はてなキーワード: ブレア・ウィッチ・プロジェクトとは
低予算映画の系譜として、ブレア・ウィッチ・プロジェクトとかパラノーマル・アクティビティに連なる作品になったことは確かだね
映画レビューの信頼度を測って順位付けとか映画好きとして看過できない記事を見かけた。
結論から言えば、言葉の使い方から数字の使い方までテキトウで、普通に侮蔑になっててヒドイ。
(たぶん自分が何をしたいのかよく判って無いまま数字を弄ったからだと思うけど)
みんなも、自分の感性に似てるレビュアーを見つけるようにしてみよう!
映画は感性に大きく左右されるので、万人に正解があるレビューは存在しない。
端的に言えば、アンパンマンが好きな人と、チャイルド・プレイが好きな人とで、レビューの読み方は違う。
どんなに高評価だろうが、子連れがポルノの帝王「ドン・ジョン」みちゃダメなのだ。
どんなに高評価でも、ゴア好きがモキュメンタリーホラー「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」はダメだろう。
なので、映画のレビューの優劣を決めよう、成功や失敗を検定しようというのは、無意味な行為だ。
「オレが映画を観る参考にする為に、ある人のレビューが利用できるか知りたい」なら別に問題ない。
これは言い換えると「オレの感性に最も近いレビュアーを探したい」と言う意味だからだ。
そこで、自分の映画評とマッチングさせるにはサンプル数が少なくて使いづらいので、
自分の感性の近似として「Filmarks」スコアを用いる、なら良いと思う。
これは「Filmarks」の評価集積に良く近似するレビュアーを見つける事になるからだ。
(これなら、近似しないレビュアーが別に劣っているわけではないことは自明だ)
故障率とか、稼働率を出す際に利用されている、工業的な用語だ。
(ある業界内の定義通りに使えという意味ではなく、キチンと意味付けして使う必要があるってことだ)
「Filmarks」が2点以下なのにレビューが4点以上なら「故障」と意味づける、ならまだ判る。
Filmarksの低スコアを高スコアにしちゃう人、つまりオレの地雷判定とは違う≒壊れている、だ。
(それだって相当失礼な表現だが。本来この手のは第一種過誤と第二種過誤(偽陽性・偽陰性)の話だ)
ある値(真値)に近いかどうかを示すのは、「正確度(accuracy)」と呼ぶ。
1点を1点と言うか、4点を4点と言うか、ということだ。マッチングだね。
計測値に再現性があるかどうかは、「精度(precision)」と呼ぶ。
2点の映画を1点と言ったり3点と言ったりバラつきが無いか、ということだ。
元々やりたかったことが「地雷を踏みたくない」なら、信頼度(故障率)を測るべきだ。
件の雑な記事では、正確度を測ろうとしている。しかも測り方が輪をかけて雑だ。
そもそもの「地雷を踏みたくないから、低評価映画を高評価付けられたら困る」なら、
「Filmarksで低評価を付けられてる作品に、何点付けたか?」を数え上げないといけない。
件の記事のFilmarksスコアで2点以下は、「ワイルドカード」ただ一本である。(2.9点)
そうすると「地雷避けレビュアーを探す」意味では、コレと比較しないと無意味だ。
(4点を4点と評価してても、2点も4点と言っていれば、地雷避けにならない)
一本しかないので誰でもすぐ判る。
- 中山 治美(2点):こんなジェイソンはイヤだ!
- 森 直人(3点):意外にもオフビートな面白さ
- くれい響(3点):ハゲがハゲを嘲笑する深い意味。
- ミルクマン斉藤(3点):強引に派手な展開を狙わない余裕のステイサム映画。
- 相馬 学(4点):ハードボイルドな味が活きたステイサム最新作
- なかざわひでゆき(4点):これぞ男が惚れる“男の映画”
(http://www.cinematoday.jp/movie/T0019688 短評順序は引用者入れ替え)
同率2位が、3名。Filmarksで低評価なのに4点が2名。
件の記事では中山 治美が7位、相馬学、なかざわひでゆきが4位と、
地雷避けには全く使えない順位になっていることが、ひと目で分かる。
あのランキングでは、ワイルドカードは観るべき映画になるのではないか?
(そもそも1本で検証する滑稽さは伝わると思うが、10本でも同じであるのはお分かりいただけるだろうか?)
目的を忘れて地雷避けにすら使えないランキングをドヤ顔で載せるぐらいなら、
レビュアーのお名前を書いた紙飛行機を飛ばして、飛距離順に並べたほうがマシである。
ミルクマン斉藤さんがFilmarks近似である(その他の方がFilmarksと乖離がある)と主張する件の記事は、すぐに取り下げるべきだと思う。
タイトルに「【検証】シネマトゥデイ映画短評ライター信頼度調査 ~映画評論ライター9人の頂点は誰だ?」としているのは、即取り下げて謝罪すべきレベルの侮辱記事であると思う。9名全員を愚弄している。
(最低でも【お遊び】【ジョーク記事】と入れるべきだし、調査や頂点という単語を使うべきではない。はてなブックマーク - 【検証】シネマトゥデイ映画短評ライター信頼度調査 〜映画評論ライター9人の頂点は誰だ? - YU@Kの不定期村に冷静なブコメが付いているのが不幸中の幸いだ)
・アイスを買って食べる時、いちいち俺の分も味見をしたがる。同じ味でも俺の分を舐めにくる
・自分が先におやつを食べ終わった時、まだ俺の分が残っていると、何かしら手を考えて奪いにくる
・ブレア・ウィッチ・プロジェクトを借りてきて、怖いから一緒に見て?と言ってくるかと思いきや、俺一人で観てレポートを書いて提出するよう要求する
・友達には「そんなに怖くなかったよー」とか話している(電話で)
・かわいい
・夜中に「怖いから一緒に寝ない?」とかは残念ながら言いに来ない
・かわいい
・俺の部屋で布団を敷いた後、柔道の真似をして大外刈りとかをかけに来る
・かわいい
・俺も苦手
・だけど俺の部屋にきゃーきゃー言いながら退治するよう命令にくる
・かわいい
・ゴキブリが自分の部屋で出た後見失ったことがあって、俺の部屋で寝る?といったけど残念ながら母の部屋で寝てた
というくらいかわいい。
ダイアリー・オブ・ザ・デッドを40分見て、おしっこしたくなったので席を立って、すっきりしたら帰りたくなったのでそのまま帰ってきた。
けれど映画は面白かったと思う。ゾンビ、どーん!飛び散る肉片!内臓ゾロリみたいなのは単純に適性がないようだったので置いといて、POV撮影の映画をいくつか見てきて(ブレア・ウィッチ・プロジェクト、クローバーフィールド、●REC)、どの作品も「主観的に撮影がなされていること」の説明に「撮る意志」「記録として残す意志」が少なからず関係していたのだけど、ダイアリー・オブザデッドでは、それを為すことについて、その「意志」のいやらしさや悪意、それに対する躊躇や嫌悪感まで、あまさず取り出そうとしている。けれどこれは、もちろんフィクションで、フィルムはゾンビによって崩壊した世界から届けられたものではなく、その「記録として残す意志」というのも、現実には存在しない嘘っぱちではあるのだが、「フィクションの中で、死者(ゾンビ)を、撃ち殺す」のと、「フィクションの中で、カメラを、回し続ける」のが、同様に嘘っぱちであるのであれば、「そ、そこゾンビいるよ!!!!1111^@」と思うのと同じくらいに「そ、そこ撮ってよ!!!」くらいには「撮る意志」を思いやる必要があるのだと思った。映像にならなければ僕らは映画を見れないらしいし。