はてなキーワード: 大都市とは
http://anond.hatelabo.jp/20081214010628
どう考えてもって、どう考えたんです? 何か根拠を元にしてるわけですか? 素朴な疑問。
いや俺も正直、大気汚染問題について真面目に調べたことはないんだけど(宿題かな)、どうなんだろう?
都内の汚染物質の濃度は改善傾向みたいですね。ベンゼンこの10年で半減とか、これ賞賛されるべきいいニュースじゃなかったりしないかしら。
都道府県別の死因の傾向。大都市圏で大気汚染の影響が出ているかといろいろ眺めてみたが、よくわからない。もちろんこんなことで何か素人判断するのは十中八九間違ってると思うが……。
世界規模での調査の結果、間違った思いこみを修正するためのがん予防キャンペーンが必要であること示した
多くの人々ががんの原因について、比較的影響の小さい環境要因を大げさに怖がり、がんのリスク要因として明確にわかっている行動要因の影響を小さく見積もるという間違った思いこみを持っている。
・ 豊かな国では、飲酒よりストレス(57%)や大気汚染(78%)のほうが大きなリスクと見なされている。しかしながらストレスががんの原因になるとは認識されていないし大気汚染は飲酒に比べれば僅かな寄与しかない。
・ 一般論として、全ての国の人々は、過体重などのようなよく知られたがんのリスク要因でも自分でコントロールできるものより、大気汚染のような自分がコントロールできないものをがんの原因と認めたがる。
このあたりを見て、どうも大気汚染のリスクは誇張されているようだぞと判断しているのですが。いや、大気汚染問題に詳しい人には怒られると思うんだけどね、たぶん。がん以外のこともあるし。
一方の受動喫煙。壷からのコピペでアレだけど、こんな感じらしいんだけど。
・フランスで2007年にレストランやホテルやカジノでの喫煙を禁止して以降心筋梗塞による救急患者が15%減
イタリアでも同様の結果
http://d.hatena.ne.jp/uneyama/20080227#p3
・アイルランドの禁煙法施行で、非喫煙者の従業員の健康状態が劇的に改善
http://www.kin-en.info/release_070514.html
http://web.archive.org/web/20070814075657/http://www.metamedica.com/news2000/2000121701.html
・スコットランド 禁煙法により心臓発作の入院が1年間で17%減
http://www.drakahige.com/NEWS/DAILY/2007/2007121001.shtml
http://www.nosmoke55.jp/data/0706who_shs_matuzaki.html
・屋内禁煙法施行1年後の自己申告調査で、アイルランドのバー従業員の呼吸器症状が16.7%減っていた。
・カリフォルニア州における調査では、バー禁煙法の施行前と比べて、施行後8週間で
バーの従業員の呼吸器症状が59%、粘膜刺激症状が78%減った。
・ニュージーランドの2002年の調査では、禁煙のオフィスで働く労働者の呼吸器症状と粘膜刺激症状は、
・スコットランドで2006年に屋内の全面禁煙法が執行されて以後、バーの従業員は、呼吸器症状が減り、
呼吸機能が改善し、全身の炎症所見が正常化した。気管支喘息を患っている従業員では気管支の炎症が減り、
生活の質が向上した。
・米国のモンタナ州へレナとコロラド州プエブロでは、職場と公衆の集まる施設を全面禁煙にするという強力な
法令が施行されてから、イタリアのピードモントと同様に、心臓発作(心筋梗塞)の発生率が平均20%[g]減った。
あと、「リスキー・ビジネス」p.322あたりを読むと、米有名タバコ会社が、「大気汚染の問題を強調して、環境タバコ煙(ETS)問題など取るに足りないと思わせる」工作をやっていたとか。「説得力をもたせるため、ある程度バランスをとってETS問題も論じないといけないが、全体的に望ましい方向にもっていく……コンサルタントには重要な科学会議にはかならず出席するよう求めている。科学界や世論を動かすのに利用できそうな会議すべてに」云々。すごく……きなくさいです。
あとは、カリフォルニア州がタバコの煙を大気汚染物質に認定したりしてますね。
日本で路上から喫煙規制がかかってるのは、人口密度、鉄道社会(駅周辺の混雑)、通勤時に多い男性の喫煙率の高さなどで説明がつくと思いますよ。
それと、女性の喫煙増えてますよね。なんか最近露骨に若い女性をターゲットにした新商品が出てるじゃないですか。あれ見て勝手に青筋立ててるんだけど。男性喫煙率が他国並みに下がる頃には他国と同じ傾向になってしまってそうだ。
つーか感覚的な話をすると、ほぼ透明無臭の排ガスより、目に見えて悪臭のするタバコの煙のほうが普通にヤですけどね、俺。タバコ片手のバイクが通り過ぎていったりすると、タバコの匂いのほうが圧倒的に鼻につきますもん。最近は昔のように黒煙を吐くクルマもあまり見かけなくなったし、そうなるとなおのこと昔と同じ煙と臭いを出してるタバコが突出するというか。
新型インフルエンザ対策として各都道府県で感染者が1人でも発見された場合、幼稚園・保育園・小学校・中学校・高校・大学のすべてを休校にする案があるらしいね。
こういう部分は日本は本当に優秀だ。
中には、「受験が控えているのに困る」「小学生の子供を1人で留守番させたくない」など意見があるようだけど、そういう人たちはきっとインフルエンザについて勉強したことがないんだろうな。
新種ウィルスがどれほど危険なものかわかっていない。てか、学者の方々でさえ予想はできても確実性がないくらいに未知なものだからなおさら。
確かに、都道府県の中で一斉に休校にするよりは感染者が出た地域から半径何km圏内を対象に休校としたほうがよりいいのかもしれないが、そういうのは各自治体が対応すればいい話。
東京など大都市は交通手段が電車だから別の問題も出てくるけど、まずは大枠を法整備して細かいところは都道府県の各議会で話を詰めていけばそれなりの形ができるんじゃないかな。
何もしないで、対応が遅れて感染者が増えてますってな状態になるほうがよほど危険。
新型インフルエンザに感染すると現状ではワクチンがないんだから死ぬ可能性だってかなり高い。
そういった部分も考慮してそれぞれが協力的にならないとどうしようもない。
自然発生するものである以上は、人間は無力だし後手に回るしかないのは当然。
それで受験がうまくいかなかったとかなったとしても、それは不運な話で済むことだ。
だって過去にさかのぼってみれば、受験なんかより就職氷河期で高校・専門・大学を卒業した新卒の人が無職状態になった時代だってあったんだから、就職できないことに比べたら受験失敗なんて小さなことだと思うけどなあ・・・
ほら、今だって世界経済が駄目で内定が決まってた大学生たちが次々に就職取り消されている状況でしょ?
