あのクイズのやつ、おもしろ回答集は見たいけど下手するとid まで表示されたり真面目に回答して間違えたのが晒されたりしたらイヤだからこのままでいいです
今回のエイプリルフール企画ではてラボに初めてログインした人もいるんだろうし、
同時に匿名ダイアリーもリニューアルでもしておけばよかったのに、と思う。
それにトラックバックしやすいようにした方が良いと思うし、それこそトラックバックという呼び名もやめてただのコメント欄にすれば良いのに。
あれわかりにくすぎるでしょう。
自分はいいけど、関係者がめっちゃ多いであろう両親には絶対無理だわ
大々的にやることが社会的に必要とされる人とそうでない人がいるっていう大前提は、看過されるべきではない
あとブコメにもあったけど、そういうたくさん人くる場合だったら御霊前で負担はそんなに大きくならないだろうし、
回答したら正解した質問だけ見られるね
ってなるかぼけ!
はてブ見ると自分はこれでいいとか参考になるとか言ってるのが一部に見受けられるが
死体の口の中鼻の中尻の穴に詰め物をする覚悟が本当にあるのかと問いただしたい
これを安易に真似したら大火傷じゃすまんぞ
このオタクたちによる被害者へのセカンドレイプを見て、犯罪者がオタクと報道するなって言い分がちゃんちゃらおかしくなったよ
オタクたちもオタクがマスコミやフェミに攻撃されてるとか被害妄想で騒ぐ前に、自分達のお仲間の言動が一番オタクのイメージをドブに叩き込んでる事に気がつけよ
インターネットの掲示板やブログのコメント欄は、さまざまな雰囲気を醸し出している。
罵詈雑言に満ち溢れていたり、平和だったり、少々へりくだりすぎ(慇懃無礼)な場合もある。ざっっと見た感じ3:5:2の比率ではないだろうか。まるで朝・昼・夜の理想的なカロリー摂取量の比率みたいだ。
その中で『へりくだりすぎ』について書く。
以下は、3年前の話だ。
私がよく訪問するブログに、Yさんという人がかなりの頻度でコメントをしていた。Yさんもそのブログの常連であった。
そのブログにはYさんや私以外にもたくさんの人が訪問しており、なかなかの人気ブログだった。
Yさんはコメント欄で長文を書いては「長文ごめんなさい」などと何行にもわたって謝り、またある日は何らかのアドバイスを書いて「おせっかいでごめんなさい」などと何行にもわたって謝っていた。
そこに誠意はあったのかもしれないが、私にはそれは過剰に思えた。
私や他の人は「いやいや、いいよ」と対応し、しかしそのように朗らかな対応をしつつも「どうしたもんかな」と思った。自分が何か悪いことをしているような錯覚さえ抱いた。そのくらい過剰だったのだ。誰が責めているわけでもないのに「ごめんなさい」と謝るYさんは、私からすると不思議でしかなかった。
問題は、誰も悪くないということだった。例えば誹謗中傷などであればその人に責任があることが明確だ。しかしYさんの降ってわいたような「ごめんなさい」によるとってつけたような『責任』は、行き場もなくそのブログを覆い始めた。
Yさんは頭も性格も良い方だ。「ごめんなさい」を除けば何の問題も無かった。
私は、まさか人生で「ごめんなさい」に悩まされるなんて、それまで考えたこともなかった。
私はある時からこう思い始めた。
Yさんはきっと「黙れ」と言いたいのだ。「ごめんなさいって謝るから何も指摘しないで。頼むから黙ってくれ」と言いたいに違いない、と。
それは同情に値する話だった。Yさんはおそらく心に傷を負っているのだろう。しかし私もどうしようもなかった。私もまた(Yさんより大分劣るけれども)自分に同情した。
そして私はそのブログを去った。
それから3年が経ち、さきほど久しぶりにそのブログを覗いたら、Yさんはまだいた。「ごめんなさい」と書いていた。
私は「ああ、、」と思った。それと同時に、Yさんはそのブログにコメントを書き続けることで生きながらえているような気もした。本人にとっての生き甲斐は、他人に理解される必要はないのだ。