辺大変そうですよね?
◎相手&自分中心
→ この辺なんですけど、こうしたらどうでしょう? これだと上手く行きそうな気が
×自分の力でやってみる
→ 必死に考えて一番上手くやれそうな方法を探す
○相手のやり方を観察
→ とにかく上手い人の側へ行って、そのやり方をひたすら観察する
◎相手に教わる
→ 複数人の上手いところを発見し、折に触れてそれを賞賛しながら聞く。
ひとりに師事すると相手負荷になるので、負荷分散するのがコツ。
→ 自分の記憶力等を信じて、それを疑わず、失敗さえも疑問視する
○自分の周囲の使えるツールはなんでも使う
→ 失敗するたびに、自分を反省し、補助ツールを駆使して足りない部分を埋める
◎自分の周囲の人々をチェック&向上ツールとして駆使する
→ 相手の負荷のかからない範囲で協力を求め、常に自分の仕事をチェックしてもらう。
→ このような状況を作ってくと、相手からアドヴァイスを貰えたり、自分のできなさ加減を確認しやすくなる。
×上手くいくまでひたすらに頑張り続ける
→ ひたすらにひとりで抱え込み、上手くいってないのを隠し始める
○ある程度まで頑張って駄目そうならばギブアップする
→ 相談できそうな人を見繕っておき、ギブアップラインを越えたら素直に相談
◎事前に予定を共有しておき、上手くいってないことはすべて開示しておく
→ 上級者で、自分は助けられそうだなと思った&手空きの人がヘルプしてくれる
→ 上手くいってなくても、報告せず、なんとか挽回しようとして深みにはまる
○上司には正確な報告をし、上手くいっていないことも伝えておく
◎上司には上手くいっているところと、致命傷になりそうなところを伝えておく
→ 上手くいっているところにはさらに欲張りなオーダーを、致命傷には回避策を教えてくれる。
→ 上司にすべてを伝えずに、上司の情報負荷を下げてあげるところがポイント
→ 相手はライバル心を抱き、非協力的関係になる。
○同僚は仲間だから、おもしろおかしい話をして、親交を保っておく
◎同僚の中でも上手くいった人を褒め、それに対して興味を持つ
→ 同僚内によし上手くやってやろうという空気が生まれ、結果が出たことに対して褒め合う文化が生まれる
×自分の限界まで頑張りきり、生か死かぐらいの覚悟で結果を待つ
→ 失敗するたびにショックを受け、そのうち立ち直れなくなる
○とりあえずリミットを決め、八分目ぐらいまででまとめ上げる
→ 数をこなすうちに、八分目のレベルが上がっていき結果的に高成果を出せるようになる。
→ 検証フェイズを行う余裕を作っておくのがポイント。駄目でも諦めがつく。
◎プロジェクトに応じて、120%で行くか、80%で行くかを決めメリハリをつける
→ 勝負を賭けるときと、賭けないときのメリハリをつけ、コンスタントに好成績を出していく
→ リスクを分散し、着実に伸ばすところと、一発逆転を賭けるところを持っておく。
×上手くいったところだけを取り上げ、それで悦に入る
→ 単なる幸運だった可能性を考慮に入れず、回収できた教訓がなにもない
○失敗したところだけを取り上げ、その解決策を練り、次回につなげる
→ さらなる向上が確実に見込め、着実に進歩しないでもない。
◎評価を他者にゆだね、それを謙虚に聞き続ける
→ 評価の客観化につながる。そのようなエコシステムを構築することも重要。
と書いてみたけれども、結局のところ、仕事が上手くいかない原因は、全部自分内で完結してしまっていて、外を上手く使っていないということが原因であることが多いと思う。初級レベルで上手くいかないときは、この辺かなあと思ったりした。洗い出してみて、上手くいくときはここまで外を使っていたのだねえと思ってしまった。逆に言うと、全部×の人はかなりやばいですよぉ!
