名前を隠して楽しく日記。
って最近思った。
いや、最近私が失敗しちゃってさ。
いやいや、私が馬鹿だったってだけでさ。それを認めたくなくて他の原因探してるだけだろうけどさ。
ちゃんと人付き合いができて、色んな立場の人と話をして、なんてできてる人の方がよっぽど客観視できるというか、ひとりの人間にのめり込みすぎると判断を誤るというか。
でも、思い返しても、そこしかなかったのかなー……なんて思ったり。自分が他の判断をできた気がしないというか……
ごめんね。こんなの第三者が読んでもよくわかんないよね。
ひとり反省会を具体的な言葉を取り除いて言語化してるようなもんだよ。
いや、その、ね? 怒られたんだ私。
それも普段優しくて、明るくて、コミュ力もあって、日陰者の私なんかよりずっと人が出来てる人で。
なのにさ、そんな人を怒らせることまでしちゃってさ。
その人はずっと正しくて、「人付き合いの多さが出来た人間を形成する」って後から思ったんだよね。
私がしっかりしてればよかったのかな。下手に流されちゃってみんな不幸にしちゃった。私のせいだよ。ホントに。
私が悔いてる様子が誰かの酒の肴にでもなればいい。そうだ。それでいい。
もうまとまりがつかなくなっちゃった。最初からまとまりなんてないか。
とにもかくにも、これで終わるや。さいなら。
故 忌野清志郎「🏟️…イエーイ!って、言えーっ!!」
町田にスポーツマンシップなんてあるわけないじゃん。— もちの人 (@hamahk) July 14, 2024
え?もう1回言えってことですか?
ヒューマニズム信奉者は、実のところ人間崇拝の相対主義者と置き換えても成立する。
まずヒューマニズム信奉者は教育の価値を重んじており、理性がモラルを改善すると言っている。
しかし核が武器にもエネルギーにもなるように、理性は武器にも善にもなり得る。
わかりやすい話が、理性を身に着けた人間が、他者を「説得」するためにそれを行使することが挙げられる。
言い換えれば「他人を、理性を使ってコントロールしようとする」ということであり、目的によってはナチや共産主義者の再生産となるだろう。
そもそも人間が生まれつき「善」であるという前提が、ヒューマニズムや共産主義者は間違っているのである。
彼らは「社会が間違っているから、それを改善する方法が必要であり、そのためには教育や経済構造改革が必要であり...」と言うだろう。
ちょっと待ってほしい。一人ひとりの人間の内面の問題を無視して、「構造」の問題にできるだろうか。
構造を変えて得られるのはあくまでも外的束縛からの開放であり、内的束縛からの開放ではない。
教育が一見すると内面を改善するようにも見えるが、理性を改善しても、武器を手に入れるようなものなので改善にはなっていない。
この点で見ると、聖書や口伝律法は実に多くの倫理システムを備えており、例えば「神は想像を絶する無限の存在であり、人間は神のもとで倫理的であるべきだ」と命じているのである。
人間崇拝者たちはこの点をわかっていない。つまり、倫理の頂点に「人間」を君臨させ、善悪を単なる好き嫌いの問題に置き換える。
人間集団Aの善悪とBの善悪が対立したときは、そこで争いが起きて自分たちの善が勝つ限り誰かが残虐な目にあっても良いとするのが、人間崇拝の相対主義である。
何千年もの歴史を耐えた律法と、儚い歴史しか存在しないヒューマニストの思いつきの、好き嫌いの善悪でどちらが優れているか、俺と賭けるか?俺はユダヤ人の律法に全額賭けるけどね。
なおキリスト教とユダヤ教は「信仰を重視する」か「行動を重視する」かで大きな違いがあるので、キリスト教の方には問題があると言っておく。もちろんユダヤ教は行動を重視する。
大人になったらビジネスの場では「私はこう思う」をぼかした婉曲表現ばっかり
はっきりいえばいうだけトラブルになる
「はっきり言わないやつはクズ」と言い切るなんて社会人経験ないのかなって
思っちゃった
同時に
「発達障害は正義感が強すぎて自分の主張を絶対に譲らないからトラブルになり
同じ職場で長く勤めるのが難しい」
って言葉を思い出した
そういう人なのかな
電車内でフフッて声出ちゃった
ねむい、ねむすぎる