これを読んで思ったこと。
という風に分かれるのだけれど、正直どっちも違うんだよなあとその度に思う。
作品の質が、メインカルチャーだからよいとかサブカルチャーだから悪い、あるいはその逆だとかいうけれど、そもそもそれって関係のあることなのかどうか、と、クラヲタ(クラシックオタク)の俺としては思ってしまう。
音楽の世界でよく持ち出されるのが、音楽家なんて昔は貴族の召使いで、オペラなんて町人の娯楽じゃないかという話。確かに、モーツァルトのオペラの粗筋は昼ドラやらハリポタ並みだし、ベートーヴェンの交響曲はチンドン屋節、そしてシューベルトの歌だってオーストリア民謡だ。そしてそれを根拠に、「難解なだけの音楽は音楽ではない、だからクラシックはもう文化として死んでいる」なんていうことを言う人も、世間レベルではまだまだいる。
だけれども、クラヲタの俺に言わせれば、彼らの良さは別に素材の俗っぽさが原因ではない。あの時代には、高尚な素材を使って下らない音楽を書いた奴も沢山いたが、低俗な素材を使って下らない音楽を書いた奴も同様に沢山いたのだ。
要するに、素材が高尚だの低俗だの、あるいは作品が難解だの明解だの、それらのことが作品の質とは必然的には関係しないということだ。
それだけのことがわかっていない奴が20世紀にはまだ力を持っていて、たとえば大指揮者のバーンスタインという人はミュージカルの作曲家でもあったのだけど、彼の代表作「ウェストサイド物語」なんかは最も成功した現代音楽作品でありながら、コアなクラシックファン、特に現代音楽ファンからは軽視されたりもしていた。
だが、そんなことはもはや昔の話だ。たとえばビートルズの作品の質の高さは誰の目にも明らかで、クラシック以外から音楽の傑作が生まれないことは明白に事実に反していることは誰もが認めている。その結果、現代ではジャズピアニストがクラシックを弾いたり、あるいは民族楽器奏者がオーケストラと競演したり、クラシックの声楽家がロックのスタンダードナンバーをアレンジして歌ったりということが、部分的にではあれ、普通に行われている。そんなことをしたからといってファンから見放されるなんてことはあり得まい。
そういう目で見ると、文学やらその他の世界で言われている話ってのは今更に思えてならない。純文学が漫画やゲームやケータイ小説より優越していたり、あるいは劣っていたりしなきゃいけない理由なんてどこかにあるのか?誰が見ても手塚漫画は平均的な芥川賞作品より圧倒的に作品のレベルが高いし、逆にエロゲーの凡作は村上春樹作品に人気でも質でも及ばないというのが、世の大半が一致する見解だろう(個人的には村上もエロゲーも大嫌いだから客観的な判断はできない、すまぬ)。
カルチャーのメインとかサブってのは単にメディアだけの問題だろう。使っている楽器とか雑誌とかが違うことが、作品の質に必ず影響すると考えるのは根拠がないことじゃないのか。この手の議論を聞くと「理系の人間は哲学がわかってないからだめだ」とか「文系の人間は熱力学の第二法則も理解していない」みたいな低俗な論争を思い出してげんなりしてしまうのですよ。
追記 題名が誤解を招くと思ったので修正しました。
この春、女に振られて、なんだかヤケクソになって、出会い系サイトに登録した。三十路のオタク。
前回http://anond.hatelabo.jp/20080531200003書いたように、「Yahoo!パートナー」で女の子との出会いを求めて右往左往して4日目。昨日、メンヘラーの匂いを感じたA子さんは僕の職業の細かい中身を聞いてくる。正体がバレれると、特定されやすいんで本当に困る。おい、まだ連絡して3日も経っていないのに……と思いつつ、様々な打算も働く。本命は隣県に住むB子さん(僕より一つ下)。向こうからの要望で、早くも有料メールからYahoo!のフリーメールでのやりとりに変更。元カレとの別れが辛いんだそうだけど、それはこちらも同じ。ゆっくり連絡をしていこうか。