学生or浪人生でいるうちはまだいいほうだというのを親たちは子供に教えておいたほうがよさそう。
あ、でも会社はどうするんだろう。
大企業で1つのビルに数百人単位の社員がいる場所で、新型インフルエンザに感染していた人がいましたとなったら・・・・・
そこは各企業の偉い人たちが考えることになるのかな?
構築されたWebサービスがレビューされて実社会に出るまでのバッファ的レイヤーが必要なのではないか? 過去、それは高等教育以上の現場(高専・専門学校・大学・etc.)が担ってきた気がするが、今はぶっちゃけ大学やら学歴なんぞ関係ない。今やもう、Webの偉い人集団だの、はてな民だの、勉強会集団だのでその手の階層が出来上がる空気はちゃくちゃくと醸成されている。階層の上位陣は高学歴だろうけど、ま、もう少しだ。
問題はその階層に参加出来るか出来ないか、するかしないかで新たな格差が生まれる可能性があるということくらいだが、やっぱり住まいは大都市圏に近いほうが有利なのかな? そんなの関係ないよ! とか言うなら今すぐIT勉強会カレンダーの『懇親会込みの』年間イベント開催件数を生産年齢人口[単位:万人]で割ったヒストグラムを都道府県別で作成してみな。そのまんま『日本のIT民度温度差』が出てくるから、それを見てから判断しようじゃないか。
民主党のマニフェストを拾ってみた(開くといきなり小沢党首の顔がドアップで出てくるので、心臓の悪い方や大きなディスプレイを使用されている方はご注意を)。引用部分は14枚目(24ページ目)の「1.くらし(社会保障・はたらき方・子育て・教育)」の12番目の項目。
http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/pdf/manifesto_2007.pdf
12.月額2万6000円の「子ども手当」、出産時にさらに助成金
子育て支援をすすめる一環として、扶養控除や配偶者控除、配偶者特別控除を見直し、行財政改革の断行により、子ども手当(児童手当)を充実させます。子どもが育つための基礎的な費用(被服費、教育費など)を保障すべきとの観点から、中学校卒業までの子どもに、一人あたり月額2万6000円を支給します。
「控除を見直し」って言ってるけど、ぶっちゃければ控除廃止か縮小なんだろ?中学生以下の子供がいない家庭は洒落にならん事態になりそうな気がするんだが。
というか、これって以前、自民が控除額いじって実質的な増税になった時と何か違うの?あの時の民主党、自民党に何て言ってたっけ?
さらに高速道路無料化の部分も読んでみると、「一部大都市を除いて無料化とします」って書いてあるんだが…。「大都市」の基準って何よ?もしかして政令指定都市じゃねーだろな(笑)。
ワーキングプアの問題は、給料が低いことではない。と、言うのは俺の解釈、社会的にどうかは知らん。
問題は、誠実に働こうという意思がありながら、技能がそれに追いつかない層が、まずくしくとも幾ばくかの温かみのある生活を構築できなくなっていること。
帰農しようにも、田舎は新世代地主化した農家が農政の庇護の下に土地を抱え込んでおり、帰農する隙間が著しく少ない(ないわけではない。多くの帰農成功者がいるが、ワーキング・プア全層を支えるほどの余力があるか疑問)。
また、大都市以外の地方都市は、それ自身がワーキングプア化しつつあるため、大都市からの流入者を受け入れるどころの騒ぎではない。
一方で、新技術を利用してワーキング・プア層から効率よく絞り取ることばかり考える連中が増えている。
プアであってもかまわないが、プアなりに誠実ならばその日を淡々と暮らしていけるような社会であるべきってのが俺の考え。格差があることは罪じゃないし、むしろ全層に「努力すれば上にいける」程度の格差は常にあるべき。
元増田です。
思った以上に読まれたみたいで嬉しい。
いくつか反論つーかコメントさせてもらうわ。
あと、俺が探してた本結構面白かったんで発表しようと思ったけどやめた。これは別のところでレビューでも書いてくる。
セカチューとか美しい国へとかてきとうに例として取り上げただけなのに、その本はどうこうとかいちいち細かい点つっつく奴いるくらいだから、具体的な書名書くとバカがつまらんところにこだわって、「その本はなくて当然」「ウチの近くの本屋にはあった」「ウチの近くのブックオフにはなかった」「マイナーな作家だからなくて当然」とか本題に関係ないこと一生懸命取り上げだして話がブレるし。
問題は具体的に個別の本のタイトルの店頭在庫のあるなしじゃなくて、「一般の文芸書で、そこそこ有名な作家の本だがベストセラーとまではいかず発売は2年ほど前。まだ文庫化はされていない。」という感じの本が、新品で買おうと思っても殆どの本屋になくって、ブックオフならありそうって事なんだから。
でも俺が買った本のヒントはどっかにあるんで特定したい暇な人はどうぞ。
>、商売というのは利益を生む為にやってる。
>文化じゃ飯を食えない
>いやだから新刊書店もブックオフも文化のためにやってるわけじゃないスから
>まぁ、ここ10年、5年でもいいや、に出た本を全て置いてある書店、というものを想像するとそれがどれだけ非現実的かは分かると思うんだが。
そりゃそうなんだろうよ。
でも、同じく商売でやってるブックオフは、商売でも成功してるし文化にも貢献してるよ、このままじゃ商売でも負けて潰れるよって話をしてるの。
しかも新刊書店業界(?)の連中はブックオフが文化を破壊とか偉そうにいってるのに、ブックオフに劣るって恥ずかしすぎるからなんとかしてくれと。
でもその状況の中で努力しようよ。
>チラシの片隅に「地域文化を守る○○書店」とか書いてあると、「文化を守るんだろ?△△おいてなくて、何が文化だよ」と、バイト店員締め上げたりするのだろうか。
実際に締め上げると犯罪なのでネットで鬱憤を晴らしているのですがなにか?
