はてなキーワード: ドラゴン桜とは
http://anond.hatelabo.jp/20081027160514
増田のアフォさかげんにあきれ果てたので、上から目線で説教もどきを行う。
ひとつには、文学やろうとしてるのに、編集者がそんなもんだということをぜんぜん理解してない。
これが『ドラゴン桜』だったら桜木が偉そうに御講釈を垂れるところだ。
編集者ってのは、会社の従業員であっても、こと「本をつくること」に関しては独裁者。
「自分がいいと思うものを書ければいい」というならともかく、「本を出したい」のなら
「本を出してくれる人」のことを研究しないでどうする。
そしてもっと大事なのは、そんなに本を出したいなら、たとえばゲイの編集者をみつけて
尻を差し出すとか、その程度の狂気と紙一重の行動を示せと。
そのくらいの覚悟がないなら、ただでさえ厳しい本の世界、入ろうなどと思うのがそもそもの間違い。
前にドラゴン桜は結局東大受験は環境次第って書いた増田だけど、あれ受験を控えた高校生が読んだらどう思うのかって疑問が出てきた。
繰り返すけどあの漫画って受験をするにはいかに充実した環境と情報が大事かというのがメインテーマなんだよね。
自分の学力やメンタル面を24時間体制で分析管理ケアしてくれるセラピストとしても超優秀な講師チーム
そこの生徒なら誰でも東大目指して勉強して合格するのが当たり前という空気←多分これが一番重要
これらが揃わない環境下ではどんな努力も方向性を誤って空回りするするだけで、実際モロにそれを生徒に言わせているシーンがごまんとある。
だから講師としての立場の人間や既に受験を終えた人間が読んで自分の受験生時代との違いにカルチャーショックを受けたり自分の子供の指導に少しは活かそうとしてフムフム頷くのはわかる。俺もそんな感じで読んでる。
けどリアルタイムで受験に挑もうとしてる学生が読んだら絶望してしまうんじゃないか?
だってあんな理想的な環境は受験生本人の努力で得られるものじゃないし、求めても時既に遅しだ。まさに受験環境の格差社会ではないか。
なのに作中で散々「東大に行けなかったら騙されて馬鹿にされて人生終了」とばかりに煽ってるから今更引き返そうにもどうしても敗北感を引き摺って気が重い。
ついついそんな心配を抱いてしまうのだがどうなんだろうかな。いらん世話だと言えばそれまでだが。
ホットエントリのこれ。
新入社員がやってくる──専門知識を教える技術:第1回 “分かりやすく説明”しては、いけないんですか?
http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0802/26/news006.html
実はこれって塾講師のノウハウなんだよね。で、これが通用するということを逆に言えば、受験勉強が得意な奴ほど、いろんな分野の専門知識に対応できることになる。
だから、教育に時間をかけるよりは高学歴の奴を採用した方がよいってことになる。
で、そんな単純な理解でいいのかよと思いつつ、この記事を書いた「開米瑞浩」って人の名前をぐぐってみると、トップに出たのがこれ。
開米瑞浩の公式Webサイト
プロフィールはこれ。
開米瑞浩 (かいまい みずひろ)
東京大学理科一類中退。IT技術者の業務経験を通して「読み解き、考え、説明する」スキルの再教育の必要性を認識し、2003年からその著述・教育業務を開始。(以下略)
やっぱり東大か。ドラゴン桜みたいに正攻法を主張して、それで教育に一石投じようっていう狙いなんだろうね。
ただ、その方法論が通用してしまいそうなのがIT業界なのがまた辛いところ。だって、業務独占資格でもない資格試験をこんなに重視してる業界がどこにある?結局、テスト勉強得意な奴を重視する業界なんだろ。だったら結局東大様を筆頭に学歴で序列をつけるのが正解ってことになってしまうよなあ。
職場なり、プライベートなり、とんでもなく大きな失敗をしてしまい、当分は立ち直れない状況に陥ったことは無いだろうか?