何となく思いついて、さらさらっと企画でもプログラムでも作る人っているじゃないですか。発想をカタチにするのが生きがいみたいな人で、100個作ってみて1個大ヒットだったら良くて、それでいて「これ、俺が作ったっすよ」とか語らない人。
で、仕事が大きくなったり、社会的に成功したと持ち上げられるフェイズに入って、あれを思い返させられる時が来る。とにかく、何かニュースバリューになるものを、とインタビューをされるとか、記事にされるとか。
そういうのの前後に、たいてい会社ってデバッグ部門とか、セキュリティ部門みたいなのができてる。仕事を仕事としてこなすプロとしての統制屋。でも、それ単体で見るとコストセンター。仕事をすればするほど、組織は窮屈になっていく。
冒頭の、何となく思いついて作ってしまう人からすると、そういう統制屋から「それを公開する前にセキュリティリスクは調べましたか」とかメールが来る類の面倒くささ。活力ある組織が大企業になっていく過程で、ちょっとした思い付きを実現していって、それを付加価値にする試行錯誤を苦労なくやってくれる人が、どんどんWebの決まりごとの中に埋没していく。
極めつけは「それを製作したのは、あなたの勤務時間内でのことですよね」って奴。言外に、そのサービスの不具合は会社の責任だよね、という誘導尋問をしているわけだし、メールでやるってことは証拠を残すってことだ。会社から発信するIMやtwitterや、そういうのもそう。気軽に社外の人々に脆弱性探しをしてもらうことが、コンプライアンス違反に問われてしまう。そんなはずじゃないのに、セキュリティの意識が足りないとか、自覚がないとかいう言葉と共に、あれこれ禁じられていく過程としての企業成長。
そんなつもりで投資したんじゃないし、企業も大きくなるもんじゃないと思うんだけどね。
株主総会資料とか見てそう思った。
株主だから何かを語ろうとかそういうつもりじゃなく、単に、仕事として、もっと簡単に言えば営みとして、誰かの役に立つためにプロダクトを作ろうとする人がいて、それに対価を払ってくれる人がいて、それが大きく盛り上がったから、商売として会社という形態が社会的にもよかろう、ということで組織体になっているにすぎない。
会社が先にあるんじゃなくて、ビジネスがあって、会社のような組織体が必要とされる。当たり前のことだと思うんだけど、セキュリティが金を稼ぐわけじゃないから。上場すれば、自動的にお金が入ってくる仕組みが出来上がるというわけでもないから。
トラックレコードが良ければ投資するよという市況でもなくなってるわけで。赤字でも夢を持ってやって逝きます、とプレゼンをしてくる、その夢はいつ、どう実現するかをまさに聞きたい。そんなの分からねーよ、と言いたいのも分かるけど、いや、不確定な話を計画にして持ってこいというのも不遜な話だという自覚はあるけれど、でもお前らは利益を出していないんだ。赤字なんだよ。株価が冴えないとかってのは別の問題で、まず利益をしっかり出すこと、これがいまの環境がお前らに求めていることそのものだ。
数年前は、Tシャツやジーンズ着て会社にきてざっくばらんな打ち合わせで夢を語る連中が出した利益を、なんかどこそこのセキュリティ勉強会出たという高そうな背広着たのが持って回ったプレゼンをしに来る、それ自体がコストだわ。
ほんと、誰を向いて仕事をしているんだろうね。
広告を作っているんだが
広告の事を分かってない対象商品の専門家、開発者などのクライアント、担当者が一番うっとうしい
こちらにとっては基本的な約束事が、向こうには身についていないので、かなり基本中の基本まで降りて説明しなければいけない
ちゃんとしたものを作りたいと思っているが、センスがないのでいつも障害になる
別にセンスはなくてもいいんだが、細かいフェイズでいちいち口を出してくるから困る
どのぐらい困るかというと、恋愛映画を作ってる時に、歌舞伎町ナンバー1ホストがそうじゃない!!このカメラアングルだ!!と専門外の事を決め付けてくるぐらいうっとうしい