>2年で消える「文芸」もダメなんですよね。『人間失格』や『こころ』みたいな本は今後現れるんだろうか?
新しい文芸をそういう作品レベルに育てあげていくのも本屋のレゾンデートルの一つなんじゃないの?
ちょっと「ファミコンのゲームは良かった」っていう懐古厨っぽさを感じなくも無い。
「スーパーマリオ」を今やっても楽しいかもしれないけど、それより新作の方が普通におもしろいよ?
>追記も読んだ。「守り伝えたい」のは誰かといえばそれは市民の総意であって、夏目漱石や芥川龍之介や太宰治が未だに新刊として売られている点についても考慮する必要があるのでは?
下手するとそれらの本ですら街の本屋よりブックオフの方においてなくね?
「市民の総意」に答えないところは淘汰されていく、という気がするんだ。
>ここまで、新刊と古書の併売の話題がまったく出てきていないのだが、一体どういうわけだ?
おまえが書けばいいんじゃね?
>ブックオフに期待して新刊を買い控えるのは最大の愚行。欲しい時に買うのが一番。
俺は発売後2年たってから欲しくなったの!
それで欲しい時に置いてないってどういうことなのと。
ブックオフで新しい本と出合うことは結構多い。
本屋の方が少ない。
>専門書
僕なんかがほしがるのはバカな一般大衆とは違って、まともな文芸本(笑)が多いから、どうしてもブックオフメイン。
とくに古いまともな文芸本(笑)なんて街の本屋さんにはほぼ置いてないし、あっても捜すのが大変すぎる。
こうですか!?わかりません!
>映画館
もう映画見るときは大都市とかシネコンまで行って見るので小さな映画館事情はあまりよくわからん。
昔、新聞屋に映画の招待券貰って一回だけ「街の映画館」的なところに行ったことあるけど非常にしょっぱい状況だったのは印象に残ってる。
>その店に増田さんの求める「文化」がなかった、ってだけの話なのではないかなあ。学参やお料理の本はあったんじゃない?
ブックオフには「学参やお料理の本」もあったし、俺の求めた「文化」もあったんですよね。
> 同じ事象についてのそれぞれ感じること思う事は違うので「理解されてない」というのはお門違いだと思う
いや、俺は文学(笑)を書いたわけじゃないから、読み手の解釈に任せるとかそういうつもりは…
事象を書いただけじゃないし。
>ふられた腹いせですね、わかります
限りなく正解に近い。
というか最初のエントリーで俺がツンデレであることをさりげなくアピールしてたのに、「この増田は本気で本屋さんを潰そうと画策している本屋業界の敵だ!戦わなくては」的に受け取った人がいそうでちょこっと悲しい。
べ、別に街の本屋さんがなくなったら寂しいなんて全然これっぽっちも思ってないんだからね!!コンビニで新刊本買えればあとはブックオフで十分なんだからっ!
(……バカバカ!あんなこといって本当に街から本屋さんがなくなっちゃったらどうしよう!)
なんか面倒になってきた。
まあ最後のがまとめってことで一つ。
とある本が読みたくなって本屋に探しに行った。
一般の文芸書で、そこそこ有名な作家の本だがベストセラーとまではいかず発売は2年ほど前。まだ文庫化はされていない。
このタイプの本は、そこら辺の本屋にはまず置いていないということを思い知った。
私の行動範囲(原付で移動できる程度の距離)には、商店街の本屋さん、やや郊外型の中規模書店がいくつかあるがその何れにも無い。
ふと思い立ち、ブックオフに行ってみた。
そこでやっと発見。
どういうことなのだ。
新刊で購入しようと思っていた人が新古書店に行かないと本が見つけられないなんて、新刊業界(?)の連中は恥ずかしくないのだろうか。
ついでにブックオフでいろいろ本を見てみる。
すると、100円コーナーにもかつてのベストセラーや名作漫画、絶版でamazonでも手に入らないような本が並んでいるではないか。
あの時興味はあったけど買い損ねたあの本、ベストセラーになってから買うのは悔しくてツンデレ的にスルーしてたあの本も100円。今なら気軽に買える。
皮肉なことに本の中身をチェックしないブックオフこそが、逆に「文化」を保存し伝えているのだ。
http://b8270.at.infoseek.co.jp/cho-c.html
出版社とそれに乗せられた作家連中はこんな痛い呼びかけをしちゃっているが、ブックオフの方にしかあんたらの本がないというのはどういうことなのだろうか。
ただ新刊漫画を売り捌くだけの場所。
今後新刊の本屋で生き残るのは、大都市の中心や郊外にある品揃えが豊富な大型書店とamazonだけだろう。
文化はその気のないブックオフが守り伝えてくれる。
売れる新刊本はコンビニででも販売すれば十分だ。
9/24追記:
http://anond.hatelabo.jp/20080924005214
誤字修正&思ったより見てくれた人が多かったんで追記しといた。よければそっちも見てくれ。
9/26追記:
http://anond.hatelabo.jp/20080926053616
もう一回追記。
たぶんこれでおしまいにします。読んでくれた人どうも。
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。
確かに、原発はその辺の屋台なんかよりも高い耐震性が要求されるのは確かだよ。壊れたときの被害を考えればね。でも、放射能被害が怖い怖いと言い立てたところで、原発の耐震性に問題があることの証明にはならない。そういうこと。あなたの話がそれをどこかでごっちゃにしているように見えたからね。
関東大震災クラスを想定して作ったモノが阪神大震災でぶっ壊れたように、阪神大震災よりすげえ地震が来ないとは誰にも言えないんじゃなくて?