私は今がそうだ。
超凹んでいた。いや、いるかな。
痛い。心が痛い。
で、今日は、職場の仲間に慰めてもらった。もちろん本質的な慰め&精神的回復では無いが、すごくやさしくてありがたかった。
わざわざ餡蜜を買ってきてくれて、いっしょにお茶をした。
元気出してねとさ。
当初この職場は非常に不本意であったが、ここに来て良かったと初めて口にした日だった。
昨日から本を読もうにも、何をしようにも、何せハートが痛いがために、全然頭に入らない。
というか、もう集中できないのだ。
ということで、今日は、仕事を早々に切り上げ、行きつけの(接骨院?)のマッサージに行った。
やっぱりいつもどおり先生は優しい。
すんごい凝ってるねぇ、と言いつつ、腰の痛みの原因を見事に見つけてくれて、大変だったの?とやさしく話しかけてくれる。
昔、「ドラゴン桜」に出てきた台詞を思いついた。
「人は、落ち込んでいる時こそ他人の言うことが素直に吸収できるんだ!」とかなんとか、そんな台詞だったと思う。
まさに今の自分だ。
人の温かさや感謝の気持ちが出てくる。
この職場も引っ越してきたこの町も不本意ではあったが、さんざん文句を言いながらも、こんなやさしい所は私にはありがたいところなんだと思う。
悪いと思っていたものが良いと思えたり、その逆もあったりと、人間の思考なんてその場その場で変わるものさ。
で、ちょっと思ったこと。
落ち込みから回復までいくつかの段階を経るんだと思う。(私は心理学者でも何でもないので、あくまで経験上感じたことです)
つまり、痛み、身に起こったことの客観的な分析、学習、etcという段階を踏むんだと思う。
落ち込んだ最初の段階には、まずひどい精神的ショック、痛みが来る。
泣いたり、わめいたり、ボーゼンとなったり、集中力散漫、眠れない、胃の痛み、言い訳(受け入れられない)、暴飲暴食、OD、などなど。
頭の中は、「御先真っ暗」な状態でしょう。
この時期は、応急処置が必要。
でもね、このめちゃくちゃ痛い段階のときに、外界からの慰めの手をもらうのはとても大切なことだと思う。
もちろん、痛みの即時的緩和という効果もあるんだろうけど、
もし、この段階を一人で乗り切ってしまうと、その後屈折した性格を形成してしまいそうな気がする。
トラウマになったり、他人に対してすごく意地悪になったり、色んな屈折した結果は出たり、何らかの傷のままになってしまうように思う。
骨折したものをちゃんと整復せずにそのまま痛みに耐え続けて結局曲がったまんまになっちゃみたいな。
反対に、この痛みの段階に、外部からエネルギーをもらっておくことは、「ありがたい」、「感謝」という健全な思考を身につけるプロセスになるのではと思う。
それに、早期に次の客観的な分析、学習の段階へ移行できるという効果も期待できる。
この時期にぐっと絶えるというのは我慢強いのかもしれないが、ちゃんと甘えるというのは、この落ち込みからの正常な回復を促す重要な要因となるのではと思った。
人に甘える勇気を持とうと思った。
ここで、適切に何かに甘えることが出来れば、屈折した自分よりは、感謝の自分へと成長する可能性が高いように思う。
外部からエネルギーをもらうというのは、何も、街中であるような手かざしじゃなくって、大丈夫?と言ってくれる人がいるとか、そういうことだ。
実際に中々そんな友好的な人間関係が身の回りにあるとも限らないので、他にも色々手を考えておく必要がある。
たとえば、好きな映画を見るとか、猫を抱っこするとか、美味しいケーキを食べるとか、友達としゃべるとか、何でもいい。
この痛い段階に必要なものは、一見、「軽い」と見られるような、いわば「気を紛らわせてるだけジャン」的なもののほうが有効だと思う。
この痛みの段階にある自分に、向上心を持てとかそんな、自己啓発物はムリムリ。
まずは、このパニック段階を脱して、冷静になることだ。
そのためには、一見くだらないことでもなんでもいい。
大事なのは、この痛みの段階にある自分にとって、(その場限りの応急処置として)何が効果的なのかを認識しておくこと、そして、準備しておくことだ。
私の場合はやっぱり人に話を聞いてもらうことだ。
あと、マッサージしてもらうこともとても良い。
この段階の応急処置は、次の学習の段階へとつながるものだから、実は、大切なんだと思う。
さて、なんとかパニック状況を脱したとする。
ここでは少し冷静に、なぜそんな失敗をしてしまったかの分析から始まり、もう少し上位概念(私の場合で言えば、最後の詰めが甘い!)を引き出し、それに対処すべく方策をいくつか考え、今後に生かすという大事な振り返りがある。
今回の大失敗の原因だけじゃなくて、原因の原因というか、大きめに失敗の原因をつかんでおく必要がある。
類似の失敗を今後も起こす可能性があるのだから。
あと、今回のような失敗をしなかったらどんなメリットがあるのかもちゃんと認識しておく必要がある。
たとえば、今回みたいな失敗をしなければ、自分の上司のことをこれ以上悪く思わなくて済むだろうし、人のせいにしなくて済む、人を嫌いにならなくて済む、余裕を持って振舞えるとより有益なアドヴァイスを引き出すことが出来たかもしれない。などなど。自分のことを考えてもたくさんある。
