はてなキーワード: 川端裕人とは
アニメ版プラネテス批判で元JAXAの宇宙機エンジニア、野田篤司氏が炎上している。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/madnoda/status/1485905901811044354
さっそくこんな「いかがでしたか?」記事まで作られているありさまである。
https://www.koregasiritai.com/nodaatsushi-wiki/
上記記事は氏の経歴をそれなりにまとめてはいるが、野田篤司氏とSFアニメの話題で重要な要素がまったく抜けている。
まず、彼はTwitterやはてぶで叩かれているような、「フィクションのなんたるかもわからず否定してる実務志向の研究者・開発者」ではまったくない。
そもそも彼は「宇宙作家クラブ」会員である。(幸村氏も会員の一人である)
http://www.sacj.org/member.htm
https://hon.gakken.jp/book/1340414200
https://www.hayakawa-online.co.jp/new/2016-08-15-170925.html
彼の旧サイトやインタビューを見れば、フィクションや夢想と縁がない人間ではまったくないことがわかる。
http://anoda.web.fc2.com/oldpage/space/matudlab.htm
軌道シミュレータやSF的ギミックの計算など、当時参考にしたSF作家は少なくなかったはず
宇宙を飛ぶ宇宙船や人工衛星にとって『格好良い』って何だろう?
https://rooftop1976.com/interview/130202161359.php
宇宙開発SF好き以外は知らない話だと思うので普通の批判コメントしてる人を悪くは思わない(実際言い過ぎだと思うし)が、人格含めて批判しているような方々はこれくらい踏まえてほしいところである。
毎日新聞・岡山版のコラム「きび談語」では、ゲームやインターネットの進歩と少年犯罪の件数に負の相関があることを指摘しており、ゲーム脳は脳神経科学的な観点だけでなく犯罪統計的にも説明できない学説であるとしている[25]。
作家の川端裕人が森の講演会に聴衆として参加し、質疑応答でこの疑問を投げかけたところ、「日本の子供が笑わなくなり、キレるようになり、おかしくなっているのを見て、日本のためにやっている。そういうのを問題にするあなたの方が日本人として非常に恥ずかしい。」と返答し、疑問に対する回答を示していない。
http://d.hatena.ne.jp/DocSeri/20061228/1167272368
かつて川端裕人は竜とわれらの時代の中で、古生物学の権威でありながら創造論に傾倒するアメリカ人学者を描いた。人口の8割がキリスト教徒であり(日本人の家に仏壇や神棚があったり初詣や葬儀で寺社仏閣を訪れるレヴェルよりも広く深く)信仰が生活に浸透している欧米では、科学者と雖も信仰と無縁ではない。
科学者が信仰を持つことを否定するつもりはないが、同時にそれが強固なイデオロギーであることも常に意識せねばならない。判断基準を神仏に委ねた瞬間、それは科学ではないものとなる。
この点では、普段の宗教的行為と信仰意識を切り離して扱うことに長けた日本人というのは、実は一番科学向きなのではないかという気がする-----その割には科学離れが進んでしまっているのだが。
引用終り
この人は一体何が人をニセ科学に向かわせるのかを全く分かってないように思う。(普段読んでないので何か見落としている文脈があったら申し訳ない。と先に謝っておく)
「目には見えない(観測できない)けれど、あたかも何かがそこにあるかのように感じる」というのが宗教の奥底にある。そして、上の例に出てくるキリスト教というのは、キリストの肖像を信仰の場に持ち込むか持ち込まないかで争う例から分かるように、その、一体何を信じるかということに対して、血で血を洗うような抗争を起こしたりもするけれど、その結果それを非常に明確に峻別する宗教だ。(異端と正統)
ニセ科学というのは本来科学で計ったり、観測できないことを、あたかも科学的に計量できるかのようにふるまうことだと個人的には理解している。
そして、ニセ科学は、本来なら(観測できないんだけれど)「ある」んですよ、と主張するだけの、信じるか信じないかで済む問題を、科学的に裏づけされている(勿論されてない)から「正しい」「信じるべき」なんだ、という押し付けがましいことをする。上に書いたキリスト教はそれをやらないで、観測できる科学と、宗教は別々のものですよ、という方向にいった。これは評価できる。(キリスト教は聖書に出てくる事柄を科学的な側面から裏付けられないか、という視点で科学を発達させてきたという歴史がある。)
つまり、目には見えないけれど信じている対象を具体的に了解する、何に対して信仰するかを明確に決める、ということはニセ科学を見破る手だてにもなりうるし、その逆もまた言えるということだ。
「観測できることじゃないけれど、そこには確かなことがあるんだよ」というのは凄い安心する。だからこそ、その対象はできるだけ明確でないと危険である。日本人が信仰を明確に規定しないことの善悪は問えない。けれど、そのことが「科学向き」とは到底思えない。信仰の対象が「科学」となってしまうことがあるからだし、そのことこそがニセ科学への危惧だと思う。
(30日午前四時四十九分に日本語が不自由だった部分を修正しました。)