まず、阪神大震災当時の建築基準が関東大震災想定だったという話は俺は聞いたことがないけれど。他にも、阪神大震災ってのは規模だけで言うならば別にそれほど大した地震じゃないとかいろいろあるのだけれど。
まあ、なんにしても、原発はもともと高速道路なんかよりもよっぽど厳しい耐震基準で作られてるから、高速道路も壊れたから原発も、という類推は無理だと思うよ。
人が作った物だから、100%の耐震性は無理。そして、他のモノと違って、原子力は万が一のときに取り返しがつかなすぎると思うんだよ。二次三次四次五次・・・被害が多すぎると言うか。
それはあくまで感情論だ。そこから先は確率とリスクの問題になる。あなた自身の身に及ぶ危険の問題から考えたら、原発の心配をするよりも、毎年人間ドックを受けた方がはるかにいいと思うよ。
まー、俺が幼少期を過ごした街は原発近かったから、核の恐怖を余分に刷り込まれてるかもしれないけどね。
「原発アレルギー」って言われてもしゃーないとは思うけど、電気足りないからどこか遠い田舎に原発作って電気持ってきましょうとかは気軽に思えんわ。
どうして原発だけがそこまで危険な施設と思いこまれてるんだろうね。それがまず不思議だよ。
他にも、潜在的に危険な施設なんていくらでもあるのに。それこそダムとか化学工場とか。リスクで言うならば、車の存在とか日本の沿岸部の大都市に住むこととか自体が原発なんかと比べものにならないほどのリスクだよ。
ブックマークとトラックバック、一通り読ませていただきました。あまりの反響の多さに驚いています。好意的な反応も悪態も含めて、ひとまずはどうもありがとうございました。
しかしそこで敢えて憎まれ口を聞くと、結局は半分ぐらいの方にしか理解して頂けなかったのだなあ、と思います。あの話を、東京やら関西やらが好きか嫌いか、とか、そういう話だと思ってしまった方がかなり多かったのは相当がっかりしました。そういう風に誤解されないように気をつけて書いたつもりなのに。
個別に返事をすると量が爆発するので、まとめてお返事することにします。ただし、論拠を示さず「関西弁は下品」だの「大阪は民度が実際に低い」だのと繰り返すだけの発言にはコメントしませんのでご理解ください。
まず、親関西(東京)の人にも反関西(東京)の人にもこれはあらかじめご理解頂きたいのですが、私が元記事を書いた前提には、
「東京であれ、関西であれ、その他の地域であれ、文化や言語に優劣などありはしないのだ」
という認識があります。元記事の趣旨はもっぱら、「東京こそが中心である」という思いこみへの批判でしたが、当然「関西は東京より優越している」という命題も全く同様の理屈で論破できることがおわかりでしょう。すなわち、「東京(関東)のローカル文化を特別視して押しつけるな」と言うからには当然、「私も関西の文化を押し売りする気はない」ということも表明しているつもりです。
そういうわけで、私に対して好意的な反応の中には「関西弁で書けばよかったのに」という意見もありましたが、これは私の立場に反するということをご理解いただきたいと思います。元記事でも述べているとおり、私が「じゃん」や「じゃね?」が嫌いなのと同様、関西弁を嫌う人もいることは想像に難くない訳で、それを押し売りするのでは全く筋が通らないでしょう。だから私はここでは共通語(元記事では「標準語」と書いたけれど、「共通語」が適切でしたね)で書いた。それが、日本語文化圏で公共の場でものを言うときの作法だと思うからです。同様に、私は自然科学の論文なら英語で書くでしょうし、無理に日本語で書こうとは思いません。そういう世の現状に対して言いたいことは山ほどあるけれども、です。ルールが気にくわないからと言ってルールを無視するという態度は私は取りません。
同様のことは、関西以外の一切の地域について言えます。私が「東京に対抗意識を燃やしている関西人」だと思った方がいらっしゃるようですが、そう思われるのは私としては不思議であり、不本意でもあります。関西弁が関東弁に劣るものでないのと同様、東北弁に優越するわけでもない。関西文化が九州文化に劣るわけでもないし、琉球文化に優越するものでもない。それはあまりにも当たり前のことです。
誰しも、自分の言語や文化を卑下する必要はありません。標準語との距離がどれほど離れていようと、それは僻地の方言などではありません。同様に、郊外の文化は大都市の文化に従属するものではありません。
こうしたことがよく理解されていないとしたら、その責任は別に東京だけにはありません。早い話、関西人にも傲慢な輩はいるでしょう。しかし私はそれにとどまらず、地方人の屈折した態度全体に問題があると言いたい。
たとえば今回の私の元記事に「関西人はよその土地でも平気で関西弁をしゃべる」という文句を言われた方がいますが、では、外国人があなたの地元で外国語をしゃべっていたら腹が立ちますか?それに腹が立たないとすれば、関西人があなたの地元で関西弁をしゃべろうとも、あなたが世界のどこの土地であなたの地元言葉でしゃべろうとも、誰も文句を言われるいわれはありません。それだけのことです。
こういうと「方言と外国語は違う」と言われそうですが、それは事実に反しています、とだけ述べておきましょう。詳しくは、たとえばロシア語とウクライナ語の関係、ドイツ語とオランダ語の関係などを調べてみられればそのあたりの事情がおわかり頂けるかと思います。
そういうわけで、皆さん、変な奴隷根性や、その裏返しの傲慢さはやめませんか。あなたの言語の価値は、「標準語」からの距離にあるわけではない。実用上は、日本語の共通語だとかあるいは英語その他の外国語だとか、そういった言語を話さざるを得ない状況ももちろん出てくるでしょう。しかし、それはあなたの言語が劣っているせいではないのです。
だから、お互いに意思疎通が負担なく可能な状況であれば、あなたがあなたの言語を話すことに何のはばかる必要もないはずです。逆に、東京で関西人同士が関西弁でしゃべっていようと、中国人同士が中国語同士でしゃべっていようと、それに文句を付けるのは、あなたが何者であれ、了見が狭いことではないでしょうか。
最後に、どうでもいいんですが、「関西人は傲慢だ」と言われる原因についてちょっと自覚があるので書いておきます。