あのな、あんたには分かる専門の事と分からない専門外の事があるんだから、せめて専門外の部分はちょっと黙ってくれ
ちゃんと仕事できないだろう
何もしない人が衣食住確保できるシステムが健全かどうか、俺は知らん
だから、なんて言うか、俺が住居を失う事があったら少しでも暖かい所に行こうと思う
障害や病気の人は働けないってのはもっともだけど、そういう人は縁者が世話するモンなのかなぁ。縁者にとってはいいことなんもないけど
国、国ってなんだろうなぁ
難しい事はわかんないけど、海外の恵まれない人達を無償治療するのに国の金使うより、現状では国内のピンチな同胞の為にその予算を使った方がいいんじゃね?とか思う
海外を助けるのは自国に余裕がある時だけネ。みたいな割り切りができないのが国っていうデカいシステムの悪い所じゃないかしらと
今削るべきは、何やっても特に感謝されたりしない他国への支援で、それを国内の同じ国籍を持った人達へ与えるフェイズじゃないかしらと、勝手に思う
自分のケースでしか話すことができなくて恐縮だけど、内耳圧の話詳細。
まず、自分の場合、あくびのはじめに発生する、耳の奥あたりでじょりってなるあれを常時あくびなしで発生させることができる。トンネルの中に入った時みたいなぼわーんがきても、普段はすぐにそのじょりっで内耳圧リセットできる。
風邪の時は朝起きた時あたりに耳がトンネル状態になってて、じょりってやろうとしても何故かその辺の機能が死んでてできなくなってる。それで、あー風邪だ、かっこんとーかっこんとーってフェイズに移る。
きーんとした耳鳴りはそれとは別ベクトルで来るから、正直分かんない、お役に立てなくてごめん。普段自力で耳鳴り止められる体質なのに止められないんだとしたら、風邪サインの仲間入り果たしてもいいサインだと思う。
体温は変動しやすいからあんまり計らないなあ。ごはん食べるだけで微熱出るし。
言いたかったことは「人それぞれ」って話なんです。よその人のサインを無理に自分に適用させると余計判断に困るよと。長々すみません。
「オンラインで流せるテープ」 を提供していた muxtape が閉鎖して一月。昨日出た、運営者からのメッセージを勢いで翻訳する。
http://muxtape.tumblr.com/post/51762430 ←反応
僕は音楽を愛している。
音楽を愛している人にとって、そして音楽そのものにとって、音楽を共有するという欲望は、本質的でかかせないものだと信じている。
愛すべき音楽に出会ったとき、僕たちは友達をターンテーブルの前に集め、CDを貸し、カーステレオで鳴らし、ミックステープを作る。
僕たちは、音楽から感じるものを知っているから。他の誰かにも、それを感じてほしいから。
Muxtapeの物語が始まったのは、僕がオレゴンでやっていた、週一の大学ラジオ番組だ。
その番組で流した曲の記録のかたわら、そのプレイリストをウェブに上げていた。ひとつのブロックが、その週の番組を記録したカセットに対応するというものだ。
当時、ミックステープは斜陽の時代に入っていた。でも、あのプレイリストのページは、ミックステープと同じ役割を、そして多くの点でよりよい役割を果たすはずだ。僕は番組を終えてからも、そのことをずっと考え続けた。
ミックステープのように、プレイリストはある意図を持って集められたものであって、その価値は単なる足し算にとどまらない。
ミックステープとは違って、プレイリストには物理的に届けるための制約がない。でも同時に、そこには実際の楽曲がない。
誰かがそのページを見にきてくれても、知っている曲があれば共感してくれるだろうが、 本来リスナーである人たちにミックスを実際に編集する手間を押し付けるのは、もともとの目的をダメにしてしまう。
プレイリストのことをまた考えはじめ、ついにそれに命を吹き込んだのは、その頃のことだ。
僕の音楽を(ミックステープ的な意味で)共有するという欲望はなくなってはいなかった。
だけど、その行き場はなくなりつつあった。