こういう見方をすると、物事をより多面的に把握することができる。
ダイエットに失敗ばかりの自分が言うのもなんだけど、もし今より5キロやせているとどんないいことがあるのか、認識が甘いんだろうと思う。
さらにもう一つ。
うまく行っているときにこそ、自分の弱点を補ってくれる策をいくつも探して準備しておくのだ。
たとえば、自分の詰めが甘いことがわかっているのならば、普段から、緻密な人を見つけておくべきだ。
別にその人と仲良くならなくてもいいから、ちゃんと適任者を見つけておく。
で、いざという大事なときに、自分のそばにいてサポートしてくれるように頼む。
こういう、うまくいっているときにやることっていうのは大事だなと思う。
病院探しもそう。
リスク管理といえるのかな。
努力が足りないのだからモテないことは自己責任、不遇を嘆く資格はないとおっしゃるのですね。人として当然のことができていれば恋人の一人ぐらいできるはずだ、と。
よろしい。結構。あなた方の言うことが正しいとしましょう。それはそれでかまいません。
ところで話が変わるようで申し訳ありませんが、「学歴差別」についてどう思われますでしょうか。「学歴なんかで人を差別するのは理不尽だ」「高学歴であることと頭の良いことは違う」と皆さんおっしゃいますね。
ですがですね。旧帝大といえども、高校の教科書をきちんと理解していれば合格できるのですよ。それは「ドラゴン桜」が流したデマなんてもんじゃない。私は旧帝大院卒ですからそれは保証します。
とすればですよ、その程度の「努力」をするというのは、高校生として当然のことではなかったのでしょうか?あなた方はその程度の努力を怠った。要するにあなた方は勉強していなかったんです。だったら、それによって差別されても自己責任じゃないんでしょうかねえ?
え?文句おありですか。だって「受験勉強」なんてしょうもないことだっておっしゃったのはあなた方でしょう。「答えのある問題」を解くよりも、人間関係という「答えのない問題」を解くための「コミュニケーション能力」こそが大事なんだって。だとしたら、そんな低レベルのことができていないあなた達は努力が足りない以外のなにものでもないですよねえ?好いた相手の心をつかむなんて難行を成し遂げるだけの「努力」をできるお方が、まさか「受験勉強ごとき」のための労力など労力ともお思いになるとも思えませんがねえ?
というわけで、私はモテ様を尊敬しますから、低学歴モテどもは高学歴様を尊敬しなさい。嫌なら非モテを見下すのをやめなさい。
・・・さて、あと「高学歴モテ」が残った。こいつらだけは煮ても焼いても食えない。こいつらの劣等感も刺激して仕返ししてやりたいんだが、困ったことにこういう奴らだけは、大抵のことは人並み以上にこなしてしまい、劣等感というものにまったく縁がないのだ。しかも、世の中で甘い汁を吸い、一番エラそうなのはこういう奴らだ。どうやったらこいつらに的確に仕返ししてやれるんだ・・・?誰か教えてくれ。
[上層ノンマニュアル][文化資本][文化的再生産]裕福な家庭の子が進学で有利
子どもたちの相似は強制の効果である。卒業するや強制が終わる。
常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう
益川さんと小林さん、文科相ら表敬…教育行政を手厳しく批判 : 科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
大学受験などで、難しい問題は深く考えず易しい問題だけを選んで解くよう指導している学校の現状を指摘。
「これでは、考えない人間を作る『教育汚染』だ。親も、じつは教育熱心じゃなくて『教育結果熱心』だ」と教育のあり方を手厳しく批判。
日本の子どもを幸福にする23の提言―LOOK FORWARD! | 中村 修二 | 本 | Amazon.co.jp
エリート教育のやり方の違い。日本では高校卒業時に詰め込み教育を行い、フランスでは高校卒業後に詰め込み教育を行い、アメリカではそれが学部後半以降になる、それだけのこと。
能力をほめるのをやめよう
【脱ゆとり教育】フィンランド、日本より授業数少ないのに好成績…授業数増で「詰め込み教育」に戻るのは避けたい
経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査では、授業時間が日本より少ないフィンランドが好成績をあげている。
授業増が学力向上につながると考えるのは早計だろう。
「ゆとり教育」で成績アップ ホントなのかウソなのか : J-CASTニュース
ドイツは1400,デンマークは1500時間です。これだけ働いて何を得ているのでしょうか?家一軒も買えない場合が多い。
はてなブックマーク - わが子に「学校」はいらない(AERA) - Yahoo!ニュース
家庭が裕福なほうが高学歴を得やすいという話をしているのだが?