これは大阪に限らないと思うのですが(私も大阪人ではありません)、関西では「負け惜しみ」を自虐ネタとして言うことがあります。一番わかりやすいのは、阪神の低迷期の阪神ファンの言動で、たまに巨人に勝とうものなら「勝った、勝った、また勝った、弱い巨人にまた勝った、勝たんでもええのにまた勝った!」とお祭り騒ぎをしていました。言うまでもなく、このセリフの真意は言葉の表面とは全く反対のところにあります。阪神ファンは「強い」巨人に勝ったから喜んでいたのであり、「勝たんでもええ」どころかどうしても勝ってほしかったから喜んでいたのです。つまり、このセリフは巨人を侮辱しているどころか、憎らしいほどの強敵として賞賛するための屈折したセリフなのです。その証拠に、阪神が強豪と呼ばれるにふさわしくなった昨今、このセリフは余りはやらなくなりました。
ただ、こういう言葉の表裏というのは案外通じにくいものらしいということは、私も最近実感しつつあります。ごく稀に、自虐ネタを言ったつもりが気まずい空気が流れてしまってとまどうことがあるのですが、「暗黙の突っ込み待ち」という文化が関西ローカルであるということを最近ようやく理解して、原因がわかってきたように思えます。私見ですが、関西で一番受けている部類の芸人が全国放送でまるではやらないという理由はこのあたりにあるのではないでしょうかね。
ともあれ、関西人(というか特に大阪人)が「東京なんて所詮あずまえびすじゃボケがぁ、わしらがほんまもんの西側先進国やぞ」とか言っていたとしたら、それは上記の通り、半分以上は負け惜しみの自虐ネタですので、あまり真に受けて怒らないでやっていただけると幸いです。
こんなことぐだぐだ書かずに「マイ・フェア・レディでも観たら?」とでも言えばよかったかな。標準語と首都方言の違いとか(もっともドイツ語なんかだとベルリン方言と標準語は全然違うんだが)、言語で優劣を付けることのばからしさとか、「民度」なんて概念のむなしさとか、あの映画を観れば一目瞭然なんだけれどね。
約一名、普段「リテラシー」が云々とかおっしゃってる方がこの記事にひどくお怒りのようで、言いたいことをちょっと書きかけたのですが、この人だけに反発するのも不公平な気がするのでやっぱりやめときます。元記事もこの記事も、真意は題名その他で強調している通りなので、それ以上に邪推をされる方と話をしても生産的とは思いにくいですし。
http://anond.hatelabo.jp/20080629214911
こんな増田があったので便乗して。
都会にはいろんな人がいる。10段階でいえば都会には0から10までそろっているが、田舎はせいぜい2から7までといった感じ。
はっきり言って都会の方が階級制度が厳しいのではないかと思うほどだ。収入によって住める場所が決められてしまい、さながら現代の部落差別のようである。
そんな都会に住む下層階級の人たちにの不満が上の階層に向けられないように、うまくメディアの情報などを使ってコントロールされているのではないかと思うのだ。「上見て暮らすな、下見て暮らせ」的発想である。東京発のメディアでは、大阪の悪い面を強調して報道してみたり、地方を見下すような報道をしてみたりと、首都圏以外のあらゆる地域が引き合いに出される。その結果、東京の人には異様な自尊心があるのではと思う。
ところが実際の所、地方の人たちは都会に住んでいるというだけで憧れたりはしない。都会の人からしてみればものすごく不便に見える生活でも、そこで生まれ育った人にとってはそれが普通だし、実際自動車さえあれば田舎でも普通に暮らしていける。むしろ、のどかな地方で育った人が、都会のあまり生活水準の高くない地域を目にしたとき、「こんな所に住むくらいなら…」みたいなことは地方から出てきた誰もが感じると思う。
地方の人々にとっては別に何の関心の対象にもならないのに、都会の下層階級の人々の不満のはけ口にされて、ちっぽけな自尊心のためにわざわざ喧嘩を売られて、いい迷惑なのだ。
時々「東京というブランド」という表現を目にすることがあるが、正直これはどうかと思っていた。だが、都会に住んでいるというだけで何の取り柄のない人でも田舎をバカにできるほどの自尊心を持っているのではないかと思うようになってから、この表現もあながち間違いではないなと思うようになった。
少し話を変えよう。いまだに鳥取と島根の位置関係がわからない人が多い。地元の人はこんなことで日本は大丈夫かと心配しても、これから首都圏の人口が増えれば、知らなくて当然のような雰囲気にもなりかねないし、今のおバカブームに見られるように、知らなくても恥ずかしいことではないとメディアが煽るので、日本全体の知識レベルがどんどん下がっていく。
なにしろ、どうせこれからも人口は都市部に集中し続けて、いずれは都市人口だけで全国の人口の過半数を占めるようになると予想されているわけだから、地方の人から反発を買うような報道をしても、都会の非知識階級をうまくコントロールできさえすれば、支配階級は安泰なのだ。知識階級の人が地方をバカにするような発言も時々あるが、その発言のすべてが彼らの本心だとは私は思わない。都市の非知識階級は知らず知らずのうちに支配階級の都合のいいように洗脳されてはいないだろうか。
最後に一言。別に「大都市東京の一員である」という誇りをもつのはいいことだが、それを唯一の拠り所にして他人を攻撃するのは、巡り巡って自分のためにならないから、おやめなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20080530165522
リアルで女と別れて、次の出会いを探す気もなく、Yahoo!パートナーで女性捜しを始めた三十路・オタク・非モテの僕の体験記。
5月29日から始めて、ちょうど2週間経ったことになる。シリーズ第五弾の中間報告。
Yahoo!パートナーhttp://partner.yahoo.co.jp/の特徴としては、
ということか。
僕のスペックと、この2週間の成果は以下の通り。
年収はまあそれなりで、"太め"というマイナス面も晒しながら打率2割は上々というところ。分かりやすい趣味を前面に出したんで、相手も取っつきやすかったか。
ただ、返信のあった14人のうち、3人は相手が途中で返信を寄越さなくなった(寂しいけど、そういうのもよくあるらしい)ので削除。また、他の3人は、本名と住所と会社名を先に晒せとか、早く会いたいとか書かれて僕の方が距離を感じたりんでこっちも削除。何らかの形でやりとりしているのは8人です。
で、♂から見てどんな女性がいるのかというのが今日の話。増田にも、三十路の♂のみならず、女増田の方なんかもいらっしゃるんで、まあご参考程度に。