さて、晴天の今日。掃除が終わった後、別な出会い系に登録してみた。
と大きく分けて三つのタイプがあるらしい。Yahoo!パートナーは"3"になる。無料の所がいいのは当然だが、男ばかりで殺伐とした雰囲気が漂っていた。とりあえず"2"を探してみた。
有料の所も、登録すれば、最初の何百円分かはお試しとしてポイントをくれるので、それを消費するまでは無料でできる。三つほど試してみた。
さて、H社。大手の割には掲示板にアクセスしてくる相手が少ない。いや大都市だと引く手あまたなんだけど、その周辺の県ではかなり少ないようだ。割り切り希望の同県在住の女の子が釣れた。条件は別●円。それを込み●円で了承。もうちょっと値切れば良かったか。やりとりの途中でポイントが切れ、仕方ないので3000円分をカードで購入。そして携帯メアドでの連絡に切り替える。
今日から値上げしたガソリンを満タンに入れて、クルマで某駅の駅前へ。僕は勝手な妄想をしていた。なんか淡々と恥ずかしそうなメールが返ってきた。なんとなく、
な女の子が現れそうな気がした。いや、間違いない。もし、後々この子が犯罪に巻き込まれたとき、オレまで巻き込まれるんじゃないか。そのときはどーしようとか考えていた。
1時間半ほどかかって駅前に着くと、現れたのは……
「仕事のお客さんってどんな人が来るの?」と聞くと、「仕事でも客とも違うって!」とツッこまれた。とりあえず30・40歳代しか相手にしないんだって。若いのはスルーするということらしい。まあ、20歳代前半と違うと怒るヤシもいるんだろう。ドム系(めちゃデブ)の可能性もあったわけで、それよりスリムなグフ系で我慢せねば。でも、段取りとかテクはセミプロでした。
むかし、宮台真司の本を読んで、テレクラとかQ2に連絡してくる女の子の痛々しい姿を知ることができた。どこかでそういうのを求めていたんだけど、十数年も経てば違っているような。現実はそういうものなのか……と考えながら、同じ道を1時間半かけて帰りました。
家に帰って、再びパソコンの前に向かった。同じスペックの子が別名でアクセスしている。ああ、仕事熱心だなあ。
ポイントは2600円分余っているけど、他に使いようがない。仕方ないので、H社の「テレホンH」というのにアクセスしてみた。1分200円でこちらの番号を晒さず、相手と話しをできるらしい。
こちらからメールを送ると、相手から自動交換経由で電話がかかってきた。同県在住の30歳。ツッこむと、僕と同じ年と言うことが分かった。仕事で転勤した春からH社に何度かアクセスしていて、10人くらいと相手をしたらしい。その中の1人とお付き合いされていると。で、条件を聞いてみると、タダでいいらしいんで、今週か来週、平日の夜に会うことになりました。その集合場所もクルマで1時間以上かかる。
なんだか、オレってだんだん落ちていくなあ。と思いながら、電話を切りました。10分弱で2000円分が消えた。
その後、Yahoo!パートナーの女の子たちからメールがいくつか。ちょっと後ろめたさを感じながら、さてどのように返信すればいいのか迷っている。だから、先に増田で日記を書き込んでしまった。
β初期くらいから入り浸ってるが、明らかに年齢層が下がったな
変に受けを狙ってつまらないコメントが増えた。自己主張の強すぎる職人(笑)も増えた
あと、弾幕は一人で張るもんじゃないだろ。一人でやるにしてもせめてわからないようにやれ
ただ、ごくたまに腹を抱えて笑えるようなものが投下されるから止められないんだよなー
ところで、
知らなきゃヨカタ....
ネット上では金儲けを嫌がる人が多い印象があるんだが、何で金儲けを嫌がるの?
これだけ大規模なサービスで、儲けないほうが逆に不自然だと思うんだが・・・
鯖代だってただじゃないんだぜ?
ぱらいそ? これがぱらいそなの?