単純に進度が速いのだ。
多くの有名私立高校では2年の終わりか3年のはじめで終了させてしまう。
単純に早く終わるというだけでも、
有名校に行くために自己推薦が重視されるため、ボランティア活動ばかりに精を出す人もいます。
一概にどちらがいいとは言えないかもしれません。
『カトリーナ募金』とか『ツナミ募金』といったグループを結成して自分がリーダーになろうと必死。
大学受験で、ボランティア活動の実績やリーダーシップ力が問われるから。
なんだか皮相的な感じがするのよねぇ。」
asahi.com:机はコの字、チョークなし教壇なし 進む「教室革命」 - 社会
「ドラゴン桜」の対極だ! 「ゆとり教育」で京大合格 : J-CASTテレビウォッチ
本当に「ゆとり教育に伴う思考力の低下」が原因なのだろうか? - Thirのノート
百マス計算、インド式九九では数学力は育たない: ホットコーナー
Amazon.co.jp : 陰山英男の徹底反復シリーズ 徹底反復「計算プリント」<小学校全学年> : 陰山 英男 : 本
徹底反復新・漢字プリント―小学校全学年 (教育技術MOOK 陰山英男の徹底反復シリーズ) : 陰山 英男 : 本 : Amazon.co.jp
先日、友人の家族と夕食を共にした席で、大学3年生のお子さんが言いました。
「小学生の時に父さんに言われてサッカーのクラブを通ったが、僕はいつも天気が悪くなるのを願っていたよ。
雨でも降れば練習に行かなくてすむと思って」。
聞いた友人はしばらく沈黙し、「お前がそこまで嫌だったのか。父さんは悪かった」と謝りました。
中高と、どちらかというと学校へ行きたくなくて、早く家帰りたいとか早く卒業したいとかそんな事ばっかり考えていて、高校生時などなんちゃって鬱、なんちゃって自殺願望みたいなのまで持ってたというのに、今その頃を思い返してみると、楽しかった思い出しか浮かばない。もう一度あの時代を送りたいなんて思っている。当時は、そんな事を考えるなんてありえないと思っていたのに。
別に今が嫌な訳じゃない。
でも当時の、あの「クラス」という独特のつながり、修学旅行や遠足時の独特の興奮、友達とのバカ騒ぎ。今思い返すと、それらが煌きまくっている。あれらは、あの当時だけのものだったんだろうか。これからはもう、体験できないのだろうか?そう思うと、少し悲しい。
あんなに学生生活に対して積極的でなかった自分でさえも、今思い返すほどにはそれらの思い出が出来ている。なら、もっと、積極的に、変にシャイにならずに、友達をめいっぱいつくって、自分に素直になって、もっと学生らしく遊べばよかった(ついでに勉強も)、とつい考えてしまう。いわゆる「あの頃に戻りたい」ってやつか。当時は、色々、素直じゃなかったし、なんというか自分の感情に対して不器用だった。今ならそんな自分への対処法もまだ若干分かる。何せ一度通った道だ、今あの頃をやり直せるとしたらもっといい学生生活が送れるに違いないと、思う。
思うが、しかし、それが「あの頃」だったんだろう。そんな不器用さ、素直でなさ、中二病さ、痛々しさ、そういうのをひっくるめて不恰好に生きたのが、「あの頃」だった。だから後悔はしない。あの頃はあの頃なりに必死だった。やるべきことを全てやったわけでも、自分の思う通り生きたわけでもない。でもそう言うの全てを含めたのが「あの頃」だったのだ。青春時代ってのは、華々しいものじゃなくて、寧ろそういう……今思えばもっとちゃんとできたのにという後悔をしそうになるような、ダークで、ブラックな面がある。もともとそういうものなのだと思うと、後悔はしなくなった。ドラゴン桜だったか、学生時代は、満腹感より飢餓感だという言葉があったが、あんな感じだ。そもそもそういうものであるのだから、仕方が無い。
ただ、あの頃のような喜び、独特のドキドキを味わいたくは、あるが。
小学生の時の、無限に人生が続くような感覚。煌く未来が待っているあの感覚。中学生や高校生時の、クラスの感覚。友達の感覚。遠足前日や修学旅行の感覚。今思うと1,2年などあっという間だが、当時の1年の、あの長さの感覚。
それらが実に愛おしい。
いつからか、そういう独特の「ドキドキ」を感じなくなっていた。