大手のブログサービスは音楽ファイルを短期的に置けるようにしていたけれど、
そういう場は僕が求めていたものではない。
カセットテープを手に握ったときにうまれる、突き動かされるような感覚。
それを手にしただけで、プレイヤーを探してそいつの使命を遂げさせたくなる。
Muxtapeの設計の目標は、そういう実感ををデジタル世界に翻訳してやり、音楽が生命の火花を散らして、持つ人を聞かずにはいられなくするということだった。
最初のバージョンは僕のtumblrに載せた一枚のガジェットだったけれど、後の姿と本質的に変わりはない。
フィードバックはすごいものだった。
「俺の分も作ってくれないか」という質問が次々と来た。
でも考えが進むにつれ、それはひどくもったいないことだと気づいた。
ソースで配布すると、到達できる範囲はせいぜい自前のサーバーを持ったニッチなクラスタだけになってしまう。
音楽を発見するための、もっと大きな機会をすべて閉じてしまう。
ミックステープの抜け殻に見えていたそれは、すぐにミックステープの進化形に見えだしてきた。
作ってやらなければならない。
三週間の夜をけずった結果、僕はMuxtapeを公開した。
成功はすぐに目に見えて現れた。
24時間で8685人の登録があり、
1ヶ月で97748人の登録と1200万ユニークアクセスがあり、
さらに順調に伸びつづけた。
行き過ぎた予想。技術オタクは賛美するか、すぐに失敗すると断じるかに分かれた。
誰もがどきどきしていた。
僕はぞくぞくしていた。
Muxtapeは「レーダーの視界の下を飛んでいる」からなんとか生き残っているだけだ、という誤解は多かった。
いわく、メジャーレーベルに見つかれば、閉鎖させられるだろう、と。
実際には、レーベルとRIAAは普通の人と同じようにウェブを見ている。
僕も一週間かそこらで、連絡を受けた。
RIAAからの通告が、メールと書留郵便とFedEx夜間便(紙とCD)の三点セットで届いた。
彼らは、権利侵害に当たるらしい6つのmuxtapeを止めるように求めてきたから、僕はそうした。
同じ頃、あるメジャーの著作権問題(anti-piracy)担当者からの連絡を受けた。
電話をとって最初に聞いた一言は、「教えていただきたいんですが、召喚状と訴状は、どこに送ればいいんですかね?」
対話はそこから始まった。
召喚状は送られてこなくて、それは雰囲気を新規ビジネス立ち上げの会議にふさわしいものにしようとする彼の脅し戦術だった。
本当の狙いはビジネスだった。
同じ頃、別のビッグフォーの企画担当者からもコンタクトを受けた。
次の一月、僕は聴き続けた。
頭のいい法律家、この手の問題について傾聴すべき意見を持つ人々と話し、
Muxtapeの合法性について合意を得ようとした。
得られそうな合意は、合意がないということだけだった。
「Muxtapeは100%合法で何の心配もない」から「Muxtapeは違法コピーの宝庫。十億ドルの訴訟とライカー島(Riker's Island)での服役の覚悟はあるのか?」までのあいだで、二十以上のすこしずつ違う意見をもらった。
結局Muxtapeの合法性は法律的に曖昧(moot)だった。
正当性があろうとなかろうと、訴訟で戦う費用はない僕の上に、メジャーレーベルは斧を振りかざしていた。
僕はいつも、アーティストかレーベルが連絡してきて問題を訴えたなら、削除をすると、自分の中で決めていた。
でも、誰からもそういう疑義はなかった。
ひとつも、なかった。
逆に、僕が聞いた範囲では、どのアーティストもこのサイトのファンで、その可能性にわくわくすると言っていた。
そこの親会社は怒っているに違いない大きなレーベルのマーケティング担当から電話を貰い、最新の情報をホームページに反映させるにはどうすればいいかと訊かれたことも何度かあった。
小さめのレーベルからは、彼らのコンテンツを別のクリエイティブな仕方でアピールできないかと言われた。
