はてなキーワード: 電化とは
引っ越しシーズンで新たにインターネット契約を申し込む方も多いのではないかと思いますが、
フレ○ツ光にはマジで気を付けたほうがいいです。
昨年のちょうど今頃、私は1人暮らしを始めるべく某家電量販店で電化製品をまとめ買いして
ついでにそこで一緒にフレッツ○を申し込みました。
別に○レッツ光でなくてもよかったのですが、某家電量販店にいたフ○ッツ光のスタッフさんが、
「4月中には絶対開通しますんで!」とそれはそれは力強く言っていたので契約しました。
某家電量販店で使えるというポイントのキャッシュバックも40000円分くらいくれると言うし。
4月下旬から5月上旬まで12日間、研修のために東京へ行かないといけないという個人的な事情があったので、
スタッフさんは「間に合います、大丈夫です!」って言ってくれたので、それならば安心だと思ったのですが、
これが大きな大きな誤りでした。
そこからはフレ○ツ光のコールセンターの人と電話でやり取りしたのですが、
話が全く違うじゃないか!と言っても、コールセンターの人はそれより早くするのは無理、とばかり主張。
私の研修中にも何度も何度も電話をかけてきてやっと日程の調整ができて下見ができたのが5月中旬。
6月上旬に開通工事がやっとできることになったのですが、当日来た工事のスタッフが開口一番
「お隣の部屋の方の許可は取れましたか?」と。
下見の時に工事の際は隣の部屋のベランダを通る必要があるから隣人の許可を取る必要があると言われたので、
隣人とは生活時間帯が全く違うようだし私は仕事をしてるから無理、と伝えたら、
「じゃあ許可取っておきますね」っていったのはそっちじゃないですか・・・。
結局その日は隣人と連絡が取れず、許可がないことには工事ができないので工事は中止。
別の日がいいと何度言っても、フレッ○光の人は無理だ、それを逃すと7月になるとしか言わないんです。
仕方がないので母親に無理を言って工事日に来てもらったのですが、
15時までに工事を開始するといっていたのに実際に始まったのは15時半だったそうです。
引っ越しシーズンだから、インターネットの申し込みが込み合うのは仕方がないとは思います。
じゃあなぜ最初に、4月中に絶対開通できると嘘をついたのでしょうか。
○レッツ光のコールセンターの人もふざけた態度(半笑いで対応、こちらは悪くないとばかり主張、
電話かけてきても「お時間よろしいでしょうか?」の一言もなく勝手に話し始める、など)だし、
下見に来た人も私の部屋から靴下のままベランダに出てそのまま部屋の中に戻ってきたし、
コールセンターの人と下見の人と工事の人の連携が全然取れてなくて、
何回も何回も現状の説明させられましたし。
ちなみに、この件でご迷惑をおかけしたということで、フ○ッツ光から工事費用の4000円ほどはサービスしてもらえたのですが、
それも「こちらが4000円もサービスしてあげる」というような言い方。
でも初期費用の800円は絶対払ってもらわないといけないから、お願いしますとも言われました。
私がこの件で3か月ほど迷惑かけられたのに、高々4000円程度のことか、それもとても恩着せがましく、と呆れました。
突然、石油ファンヒーターが止まった。エラー音もなく、突然、電源が落ちた。
とりあえず、コンセントを抜き差しするも電源が入らない。壊れたのか、この寒いときに…だとすると最悪だ。
こういった状況を人に説明するのは疲れる。
ぶっちゃけ、「よくわからないけど突然、止まった」としか言いようがない。
そういえば、「なんで」と聞き返される、こっちが聞きたい。
技術者でもない限り、電化製品が突然、動作しなくなった原因を的確に言えるわけない。
たぶんのマイコンのトラブルだとか何かだろうか、熱暴走だろうか…内部のことはわからない。
一般人としては、"突然、警告もなく消えた(止まった)"というだけで、それが故障なのかどうかもわからない。
「わからない」といっても「なんで」と聞き返してくるやつには、どう答えれば良いのだろうか…
太平洋戦争時、中島らもの父はインド洋で補給の任にあたっていたという。
補給といっても戦場にいることに変わりはなく、凄惨な場面に幾度となく遭遇したはずだ。
いつもギリギリのところまで話は進むのだが、そこで止まってしまう。
私の祖父もそうだった。
尋常小学校で進級できなかったこと、電化される前のパチンコ、現役時代の仕事の話。
多くの老人が若者に対してするように、取るに足らないことから人生の一大事まで、細大漏らさず語り聞かされた。
まるであの暑すぎる盆は、八月十五日はなかったかのように祖父は振舞っていた。
祖父が戦争を忘れているはずなどなかった。祖父の弟は遠い南洋で戦死しているのだ。
祖父が語る過去は綺麗に漂白されており、一点の曇りもない。幼いながらも、私は血痕なき祖父の半生を震えるような思いで聞いていた。
結局、祖父は弟の白木の箱を抱えたまま冥府にくだってしまった。
映画を観れば分かる。
ベトナム帰還兵ものは掃いて捨てるほどあるが、日本のそれは数えるほどしかない。帝国陸海軍の復員兵は大勢いたのに、だ。
死線をさまよった彼らは、中島らもの父や私の祖父のように、歴史を墓場まで持って行ってしまった。
沈黙は復員兵とその家族に半世紀の安らぎを与え、同時に不安も残した。先の都知事選における田母神への六十万票はその証左だ。
過去は復讐の機会を窺っている。ふと足元を見下げたら、軍靴と脚絆が私たちの足まわりをがんじがらめにしている日が来るかもしれない。