やっぱり、リアルの世界と同様、ややこしいのは、♂からのアプローチが急速に減ってくる33歳から38歳の♀。周囲が家庭に入っていったことで、誰かパートナーが欲しいと思っているような層。本人も危機感はあるようだけど、子どもができるかどうかギリギリの年齢という印象もある。プロフを見ている限りなんとなく魅力的に感じるんですが、♂からの反応は少なそう。あってもバツイチ♂とかスペック難な♂とか。それはリアルの世界やお見合いと同じ。現金なものです。
正直言うと、ちょっとメンヘラーっぽい、離人症的な人も少なくない。三十路を過ぎても、そもそも男とどう距離をとればいいのか分からないのかな。僕もその傾向はある。あと、プロフで堂々と周囲が結婚して寂しいとかを露骨に書く。自分もそうだけど、結婚という社会的制度から離れて生きていたけど、三十路半ばになるとそうもいかないと改めて気付かされる。焦りはある。でも、今さら友達や見合い業者に探してもらうのも抵抗感が。だから、こういう出会い系サイト……なんだけど、顔が見えない相手とはリスクが多すぎる。
非モテだなんだと増田で語られる男女はそれなりにいますが、やっぱり三十路半ばを過ぎると、そう潔いことも言ってられないという現実に直面する。必死なところはありますね。
最初はヤケクソだったけど、まあそれなりにいろんな女性とやりとりできて楽しかった。トップページにアクセスすると「好みのタイプ。メールが来ました」と表示が出るんです。それを見るとなんだか年甲斐もなくトキメキを感じる。人生初のモテ期に突入したような勘違いもたまには起こしています。
ただ、そこには何か見えない壁があるような。直接顔をあわせない、ネット上でのやりとりは難しいものです。
明日は、そのうちの1人と直接会うことにしました。また、日を改めて報告すると思います。
http://anond.hatelabo.jp/20080601232231
出会い系サイト、Yahoo!パートナーに入って、いきなり三十代女の間でモテモテとなってしまった非モテオタクの感想記。今日はその番外編。
H社の「テレホンH」というのにアクセスしてみた(中略)仕事で転勤した春からH社に何度かアクセスしていて、10人くらいと相手をしたらしい。その中の1人とお付き合いされていると。で、条件を聞いてみると、タダでいいらしいんで、今週か来週、平日の夜に会うことになりました。
この日曜日、出会い系サイトで見つけた、その♀34歳(自称)と会ってきました。
某大都市から100kmほど離れた郊外の田舎町。中小の工場や大手の下請けがたくさん集まっていて、その一つにその子は働いているらしい。もともとは某大都市に住んでいたけど、仕事にあぶれて、人間関係がうまくいかなくなって、3月からこの町に流れてきた。どういう立場で働いているのか本人もよく分かっていないらしい。半年限りの労働と言うことだから、期間工か派遣なのか。月収はパートでスーパーに働きに行くよりマシな程度。
工場までは毎朝送迎のマイクロバスが迎えに来るらしい。集合場所は寮の隣にあるコンビニ。帰りもそこまで送ってくれると。で、夜に自転車でスーパーへ行って飯を買って、食べて、それで一日が終わり。それが週に6日間続く。
この町、典型的な田舎町なんで、クルマがないと遊びにもいけない。だけど、34歳期間工の♀が持っているのは自転車だけ。だから、ヒマなときには携帯で出会い系にアクセスして、♂を探し、それに晩飯代&ホテル代を出させて、"遊ぶ"らしい。飯代とホテル代は♂持ち。その他、カネの要求は一切なし。この春から集めた♂は20人以上。そんな1人が自分ということだ。
20時に、指定されたコンビニで♀を回収。自分と同世代なんだが話しや発想はまるで外国人みたい。なんとかあわそうとはするのだけど、相手は好きなことを好きなだけ喋っている。俺もそうだけど、話し相手が欲しいんだろう。5歳下の彼氏がいる。それも出会い系で知り合った。年下のカワイイヤツでと携帯の写メを見せてくれるけど、完全にヤリ相手としか見られていないんだろうな。
そのうち、クルマを運転する俺の股間をもそもそとさすりだした。本人なりのサービスらしい。されるがままにさせた。
ちょっと小洒落た飯屋で1時間ほど過ごし、ラブホがステイになる時間にチェックイン。風呂の中で、ベットの上で絡み合う。なんか激しいなあ。付いていくのがしんどい。顔も肌も心も年相応に、いやそれ以上に疲れ果てている。
終わった後、テレビを付けたら、昼間の秋葉原の無差別殺戮事件をニュースでやっていた。おぱーいを揉みながら、2人で見ているが、あんまり関心はないらしい。というか、そういう事件があったのも知らなかったし、そもそも秋葉原ってなんなのかもよく分からないとか。
この子の人生って、いったいなんだったんだろう。もう34歳だぜ。ヤンママになって子どもが小学校に通っているヤシもいれば、「アエラ」に出てくるようなキャリア系の女もいる。オタ系で増田に書き込んでいるようなタイプもいる。
でも、この♀はどうするんだろう。将来に展望も何もなさそうだし、それに不安はあるのだろうけど、他人にはおくびも出さない。ただ、通りすがりの♂とセックスをするだけ。それでカネを稼ごうとしているわけでもない。「負け犬」とかなんとか以前の段階である。
そんな♀も、この日本には何千人もいるのかな……とか考えた。でも、そのうち俺の下半身をペロペロし始めた。しかたない。また絡み合うことにした。
翌朝、♀を寮の隣にあるコンビニまで送って別れ、俺も仕事場へ行った。
大学院からでも編入可能だろう。少なくともそこで挽回はできるはず。
後は学者か、官僚か商売人として目が出るように努力するしかない。これは、自分の意志な。
同じぐらいの資質の生徒が、大都市では「お前は今までマイペースでやってきたから現時点での成績はよくないが、本気でやればどこの大学でも行ける。やりたいようにやれ」と言われ、地方の学校ではこういうことを言われたりする。その差がどこにあるか考えてみるといいよ。
自分がはめた器の大きさに、自分が収まってしまっただけのこと。
大都市でも器の小さい教師もいれば、そうでない教師もいる。
しかし、出会う教師はその一人なのだから、結局わからないものだよ。出会いなんだから。
ただその言われたことを信じてしまったのは、彼の選択なんだから仕方ない。これも自己責任。
最後に、君は苦学生というのを知ってからそういうことを言うべきだな。あれはなかなか苦しいものだが、苦学生にすらなれない人というのもけっこういるものだよ。