明らかに、Muxtapeはリスナーにもアーティストにも、同じように価値あるものだった。
五月、メジャーレーベルのひとつ、ユニバーサル・ミュージックとの最初の会議をした。
僕は、最悪の扱いを覚悟して、一人でそこに行った。
この十年、インディーの界隈に片足を突っ込み、そこで大きなレーベルが彼らの利益になるものも知らず、頑固にラッダイトしているのをみたからだ。
ここで言っておきたいのだけど、レーベルは自分自身のビジネスを、ふつうの人が疑っているレベルよりはずっとよく知っている。
ただし、未来へのアプローチに関しては、個々のレーベルによって驚くべき違いがある。
ユニバーサルで僕が会った紳士たちはすごく柔軟で機転が効いていた。
僕は、彼らにMuxtapeが与える利点を売り込む必要はなかった。
彼らはMuxtapeの素晴らしさを知っていて、ただ、支払いを欲しがっているだけだった。
その点については同情する。
僕は、共同で提案を行うにはまだいくらか時間が必要だと伝え、決定を先延ばしした。
彼らは大きく違ったタイプだった。
僕は会議室に入り、8、9人と握手をしてテーブルの前に着くと、目の前に "Muxtape" と題された電話帳並のファイルがあった。
彼らは半円状になって左右の脳のように僕の回りに陣取った。片方は法律、もう片方はビジネス企画。
会議の相手は交互に切り替わった。
「貴方は意図的に権利侵害をしている、サービスを止めるまでに数時間の猶予は与える」という法律サイドのハードな尋問と
「仮にサービスを止めさせられなかったら、どのような協力がありえると思うか?」というおずおずとしたビジネスサイドとの議論。
僕は提案を作るのに二週間を求めたが、二日と告げられた。
決断をしなければならなかった。
僕がみるに、選択肢は三つ。
第一は、全てをやめること。これはずっと考えていなかったことだ。
第二は、メジャーレーベルのコンテンツを全て禁止すること。これなら、直近の危機を回避することができそうだが、二つ大きな問題があった。
ひとつは明らかなことだけど、ユーザーがミックスに使いたいと思う大半の音楽を禁止することになってしまう、ということ。
もうひとつはメジャーレーベル以外に関して、楽曲の所有権と利用をどう扱うべきかという重い問題についてなにもやらないに等しい、ということ。
中規模のレーベルと独立アーティストにも、彼らのコンテンツがどのように使われているかについて、それほど圧力は使えないにしろ、大企業と同様の基本的な権利がある。
これは、ユニバーサルの人に会ってからずっと挑戦していたことだ。
他のサービスでライセンスを受けているものは、いろいろな理由でうまくいっていることを知っていた。
同時に、Muxtapeの場合は違うということ、少なくとも模索する価値はあることを知っていた。
レーベルがそこに価値を見出しているかどうかという疑問の答えは得られていなかったが、次の疑問は、それにどれだけの費用がかかるか、だった。
六月。
僕は五番街の法律事務所に、メジャーレーベルとのライセンス交渉の代理人をつとめることを求めて、彼らは承諾した。
そして、取引をするための遅々としたプロセスが始まった。
第一回は、堅苦しく複雑だった。だけど、思ったほど悪くはない。
僕は彼らを説得し、Muxtapeがこのままサービスを続けることが皆にとっての最良の利益になる、と納得させた。
これでうまく行きそうだった。
さらに二ヶ月、投資家と会合を持ち、サイトの次のフェイズを設計し、交渉を監督した。
困難が予想されたのは、Muxtapeが単純なオンデマンドサービスではない、という点で、オンデマンドよりは支払いが低くて済むはず、という点を考慮に入れてもらえるかどうかだった。
ライセンスの条件からはじめたかったのは、めずらしいwin-winになると思ったからでもある。
僕は、どんな通達があっても(at any given notice)、楽曲を検索して再生する機能を持たせたくはなかった。
一方、彼らもそういう昨日にあまりいい顔はしない(少なくとも、今の価格では)。