いや、感じないように、多分してきたのだ。
いちいち感じていたら、身が持たないから。少しの事では動じないように、そういったドキドキを感じなくなった。当時はそっちの方がいいと感じていた。今は、昔の方がいいと思う。少しの事でもドキドキしたりワクワクしたり、心が動くあの感じ。自分を護衛するかわりに失ったあの感覚を、自分の護衛を捨て去る事でもう一度手に入れたい。
人生に対して、無防備になる感覚。
悲しければ悲しみ、怒りたければ怒る。全て全力投球だった。全て重大な人生の事柄だった。
今だって同じだ。今ここでこうして生きている事が自分の人生。今これが人生。今人生を味わっている途中なんだ。なら、出来るだけ、様々な味見をしたい。守りにはいって、自分を護衛して、半分死んだようになって淡々と生きるより、貪欲に人生を味わいたいと思う。そうしている最中なら、多分、いつ死んだって、かまわない。そんな気がする。
無防備にさらけ出す勇気を。守りに入らない勇気を。
時に、今こうしているのも「人生の一部」であるという事実を、何故か忘れてしまう。
今これが人生ならば。できるだけ楽しんで死んでやりたい。
あと10日で死ぬなら、否応なくそう言う気持ちになるだろうが、何十年という半端な単位は、人を護りに入らせる。
だからといって、インドへ自分探しのたびへ、とかいいたいわけじゃない。いや、そうしたい人はそうすればいいが。
精神的な問題だ。守りに入らず、常に「死」を横に寝かせて考える。死にたい、とかではなく。いつか死ぬ。その感覚を。いつかこの肉体も停止し、朽ち果て、土の一部になる。そういう意識を日頃から持つ。出来うる限りで楽しんでやろう。せっかくこの世界に神が自由時間を数十年与えてくれたのだから。
諸君 私は決断主義が好きだ
諸君 私は決断主義が大好きだ
『バトル・ロワイヤル』が好きだ
『リアル鬼ごっこ』が好きだ
『ドラゴン桜』が好きだ
『DEATH NOTE』が好きだ
『コードギアス』が好きだ
『Fate/stay night』が好きだ
『野ブタ。をプロデュース』が好きだ
この地上で行われるありとあらゆる決断主義が大好きだ
戦列をならべたゼロ年代の想像力の一斉発射が轟音と共にセカイ系を吹き飛ばすのが好きだ
空中高く放り上げられた第三世代オタクの自意識がパワーゲーム的世界観でばらばらになった時など心がおどる
サブカル保守の操る教養主義のアイロニーがポストモダン批評家を撃破するのが好きだ
悲鳴を上げて燃えさかる波状言論から飛び出してきた批評家を「現代の想像力」でなぎ倒した時など胸がすくような気持ちだった
銃剣先をそろえた職業ライターの横隊がブログ論壇を蹂躙するのが好きだ
恐慌状態のブックマーカーが既に息絶えたブロガーに何度も何度もネガティブコメントしている様など感動すら覚える
敗北主義の引きこもり達を実社会に吊るし上げていく様などはもうたまらない
泣き叫ぶ甘えた感性の持ち主がゼロ年代の振り下ろしたサバイブ感とともに金切り声を上げる決断主義者にばたばたと薙ぎ倒されるのも最高だ
哀れな反論者達が雑多なイジケパフォーマンスで健気にも立ち上がってきたのを河出スクールカースト文学が文化圏ごと木端微塵に粉砕した時など絶頂すら覚える
諸君 私に付き従う決断主義者諸君
君達は一体何を望んでいる?
更なる決断主義を望むか?
情け容赦のない糞の様な決断主義を望むか?
鉄風雷火の限りを尽くしサブカル論壇の鴉を殺す嵐の様な闘争を望むか?
よろしい ならば決断主義だ
我々は渾身の力をこめて今まさに振り降ろさんとする握り拳だ
だがこの暗いウェブの底で五年間もの間堪え続けてきた我々にただの決断主義ではもはや足りない!!
大決断主義を!!
一心不乱の大決断主義を!!
ならば我らは諸君と私で総力100万と1人の戦闘集団となる
我々を忘却の彼方へと追いやり眠りこけている批評家連中を叩き起こそう
髪の毛をつかんで引きずり降ろし眼を開けさせ思い出させよう
連中に不安の味を思い出させてやる
連中に我々の不安と憤りの音を思い出させてやる
ゼロ年代と九〇年代のはざまには奴らのテツガクでは思いもよらない事があることを思い出させてやる
一千人の決断主義者の戦闘団で
サブカル論壇を燃やし尽くしてやる