というのかね、ウォーリーを探せじゃないけど、どの程度の割合で、君が言うところの
「埋もれている原石」があるのか、そいつを見つけ出すためにどれだけの金を投下すればいいのか、
そのリスクを誰が負うのか、そこがはっきりしない。
そら街中歩いていれば一億円が落ちているかもしれないけど、普通はしない。とりあえず竹やぶにいけと。
思うところとしては、大卒の資格を得るためだけの大学なんていらないと思うし、
入試制度などの選抜方法を改善したり、一本道のキャリアパスみたいなものを
改善していったほうが、まだほどほどの宝石未満を拾える可能性は高まるだろう。
ためにする議論だな。他に要因として合理的に想定できるものを挙げてからそういうことは言ってくれ。
どのように合理的に選ばれたか説明はされていない。
「自分の意志だ」と簡単に解決してしまっている君の方だ。
大学でミスをしたとしても、少なくとも高校時代とは選択肢の多さが変わっているのだし、
4年の間に何か行動に移すことは出来るだろう。そこで自ら何か出来ないやつは、たぶん将来もダメだろう。
全くその通り。同じ行動に対してどういう結果が得られるかで人間の行動なんて変わってくるものだ。だから「自分の意志」で全部を解決することはできないのだ。
まあ誰も自分の意志でなんて全てを解決できるなんて言っていないんだけどな。
というのか、最高の選択肢が最高の結果を呼び込んでくれるわけでもないし、
最高の結果を今得ている人が、必ずしも最高の選択肢を取ってきたわけでもない。
さらに、最高の選択肢をとるために、どれだけリスクをとってきたかも見落としている。
誰も全知全能の神じゃないんだから。神なら将来の結果を見越して正しい選択肢を教えてくれる。
明日どこで地震が起こるから、どこそこには行かないように、とか。
君はそんなことを期待しているんだろう?w
エリートコースを歩めば、万事楽かと言えば、社内の競争も激しいし、
体がぼろぼろになるとかいろいろあるだろう。にもかかわらず、ちょっとしたミスで
左遷されれば、人生終了のベルがなるのだな。それが外部の変動で起こることもある。
それに対して、程ほどの学歴でもほどほどの人生が送れることもあるだろうし、
女性であれば、結婚して意外な幸せを見つけることなんてこともある。
まあそういう運と選択と両方の積み重ねで決まってくるものなんだから。
いずれにしても、何らかの芽をつんでいくことでしか、先は開いていかないとも言える。
君の文章を読んでいると、曽祖父が誰それと結婚していたら、もっと血筋のいい家系の子弟となり、
もっと優れた人生を送れた、とでも言えそうな感じだwそういうのも運と自己選択の掛け合せの結果だから。
君は地方から東大生が生まれるように、「大きな世界」を紹介してやったらいいじゃない。
そうやって情報弱者が機会を得る努力をするように支援する。だけど、彼らが東大に行っても
周りの優秀さに怖気づいて引きこもるかもしれない。そして君を恨むかもしれない。
そんな時に備えて、それは彼らの自己責任だよ、と刷り込んでおかないと、自分の身が危なくなるかもね。
だけど君がそんなリスクを抱え込んでしまうことも、自己責任だと認めないといけないのだが・・・
ちなみに、僕の「自分の意志」を言い変えると、「もう変更できないこと」の意味に近い。
ミスしたかもしれないけど、もう後戻りできない固定されたものであると見なす。
だから悔やんでも仕方がなく、改善するために何かをする、それの積み重ね。
いや、相手は法律的にも社会的にも未成年だからね。本人の意志は全て自己責任とはいかんのよ。
難易度の高い大学へ行きたいと思っている人間の男女比がぴったり1:1なら「選択の機会を奪っている」と言っても差し支えないと思うが、それを示しているデータはちゃんとあるの?
データなんか必要ない。その男女比が一致しない理由を合理的に考えると社会的要因が働いている以外には考えられないよ。個性の差は膨大な標本数で吸収されてるからね。
こと入試に関しては機会自体を得る手段は十分あるのだから、それは自分の意志だろう。
同じぐらいの資質の生徒が、大都市では「お前は今までマイペースでやってきたから現時点での成績はよくないが、本気でやればどこの大学でも行ける。やりたいようにやれ」と言われ、地方の学校ではこういうことを言われたりする。その差がどこにあるか考えてみるといいよ。
例えば、誰しも社会に出ると、学生時代にもっと勉強しておけばよかった、と後悔することが多いが、勉強する機会自体は十分与えられている。
さっきも言った通り、未成年者の意志に完全な責任を問うべきではないし、問えない。だいたい「自分のおかれた位置を客観的に判断し、それにもとづいて判断し、行動できるようにすること」というのは大学生頃の時期に身につけたりすることだよ。最後に、君は苦学生というのを知ってからそういうことを言うべきだな。あれはなかなか苦しいものだが、苦学生にすらなれない人というのもけっこういるものだよ。
それだけでは因果関係までは説明できないことは言うまでもないし、機会格差が主たる原因であるかは、わからないではないか。
ためにする議論だな。他に要因として合理的に想定できるものを挙げてからそういうことは言ってくれ。
ちなみに、機会は平等だとは言ったが、「どこまで戻れば平等なのか」ということは非常に難しい話であって、そう簡単にけりがつく話ではない。
そんなことは当たり前だ。そしてその台詞を噛みしめるべきはむしろ、「自分の意志だ」と簡単に解決してしまっている君の方だ。
男性より女性の方が、難易度が高い大学へ行く事へのメリットが少なくデメリットが多いから行きたがらないのではないか。
それは「機会選択の格差」ではないのか。
全くその通り。同じ行動に対してどういう結果が得られるかで人間の行動なんて変わってくるものだ。だから「自分の意志」で全部を解決することはできないのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20080607153314
いや、俺は「学習機会」の話をしてるのであって、会社に入ってからの出世競争で学歴が有効かどうかなんて言ってないんだが。題名をよく読んで欲しいな。念のため言っておくと、優秀な研究者は旧帝大に相当程度集中してるわけで、学問をやるためには偏差値で大学を選ぶのは相当精度の高い近似なんですよ。