それまでは、すべての議論は数字に関するものだったが、
合意に近づくにつれて、掲載位置の販売とかマーケティングの方向性に話が移ってきた。
Muxtapeのモバイルバージョンを提案したが、否定された。
僕の柔軟性は身動きできなくなっていた。
Muxtapeに対して公正な取引をすることに心を割いてはいたけど、僕がずっと持ちつづけていた最大の関心は、サイトの統一性と使用感を保つことだった。
(それはライセンスを求めはじめた元々の理由のひとつでもある)
Muxtapeの経済面での各種の侵略に合意したのも、動かしたい(play ball)からだった。
だけど、編集と創作についてコントロールを手放すのはものすごくつらいことだった。
これと格闘している最中、Muxtape のサービスをホストしているAmazon Web Servicesから通告を受けたのが、8月15日。
Amazonの規約によれば、とんでもなく長い一覧に挙げられた楽曲を一営業日以内にすべて除去しなければ、
これはかなりの驚きだった。
RIAAからの連絡はずっと途絶えていたのだけれど、僕はこれをレーベルの理解が得られたためだと思っていた。
僕はライセンス交渉の最中にあること、これは事務的な間違いじゃないか、夏の金曜日の午後をとりもどせるようにするためにはなんでもしよう、ということを説明しようとした。
一営業日どころか、週末を越えて月曜日までやり続けても、結局、Amazonが要求する文書を作ることはできなかった。RIAAに電話で連絡したけれど、受けてもらうことさえできなかった。
これを解決できるはずだという、ほんとうに感じていたままの期待をそこにメッセージとして残した。
僕はまだ、これがなにかのひどいミスだと思っていた。
でもそれは間違いだった。
事態がすこし把握できてきた次の週。
RIAAの動きは、レーベルの親会社とは別の、自律したものだということ。
レーベルとの間で得た理解は、RIAAには継承されないということ。
どのレーベルも、僕を助けることに特に興味を持っていないということ。
彼らの見かたでは、交渉には影響しない、という。
僕は納得しなかった。
取引にはまだ数週間か数ヶ月(インターネット上では永遠に等しい)はかかる。
つまり、Muxtapeはすくなくとも年末までは止まったままということだ。
また、どうやって支払うかという問題も残っていた。
この変わりやすい世界では、急成長するウェブサイトがある場合でさえ、投資を受けるのは難しい。
ライセンスの取引すべてからの撤退。
どの取引も、単純さを信条とするこのサイトに対しては複雑過ぎるものになりつつあり、
僕がやりたい方向のイノベーションにとって、制約が強すぎ敵対的すぎるものになりつつあった。
開発にほとんど注意を向けられなくなってしまった結果、僕は自分のモチベーションに疑問を感じはじめていた。
僕は、すべてを犠牲にして急スピードで大会社を建てるために、これをはじめたんじゃない。
僕がこれをはじめたのは、音楽を愛する人たちのために単純で美しいなにかを作りたかったからだ。
だから、またそこからはじめたいと思う。
でも、いままでどおりのものではない。
ある、開発初期段階にある機能を取り入れるからだ。これからはその機能に中心的な役割を持たせたい。
Muxtapeは、バンドだけのためのサービスとして再出発する。
インターネットで活動するための、これまでにないシンプルで強力なプラットフォームとしての機能を提供する。
2008年のミュージシャンは、ウェブ開発者と手を組まない限り、オンラインで地位を確保する手段はほとんどない。
しかし、彼らのニーズは、実は共通の問題の中にあることが多い。
あたらしいMuxtapeは、バンドが自分の楽曲をアップロードして、それを埋め込みプレイヤーとして提供し、
もともとのMuxtapeの形式に加えてウェブのどこででも動かすことができるようになる。