「能力者」の秘密をひとびとに、たとえフィクションめかしてとはいえ知らせてしまうとは...。医師として静かに人生を過ごせたものを。やむをえん。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080602k0000m040041000c.html
キリストが天寿を全うした地という説がある青森県新郷村で1日、恒例の「第45回キリスト祭」が開かれた。
キリストの遺言などが書かれているとされる文書が昭和初期に見つかり、十字架にかけられたのは弟の「イスキリ」で、キリストは日本へ渡り、村で106歳の人生を終えたという。村にはキリストとイスキリの墓もある。
祭りでは、神主が墓前でキリストを慰霊し、村民が南部地方伝統の盆踊り「ナニャドヤラ」を奉納。神事を取り仕切った細川潤八郎神主は「八百万(やおよろず)の神の1人がキリストさんでもいいでしょう。教義的には問題はない」。【喜浦遊】
「あれ、戸来村じゃないの」って所もあるんだけど(合併しやがって新郷村になったらしい。由緒ある地名なくすなよクソ合併!)、
「八百万の神の一人がキリスト」ってどんだけ一神教にケンカ売ってんだよってのもあるんだけど、
45回も行われてることに吹いたw
一年に一回だろ?45年!?www
合併後もやってるのはマジ偉い。
高校のころ図書館の書庫で本読んでたら委員長(♀)がやってきて、「あつい??」などと
言ってスカートをバタバタしはじめた。生足がエロくてチラチラ見てたら、いきなり唐突に
「ねぇ、パンツ見たい?見せてあげよっか?」などと言い出して、俺がキョドってたら
委員長が自分でスカートまくって持ち上げた。そしたら中にブルマはいてやがった。
で「ひっかかった??、いまスゴイやらしい目になってたよ」などと笑うので俺はカチンときて
スカート持ち上げてる委員長の手を固定して、ブルマに顔近づけて観察してやった。
そしたら「ちょっとお、止めてよー、怒るよ」とかいってたが、そのうち太ももをモジモジさせて
白い太ももがだんだんピンク色に染まってきて息が荒くなってきて目も潤んできたので
「ばーか、濡れてんじゃねーよw」といって解放してやったら顔を真っ赤にして
「自分だってチン・・・」と言いかけて黙り込んだので「何をいいかけたの?チンて何」と
問い詰めたら黙り込んだので「これのこと?」といって
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
それなりに効果はあったんじゃないの? 少なくとも狂ってない独裁者がボタンを押さない程度には。
まぁ、俺も日本は核武装しない方がいいような感じがするけどね。むしろ自動戦闘兵器が必要だと思う。自衛隊の人手不足を解消すべく。
本気で「もう死のう」って思って実際に自殺する時は
我に返ることや自分を客観的にとらえることができなくなった時
たまに「わー、もうやだなぁ」って
置かれている状況から逃げ出したいという状況
そこから逃げる手段、超える手段、うまくこなす方法が見当たらない時
俗に言う逃げ場がない時や孤立した時に客観性を失う
多分、一度や二度ならまだ客観性を保てると勝手に思ってるけど
回数を重ねるごとに、いつまで続くのかと思い込んで、追い込んで
いつのまにか客観性を失って、命も失うと
社会人の自殺とかこれが多そう
あと何年こんな状況だよ、と悲観する
じゃぁ学生は自殺しないのか
そうでもないみたい
と、自分はまだ客観性を失っていないと思っている個人の戯言
ふぅ
自分が死んだからといって、これといって変化はないだろうと考える
多分、実際にも変化はないだろう
かといって、生きていたからといって、このままじゃひとつも変わらないと考える
ってことは、どちらにしても意味がない
死ぬときは辛いかもしれないけど断続した辛さを考えると自殺した方がラクだと考える
こんなことばっかり考えてると、ため息しか出なくなる
ため息しか出なくなった自分をまだ客観的に見れるからまだ実行に移さない
ここからは憶測だけど、そのうち客観的に見れなくなる
見れなくなったら、こんな戯言は言わない
特に周りは誰も気づかずに全国ニュースで知る
「勝気だったり、自立心が強かったり、冷徹だったりする(要は主人公=自分に甘甘じゃ無い)ヒロインが受け付けないから、強制的にキャラを崩させちゃえ」っていう軟弱なオタクの願望を投射してるだけだろ?
