名前を隠して楽しく日記。
外部モニタにミラーリングはできるけど、変な解像度でぼやけるだけ。
ブランド戦略的に中華の変なモニタにつなげさせたくないんだろうな。
確かにiPAD使うオサレマンがJAPANNEXTとかのモニターにつなぐわけはないわな。
客層がちがうんだ。
【聖戦士ダンバイン】1~5話無料配信!2024年5月15日まで (『サンライズロボット研究所』開設記念配信‼) - YouTube
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「ダンバインのリメイクOPはとてもへぼくてかっこ悪いし声も変だし有名声優使えば面白いと思ってくれるみたいな甘えた考えを感じるけれど、これでカッコいいと思う人もいるみたいなので作って良かったと思う!RTはしない」
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マルハラ
真面目なあの人のが句点を使っているのは、当然だと思う。
いけすかないアイツが句点を使っていると、鼻につく。
フレンドリーな人が文の終わりに句点を打つようにうなったら、嫌われるような事をしたかと心配になる。
。。盛盛。。。。
俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念マシマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人、三橋鷹女の句を紹介したい。
あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方に燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中と出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?
たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台は京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりきれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいだから、この樹に登ったら全身火に包まれてしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ。紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれて鬼女になる」というその妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然・風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化も定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。
これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。
ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。
和服の着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程の総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。
「死ぬにはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為も何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダーの内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識を自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念の世界だと思う。
どうだろう、こういった情念・個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。
そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句の王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性と情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌と俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、だから俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。
それはもちろんそうなんだけれども、それは言い換えると制度や仕組みが急激な変化に対応していけないという問題なのであって、人口爆発による資源の枯渇のような本当にどうしようもない物理的限界による八方塞がりタイプの問題ではないので、まあ、なんというか、死んじゃうわけじゃないよねタイプの問題かと。
童貞、コミュ障、キモオタ、自分では気に入っているがはっきりとブサイクに分類される顔つき。女性と交際できるなんて思ってないし人間関係というものが心底嫌いなので付き合いたくもないけど、大学生のうちがこれ以上拗らせずに童貞卒業する最後のチャンスだと思ってる。
マッチングアプリかハプニングバーに行くのが正解なんだろうか、俺と同じで誰でも構わないからセックスしたい女性っていると思うんだよな。アドバイス求む
女は異性を所有したいとか生殖したいという欲求が男ほどないんだよね
そして女が伴侶や息子や推し以外の男には無関心なのとは逆に、男は登場する全ての女に好かれたい、モノにしたいという要望を隠さない
全ての異性の眼中に入れてもらえず結婚や生殖もできない現実に耐えきれず気が狂うのは男だけだよ
未婚既婚の寿命差が男のみに顕著なのもそうだけど
女をあてがわないとテロを起こすだの結婚の義務を果たさない女は加害されても放置するといった脅迫的な言動に走る
親しくないもしくは初対面の低身長男性や非モテおじさんのアプローチを断った女を高望み嫌われ者女扱いして攻撃(断った事実は女自身と断られた男しか知らない)
顔も名前も身元も不明でも認知や会話してくれてレスポンスをくれる女なら誰でもいい
ギャラリーストーカーを含め一般人やネット越しの声優やvtuberなどにつきまとい、ババアいじりや貧乳いじりや未婚年増いじりといった「無価値な女を相手する俺」コントを押し付ける
ワイはようやく Touch ID ついたから iPad Pro 12.9インチ (第2世代/512GB) から
iPad Air 13インチ(1TB) に乗り換え予定やがいうほど新しいか?
なぜか名前が出ない