俺はその「潜り込むとき」の話をしているんだが。それに、実績たって、学部やら修士やらでの実績なんて半分は指導教官の実績だ。学問でも芸術でもスポーツでもそうだが、相性のよい優秀な指導者(プレイヤーとしての優秀さと一致するとは限らんぞ)に出会えるかどうかで、才能が開花するかどうかは全然変わってくるものだ。独学で実績を挙げられる天才が存在しないとはいわないが、天才といえども全て独学で実績を挙げられるとは限らん。そんなことはスポーツの世界を見ればすぐわかるだろう。
そして、書籍にさえ触れる機会がなければ(地域の書店に一通りの本が揃ってるのは先進国の大都市だけだぞ)、歴史的大天才といえども高校教科書レベルの事実しか発見できないのだから「実績」なんて到底無理な話だ。
あんたは全然わかってない。俺は「現代」と言っている。現代の有能な科学者や芸術家やスポーツ選手で、世界的に有名なインド人が、日本人の十倍近くいると思うか?人口比で考えたらそれぐらいいて当然なはず。だとするとやはりこの差は学習歴格差の問題なのだよ。
一方で地頭の良さは金になる。金になるから利用しようという奴もまとわりつく。金以外のことに価値があろうとなかろうと、金になるものの周囲ではそういうことが起こる。
初等経済学教科書読み囓り乙。現実には「優秀な奴がいる」という情報の伝達には有限の時間がかかる一方で人間の寿命は有限だから、「地頭」がよい人間がすべて有効活用されるわけではないのだ。何度も言うが、「地頭」のよい中国人やインド人は、「地頭」のよい日本人の十倍いる。にもかかわらず、日本の方が中国やインドよりも経済規模が大きいのだ。
この春、女に振られて、なんだかヤケクソになって、出会い系サイトに登録した。三十路のオタク。
前回http://anond.hatelabo.jp/20080531200003書いたように、「Yahoo!パートナー」で女の子との出会いを求めて右往左往して4日目。昨日、メンヘラーの匂いを感じたA子さんは僕の職業の細かい中身を聞いてくる。正体がバレれると、特定されやすいんで本当に困る。おい、まだ連絡して3日も経っていないのに……と思いつつ、様々な打算も働く。本命は隣県に住むB子さん(僕より一つ下)。向こうからの要望で、早くも有料メールからYahoo!のフリーメールでのやりとりに変更。元カレとの別れが辛いんだそうだけど、それはこちらも同じ。ゆっくり連絡をしていこうか。
さて、晴天の今日。掃除が終わった後、別な出会い系に登録してみた。
と大きく分けて三つのタイプがあるらしい。Yahoo!パートナーは"3"になる。無料の所がいいのは当然だが、男ばかりで殺伐とした雰囲気が漂っていた。とりあえず"2"を探してみた。
有料の所も、登録すれば、最初の何百円分かはお試しとしてポイントをくれるので、それを消費するまでは無料でできる。三つほど試してみた。
さて、H社。大手の割には掲示板にアクセスしてくる相手が少ない。いや大都市だと引く手あまたなんだけど、その周辺の県ではかなり少ないようだ。割り切り希望の同県在住の女の子が釣れた。条件は別●円。それを込み●円で了承。もうちょっと値切れば良かったか。やりとりの途中でポイントが切れ、仕方ないので3000円分をカードで購入。そして携帯メアドでの連絡に切り替える。
今日から値上げしたガソリンを満タンに入れて、クルマで某駅の駅前へ。僕は勝手な妄想をしていた。なんか淡々と恥ずかしそうなメールが返ってきた。なんとなく、
な女の子が現れそうな気がした。いや、間違いない。もし、後々この子が犯罪に巻き込まれたとき、オレまで巻き込まれるんじゃないか。そのときはどーしようとか考えていた。
1時間半ほどかかって駅前に着くと、現れたのは……
「仕事のお客さんってどんな人が来るの?」と聞くと、「仕事でも客とも違うって!」とツッこまれた。とりあえず30・40歳代しか相手にしないんだって。若いのはスルーするということらしい。まあ、20歳代前半と違うと怒るヤシもいるんだろう。ドム系(めちゃデブ)の可能性もあったわけで、それよりスリムなグフ系で我慢せねば。でも、段取りとかテクはセミプロでした。
むかし、宮台真司の本を読んで、テレクラとかQ2に連絡してくる女の子の痛々しい姿を知ることができた。どこかでそういうのを求めていたんだけど、十数年も経てば違っているような。現実はそういうものなのか……と考えながら、同じ道を1時間半かけて帰りました。
家に帰って、再びパソコンの前に向かった。同じスペックの子が別名でアクセスしている。ああ、仕事熱心だなあ。
ポイントは2600円分余っているけど、他に使いようがない。仕方ないので、H社の「テレホンH」というのにアクセスしてみた。1分200円でこちらの番号を晒さず、相手と話しをできるらしい。
こちらからメールを送ると、相手から自動交換経由で電話がかかってきた。同県在住の30歳。ツッこむと、僕と同じ年と言うことが分かった。仕事で転勤した春からH社に何度かアクセスしていて、10人くらいと相手をしたらしい。その中の1人とお付き合いされていると。で、条件を聞いてみると、タダでいいらしいんで、今週か来週、平日の夜に会うことになりました。その集合場所もクルマで1時間以上かかる。
なんだか、オレってだんだん落ちていくなあ。と思いながら、電話を切りました。10分弱で2000円分が消えた。
その後、Yahoo!パートナーの女の子たちからメールがいくつか。ちょっと後ろめたさを感じながら、さてどのように返信すればいいのか迷っている。だから、先に増田で日記を書き込んでしまった。
今日は入社式で、全国の新入社員が東京の本社に集まったんだが、
地域間における頭の格差は確実に生じているな、とつくづく実感。
中堅私大院卒で専門職として入社したけど、他の同期は大多数が地方専門卒の一般職で、
一緒に行った研修のグループワークが辛くて辛くてたまらなかった。
なんでこんなに物わかりが悪いんだ、と。ホント、勘弁してくださいよ。
大都市圏の有力大学に行けなかった(行かなかった)人間だから、
基本的学力において多いに劣っている。
んで、更に、地方は刺激や新たな交流がほとんどないため、
必然的に刺激を受けづらく、狭い人間関係の中で過ごしてしまう。
だからこそ、切磋琢磨する環境もなく、人間的な成長も望むことが出来ない。
そんな仮説を考えながら話を聞いていた今日この頃。
絶対に批判を受けるだろうけど、それを覚悟の上ではてなに記す。
今日はホントに疲れた一日だった。