魅力あるプロフィールを取り付ける機能、さらに、カレンダーや写真、コメント、ダウンロード、販売、あるいはニーズのある他の全ての追加機能のモジュールを提供する。
システムは0の段階から無限に拡張することができ、CSSデザイナーが使えるようなテンプレートシステムの層を設ける。
詳細は追って公開する。
ベータ版はいまところ非公開だけど、数週間以内に変更する予定。
これは機能の点でかなりの大きな転換だということは、意識している。
僕はいまも、音楽をオンラインで経験する方法を変革したいと思っている。
僕はいまも、相互接続された音楽のもっとも興味深い側面、新しいものをみつける、という側面を実現したいと思っている。
第一フェイズのMuxtapeをこれだけすごい場所にしてくれた皆さんに感謝します。
皆さんのミックスがなければ、ありえなかったことです。
音楽業界はいつかついてくるでしょう。ぜったいに、そうすることになるはずです。
Justin
もう既にどちらが持ちかけたというのはどうでもよくて、
小沢代表がある程度連立を視野に入れていたということが重要なフェイズに移っているから。
民主党も小沢復帰のあかつきには、安保関連の政策協議を検討する約束事まで作った。小沢があれだけの記者会見をしてしまったのだからどちらにせよこれからだね。
朝日・日経以外の毀誉褒貶はあったかもしれないけど、小沢があの会見をしてしまったことで結局マスコミにはジャブぐらいしか打てなかった。
行き過ぎはあったけど小沢があの会見をしたんだから小沢が連立も考えてた事は既に事実になってしまったということ。
だからこの後もみんな読売を信じるだろうね。
この記事を使用するとき、使用者は以下の効果の内、一つを選択する。
一、 もし貴方が、上半身はTシャツ一枚で、手にうちわがあって、寝ぐせがまだ直ってなくて、ここ5分以内に烏龍茶をコップ一杯以上飲んでいて、なおかつMPが30以下の場合、この記事の効果により貴方の目が回ります。ただし、貴方が次のターンのエンドフェイズまでに負けを宣言し、なおかつフィールド上の全クリーチャーを墓地へ送ることを約束することによりこの記事の効果の対象から外れることができます。なお、約束を守ったかどうかは本記事は一切関知しません。
二、 もし貴方が望むなら追加コストを支払うことでこの記事の効果を無香にすることができます。そうでなければ、この記事はひどい臭いをまき散らすでしょう。
四、 全てのプレーヤーは3ターン以内に負けを宣言するか、いますぐデッキから30枚のカードを墓地に送るかのどちらかを選択しなければならない。
前準備、攻撃、構造化という3つのフェイズがある。
まずはコミュニティの心理的な地形を把握する。社会的な立場が同一であっても、
立場の強い人や弱い人、打たれ強いひとやそうでない人、様々な力関係が見えてくる。
一見すると「平野」のように見える組織であっても、よく観察すれば、必ず山や谷がある。
状況に応じて「地形」は変わる。メンバーの入れ替わりや、組織にもち込まれる様々な問題、
メンバー同士の喧嘩といった、様々な要因は「山」と「谷」とを逆転させ、
コミュニティ内部の地形を複雑に変えていく。
攻撃者は、対象との何気ない会話を通じて、その人の出自や年齢、得意分野や社会的な立場等を
探っていき、対象が「谷」に置かれる状況、「山」になりにくい状況を探る。
適切な状況設定を通じて、対象が「谷」の位置で安定したところで、攻撃が行われる。
罵倒には意味がない。攻撃の目的は、対象をコミュニティから切り離すこと。
攻撃すべきポイントは、対象の「存在」や「行為」などではなく、「異質である」部分。
対象の異質性が強調されることで、「攻撃者と対象」という1対1の関係は、
「コミュニティ全体に対立する一人の対象」という構図へと進化していく。
基本方針は2つ。
結果には再現性がある。同じ問題に別の人があたったところで、結果が変わらない可能性が残る。
結果にたどりつくまでの「過程」には、無限のやりかたが考えられるので、「異質である」ことの