あまりにも予定調和でご都合主義なストーリーだったけど、くぎみーに萌えたからいいや。『双月の騎士』の方が名作だね。原作はあまりおもしろくなかった。萌えアニメってはじめて観たけど、おもしろかったよ。オタクなのかな自分。
ただ何が問題なのか提示してもらえれば、思いつく限りの具体的な解決策を提供するつもりはある。
困っていたら誰かに相談してくれ。
偽善者を自覚している者より
鬱病が治ってきたから薬を減らして、今は睡眠薬一錠と精神安定薬二錠にまで減らしたんだけど、頭痛がひどい。ここは我慢のしどころなんだけど、今日は休日だというのに、ほとんど何もできなかった。
パキシルをやめるのが一番つらかったかな。
哲学とは、間延びした日常において見逃してしまう生の感覚を最大限にまで先鋭化する試みである。
それゆえ、哲学は生のためにささげられるべきである。つまり、生きるための学問である。
死者にとって哲学は存在せず、生きているものにのみ与えられた特権である。そして、それ自体が生の営みなのである。
そして、生きるために考えた末の結論が、「生きることをやめること」になってはならないのである。
力強い生の肯定、それが哲学の元来持つ本質なのである。
朝起きてとても気持ち悪い。
僕には拒食症がある。というか自殺企図なので、本当に拒食症と呼ばれるのかはわからないけれど。餓死できたらいい。死を恐怖していない、むしろ歓迎すべきものだ。おかしいのは自分の死に何ら恐れていないくせに、他人の死には驚くほど敏感なこと。この間の中国での地震とかで人が死んだ、と聞くのはとても堪え難い苦痛だった。
社会的に惨めな姿をさらすのは僕の本望ではないので、(これもひどい矛盾に聞こえるけど)生きていくために必要なことはしている。社会性を保つことに何か意味があるのか、僕にはわからないけれど、『ゲーム』に参加するものの義務、という意味で、身なりは整えているし、仕事はちゃんとしている。仕事をちゃんとするために必要なことはみんなしている。だから多くの人は、最近ダイエットに著しく成功した人だと思っているだろう。髪の毛は抜けていないし黄疸や不整脈なども無い、と思う。極度に摂取カロリーが低く、体重だけが減り続けている。いわば現代医学という名の黒魔法(比喩)で容姿は保っている。なんというか、悪魔(比喩)に心を売り渡している、という気がする。
異常に健康だけれどカロリー不足で死ぬ。甘美な響きに聞こえる。昔から僕はロマン主義者だったのは間違いない。
なぜそうなったか、というと人に裏切られたからだ。恋人(だった人)は僕ではない男と寝て、それをある日突然告白して、僕のもとを去った、というか僕を追い出した。僕らは強烈な共依存関係だった。だからその恋人だった人も、その自分の行為にひどく混乱して、意味が分からないことをたくさんしたし、今でもしている。新しい男のことを愛している、といいながら僕に会いたがっている。僕はなんとなく、自分たちの関係を冷静に見直すことができるようになった。しかし僕はその痛みに依存している。しばらくこの状態が続いていて、だんだん痛みを感じなくなってくる時がある。それはとても寂しいことだったから、なんとかして痛みを思い出そうとした。そうすることが僕が生きている証のような気がした。痛みを感じなくなったら、(外見など気にせず)もっと積極的に死ねる気がした。
今日は、朝起きてとても気持ちが悪かった。なんでか知ってる。それは僕が恋に落ちているから。
とても恐ろしいことだ。また恋に落ちるなんて。僕はそれをとても恐れている。恐怖、という感情は肉体による未知の積極的な表現だ。僕が傷つけられることには、もう何の感情も抱かない。でも彼女を傷つけるのはとても堪え難いことだ。好きな人が好きだということに適切に応えてあげることが出来ないのがこれほどつらいことだったなんて。僕はまだその恋人のことを愛しているのは間違いない。だからその関係性の中にある不公平にも吐き気がする。
もし神がいるなら、もっと素直に僕を壊してください。