非を問うべきは、「対象がたどった過程」となる。
攻撃者は、「対象が嫌いだ」というメッセージを発信してはならない。
発信すべきは、「攻撃者は、対象が実力を発揮できるような構造設定に尽力したにもかかわらず、
対象はそれに応えられなかった」という絶望感であり、外見上、攻撃者は対象を責めてはいけない。
映画「フルメタルジャケット」では、パンを隠し持っていたゴーマー・パイルに与えられた罰則は、
「パンを食べる」というものだった。パイルがパンを貪っている間、それ以外の全員には
「腕立てふせ」が命じられた。
熟練した攻撃者は、攻撃を通じて、次の攻撃への前準備を済ませてしまう。
対象を罵倒する台詞を通じて、同時にそれ以外のメンバーの笑いを誘ったり、対象の失敗で迷惑を
こうむるのが対照以外のメンバー全員だったりといった設定を通じて、次の攻撃への下準備が行われる。
「いじめ」というのは構造がおこすものであって、人がおこすものではない。
同じ攻撃者が対象を責めつづければ、どんなにそれを巧妙に行ったところで、
いつかは攻撃者自身がコミュニティから疎外されてしまう。
「強者が弱者をいじめる」攻撃手法は、対象にはほとんどダメージにならない。
対象の周囲を囲んでいた「弱者」が牙をむき始め、「弱者が弱者をいじめる」
構図が生まれて、はじめて攻撃はダメージとして意味を持つようになる。
何回かの攻撃を通じて、攻撃者が最終的に目指すのは、対象を絶対的な「谷」として、
そのまわりを残り全員が「山」として取り囲む、コミュニティをそんな構造に固定すること。
コミュニティ内部には、対象と同じく立場の弱い「谷」となっているメンバーは他にもいる。
外圧を演出することで、彼らを「山」として持ち上げることができる。
コミュニティが外圧に抵抗するためには、集団が一つの価値観でまとまらなくてはならない。
同調圧力の中で合意を形成していく過程において、異物に対する攻撃が出現するのは必然であり、
集団の正義ですらある。
合意が形成されていく中で、異物としてとどまらざるを得ない対象一人を除いて、
すべてのメンバーは異物の排除に参加するか、少なくともそれを黙認する「山」となって
対象を取り囲み、対象の逃げ場を奪っていく。
外圧の演じかたは2通り。対象が不得意なものをぶつけるやりかたと、対象が得意とするものを
外圧として利用するやりかたとがある。
対象が苦手な問題を使う例としては、たとえば何人かのチームを組んで問題に当たらせるとき、
対象と組む人間が誰もいない「仲間はずれ状況」を作り出すとか、チーム全体に集団責任ルール
を設定した後、解決不可能な問題を提示して、チーム全員を罰してみせるやりかたなど。
対象が得意なものを使うときには、対象一人にほとんどの仕事を仕切ってもらって、
「仕切りたがりの対象を不快に思う、傍観者としてのそれ以外全員」という構図を演出する。
オウム真理教の前身となるオウム神仙の会は、1984年に発足している。当時はバブルが始まった頃で、これから景気も良くなってジャパンアズナンバーワンだ、と浮かれていた時期だ。11年後には、そのオウムがサリンを撒くというかたちで、大規模なテロを起こした。
80年代の中ごろというのは、いまの状況とある側面では似ていると思う。経済が上向きになり、「勝ち組/負け組」(当時はマル金/マルビなどと言われていたらしいが)というような区別が流行り、消費が一気に活性化し、再開発が進んだ。そしてその狂騒にノれなかった人たちが、鬱屈をかかえて宗教に走り、その一部はカルト化した。
今の経済のフェイズが84年なのか85年なのか、はたまたバブルの天井の88年なのかは分からないけれど、景気回復の裏側で消費社会にノれない人たちが鬱屈を抱えるという現象は今も起こっているように思う。彼らの鬱屈がいつどのような形で噴出するのか、それは2015年かもしれないし2017年かもしれないし、平和で何事も起こらないのが一番いいのはもちろんのことだ。けれども、何らかの形で歴史から学ぶことはできるのではないか、と思う。